黒い医者
本編第1話です。
2028年10月某日夕方 日本国 神奈川県横須賀市
横須賀市・・・幕末に黒船が来港して以降、国防の拠点とされてからは、大日本帝國時代に横須賀鎮守府を抱え、戦後もアメリカ海軍第7艦隊の海軍施設、海上自衛隊自衛艦隊の司令部が置かれるなど軍港としての歴史を歩み、さらには陸上自衛隊武山・久里浜駐屯地、防衛大学校を擁するなど、まさに軍の街として栄えて来た街である。
現在は第7艦隊の艦船は屋和半島に移っているため、アメリカ海軍の姿はもう無いが、今でも第1護衛隊群や第11護衛隊などの護衛艦が頻繁に往来し、各国からの貿易船も入港している。
そんなあらゆる艦船が出入りする港で、2人の男がそれぞれ2つのベンチに座り、海を眺めながら話をしていた。2人の間には10m程の距離が開いていた。
「まさか侯爵様になっているとはね・・・」
そう語りかけるのは、陸上自衛隊二等陸佐/中佐の笹川武彦である。2025年には夢幻諸島第三調査団に属し、医官として同団に属する自衛官や民間人の健康維持の任務に就いていたが、現在は他の者と任務を交代し、本来の勤務地である武山駐屯地に戻って来ていた。
「あの国の侯爵は上から4番目且つ下から4番目、低くは無いですが高いという訳でも無いでしょう」
隣に座っていた海上自衛隊一等海尉/大尉の柴田友和は、港を眺めながら答える。彼は遠き異世界の地であるジュペリア大陸から約10ヶ月振りに日本へ帰還していた。彼ら2人は陸と海で所属は違えども、同じ医官同士ということで交流があった。
「なあ・・・自衛隊病院へ戻る気は無いのか?」
武山が尋ねる。それは10ヶ月にも渡って日本から離れていた柴田に対する当然の疑問だった。
「それについてですが・・・」
柴田は少し間を置いて答える。横須賀の港に差し込む夕日が更に沈み、2人の影を長く、強く照らす。
「自衛官を・・・医官を辞めようと思います。今回帰国したのは、辞表を出すためですよ」
「!」
柴田が放った答えに、笹川は驚愕した。
「元々上からは辞めるように圧力をかけられていました・・・。今回のことは良い機会です」
柴田は続ける。
「何せ東亜戦争における自衛隊最大の汚点ですからね・・・。この10ヶ月間、帰還命令の1つも来ませんでした。むしろ異世界の地で貴族にでも何にでもなって、そのまま骨をうずめろ、帰って来ないなら好都合ということでしょう」
柴田は海上自衛隊内部における自身の微妙な立場を自嘲気味に語る。彼は東亜戦争時に派遣された中国・南京の戦場病院にて、とある問題を起こし、三等海佐/少佐から降格された過去があった。彼は自衛隊内部においてこれ以上の出世・昇格は無いと言われており、戦後は上司からそれとなく、仕舞いにはあからさまに早く医官を辞めるように促されていた。
「それで、今後は?」
話を聞いていた笹川は柴田に対して、今後の身の振り方を尋ねる。
「こちらでの病院設立は、政府が日本赤十字社に国際活動の一環として委託することになったそうですね。故に正式に日赤に身を置いて、新たな病院に派遣されるメンバーに立候補しようと思っています」
柴田が答えた。
「では、再び日本から離れるつもりなのか・・・」
柴田の説明を聞いていた笹川は、少し寂しそうにぽつりとつぶやいた。
「ええ、私はあの地でのNGO的活動にやりがいを感じています。日本で医者をやるよりもずっと良い・・・」
柴田はこの10ヶ月間、クロスネルヤード帝国で行って来た医療行為のことを思い返す。日本ではあたりまえの医療がこの異世界では“奇跡”と称えられ、患者からはまるで神の使いの様に有り難がられるジットルト診療所での仕事は、彼にとって心地よいものだった。
「それはどうだろうね・・・」
「・・・何ですか?」
柴田は笹川がつぶやいた言葉を聞き返す。笹川は左手を空中でひらひらさせながら首を左右に振る。
「いや・・・何でもない。それより宮中医の話はどうするつもりなんだ?」
笹川はもう1つの疑問を柴田にぶつける。彼が皇帝に宮中医として働かないかと持ちかけられたことは、政府内、自衛隊内でも大きな話題になっていた。
「・・・それに関しては断るつもりです」
「侯爵の地位を頂いているんだろう? その意味を考えれば、断るのは無理じゃないか?」
柴田の答えに、笹川は不安点を述べる。これは彼らが後から分かったことなのだが、クロスネルヤード帝国を含むイルラ教国家では、宮中医はイルラ教の総本山たる神聖ロバンス教皇国より派遣された者が勤める決まりになっている。
そしてクロスネルヤード帝国では、新たな医術士が総本山から宮中へ派遣された際に、その医術士を貴族・・・それも“侯爵”に任命する慣習になっているのだ。つまり“医師”である柴田に“侯爵”の地位を与え、“宮中医”として勧誘したということは、現クロスネルヤード皇帝からこの慣習に対しての、すなわち神聖ロバンス教皇国に対しての言わば当てつけなのである。
「君を宮中医にする気満々なのだろう。クロスネルヤードの皇帝は。しかも教皇への当てつけとして」
笹川はクロスネルヤード皇帝の意図を悟っていた。
「恐らくはそうですね・・・」
笹川の言葉に柴田は頷いた。
「何故、皇帝は総本山にこんな当てつけを行っているんだろう?」
「そんなことは分かりませんよ」
笹川の疑問に柴田が答える。
「ただ、私が宮中医となることが当てつけになるということは、すなわち私がこの話を受けては私自身にリスクが発生します。そんな国同士の諍いに加担するようなことをしては、下手をすれば命が危ないでしょう。後に日赤の一員として再びリチアンドブルクの地を再び訪れた時には、皇帝陛下に対して正式に宮中医の話を辞退するつもりです」
柴田は今後の予定について説明する。
「断れるものなのかい?」
笹川は“皇帝の依頼を断る”という行為の可否について疑問を呈する。
「・・・万が一の時になったら、何とか妥協点を見つけるつもりです」
柴田が答えた。直後、2人の間に沈黙が流れる。
「・・・そうか。まあ頑張れよ」
笹川はそう言って一息つく。直後、彼は立ち上がると海へ向けていた視線を柴田の方へ向け直す。
「この後、暇なら飲みに行かないか? 異世界の地での話でも聞かせてくれよ」
「・・・良いですよ」
笹川の誘いを、柴田は承諾した。その後、2人の男の人影はすでに日が沈んで明かりが灯っていた夜の街並みに消える。
これより約2ヶ月後の12月20日、日本赤十字社の社員たち、そして医院を建てる為の建築資材や重機を積み込んだ輸送艦「おおすみ」が、クロスネルヤード帝国の首都リチアンドブルクに最も近い港街である、ミケート騎士団領の主都ミケート=ティリスへと出発した。
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2028年12月24日 「おおすみ」 艦内 居住区画
世間は浮かれるクリスマスイブの夜、一路ジュペリア大陸へと向かう艦に乗る非自衛隊員、すなわち日赤と建築会社の社員、作業員たちは、朝昼晩の食事やトイレ、風呂、その他特別な場合を除いて、自衛隊員たちの邪魔にならない様に自らが割り振られた居住区画のベッドの上で待機していた。
「他国で病院建設とはね。国も妙な依頼を引き受けたものだ」
そう述べるのは長岡寧という男だ。彼は医師免許を持つ日赤の医師で、此度建設する医院の院長として抜擢されたのである。
「言わば元の世界における、新幹線の建設受注の様なものでしょう」
そう答えるのは長岡と同じく日赤の社員であり、今回派遣された医療スタッフの1人である久遠道幸である。彼は看護師の資格を持っている。
「そう言えば聞こえは良いが・・・、いくら金を出すと言われても、いつまでも異世界の国の医療事情を我が国が面倒を見て行く訳にも行くまい?」
長岡は今回の病院建設事業における今後の展望について不安を感じていた。
「いずれは正しい医療知識が伝播していくことを期待するしか無いですね。日本政府はこの世界の医術士に対して、医療教育を行って行くことも検討しているそうですが」
久遠は日本政府の意向について説明する。日本人が海外で商業活動をするに当たって、この世界の未熟な衛生観念や医療知識は、未知の感染症や人攫いと同じく大きな脅威となり得るものであった。よって日本政府は国交を結んだ各国に役員を派遣し、現地の希望者に医療教育を施して、この世界の医学の進歩の針を実際に辿るであろう過程から大幅に加速させるという構想を立てていた。
「隣国のイラマニア王国やキサン王国などのノーザロイア5王国や、列強の一角たるショーテーリア=サン帝国は国を上げて、医療技術を含む日本の技術取得に精を出しているらしいな」
長岡は日本と繋がりを持った国々の姿勢について述べる。これらの国々では国力増強を計って、日本の技術取得に尽力していた。中には日本人講師を雇い、日本語教育の為の学舎を設置している国もある。日本の技術を手に入れる為には、日本で販売されている書物を読めることが必須条件だからだ。
ノーザロイア島の各国については、日本と初の接触を果たし、日本による設備投資が最も大きいイラマニア王国との国力の格差が開いてしまうことを懸念して、技術の取得に躍起になっている節もあった。
しかし、日本側もただ技術を取られることに甘んじている訳ではない。入国してくる異世界人たちに対してはそれなりに警戒網を張っていた。政府が貿易を監視し易い様に他国との貿易港を長崎、福岡、熊本、鹿児島、新潟、横須賀、横浜の7港に限定しており、貿易品の品目や長期在留許可の無い異世界人の侵入に目を光らせているのだ。
目的としては無秩序な技術流出を防ぐことはもちろんだが、あまり海外の目に触れさせたくない文化の流出を防ぐというのも、また目的の一つだった。なお、日本=アルティーア戦争前後に密入国していたショーテーリア=サン帝国の密偵については、彼の国に対する日本の広告塔とする為、法務大臣の判断により故意に侵入を許し、監視のみに止めていた。
「まあ、日本の“情報”が書かれた書物は異世界の国々にとっては金銀財宝に等しい価値を持つんだろう」
長岡は話を締める。すると彼は目線でとある方向を指し示しながら、もう1つの話題について語り出す。
「話は変わるが・・・聞いたか? 例の新入社員のこと・・・」
「ええ・・・元自衛官のあの人のことですか」
長岡の問いかけに久遠は相づちを打つ。そんな会話を続ける2人の視線の先には、寝台の上で寝っ転がる元海上自衛隊一等海尉の姿があった。
2週間半後、ミケート=ティリスに上陸した彼らは、クロスネルヤード帝国の首都リチアンドブルクに到着。皇帝ファスタ3世に謁見した後、建築作業に入ることとなる。その後、彼らは首都で起こるとある大事件に巻き込まれることになるのだが、それはまだ誰も知り得ないことである。