大脱出
リチアンドブルク 宮前広場
皇宮の方から大きな騒ぎ声が聞こえてくる。城壁の外から即位式の様子を伺っていた平民たちは、内部の異様な様子にただならぬ気配を感じていた。
その直後、皇宮の中から3名の近衛兵が出て来た。人々は彼らに詰め寄る。
「おい、即位式でいったい何が起こったんだ!?」
「教えてくれ!」
質問責めを浴びせる市民たちに、近衛兵は目もくれずにただ“どけ”とだけ言うと、広場の中央に設置されていた掲示板の前に立ち、今まで貼られていた“皇族一斉変死事件”の政府紙をはがした。彼らはその後に新たな政府紙を貼り付ける。
人々は政府から発表された新たな知らせに飛びつく様に、掲示板の前に押しかけた。
「俺はあまり字が読めないんだ、何が書いてあるのか教えてくれ!」
その場に居た平民の1人が、群衆に問いかける。それに答える様にして、もう1人の平民が驚愕の顔を浮かべながら、その見出しを読み上げた。
「・・・新しい皇帝陛下がニホンとの開戦を宣言したらしい!」
その男の言葉に、周りは騒然となった。
「馬鹿な! 何で!?」
「何でも先代の皇帝一家の死はニホン人の医術士たちのせいだとか・・・」
「そんな・・・あの人たちが・・・、まさか!」
「いや、やっぱり異教徒は信用してはならないということだ!」
すでに“赤十字病院”の世話になっている人間も多く存在する平民たちの間には、怒りの他に、貴族たちとは別種の感情が蔓延していた。それは動揺と困惑である。
今まで自分たちとは結構仲良くやっていたニホンの医術士たちが、そんな凶行に及ぶとはにわかに信じられない、しかし政府の発表はそうだと言っている。異教徒はやはり信じてはいけないのかもしれない・・・。それとも政府の発表が虚偽?
そんな様々な感情が渦巻く騒動を、端から見ていた1組の母子がいる。手を繋ぐ子は母の方を向き、つぶらな目で尋ねる。
「ねぇ、あの白い医術士さまたちが皇帝陛下をころしたの?」
「みんなそう言っているわね・・・」
「でも、あの人たちはとても優しかったし、悪い人たちには見えなかったよ?」「・・・!」
子供の無邪気な言葉が母の胸に突き刺さる。母子は混沌としていた宮前広場の様子をただただ眺めていた。
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帝国南部・ジットルト辺境伯領 主都ジットルト 辺境伯の屋敷
クロスネルヤード帝国を構成する18の地方の内の1つである「ジットルト辺境伯領」。その地を治める一族である辺境伯位・フォレイメン家の屋敷の一角にある執務室に、この地の長であるロクフェル=フォレイメンの姿があった。
「・・・皇帝領政府が正式にニホン国との開戦を宣言しました」
窓を眺めるロクフェルに、ジットルト軍の団長であるフルマティー=グローメリューが、首都にある公館からの知らせを伝える。
「・・・知っている。今さっきラントから連絡があった」
ロクフェルは、葬儀・即位式に出席していた代理人から、すでに直接の知らせがあったことを述べる。
「・・・お前は信じるか? ニホン国が皇帝陛下を暗殺したと」
「・・・!」
ロクフェルが投じた直球すぎる問いかけに、フルマティーは少し驚くも、目を左右させて言葉を選びながら、口を開いた。
「いえ・・・、我々とベギンテリア、そしてフーリックの3辺境伯領にとって、ニホン人医師たちは領内を襲っていた“死の流行病”を、瞬く間に収めた“大恩人”です。彼らがその様なことをするとはとても・・・」
フルマティーは思ったままを領主に述べた。
かつてペスト撲滅事業の為、一時的に協力関係にあったジットルト軍と日本の医療団は、ネズミ狩りとノミの駆除、消毒といった作業を共に行う中で、そこそこ良好な関係を築いていた。
「そうだ、そもそも動機が無い。言わば“親ニホン派”であった先帝陛下とその皇子たちを殺害し、“排ニホン派”の皇太弟を帝位に据える利益が、ニホンにあるはずが無い」
「・・・!」
ロクフェルの言葉に、フルマティーは目を見開いた。少し冷静に考えてみれば彼の言う通りである。日本側には皇帝を暗殺することで得るメリットは何も無いのだ。
「何が“怪しげな術”なものか・・・。教会が認めた医術師の愚にも付かぬ治療や、儲け主義に染まり、下心が渦巻く教会員の祈祷なんかより、ニホンの医術は比べることも出来ない効力と治癒力を持っている」
そう言うとロクフェルは振り返り、窓の外へ向けていた視線をフルマティーの方へ向ける。
「こんな馬鹿げた戦争に我々は参加しない。間も無く“一九長会議”が開かれるだろう。その前にフォード殿とカネギス殿、そして・・・デポン殿とハリマンス殿にも連絡を付けておけ」
「・・・は!」
ロクフェルが告げた4つの名、それは彼と志を同じくする者たちの名であった。命令を拝聴したフルマティーは部屋を後にする。
その後、皇帝領政府から“緊急一九長会議”の日取りが伝えられたのは、5時間後のことであった。
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リチアンドブルク 日本国大使館
大使館の一室で通信機を手にとって、必死の形相で怒鳴るような声を出す1人の男が居る。彼、大使館職員の1人である池尻和夫が通話している相手は、首都の郊外に位置する病院の院長だった。
『何ですって・・・!』
昼休診の最中、通信機の向こう側から届けられた知らせに、院長の長岡は驚きを隠せない。池尻は、新皇帝の即位式で何があったのか、そのすべてを病院側に伝えていた。
「我々も詳細は分からない! だが、確かなのはあんたたちが皇帝一家変死の犯人にされているということだ! 今、宮前広場で兵士たちが集まっている。私たちも間も無く大使館から脱出する。そこも危ない、あんたたちも早く殿下を連れてこの街から逃げろ!」
『わ・・・分かりました! 貴方方もお気を付けて!』
池尻は切迫した声で状況を伝えた。直後、通話を切る。
「これで・・・良いんですよね、大使」
通話を終えた池尻が振り返ると、そこには残りの大使館職員たち全員の姿があった。その中の1人であり唯一の女性である時田雪路は、彼の言葉に頷くと、口を開いた。
「・・・ええ、彼らには一刻も早くこの街を脱出して頂かなくてはなりません。皇女殿下の御身と共に、日本へ逃げ延びる為に」
「・・・」
静まり帰った部屋の中に、外から聞こえる喧騒の声が響く。大使館職員の1人が窓の外を眺めると、そこにはすでに大使館の周りを取り囲んでいる帝国(皇帝領)軍兵士たちの姿があった。大使館の脇に止めてある車も、すでに彼らの手中にある。脱出など、到底出来ない状況だ。
「・・・彼らの言う通りに投降しますか? それとも、心中でもしますか?」
「・・・」
池尻が時田に問いかける。究極の2択を迫られた彼女は目を閉じると、眉間にしわを寄せながら、震えた声で答えるのだった。
・・・
リチアンドブルク赤十字病院
ちょうどその頃、昼休診の為にこの病院に勤めるスタッフたちは、各々休憩や昼食をとっていた。その時、しばしの間の休息を過ごしていた彼らの耳に、緊急アナウンスの音が突き刺さった。
『先程、日本大使館から連絡があった。今回、皇宮で催された即位式にて、我々に“皇帝一家暗殺の容疑”という根も葉もない濡れ衣が着せられたらしい! 我々の身を確保しようという兵士たちが、すでに宮前広場に集結している。ここに居ては我々の命が危ない! 直ちに通常業務を停止し、持てるだけの薬品と食糧を持って、73式トラックに乗り込め!』
事態の詳細を知った長岡は全館アナウンスにて、病院のスタッフたちに緊急事態を伝える。院内に響き渡るアナウンスに、スタッフたちの間には動揺と困惑が広がる。
「・・・どういうこと?」
突然すぎる命令にスタッフたちは状況を飲み込めずに呆然としている中、再び長岡の声が響き渡る。
『これは冗談でも何でも無い! 我々には皇帝一家暗殺の容疑が掛かっている! この街に居ては命そのものが危ない。早く脱出する用意を!』
直後、アナウンスが切れる。スタッフたちは顔を見合わせる。
「・・・に、逃げるぞ!」
誰かが叫んだ。その刹那、人々は一斉に動き出す。
2F 203号室
「・・・今の声は?」
「シズネ殿の声でしたね・・・」
突如院内に響き渡ったアナウンスの内容に、現在唯一の入院患者であるテオファと、病床の隣に座っていた侍女であるラヴェンナは顔を見合わせる。その時、血相を変えた様子で看護師の小波が部屋に飛び込んできた。彼は息を整えると、2人に今の切迫した状況を伝える。
「急で申し訳ありませんが、先程のアナウンスにもあった通り、すぐにこの街から脱出します! 直ちに準備をお願い致します!」
「・・・分かりました!」
事態を察したラヴェンナは、小波の言葉に2つ返事でかえすと、すぐに荷をまとめる準備に取りかかる。
1F 検査室
ここでも脱出の準備の為、スタッフたちが慌ただしく動いている。
「ここで得たデータは全て貴重なものだ! 何とか運び出すぞ!」
病理医の堂本浩一の指示の元、検査室に属するスタッフたちが、この地で行って来た微生物や病理組織の解析データが保存されているハードディスクやノートパソコンを電源から引っこ抜き、両脇に抱えて持ち出していた。
1F 廊下
「リチアンドブルク赤十字病院」は城砦都市であるリチアンドブルクの城壁の外の農家群の中にあり、病院の正面には、先日物資を運んできた3台の73式大型トラックの内、北方AIDS調査班が乗っていったものを除く2台、そしてテオファを皇宮から連れ出す際にも使用した患者運搬用のバンが1台停車している。
スタッフたちはそれぞれ薬品や医療品、情報機器などの荷物を持って廊下を走り、自らの身ごと外のトラックへと積み込んでいた。
その中に脳外科医の柴田と麻酔科医の荒川の姿がある。彼ら2人と小波を加えた3人が押している担架が廊下を走っていく。その上には第四皇女の姿があった。
「先日、皇宮から脱出した時に使用した乗り物に乗って頂きます! それで早急に帝都を脱出しますので!」
焦燥の表情を浮かべる小波の言葉に、担架の上のテオファは頷いた。
「帝都を脱出した後は、どこへ向かうのですか!?」
彼らと並走しながら、皇女の侍女であるラヴェンナが問いかける。その質問に柴田が答える。
「我々の艦が待つミケート・ティリスです。そこから一度この国を脱出し、我々と共に日本国へ向かって頂くことになりますね・・・。
この国の中に居るよりは日本国内の方が安全ですし、病院もそちらの方がテオファ殿下の治療を継続するには、より良い設備が整っています。予定外ですが、殿下の為にも一度日本へ行くのがよろしいかと」
「・・・!」
彼の返答に、ラヴェンナは少し怪訝な表情を浮かべた。緊急事態であり、それが最もベターとは言えども、皇族たるテオファの御身を東の果てにある謎の島国に移してしまってよいものか。
「ちょっと待って下さい! 帝都を脱出するのは致し方ないとして、勝手に殿下の身を海外まで連れ回されては・・・」
ラヴェンナが柴田の言葉に異を唱えようとしたとき、自分の侍女が考えていることを悟っていたのか、テオファは彼女の言葉を遮るように柴田と荒川、小波に語りかけた。
「・・・家族を失い、地位も失った私には、今のこの国に居場所はありません。ですが、私には義務があります。生き延びて真実の歴史を伝える義務が・・・! その為にも、どうか連れて行ってください・・・、ニホンまで・・・!」
皇女が発した言葉に、その場にいた4人は驚く。
「おい・・・」
荒川は柴田と小波に声を掛けた。その声に反応して、柴田と小波は彼の方を向く。彼ら3人は顔を見合わせると、互いに頷き合って1つの覚悟を決める。
「・・・承知しています。貴方の御身は、我々が必ず何事も無く日本まで送り届けます・・・。命を賭して!」
柴田の言葉に、テオファは微笑みで返した。彼女の表情に、その場にいた4人の心は思わず落ち着く。
その時、荒川が何かを思い出したかのような顔をして、小波に1つの質問を飛ばした。
「神崎や田原たちへの連絡は・・・?」
彼が懸念していたもの、それはこの世界におけるAIDSの調査の為、4日前に遙か北西の地であるシーンヌート辺境伯に旅立って行った「北方AIDS調査班」のことだった。
当然、現在帝都から遠く離れている彼らは、このことをまだ知らないだろう。日本人が何も知らずにこの国を闊歩すれば恐らく命が危ない。
「今、院長が連絡を取っている所です!」
小波が答える。荒川は安堵の表情を浮かべた。
「とりあえず、彼らとの合流については後で考えることにして、我々は早急にこの街を出なくては! 彼らには陸上自衛隊員が10人付いているんだ。恐らく俺たちより安全さ」
「・・・確かに」
柴田が述べた言葉に、荒川は頷いた。
病院 外
「やっときた!」
病院から出て来た担架と4人の人影を指差しながら、すでにトラックの荷台に乗っていた泌尿器科医の西尾が叫ぶ。
外へ出た柴田と荒川、そして小波の3人は、患者搬送用のバンにテオファを担架ごと乗せると、侍女のラヴェンナと共に、自分たちもバンの中に乗り込む。周りを見ればすでに多くのスタッフたちが73式大型トラックの中に身を収めていた。
「もう、全員乗りましたか!?」
運転席の窓から、陸上自衛隊の大間禄福二等陸曹/伍長が尋ねる。
「院長先生が・・・まだ!」
車外で人数確認をしていた病理医の堂本が、病院の方を指差しながら答える。彼の額には焦りによる冷や汗が流れていた。
「ちぃ・・・この一刻を争う時に・・・」
時間が無い今の状況で、一向に病院から出てこないという院長の行動に、大間二曹は思わず舌打ちを打つ。
院長室
誰も居なくなり静寂に包まれた病院で、長岡の怒鳴り声が響き渡っていた。
「応答しろ! こちら長岡、誰か近くにいないのか!」
彼が言葉を投げかけていたのは、通信機の受話器である。
「何故・・・繋がらないんだ、神崎・・・!」
長岡は頭を抱える。彼の目の前にあったのは、何度も呼び出しをかけているにも関わらず、うんともすんとも返事がない通信機だった。
〜〜〜〜〜
ゴーンディー騎士団領・東部 ウイヌ村付近
皇帝領より北西、「サフ騎士団領」を越えた先にある「ゴーンディー騎士団領」のとある場所に、陸上自衛隊の73式大型トラックが停まっていた。
「今、どれくらい来たんだっけ?」
地図を眺めていた神崎は、自分たちの護衛である陸自隊員計10名の指揮を執る、右崎公二等陸尉に尋ねる。
「4分の3くらいはもう過ぎてます。このままのペースなら夜には最初の目的地に着きますよ!」
右崎二尉の答えに、神崎の顔が明るくなった。
「やっとですね!」
同じく満面の笑みを浮かべていた田原が、彼に話しかける。
「ああ・・・もうすぐ着くな、シーンヌート市!」
長い旅路を終え、間も無く最初の目的地に着くことに、彼ら15人の調査班はそこはかとなく胸を踊らせていた。通信機が故障していることに、彼らは全く気付いていない。
〜〜〜〜〜
アラバンヌ帝国 首都アドラスジペ
ジュペリア大陸の“南西部”と呼ばれる地域の北部沿岸に位置するこの国は、「七龍」としては1番の古株であり、“古豪”と称されている。その国の首都にある皇帝の居城も、多くの国々のそれと動揺に騒ぎになっていた。
「何と・・・それは真か!?」
この国の皇帝であるセルジーク=アル・マスノールは、臣下の報告に耳を疑っていた。
「はい! クロスネルヤード新皇帝のアルフォン一世は、即位式の場でニホン国との開戦を宣言致しました。他のイルラ教国家の首脳たちも、これに同調する動きを見せております!」
臣下は答える。
「それが真なら、これでイルラ教による我が国への圧迫が無くなれば良いが・・・」
セルジークは右手で顎を触りながらつぶやく。
神聖ロバンス教皇国の比較的近くにありながら、イルラ教とは異なる宗教を信奉するこの国とこの国と同じ文化圏に属する国々は、神聖ロバンス教皇国が各イルラ教国家を啓発して召集した「教化軍」によって侵攻・蹂躙されていた。この国が「七龍」から名を落とすのは、もう近いとさえ言われている。
しかし、イルラ教は別の敵に目を向けた。アルティーア帝国を破った新列強を相手にするとなれば、かなりの大戦力を揃えなければならないだろう。そうなれば、イルラ教が自分から手を引くことになるのは必然である。
「ニホン国か・・・、最近良く耳にする。あわよくば、ニホン国にはイルラ教を打ち破って貰いたいものだが・・・」
セルジークは戦争の行く末に思いを馳せる。
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日本国 東京 首相官邸 国家安全保障会議 緊急事態大臣会合
首相官邸の一室に、会議の議長たる首相をはじめ、議員たる閣僚たち、そして関係者として出席が許された幕僚たちが集まっていた。
「まさか・・・こんなことになろうとは・・・!」
首相の泉川は頭を抱える。友好国が一日にして交戦国に変わってしまった現実に、彼は動揺を隠せない。
「しかし、現地の時田大使からの報告によると、皇太弟は先日の教皇との会談について何やら知っていたようですね。教皇国との約束により、会談内容の公開は明日だったはずなのに」
副首相の浅野太吉が、1つの疑問を呈した。
「それは、おそらく教皇側からのリークでしょう。皇太弟のバックに、恐らくは神聖ロバンス教皇国が付き、彼を操っているのは間違いありませんね。
そうでなければクロスネルヤード帝国にとって、実利的にほとんど得るものの無い我が国との開戦など、宣言したりしないでしょう」
外務大臣の峰岸孝介が答えた。その後、彼は今回の開戦に至る原因となったであろう経緯について説明する。
「そもそも”イルラ教”とは何たるかですが・・・」
彼が始めに語り出した事、それは今回の“敵”である「イルラ教」に関することだった。
「イルラ教」とは、”絶対神”と呼ばれる「ティアム神」を祀る事実上の一神教で、信徒たちは”経典”と呼ばれる聖書に従って生活を営んでいる。
経典には”ティアム神の神話”や”天地創造の物語”などが収録されており、特に天地創造の物語については、惑星テラルスのことを”宇宙の中心に作られた特別な地”と記述している部分がある為、”信念貝”の開発によって早々に”時差”という概念が生まれたこの世界において、“世界球体説”や“地動説”が中々浸透しない原因の1つともなっている。
「・・・そして彼らが我々、というよりも現代医療を異常に敵視する理由ですが、経典の第5章“信徒の戒律”に“血の穢れ”について書かれている部分があり、現代医療では当たり前の採血や輸血、果ては点滴、注射、外科手術が、どうやらこれに抵触するようです。
故に我々日本人は、彼ら熱心な信徒たちから見れば、“血の穢れを好く罪人”として、そして商売仇として、激しい侮蔑と排除の対象になっている訳です」
峰岸が語った事実、それは今回の開戦における最大の要因である。
経典に反しながら、彼らの価値観から見れば異様な効力・治癒力を持つ現代医療は、今まで教皇国や教会が広めてきた“常識”を根底から覆すものであり、“治癒魔法”とは異なり、理論上は万人に使える“日本の医術”がジュペリア大陸に広まれば、イルラ教の権威は瞬く間に崩れ去ってしまいかねない。
それを危惧した教皇国の幹部たちが、敬虔な信徒であった為に与しやすい皇太弟を操り、親日派かつ開明的だった前皇帝とその一家を暗殺させた上に、日本との開戦を宣言させた。
それが今回の緊急事態大臣会合にて建てられた推論であり、事実であった。
「まあそう言うが、この世界にも外科手術自体は普通に存在しているでしょう」
そう述べるのは、厚労大臣の尾塩優だ。
元の世界でも、紀元前から簡易的な麻酔を使った外科手術は行われている。この世界においても、日本が国交を持つ国の中では高度な文明を持つショーテーリア=サン帝国では、そこそこの頻度で行われているらしい。
しかし微生物の概念がまだ薄い故に、消毒・殺菌が不完全だったり、麻酔も麻薬の様な効果がある植物などを用いた原始的なものだったりと、現代の外科手術と比較すれば危険度は高いことには変わりない。
「まあ、“ある”とは言っても、この世界においては日本国内ほど外科手術は一般的なものではありません。また採血はこの世界には無いも同然ですし。
基本的に戦場での怪我の治療など“血に触れる”外科的な治療は、闇医者や下級医術士の仕事だそうで」
峰岸が答える。その直後、経産大臣の宮島龍雄が1つの疑問を呈する。
「しかし、何故皇帝の暗殺まで我々の仕業だとでっち上げる必要があったのでしょうか?」
彼が提示した疑問・・・それは、対日宣戦の理由として“教皇に土下座外交を要求した”だけでは、何故駄目だったのかということである。その理由だけでも、他のイルラ教国家群は、対日戦争に応じるはずだ。
その質問に、防衛大臣の安中が答える。
「ロバンスの教皇は大陸で活動する我々日本人が邪魔。故に排除したいが、肝心の頼みの綱であるクロスネルヤードの前皇帝は”親日派”。
そんな状況下でいきなり皇帝とその皇子たちが崩御して、繰り上がった皇位継承者が偶々熱狂的なイルラ信徒で、さらに唐突に”教皇の為に日本と開戦します”じゃあ、教皇とグルでクーデタを起こしたことがバレバレですし、教皇の言いなりになって皇帝を殺した簒奪者の言う事なんか、そもそも宗教にあまりこだわりがない末端の兵士たちは聞きたくないでしょうし、そこの所の事情を良く分かっている18人の長なら、尚更でしょう」
安中は続ける。
「ただ、開戦の理由が弔い合戦となれば話は別です。
日本人医師が皇宮に出入りし、彼らに医療行為を行っていたことを根拠に、皇帝と皇族の暗殺の疑いを日本に被せて、戦争の主目的をあくまで敵討とすれば、宗教にこだわりが有ろうが無かろうが、それとは関係の無い敵討という目的の元に国を纏めることが出来ます。
ま、少し頭が切れる奴ならば、それでもおかしいということに気付くでしょうが」
安中の推察に皆が頷く。その後、彼の発言内容は現地の状況に関することへと移っていく。
「それよりも最優先事項は、ジュぺリア大陸で活動している”日本人の脱出”です! 現在、ミケート・ティリス領事館を介して、現地の日本人約100名には停泊中の『こじま』に、直ちに乗船するように指示を出しています。
また、ベギンテリア湾内に停泊している第13護衛隊に対しても、早急にセーベへ向かう様に指示を出しています」
ジュペリア大陸にて日本人が多く住む都市は大きく2つである。1つは“大陸東の玄関口”ミケート・ティリス、そして“世界屈指の大貿易港”であるヨハン共和国のセーベである。もちろんその他の都市にも日本人は居るが、現状としてこれら2都市からの邦人脱出を優先することとなっていた。
「尚、『こじま』に関しては、首都リチアンドブルクに住む邦人、すなわち病院のスタッフと大使館職員、そして現在入院中で、公式には死亡したことになっている皇女殿下を合わせた約40名が、ミケート・ティリスに到着し次第、日本へ向かう様に伝えてあります」
安中が現状を伝える。すると内閣官房長官の春日善雄が手を上げ、質問をする。
「現地の住民の様子は? 何か動きは?」
現地民の動き・・・即ちクロスネルヤード新皇帝の対日宣戦に触発された現地民が、何か行動を起こしていないか、邦人に被害は出ていないか、春日はそう聞いているのだ。
「現在のところ、『こじま』や現地日本人に対する被害は報告されていません。しかし、依然予断を許す状況ではないことは確かです。
各国の大使館からの報告に依れば、ジュペリア大陸の沿岸部に位置する各国では、日本を敵国と定めたクロスネルヤード帝国を恐れ、国内に日本人が居ることに不安を抱く動きが有るようです」
外務大臣の峰岸が答える。それを聞いた泉川は再び頭を抱えた。
「クロスネルヤード以外の国々でも邦人に危機が及ぶ可能性もある訳か・・・。いよいよ追い詰めて来ていますね」
ぽつりとつぶやく泉川。彼は好転する気配の無い今の状況を嘆いていた。




