“あの日”の真実
お詫び
最近、構想中の外伝の設定とストーリー作りにはまっており、リアルの忙しさも相まって、自分の予想以上に本編の投稿が遅れ気味になってしまっています。申し訳ありません。
ショーテーリア=サン帝国 首都ヨーク=アーデン 外務庁舎 応接間
兄妹の再会が果たされ、当事者である2人はしばしの間、抱き合って涙を流す。そのしばらく後、安堵して気が緩んだのか、長旅の疲れが祟ったのか、心の中にさび付いていたものが取れた様な穏やかな顔を浮かべ、テオファは眠ってしまっていた。
育った環境の所為なのか、そんな皇女の様子を見ていた郷堂医師は、日本国内における同年代の少女と比較して、異様に無垢で純粋な印象を、彼女に対して抱いていた。
テオファを寝床がある別室に移したのを確認した後、ついにクロスネルヤード皇太子夫妻と日本国使節代表である東鈴の会談が始まる。応接間にてテーブルを挟み、互いに向き合う両者が交わす議題は、まず初めに、彼らはどうやって皇太弟の謀反から逃れたかということだった。
「“影武者”ですか・・・!?」
ジェティスの口から発せられた単語を、東鈴は目を見開いて聞き返した。
「そう・・・、私とレヴィッカはあの日の夜、影武者と入れ替わっていたんです」
「・・・」
ジェティスは答える。彼の隣に座る皇太子妃レヴィッカ=ホーエルツェレール・アングレムは、沈黙を保ちながら、夫の言葉に頷いた。
「では・・・、皇太弟の謀反を察知して・・・!?」
「違う・・・、偶然なんですよ。私たちが居なかったのは・・・」
東鈴の推測を、彼は首を左右に振りながら否定する。その後、ジェティスは偶然にも命が助かったその理由について説明を始める。
「あの日の夜に限らず、私たちは時折、御所に仕えているとある下男と女中に身代わりを頼むことがありましてね・・・。あの日もそうだったのです、偶然ね・・・。
実際に殺害されてしまった2人には申し訳ないことをしましたが、お陰で生き残ることが出来ました」
ジェティスの言葉を聞いた東鈴、そして他の外務官僚2人は驚きの表情を浮かべる。
「何故・・・深夜に住まいを抜け出す必要があったのですか?」
東鈴が提示した当然の疑問に、ジェティスはやや気恥ずかし気な様子で答えた。
「舶来の書物を読む為に・・・」
「!?」
皇太子の口から呼び出した予想外の発言に、東鈴らは思わず目を丸くする。その後、彼は詳細な説明を続ける。
「原理探求が盛んな国・ショーテーリアや、近年活躍目覚ましい貴国から輸出される書物は、とても興味深い物です。しかし皇宮が購入する物は、いずれも教会員や文官の検閲を受けたものばかりでつまらない。故に私は妻を巻き込む形で度々皇宮を抜けだし、1人の守備兵を護衛として引き連れて、舶来問屋に足を運んでいました。
皇族と言えば、国民から巻き上げた税で贅沢な暮らし・・・何てイメージを抱く者が多いでしょうが、情けないものです・・・実際は好きな本一冊読むのも不自由する様な身分なんてね・・・」
自らの身の上を自嘲する様な笑みを浮かべながら、ジェティスは事件の日に皇宮を抜け出していた訳を語った。その後、彼は続ける。
「斯く言う我が国も、先々代の皇帝・・・すなわち私の祖父までは、教皇国の忠実な守護者でした。立法府である“中央議会”はかつて、経典に反する異端者と見なされた研究者を弾劾する場としての役割も持っていたと聞きます。
しかし、そんな個人を攻撃する議会の場を目撃した皇太子時代の父は、宗教の在り方に悩む様になりました。そして何時しか『人の暮らしを豊かにする為の原理や知識の探求が、“罪”になるはずが無い』と言う価値観を抱いた父は、皇帝に即位なされた後、それを息子たちに強く訴えました。私たちは父の価値観を受けて育ったんです。こんな事を私が言うのも何ですが、イルラ教を“心の拠り所”程度でしか無いと考えていたのかも知れません・・・。
故に本来、イルラ信徒である我々にとって1番大切な書は“経典”でしたが、父・・・先帝陛下は常々“見聞を拡げろ”と私たちに命じ、舶来の書物を読むことを薦めました。叔父上をはじめとする傍流の皇族や貴族たちは、気に入らなかった様ですがね・・・」
次にジェティスが語ったのは、イルラ信徒にとっては異端で穢れたものであるはずの現代医療を瞬く間に受け入れた、前皇帝ファスタ3世の“思想”についてであった。
切っ掛けは分からない。しかし、若き日にイルラ教の現在の在り方に疑問を持った彼は何時しか、神聖ロバンス教皇国と袂を分かち、クロスネルヤード帝国独自の国教会を設置しようと考えるまでに至ったという。
「・・・」
皇太子の話を、東鈴は頷きながら黙って聞いていた。一呼吸置いて、水を口に含んだ彼は再び語り始める。
「しかしながら現在、イルラ教の配下に無い国々で研究されている“世界球体説”や“地動説”は各国の学会を騒がせ、また医学の分野であれば、教会が今まで穢れたものとしていた“外科手術の有用性”が、ニホン国によって世界へ周知されつつあります。
総本山は、今まで自分たちが拡げてきた“常識”が、これらの“新説”に取って代わられることを恐れているんです。“経典”に書かれていたことが間違いであると認めたくない・・・それは総本山の権威失墜に繋がりかねないと。
特に医療分野については、教会や総本山は各イルラ教国の医療を事実上独占している状態ですから、その治療代や祈祷代は重要な収入源ですし、彼らは商売仇としても、貴国を鬱陶しく思っているはずです。
更には本来、教皇国の守護者であるはずの皇帝が、彼らにとっては商売仇である異教徒の国と密接に関わろうとし、その異端な医療を利用して総本山との繋がりを絶とうと画策していた・・・。恐らく、想像以上に追い詰められていたと考えられます・・・。何を血迷ったのか、貴国の皇帝陛下を改宗させ、ニホン国をイルラ教国家群に加えようとした様ですし・・・」
ジェティスが新たに語ったのは、教皇国側の事情についてだ。彼は開戦の前に発生した「皇居侵入未遂事件」についての情報も、正確に掴んでいる様である。
「成る程・・・、貴方方ご夫妻が皇宮から抜け出していた訳は分かりました。・・・で、その後は?」
納得した様子を見せる東鈴は次に、ジェティスがアルフォンの謀反から逃れた後、ジュペリア大陸からは中央洋を越えた先にあるこの国にたどり着くまでに辿った、その過程について尋ねる。
「・・・あの日の夜はいつも皇宮を抜け出す時に行う通り、侍女たちにばれぬ様、夜が明ける前に馴染みの舶来問屋から皇宮の東門へと帰るつもりでした。私達の外出を知るのは、父か“東門の守備兵”くらいですからね・・・。しかし、その日は護衛の兵共々、恥ずかしながらいつの間にか寝過ごしてしまいましてね・・・、起きた時には日が高く昇っていました。その時はそれが幸運になろうとは思いもしませんでしたが・・・。
あの日の朝、慌てふためく我々に、問屋の主人が知らせてくれたのです。政府発表で父や母、兄弟共々私達が皇宮の中で変死したことになっていると。それが指す事実を理解するのに時間は要りませんでした・・・。事態を知った私達夫婦はそれまで着ていた衣服を捨て、護衛兵の手を借りながら、平民に紛れて帝都から脱出しました」
ジェティスは、事態を察知して帝都から脱出するまでの一連の出来事についてを述べる。次に彼は、ショーテーリア=サン帝国にたどり着くまでの道のりを語り始めた。
ちなみに「皇宮・東門」とは、風流なクロスネルヤード皇帝たちが、お忍びで市街へ繰り出す時に使用していたという“裏の歴史”を持つ門であり、故にこの門の守備兵たちは特に皇帝から信頼を得ている者たちが置かれることが“秘密の慣例”となっている。皇太弟の謀反が起こった日の夜、皇女の身を秘密裏に病院に移す様にファスタ3世から頼まれていた柴田、荒川、長岡、小波の4人は、予め皇帝からテオファの秘密入院を知らされていた近衛副隊長のエルージュと、東門の守備兵数名の協力を得て、皇女の動座を行うことになっていた。
最終的にエルージュの手引きで皇女を引き連れ、皇宮からの脱出に成功するも、彼自身はアルフォンに寝返った近衛兵達に単騎で挑んだ結果、討死。そして命からがら脱出した柴田らは、“東門の守備兵”に事態を伝え、帝都郊外にあった病院へと逃げ帰ったのだ。皇太子夫妻の外出はその数時間前のことである。となると“東門の守備兵”数名は、帝都内で唯一、第四皇女と皇太子夫妻の生存を知っていた存在だと言うことになる。
問屋の主人の助言で何とか事態を察知するも、刺客に見張られていた各国の大使館に駆け込む事は出来ず、帝都リチアンドブルクを脱出せざるを得なかったジェティスとレヴィッカの2人は、身の上を隠しながら何とかミケート・ティリス市に到着し、その後、同地方の長である“騎士団長”ハリマンス=インテグメントに接触を果たすまでに至る。真実を知ったハリマンスは、ショーテーリア=サン帝国の外務庁に連絡を取り、秘密裏に2人を亡命させることに成功した。
つまり、ミケート騎士団長であるハリマンスが、“一九長会議”の場で対日戦争への参加を留保し、自軍に日本人脱出作業中の強襲揚陸艦「こじま」を襲わせなかったのは、端から真実を知っていたからなのだ。
「・・・ヨーク=アーデンに着いた後、我々との接触を図っていた訳ですね。もっと早めに連絡して頂ければ・・・」
より早期に日本政府との接触を図ることは出来なかったのか、という東鈴の疑問に対して、ジェティスは少し申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ショーテーリア=サン帝国政府は仲介の条件として、“ニホン国が勝利を決めた状態でなければ、ニホン国との接触を許さない”と言って来た・・・。どちらが勝つか分からない状況下で、イルラ教全体を敵に回すのは御免だと言うことだったのでしょうね。だから、初戦の“グレンキア半島沖海戦”は静観するしか無かったのです。
ですが貴国は、4隻の軍艦で1000隻の艦隊と250の竜騎を打ち破ってしまった・・・。数を以てしても貴国の軍には到底敵わないことを世界に知らしめました。故に、ショーテーリア=サン皇帝陛下は、私たちとニホン国との仲介役を買って出て下さったのです」
ジェティスは、ヨーク=アーデンに到着してからすぐに行動を起こせなかった事情を説明する。要はショーテーリア=サン帝国は、“数の圧倒的有利”が日本軍に対して戦術的に有効か否かを見極めていた訳である。
「・・・」
少し腑に落ちない気持ちを抱く東鈴に対して、ジェティスは説明を続ける。
「・・・それに、私達の生存を発表して叔父上の虚言を暴くだけでは、戦いは終わりにはなりませんよ。叔父上には確実な支持基盤がありますから」
「?」
皇太子のこの言葉に対して、東鈴は疑問符を頭上に浮かべる。
そんな様子の彼にジェティスが説明したのは、クロスネルヤード帝国領を分割する各地方を治める“長”、すなわち皇帝と並ぶ武力を所有する“18人の守護者”についてである。彼が述べたのは以下の通りだ。
“18人の長”は一枚岩ではなく、その中には大きく分けて4つの派閥がある。
1つ目が“正統派”、これが最多数である。言わば“皇帝の家臣”としての長の役割を最重要視し、皇帝の命に従って皇帝の為に剣を振るう。彼らの多くは前皇帝を暗殺したという事実に関して、日本に怒りを向けている。教皇に頭を下げさせた云々は、彼らもイルラ信徒である以上気にしているだろうが、それだけで他の列強との開戦を支持するほど重要視はしていないだろう。
2つ目が“革新派”、彼らは前皇帝であるファスタ3世の思想に同調している者たちだ。親日派の前皇帝を日本国が暗殺したという発表自体を疑問視し、今回の戦争には端から参加していないという。
3つ目が”保守派”、敬虔な彼らは、教皇との関係を拗らせる言動を続けた前皇帝を元より疎ましく思っており、前皇帝が亡くなり皇太弟が皇位に即いた今の状況を歓迎している。彼らの参戦動機は前皇帝暗殺よりも、ニホンが教皇に屈辱を味わせたという点だろう。
4つ目が”無所属派”、彼らは帝都や総本山から遠く離れた地を治めている為、元々帝国への帰属意識が低く、領内の文化も独自性が有り、イルラ教へのこだわりもほとんど無いと言って良い。今回の戦争も、周りの雰囲気に流されて参戦しているだけに過ぎない。
「では・・・殿下の生存を公表し、現皇帝の虚言を暴けば・・・」
「簒奪者、そして暗殺者である叔父上に“正統派”は反発し、離反するでしょう。“無所属派”も同じく・・・。そして貴方達は“正統な皇位継承者”を擁する“官軍”としての地位を得ることが出来ます。
しかし“保守派”は、敬虔なイルラ信徒である叔父上が在位している今の状況を保とうとする・・・。そうなれば、最後の敵は“保守派”と他のイルラ教国の軍勢です。それらを倒し、帝都に攻め入り、現皇帝を玉座から降ろす・・・、それが最善の道です! 共にこの戦争を終わらせましょう」
ジェティスの力説に、東鈴と他の外務官僚2人は思わず顔を見合わせる。もし彼の言う通りに“18人の長たち”が割れれば、敵の勢力は一気に狭まる。戦争の長期化を望まない日本政府にとっては願ってもない展開だ。
(今すぐ本国へ連絡を入れるべきでは・・・!?)
東鈴の右隣に座っていた若い外務官僚が、喜々とした表情で彼に耳打ちする。しかし東鈴は、今の状況と提案を受け入れた場合の今後の展開について、今一度深く考察していた。
(ここで殿下の生存を明らかにし、日本軍を正統な皇帝に与する『官軍』と内外に宣伝・・・。この地に皇太子を首班とする『亡命政権』を樹立することになる・・・。つまり殿下と日本は同盟関係になる訳だ・・・。即ち・・・)
東鈴はジェティスの目論見を正確に理解するに至る。
彼の目論見、それは自身を戦争の終結の為のキーマンであると日本側に売り込み、同時に戦争の早期終結を第一に考える姿勢を見せつつ、その上で自分が玉座に即く手助けを日本国にさせるつもりなのである。
時間がどれだけかかろうが、いずれは日本に軍配が上がる戦いには違いない。しかし、前皇帝暗殺の容疑者となっている日本国に対して、現皇帝であるアルフォン1世と他の長たちは、このままでは降伏することは無いだろう。国がどれだけ疲弊してもだ。
しかし、帝都を追われたジェティスはそれでは困る。万が一にもそうなってしまっては、自身が皇宮に戻る余地が無くなってしまうし、泥沼の戦争の末に皇位に返り咲いても、最早国として運営出来ない様な国を渡されることになるからだ。
よって彼の目論見は以下の通りである。
まず、自身が建てる亡命政権と日本国との間に“同盟”を結び、お家騒動の片棒を担がせることで、アルフォン1世を簒奪者と位置づける。さすれば“18人の長”は保守派とそれ以外に割れ、現皇帝の戦力は大きく削ぎ落とされる。となれば、日本軍はわざわざクロスネルヤード帝国の全戦力を相手にせずとも、叔父を敗戦に追い込むことが出来る。
その後は、日本国の加護を受けつつ、ジェティスと彼の妻レヴィッカ、そして第四皇女のテオファは帝都に凱旋、ジェティスは第28代皇帝として即位し、国の疲弊も避けられ、日本国とも講和して目出度し目出度し。
(・・・懸念となるは日本からの賠償請求だが、亡命政権と同盟関係になること、戦争の早期解決に寄与することを理由に、ごねられる所までごねたい・・・!)
思案を巡らせるジェティス、その内容を予測する東鈴。考えの探り合いを繰り広げる両者の姿は、権力者同士の協力に純粋な善意は存在しないことを象徴している様であった。
「・・・直ちに本国政府に報告を致します。きっと良い返事が返って来ることでしょう」
東鈴の言葉に、ジェティスは笑みをこぼす。その後、両者は握手を交わした後、応接間から退出し、様々な思惑が入り交じった協議は終了した。
・・・
外交庁舎 別室
別室で休んでいたテオファの元に、協議を終えたジェティスが姿を現す。彼が入室する様子を見つけた彼女は、再び笑顔を浮かべた。
「苦労をかけてしまったね・・・、お前には」
「いえ・・・! またこうしてお会い出来たのですから!」
長男から与えられた労いの言葉を、テオファは屈託の無い笑顔を以て受け取る。そんな2人の様子を、侍女のラヴェンナは感慨深い思いを抱きながら眺めていた。
〜〜〜〜〜
クロスネルヤード帝国 シーンヌート辺境伯領 シーンヌート市
帝都リチアンドブルクより北西に2,000km以上離れた場所に位置するシーンヌート辺境伯領の主都シーンヌート市、その中でも、売春宿が立ち並び、犯罪が蔓延する暗黒街に“それ”はあった。
布に覆われ、存在を隠す様にして、とある3階建ての建物の正面に停車している73式大型トラックの荷台には、4人の陸上自衛隊員が拳銃を側に置きつつ、周りを監視している。彼らの姿は、何かに対して警戒している様であった。
「お疲れ様です・・・」
神経を張り詰めている4人の自衛隊員に、建物の中から顔を出した1人の男が話しかける。暖簾を右手で押しのけつつ、差し入れの乾パンを抱えるその男は白衣に身を包んでいた。
「田原さん、ありがとうございます」
隊員の1人である横川光緒一等陸士が、白衣の男に礼を述べる。乾パンを差し入れした男は、横川に微笑み返すと、建物の中に返って行った。
彼の名は田原時政、かつて“リチアンドブルク赤十字病院”で臨床検査技師をしていた男であり、現在はHIVが発生したこの地方を調査する為に派遣された、「北方AIDS調査団」の1人である。
彼らが今居る建物は、かつて売春宿として使われていた物であり、現在は空き家となっているのを、隠れ蓑兼臨時の診療所として使っている。故に、空き家だったはずのそこには、多くの女性の姿があった。彼女らは長椅子や床に座り、診察の順番を待っている。
診療所を訪れる女性たちの殆どは、身体に発疹や丘疹が発現していた。
「次の方、どうぞ」
調査団構成員である看護師の天野恵佐が、2階へ続く階段から下りてきて次の患者を呼んだ。階段の1番近くに座っている女性が立ち上がり、天野に案内されて2階の診察室兼治療室へと登って行く。
「・・・どうぞ、そちらにお掛け下さい」
古ぼけた机の前に座る白衣の男が、1階から上がって来た女性に対して、椅子に座る様に促す。彼、神崎志郎は北方AIDS調査団の団長であり、かつてはリチアンドブルク赤十字病院の副院長を勤めていた男だ。
彼ら「北方AIDS調査団」は本来、風土病としてこの地方に伝染しているというHIV/AIDSを調査するため、国の要請を受けて急遽組織された。この世界におけるHIVが発生したとされる同国最北の港街、「シーンヌート辺境伯領・ラルマーク市」に向かっていたが、その最中、途中地点であるシーンヌート市に到着した所で、アルフォンの宣言により戦争が勃発。身元がばれ、シーンヌート辺境伯領軍から追われる身となった彼らは、身動きが取れなくなってしまっていた。
更には、アルフォンの即位式があった日、同日の夜まで通信機の故障に気付かなかった為、彼らが事態を知ったのはシーンヌート市に着いた直後、同市内の治安を守る兵たちに追いかけられたことが切っ掛けだったのだ。
「どうされましたか?」
神崎は、女性に訪ねて来た訳を尋ねる。と言っても、ここへ訪ねて来る女性たちの要件は大体1つだ。
「・・・ここへ来れば、“瘡毒”が治ると聞いて来ました。どうか・・・!」
そう言って頭を地面に付ける様にして下げる女性の身体には、全身に発疹が浮かんでいた。神崎は彼女を蝕む病の名を瞬時に理解する。
「頭を上げて下さい・・・、すぐに治療しますから」
神崎は落ち着かせる様な口調で、両方の目尻に涙を浮かべるその娼婦に語りかけた。
彼女らがこの場所を訪れる理由、それは売春宿街につきまとう“影”の餌食になってしまったからだ。かつて江戸の街において、天国の様な絢爛さを誇った吉原遊郭でさえ、その影に取り込まれた女郎たちは見るも無残な最期を遂げたという。
その病の名は「梅毒」、かつて世界で最も猛威を振るった性病である。抗生物質が発達した今でこそ、その投与で難なく完治するが、それ以前は手の施し様が無い死の病だった。無治療で経過した末期の症状は壮絶の一言で、多臓器や神経が障害され、皮膚はただれ骨は変形し、廃人状態に陥ってしまう。故にこの病だけでなく、それまで不治とされてきた数多くの感染症を治癒可能にした「抗生物質」の発明が、人類にとって如何に重大で偉大かが分かるだろう。
「では、ちくっとしますよ〜」
神崎は先程診察室に上がって来た女性に、古ぼけたベッドに横たわる様に指示すると、その静脈にペニシリン系抗生物質の点滴袋から繋がった点滴針を打ち込む。
治療を受けているのは彼女だけでなく、彼女の両隣には同じく点滴治療を受けている梅毒患者の姿があった。そんな娼婦たちの様子を、1人の女性が側から眺めている。一般的なこの世界の女性とは異なり、やや煽情的な衣装に身を包む彼女の名はルクレティア。この暗黒街に巣くう娼婦たちの頭目の様な存在である彼女は、梅毒に苦しむ娼婦たちを治療することを引き替えに、この隠れ蓑の提供と調査団の隠匿を約束していた。
「本当にすごい効き目だね、このコウセイザイって薬は」
ルクレティアは、彼女らにとっては不治の病である梅毒を治癒させてしまうペニシリン系抗生物質の効能に大いに驚いていた。調査団が治療した患者は、すでに数十人に登っている。
「・・・悪いが、明日で店じまいにするつもりだ。持って来ている薬がもう切れそうなんでね。それに、ここでの治療は“ここを使わせて貰うこと”と、君たちが“俺たちを匿うこと”と引き替えだったから、もうここには居られない・・・。間も無く場所を移すつもりだよ」
神崎は微妙な表情を浮かべながら述べる。抗生剤が無くなれば、最早治療は継続出来ず、彼女ら“暗黒街”との契約は不履行になるからだ。それは即ち、最早ここに居ることは出来ないということを意味する。
しかし、次の潜伏場所について心配している様子の彼の言葉に対して、ルクレティアは首を横に振る。
「いや、もう治療はいい。それでここを出て行く必要も無い。こっちこそ、姐さんや仲間たちを救って貰って感謝してるんだ、もう十分さ」
彼女が述べた“姐さん”とは、彼女と同じ売春宿に勤めていた、言わば先輩の娼婦のことだ。その人物は第3期梅毒を発症していたが、抗生剤投与により何とか治療することが出来た。
その奇跡を目の当たりにしたルクレティアと他の娼婦たちは調査団に対して、ここでの治療と引き替えに、暗黒街の住民たちに呼びかけて彼らをシーンヌート軍から隠匿するという契約を持ちかけたのだ。
「私らみたいな者たちにとっては、皇帝が誰に殺されようが特に興味も無い。ただ、あんたらはここで多くの仲間を救ってくれた・・・それが真実さ。
これからも、あんた達は私たちが軍から守って見せる・・・みんな同じ気持ちだと思うよ」
「え・・・」
ルクレティアの言葉に、神崎はきょとんとした表情を浮かべるが、直後その顔は笑顔へと変わる。
刹那の沈黙が流れたその時、バタバタと誰かが階段を駆け上がる音がする。ルクレティアと神崎は少し警戒するが、診察室に現れたのは、彼女の同僚で暗黒街の住民である下男のサルウィンであった。彼は息を切らしながら、切迫した表情で事態を告げる。
「ルクレティア! シロウ先生! 大変だ、シーンヌート軍にここを感づかれた!」
「!!」
サルウィンの言葉に2人は驚愕する。神崎志郎を首班とする北方AIDS調査団を捕らえんと、シーンヌート辺境伯率いる兵たちがついに動き出したのだ。




