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旭日の西漸 第3部 異界の十字軍篇  作者: 僕突全卯
第1章 戦火の予感
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嵐の夜

 少し時を戻す。10月27日、日本国・横須賀から派遣された「こじま」が、この日ようやくミケート・ティリスへ到着した。

 「ミケート・ティリス」とはクロスネルヤード帝国の東端の海岸線に位置する巨大な港街であり、7つの”騎士団領”の中で唯一海に面する「ミケート騎士団領」の主都である。

ミケート騎士団領をはじめとする騎士団領を治めるのは、”騎士団長”という特殊階級の者たちであり、ミケート騎士団領における現在の騎士団長は、ハリマンス=インテグメントという男が務めている。

この都市は昔から、クロスネルヤード帝国の東の玄関口として、ショーテーリア=サン帝国やアルティーア帝国などの、東方の国々との海上貿易を主として行ってきた。

 そして2年前の9月、この国の商人たち、そして日本の商人たちにとってもかねてからの悲願だった、日本国とクロスネルヤード帝国の国交樹立が達成されることとなり、この国にも日本人の商人や日本企業が入国・出店出来る様になった。

 日本政府は、コンテナ船などの民間の貿易船が港を利用出来るようになるまでの一時的な処置として、水深が不十分な海岸への物資や人員の揚陸能力を持つ「しまばら型強襲揚陸艦」を、貿易船の代替である「交易艦」として出していたのだが、湾岸工事を終了した後もコンテナ船などの民間の貿易船が不足している現状を憂慮した日本企業の多くから、”交易艦存続”の要望が数多く寄せられた為に、その後も月に1回のペースで交易艦が出されることになる。


 クロスネルヤードの商人たちにとっては、交易艦を含む日本の貿易船の入港は、その全てが待ちに待った一大イベントだ。ちょっとやそっとの刺激では破けることのない強靱な衣類、世界の国々が垂涎する日本の知識が書かれた書物、肌の張りつやが良くなる石鹸や化粧品、優れた医薬品、その中でも特に、安価で強靱な各種プラスチック製品は、その便利さと使いやすさ、丈夫さから身分を問わず飛ぶように売れていた。

 そして「こじま」が到着してから3日後の夕方、同艦に載せて運ばれてきた抗AIDS薬を含む追加の薬品や、発電機を動かす為のガソリン・軽油などの物資が、ついにリチアンドブルクの赤十字病院、及び日本国大使館へ届けられた。同時にシーンヌート辺境伯領におけるAIDS調査隊の護衛として派遣された10人の陸上自衛隊員も、73式大型トラックに乗ってこの地へ到着した。この地に勤務する医師たちは、歓迎の意を以てこれらを迎え入れた。


〜〜〜〜〜


10月31日 明朝 リチアンドブルク赤十字病院


 赤十字病院の敷地内に、「こじま」から降り立ち、物資を運んで来た3台のトラックが停まっている。そのトラックの前に、いかにも遠出する様な荷物を持って立っている15人の集団が居た。彼ら、総合内科医・神崎志郎を首班とする「北方AIDS調査班」は今回、北方のシーンヌート辺境伯領に風土病として蔓延するというAIDSの実態を調査するため、10人の陸上自衛隊員を引き連れ、同国内最北の港街である”ラルマーク”に向かうことになったのだ。

 彼らを一目見送ろうと、開院前の病院からスタッフたちが続々と現れる。その中には当然、柴田や田原、そして院長の長岡の姿があった。


「気を付けて・・・! 無茶だけはするなよ」


 院長の長岡寧は、遙か3,000km彼方の地へ旅立つ調査班の身を案じていた。それも当然である。彼らは中近世レベルの治安と交通路しかない大陸を進むのだ。待ち構えるのは並大抵の苦労ではないだろう。


「分かっていますよ。任せてください」


 神崎は笑顔で答える。その声質からは、彼は一切の不安を感じていない様に思えた。その後、15人の調査班は1tトレーラーを引いている73式大型トラックへと乗り込む。残されたスタッフや他の自衛隊員たちは、遙か北西へと旅立つ彼らの後ろ姿を見送る。


・・・


同日 皇宮・御所1F 皇帝の執務室


 この日も柴田、そして田原の2人が皇宮を訪れていた。いつもと同様に田原を部屋の外へ残し、執務室へ入室する柴田。彼は机の前に座る皇帝に1つの報告を述べる。


「昨日夕方、本国より皇女殿下の治療に使用する薬剤が届きました」


 柴田の言葉に皇帝ファスタ3世は目を見開いた。


「では・・・!」


「ええ、これで本格的な抗HIV療法を開始することが出来ます」


 柴田は答える。皇帝は安堵の表情を浮かべていた。

 「こじま」が到着するまでの約3週間、彼は皇帝に対して皇女を襲っている病が何たるかを可能な限り伝えてきた。日本であれば「これはウイルスの感染で起きる病気です」で一先ず伝わるが、この世界の人々にそれを伝えるのは至難の業だ。まず”ウイルス”が何なのかを説明しなければならない。

 一般的にウイルスとは「タンパク質の殻とその中に封入されている核酸からなる微小の生命体ないし構造体」であるが、これをテラルスの民に伝えるには、まずこの世界には”微生物”という目に見えない生物が数多く存在していることを教える必要がある。

 そうした苦労の末、柴田は皇帝に「テオファの体はエイチ・アイ・ブイという目に見えない生き物たちによって蝕まれており、それらによって肺炎などの症状を引き起こしている。このエイチ・アイ・ブイという小さな生き物は感染者の体液を介して他者に移り、その経路は大きく分けて”性行為”、”母親から胎児”、”感染者の体液が傷口への付着”の3つがある」という認識を持たせることに成功していた。


「テオファ殿下には、今回届けられた薬剤を用いて多剤併用(HAART)療法という治療法を行います」


「はーと・・・療法?」


「はい・・・」


 聞き慣れない言葉に皇帝は首を傾げる。

 多剤併用(HAART)療法とはAIDS治療の最たるものであり、一般的に抗HIV治療といえばこれを指す。抗HIV薬は数多くあれど、それらは大きく核酸系逆転写酵素阻害剤、非核酸系逆転写酵素阻害剤、プロテアーゼ阻害剤の3種類に分類される。それぞれの種類から1剤または2剤ずつ選び、組み合わせて同時に服用するのが、HAART療法である。

 この治療方法の最大の目的は、異なる作用経路を持つ数種類の薬剤を同時に服用することによって、HIVが特定の”薬剤耐性”を得ることを防ぐことにある。かつて抗HIV薬の開発が開始されたばかりの頃は、単一の薬剤の服用により、薬剤耐性ウイルスの出現が避けられないことが大きな問題だった。

 しかし抗HIV薬の飛躍的な発展によって、その種類と数が増えることでHAART療法が確立されると、AIDS患者の予後、QOLは大きく改善されることとなり、AIDS患者は健常者と変わらない寿命と生活を手に入れることが可能となった。さらには当初は高額だった薬価も、貧困層に手が届く値段にまで下落している。


 しかし問題は未だ残されている。1つは”副作用”だ。”薬”である以上、副作用のリスクは必ず付いて回る。副作用の出にくい抗HIV薬の開発は進んでいるものの、時には命に関わる副作用が生じることもある。”副作用で得る不利益”が”治療を進めることで得る利益”を上回った時には、治療を停止せざるを得ない。

 もう1つは”耐性”である。この世界で薬剤耐性を持つHIVが存在する可能性はあまり無いだろうが、0とは言い切れない。さらには今回の治療によって新たに生み出してしまう可能性も大いにある。もしそうなれば服用する薬剤の変更を行うのだが、一般的に薬剤耐性ウイルスは血中の薬剤濃度が低い時に出現しやすい。故に、抗HIV薬を服用している患者は、自己判断で薬の服用を止めることは絶対にしてはいけないのである。


「・・・よって以前申し上げた通り、皇女殿下の病は我々の医学を以てしても確実に”完治”出来るものではありません。”完治例”はありますが、それでこのAIDSという病を一般的に”治せる病”とするには少なすぎるのです。その為、薬剤の服用は一生をかけて行うことになることを覚悟して頂かなくてはなりません。しかし、それによって体を蝕むHIVの数を大きく減らし、健康な者と変わらない寿命と生活を送ることは可能です。妊娠については、我々が全力を尽くしてサポートすることで、母子感染の確率を大きく下げることが出来ます。

AIDSは”不治の病”ではありますが、決して”死の病”ではありません! 多剤併用(HAART)療法を開始し、その後も問題無い様に治療を続ける為、どうかテオファ殿下を2週間だけ! 我々の病院へ入院させる許可を頂きたく存じます」


「・・・」


 柴田は日和見感染症の治癒の確認と、使用する薬剤の選定、及び免疫再構築(IRIS)症候群に備える為に必要な最低限の日数を伝える。柴田のプレゼンを聞き終えた皇帝は、思わず黙り込む。その様子に柴田は息を飲む。その顔は緊張を湛えていた。

 この世界において日本の医術は、多くの場合、万病を治せる奇跡の医術と見なされている。抗生物質だけで、この世界では手の出しようがない病の多くを治せるのだから、そういう認識になってもおかしくはないが、”HIVとの再会”という予想だにしない事態に直面したことで、日本の医術を気に入り、宗教上の宗主国との関係を拗らせてまで病院を建ててくれとまで言ってきた皇帝ファスタに対し、日本の医術の限界を見せてしまったことに、彼は底知れない不安を感じていた。

 しばらくして、皇帝ファスタは ゆっくりと口を開いた。


「・・・以前、ヘアルートに娘が肺炎だと言われた時、私は頭が真っ白になってしまった。ニホン人には分からないかも知れぬが、我らにとって肺炎は、死す可能性が高い重き病なのだ」


「ええ・・・、承知しております」


 柴田は答える。皇帝の言葉、それは抗生物質のないこの世界において、肺炎を含む感染症が如何に脅威であるかということを物語っていた。その後、皇帝は続ける。


「入院のことは前々から聞いているから分かっている。今まで我儘を言って御所の中での治療にして貰っていたが、入院が今後の治療の為に必要だというのならば、拒否する道理もない」


「・・・では!」


「・・・少し待て」


 皇帝の決断、それを聞いた柴田の顔は途端に明るくなった。しかし、ファスタは彼の言葉を遮ると、1つの懸念について語り始める。


「テオファをそなたたちの医院に移しているところが、兵や文官に見つかると、アルフォンの耳に入って何かと煩いのだ。確かニホン人は”ジドウシャ”という自力で動く荷車を使うと聞いた。そなたたちも持っていたな・・・」


「・・・ええ」


 柴田は頷く。確認を取ったファスタは、彼に1つの指示を出す。


「そこでだ・・・、そのジドウシャを今日の夜中、”東門”まで持って来て貰いたい。何時もの正門(北門)ではなく・・・」


「・・・」


 柴田は頭上に疑問符を浮かべる。その後、彼は皇帝の話に耳を傾ける。皇帝が説明したことをまとめると以下の通りだ。

 リチアンドブルクのほぼ中心に位置する「皇宮」は、日本の皇居に匹敵する広大さを誇っている。その広大な敷地の中に、実際に皇室の人々が暮らす1つの巨大な”屋敷”がある。その屋敷はいくつかの区画に分かれており、それぞれに現皇帝に近しい”一家”が暮らしている。一般的に”皇帝の一家”が住まう屋敷の中心部に位置する区画を”御所”と呼び、その周辺に日本で言えば”宮家”にあたる、皇帝直下の親戚筋が住まう”間”と呼ばれる区画が点在している。

 現在、皇宮内において皇帝とは別に居を構えるのは”皇帝の弟”アルフォン=シク=アングレムとその一家が住まう”沢の間”、”皇太子”ジェティス=メイ=アングレムとその妃が住まう”虹の間”、”第二皇子”アーネスト=ジュン=アングレムが事実上1人で住まう”月の間”の3つである。第三皇子トゥオミーはまだ自分の住まいを持つ年齢ではない為、父親である皇帝と共に”御所”で暮らしており、ドナージョやテオファの様な皇女に関しては歳に関係無く、外部に嫁ぐまでは父親の住まう区画で過ごすのが皇族の決まりだ。故に”御所”には現在の所、皇帝とその2人の妃、1人の皇子と2人の皇女の計6名が暮らしているのである。

 今回、ファスタが指名した「東門」とは、その名の通り皇宮を囲う城壁の東側にある城門のことである。そこから屋敷へとのびる道は雑木林に覆われている為、夜間に屋敷の外を巡回している近衛兵たちの監視の目が届きにくい。故に古くから、この国の皇帝たちがお忍びで街に出る際に使っていたという歴史を持つ門なのだ。


「・・・文官たちが家路につき、侍女たちが眠りについた深夜に、兵が巡回している場所を避けつつ、テオファと共に東門へと向かうのだ。東門の警備は数多くいる近衛兵の中でも、私が特に信用を置いている者たちを普段よりあたらせているから、彼らに見つかることに関しては心配は要らない」


 皇帝は説明を続ける。要は、弟を含む他の皇族や近衛兵、文官たちにテオファの身柄を異教徒の医院に移しているところが見つかると、非常に面倒なことになるので、彼らの目が薄くなっている夜中の内に彼女の身柄を移したい。彼はそう言っているのだ。


「成る程、殿下の入院が他者の目に触れることを避けたい、という訳ですね。・・・では2週間後の退院時も同様に?」


「その通りだ。テオファの入院は2週間隠し通したい」


 柴田の問いかけに、ファスタは頷いた。その後、彼は自身を取り巻いている状況について説明する。


「本来ならばそなたらに、この様な真似をさせるべきではないことは分かっている。そなたらは私が招いたのだからな。だが皇族や文官、官僚、大臣の中には、教会との繋がりを重視する故、未だニホンの医術を信用していない者が多い。テオファの治療の為に、私の権限でそなたとそなたに同伴するニホン人医師は皇宮内外への出入りを自由としているが、それに対しても反発の声が大きいのが現状なのだ」


「・・・」


 皇帝の言葉を聞きながら、柴田は思い出しているものがあった。それは、皇宮の近衛兵や文官たちが、皇女の治療の為にほぼ連日ここへ通う自分たちに浴びせて来た、数多の侮蔑と嫉妬の視線である。何をして来る訳ではないが、あまり心地よいものではなかったのは事実だ。


「・・・その上で、娘をそなたらの医院へ移すことを公にしては、あらゆる方面からさらなる反発を買うだろう。これについては私の見通しが甘かった所以だ。肩身の狭い思いをさせてすまないと思っている」


「・・・いいえ、そんなことは!」


 突然、皇帝の口から発せられた詫びの言葉に、柴田は動揺を隠せない。


「今回のこと、了承して貰えるか・・・?」


 政府内での立場が微妙になってしまっている皇帝からの依頼を聞き、柴田は少し目を泳がすと、一息間を空けて口を開く。


「患者の秘密を守ることも医師の役目、断わる道理はありません。今回の皇女殿下の入院は”秘密”・・・そういう方向でいきましょう」


 柴田の返答に、ファスタは顔が明るくなる。その後、皇帝から細かい部分の指示を受け、今回の作戦における”協力者”の名前を確認した柴田は、部屋の外で待機していた田原と再び合流し、病院へと帰還。病院のスタッフたちに対して、今回の事の顚末について説明するのだった。


〜〜〜〜〜


2029年10月31日深夜 皇宮 東門付近


 草木も眠ると言われる時間帯、街が眠るその夜、皇宮の門の前に街の雰囲気にはそぐわない1台のバンが停車している。その運転席と助手席に2人の男が座っていた。


「何か・・・泥棒か誘拐でもしているみたいで、気分が悪いな」


 助手席に座る長岡は、皇女の御身をこっそりと病院へ移すという今回の任務に、何処か居心地の悪さを感じていた。


「まあ、仕方ないですよ。むしろ今回のことは陛下が我々を思ってくださってのことでしょう」


 運転席に座る荒川は、皇帝の意思を悟っていた。開院から6ヶ月、またこの国で日本人が医療活動を始めてからは約2年半、彼ら日本から派遣された医療人たちは、これまでの地道な活動を通じて多くの実績を上げ、数多の平民や下級貴族、地方貴族たちから、多くの信頼を集めてきた。

 しかし、それらの殆どはあくまで”弱者”や”末端”からの評価に過ぎず、有力貴族や皇族、中央官僚など、この国の”中枢”へ近づくほど、日本の医術や異教徒である日本人に対する偏見と差別が深く根付いており、変わることはなかった。更に、頻度は落ち着いているとはいえ、”教会”が関与していると思しき”嫌がらせ”も続いている。

 そんな状況下で、第四皇女の御身を堂々と日本の医院に移せば、自分たちがどんな目に会うのか、分かったものではない。彼はそのことを察していた。


(あの2人は上手くやるだろうか・・・)


 月明かりがバンを照らしている。荒川は自分たちを照らすその姿を見つめながら、先程車を降りて皇宮内部へと向かった2人の身を案じていた。




皇宮・御所東側2F 第四皇女テオファの部屋


 人々が寝静まった深夜、本来なら灯りが消えているはずのその部屋には、ぼんやりとした灯りが点っていた。部屋の中では1人の人影が、余所行きの防寒着に身を包んでベッドに座っている第四皇女の脇に控えていた。


「お具合にお変わりございませんか?」


 第四皇女唯一の専属侍女であるラヴェンナ=リサッカライドの問いかけに、病床の皇女は首を横に振って答える。


「ええ、心配しないで。最近はとても気分が良いの。ニホンの医術士様たちの・・・トモカズ先生やシズネ先生のお陰ね」


 そう言って微笑む彼女の姿に、ラヴェンナは一種の安心感を覚えていた。その時、扉を叩く音がする。念の為、ラヴェンナは扉の向こうにいる者の名を尋ねるが、その返答と声の色が予定通りのものであった為、程なくして扉を開ける。そこには、2人の白装束の男の姿があった。


「夜分に失礼致します、殿下。お待たせして申し訳ありません」


 そう言って柴田は頭を下げると、蝋燭の灯りが点る皇女の部屋へと足を踏み入れる。彼に続いて、折りたたみ式の車椅子を右肩に担いでいた看護師の小波が入室し、同様に頭を下げる。彼ら2人の礼に対し、テオファは微笑みで返す。


「荷の準備は、もうすでに出来ております。一月前に仰られた通りに」


 部屋に入って来た2人に、ラヴェンナは扉の脇にある1つの大きな鞄を指さした。彼女の言葉から、柴田は初めてテオファと会った時に彼女と交わしたとある会話を思い出していた。


(そういえば、治療を始めた一月前くらいの段階で、明日にも入院をお願いするかもということを言ってしまっていたな。陛下の要望で結局しばらくは、寝袋と器具をこちらへ持ち込んで在宅療法ということになっていたが・・・。

お二人は、殿下はいつか来たる入院の日を、こうして待って下さっていたのか)


 柴田は、自身が一ヶ月ほど前に発した言葉を思い返していた。その後、彼はベッドの上の皇女の方へ視線を向け、彼女に問いかける。


「ご気分はいかがでしょうか?」


「今日はとても気分が良いのです。貴方方のお陰ですね、シバタ先生!」


「・・・!」


 自身の名を呼ぶ皇女の笑みにかつての恋人の面影を強く感じてしまい、柴田は少しの動揺に捕らわれるも、彼はすぐに気を取り直し、本題へと入る。


「では、早速ですがご動座願います。こちらの車椅子へどうぞ。東階段の下では近衛副隊長のエルージュ殿が我々を待っております」


 柴田が指し示す先では、小波が、持参した車椅子の準備を終えていた。既に服も着替えていたテオファはベッドから立ち上がると、促されるままに用意された車椅子へと足を進める。




皇宮・沢の間2F 大食堂


 皇帝の弟が住まうその一画にある、本来なら来客の接受などに使用する大部屋に数多の人影は集まっていた。それはこの宮を守る近衛兵の内、約100人の兵士たちであり、その中には近衛隊長のチーリ=システーナの姿もある。普段であれば彼らはこの時間、屋敷の外部の見回りをしているか、兵舎で眠りについているはずだ。しかしこの日、彼らはとある目的の為にここに集まっていた。

 彼らの視線の先には、大食堂の上座に座る1人の皇族、そしてその隣に立つ、何やらただ者ではない雰囲気を醸し出している1人の男の姿があった。


「私は・・・”正しい”のだな・・・」


 上座に座る”皇帝の弟”アルフォンは、隣に立つその男に問いかける。男は格好こそ変わっていたが、その顔はあの密偵らしき男と同一であった。


「これは”聖戦”です。ティアムの御威光を拡げて世界に平穏をもたらさんとする我らの意思を妨げ、異教徒を贔屓する貴方の兄、そして何の疑問も抱かずにそれを良しとする彼の子供たちこそ、教皇様・・・ひいては”神”に背く”大罪人”なのですから・・・」


 男は微笑みを浮かべながら答える。彼の言葉に、周りの近衛兵たちも頷いていた。


「オリス殿の言う通りですとも、アルフォン殿下・・・いえ、陛下。このままでは、この国そのものが教皇様、そして”神”から見限られかねませぬ。神の御加護を失えば、この国は行き場をも失い、あの忌まわしき異教徒どもに乗っ取られるやも知れませぬぞ! そんな異教徒を重んじる現皇帝よりも、貴方様の方がこの国の皇帝に相応しい。それが近衛隊(我々)の総意です!」


 密偵の男(オリス)の言葉に続けて、近衛隊長のチーリが熱く訴える。


「その通りです。教皇様はさぞやお喜びになられることでしょう・・・」


 オリスの言葉に近衛たちは再び頷いた。その直後、彼は懐ろから液体が入った9本の小瓶を取り出し、テーブルの上に置く。


「・・・?」


 おもむろにその場に置かれた物体に、アルフォンは困惑する。


「これは・・・?」


「ご存じありませんか? トリトサカの毒を抽出したものでございます」


 オリスの口から放たれた答えに、アルフォンは驚愕した。彼が取り出したのは植物から抽出される猛毒であったのだ。


「・・・!? こんなもの、何に使うというのだ!」


「もちろん、此度の聖戦でございますよ・・・」


 オリスは笑みを浮かべながら答える。今回の聖戦にそれを使う・・・すなわちオリスは”兄一家を毒殺しろ”と言っているのだ。呆気に取られている様子のアルフォンに、彼は続ける。


「相手は”罪人”、しかし貴方にとっては仮にも肉親殺し・・・。此度の聖戦を成したとしても、それではアルフォン殿下に不審を抱く者が現れるでしょう。故に・・・異教徒、あの”血の穢れ”を好く者たちに”罪”を被って貰うのですよ・・・」


「な・・・」


 アルフォンはオリスの企みを悟る。周りを見れば、近衛たちはオリスの言葉に動揺する素振りを誰も見せていない。彼らはこのことを既に知っていたということだろう。


(・・・この男は真面目ではあれど、圧倒的にカリスマ性と話術に欠けるのが難点だ。”18人の長たち”の内、5人を言葉だけで説き伏せ、その他13人の長の心をも動かしつつある、あの兄ファスタと比較した時にな・・・。故に、この男がただ(・・)クーデタを起こし、ニホンとの戦争を宣言したところで、長たちは誰もついて行かないだろう。故に・・・)


 オリスは思案を巡らせる。謀略を巡らせる彼は顔こそ平常を保つも、その内面には”本来の主”に似た黒きモノを抱えていた。


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