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旭日の西漸 第3部 異界の十字軍篇  作者: 僕突全卯
第1章 戦火の予感
12/51

医師たちの日常 Special Karte1

間を開けてしまって申し訳ありませんでした。

正直、本編が進まない今回の話を出すべきかどうかは悩みましたが、「彼」の過去話をやらないと、後の彼の行動に違和感が生じることになると思い、今回の話を出すことにしました。2話ほどおつきあい下さい。

なお、医療の現場については未だかじった程度の知識なので、今回の話は不自然な点も多いと思います。予めお詫び申し上げます。

2029年10月21日 千葉県 成田国際空港


 この日、政府が秘密裏にチャーターした日の丸航空の旅客機に、日本政府のとある高官が”空路”でエルムスタシア帝国の港街・ルシニアに向かう為(正確には1度、給油の為にトミノ王国にある飛行場を経由することになる)、乗り込んでいた。


「成田は閑散としてしまったなあ・・・」


 その高官は旅客機の窓から、活気を失ってしまった第1ターミナルを眺めていた。それもそのはずである。何せ転移に伴って既存の国際路線を全て失ってしまったのだ。故に「国内線の羽田」に対して「国際線の成田」として開港し、多くの国際線を抱えていた成田国際空港は、転移後しばらく開店休業状態に陥った。

 その後、異世界の地で数々の「友好国」と出会い、新たな領土である「外地」を手に入れ、更には「在日外国人国家」が誕生すると、その中のいくつかには日本政府によって”飛行場”が建設されることになり、成田は再び国際線を持つこととなった。

 故に、今ここから出ている飛行機は、彼が向かうルシニアの様に日本政府によって飛行場が設置された「友好国」や「在日外国人国家」、及び「外地」の基地に向かう為のものなのである。しかし、現在のところ海外に存在する飛行場は7つしかなく、成田の国際線市場は転移前には遠く及ばないのが実情である。


「・・・」


 外務省事務次官の東鈴稲次は、窓の外を眺めながら今回の任務の重大さを噛みしめていた。同乗している他の役人たちも、心なしか眉間にしわが寄る。


『おはようございます。本日は日の丸航空をご利用頂きありがとうございます。この便は”日の丸航空411政府特別便・ペイズ経由ルシニア行き”でございます。お座りの際には、シートベルトを締め、手荷物は前の座席の下か、頭上の手荷物入れにお入れください。出発時刻は午前5時50分を予定しております・・・』


 CAのアナウンスが機内に響き渡る。同時にシートベルト着用サインが点灯し、乗客の役人たちはシートベルトへ手を伸ばす。


『当機は間も無く離陸致します。今一度シートベルトをお確かめください。・・・』


 再びアナウンスが流れる。直後、飛行機が動きだし、滑走路へと向かって走りだした。

 その後、滑走路から飛び上がった飛行機の窓越しに見えたのは、早朝故に人々がまだ活動を始めておらず、静寂に包まれていた成田市街の姿だった。


〜〜〜〜〜


10月22日 クロスネルヤード帝国 リチアンドブルク赤十字病院


 「こじま」のミケート・ティリス到着まであと5日、交易艦の到着を待つ医師たちは、この日も変わらない業務を行っていた。

 副院長の神崎は、検査室を訪ねていた。そこでは検査技師たちや病理医の堂本幸平が、患者から採取した組織片や細菌の観察や調査を行っている。彼らは患者から採取した体液の解析だけでなく、未知の病原菌の探索も主要な任務として行っていた。


「院長先生は何処にいるか知らないか?」


 神崎は、検査室の入口から1番近くにいた臨床検査技師の田原時政に声をかける。


「院長先生なら、先程柴田先生と皇宮の方へ行きましたよ」


 田原が答える。それを聞いた神崎の脳裏には、連日熱心に皇宮に通っている同僚の姿が浮かんだ。


「分かった、ありがとう」


 彼は礼を述べると、その場から立ち去ろうと体を振り返る。その時、田原が発した何気ない一言が彼の動きを止めた。


「何か・・・柴田先生、変わりましたよね」


「・・・! ・・・そう見えるかい?」


 診察室に戻ろうとした足を止め、含みを持たせた表情で神崎は問いかける。


「皇女殿下に対しては、妙に緊張していると言うか・・・妙に優しいと言うか。やはり相手が皇族だからでしょうか? あの人はそういうこと、気にしなさそうに見えますけど」


「・・・そうかもね」


 神崎は曖昧な返事をする。副院長の様子に違和を感じた田原は、もう1つの質問をぶつけてみる。


「神崎先生は柴田先生が日赤に来る前からお知り合いだったんですよね?」


 田原の質問に、神崎は眉間にしわを寄せると、少し間を開けて答える。


「・・・ああ。南京の戦場病院で初めて会ったんだ」


「!」


 田原は神崎の答えに”やっぱり”と言った感じの表情を浮かべる。その後、彼は更に踏む込んだ質問をぶつける。


「あの・・・ご存じならば 聞きたいことがあるのですが」


 恐る恐る、しかし確信を持った表情で、田原は本当に聞きたかったことを口にする。


「柴田先生は元海上自衛隊の医官だったことは知っていますが、以前、降格処分を受けたことがあるそうですね・・・。これは私の憶測ですが、2023年頃に各社のゴシップ誌に取り上げられていた”医官”・・・”捕虜虐待”の戦犯は、柴田先生のことではないのですか?」


「「!?」」


 田原の言葉に、神崎・・・そして検査室に居たスタッフ全員が驚きの表情を見せる。しかしそれは、会話の内容そのものに対する驚愕ではない。彼らが今まで気になって仕方が無かった噂について、ついに田原が切り出したことに驚いていたのだった。


「君は・・・人の触れられたくない所に平気で触る人だね」


 神崎は少し歪んだ笑顔を浮かべる。彼は柴田と初めて出会った時のことを思い出していた。


「あいつは名医だよ・・・。脳外科医としてなら、日本全国で5本の指に入ると言っても過言じゃない。

スタッフの不足の為に、南京では彼の手術に立ち会ったことがある。内科と外科で専門分野は違うが、あいつの腕には嫉妬心を感じてしまった程だった」


 彼が語っているのは、かつて南京を含む支那大陸の各都市に設置されていた「戦場病院」での出来事だ。東亜戦争時に、「反乱軍」の捕虜や「多国籍軍」の負傷兵、また現地の民間人負傷者など、怪我人・病人を敵味方分け隔て無く収容して治療する為に、赤十字社や各国の軍から医師・軍医や看護師を集めて作った施設である。

 当時の神崎と柴田の2人は、立場は違えども同様の理由でそこへ派遣された。2人の邂逅は南京で果たされたのである。


「東亜戦争・・・第3次世界大戦の時に、彼は反乱軍の捕虜に対してある問題を起こしたんだ。日本政府は最後まで隠匿しようとしたが、それが当時、風前の灯火だった革新メディアにすっぱ抜かれて、大戦中における自衛隊の活動に負のイメージが付けられたとして、降格処分になったと聞く」


「・・・!」


 田原の予想は当たっていた。神崎の説明を聞いていた検査室のスタッフはまたもや驚きの表情を見せる。


「ただ、それに至った過程にはあの人の身に降りかかった不幸がある。話す許可は貰っていないが、彼の名誉の為に言わせてもらおう・・・、彼に何があったのかを・・・」


「!」


 ついに神崎の口から元自衛官の過去語られる。その場にいたスタッフたちは、興味津々な様子で耳を傾けるのだった。


・・・


リチアンドブルク 皇宮


 この日も「非常勤の宮中医」として、柴田は患者である皇女テオファの元へ通う。抗真菌薬の効果により、口腔内のカンジダも消え、ニューモシスチス肺炎によるしつこい咳も治まって来ている。その為か、彼女は柴田と長岡の入室にも気付かず、ベッドの上で安眠の表情を浮かべていた。


「・・・」


 ベッドで眠る皇女の面影・・・それは目と髪の色こそ違うが、柴田にとっては「かつての恋人」の生き写しの様だった。


(まさか・・・、ここで君の顔に会うとはね・・・。亞里砂(アリサ)


 柴田は心の中でかつての恋人の名を呼ぶ。その表情は心なしか悲しさを湛えているように見えた。


〜〜〜〜〜


 この後は彼の回顧録を示す。


 2006年4月、一浪の末に防衛医科大学校に入学し、その後6年間の在学を経て卒業した柴田は、学費免除のために9年間の自衛隊勤務を義務づけられることとなった。一般大学の医学部で言うところの“御礼奉公”という奴である。彼自身は自衛隊には興味は無かったが、実家が沖縄のある離島の農家であり、実家に負担を掛けられない柴田は、最も金がかからずに医者になる方法である防衛医科大学校を選ぶ他なかった。

 彼は最初は精神科医を志し、それを意識した臨床実習や研修を行ったが、精神科の勉強と習得に励むうちに、人の精神を司る大元である脳神経系に興味を惹かれ、脳神経外科医を目指す様になった。

 そして卒業してから5年目の2017年の春、新年度の恒例行事、彼が勤めていた「自衛隊横須賀病院」に研修を終えた新人医師や看護師が入って来る。その後、繁華街のとある飲み屋で催された新人の歓迎会を終え、職員たちは家路へ付く。柴田は1人の男と並んで歩いていた。


「今年も可愛い子いたなあ! 最近の子はレベル高いや!」


 そう彼に話しかけるのは、防衛医科大学校時代の柴田の同級生で、当時の彼の同僚だった武崎昭吾だ。軽い性格ですぐこういうことを口走る。この時は酔っていたせいもあって一段と饒舌になっているのだろう。


「若い子を贔屓すると、婦長さんの目が五月蠅いぞ」


 規模が大きな病院になるほど女性看護師も増える。全員が善人なら良いがそういう訳にもいかない。医師が看護師を露骨に贔屓すれば、その看護師が他の看護師から何かしらの嫌がらせを受けることもままあった。5年間の病院勤務でそういう現場を何度か見てきた故に、柴田は武崎に発言を自粛する様に求めた。


「分かってるって〜! 頭硬いな〜、トモカズくんは〜!」


 武崎はいかにも分かっていない顔で答える。彼は次の日、二日酔いで欠勤し、厳重注意を受けることとなる。

 そして、新人たちが入ってきてから1週間後のある日、カルテ室でとある患者のカルテを探していた柴田の元に、彼女(・・)が現れた。


・・・


2017年4月某日 自衛隊横須賀病院 カルテ室


 この日、柴田はとある患者の紙カルテを探していた。そんな彼に近づく人影があった。


「貴方が柴田先生ですね! お話は伺っております!」


「・・・!?」


 突然の声に驚き、柴田はしばし思考がフリーズする。彼の視線の先には端正な顔立ちをした新人看護師の姿があった。


「・・・そうだけど、君は確か」


「はい! 先日この病院に来ました、看護師の唯川亞里砂と申します!」


「・・・」


 彼女は何とも明るい声と表情で答える。彼女、唯川亞里砂はこの年から横須賀病院に勤務することになった看護師の1人だ。防衛医科大学校看護学科の卒業生で柴田や武崎ら、2006年度入学生から見て5年後輩にあたる。彼女は所謂、オペ看と言われる看護師であり、”器械出し”や”外回り”で手術における外科医の補佐を行うのが仕事だ。


「分からない所があったら聞きに来ても良いですか!?」


 病院勤務のいろはを学ぼうと、唯川は先輩である柴田に質問の可不可を問いかける。しかし、上目使いで話しかけて来る満面の笑みとも言うべき彼女の顔は、柴田の目には作った笑顔に見えた。


「・・・ああ」


 彼女の問いかけに彼は素っ気ない返事を返した。唯川亞里砂と名乗った若い女性は、柴田の返事にこれまた嬉しそうな表情を浮かべると、一言”ありがとうございます”とお礼を言いながら頭を下げ、足取り軽い様子でカルテ室を去って行く。


(・・・何だ、あいつ)


 彼の、彼女に対する第一印象は“軽率そうな女”だった。


・・・


2018年6月


 それから時は経ち、1年が経過したある2018年6月のある日、1つの事件が起こった。

 それは、横須賀市内で発生した「花火工場の爆発事故」・・・この年の「よこすか開国祭」で打ち上げるはずの花火の暴発が招いた大惨事だ。全国ニュースにもなり、原因は大元の工場がほぼ跡形も無く吹き飛んでいたため、不明のままで終わったが、テロ説が飛び交うなど世間を大いに混乱させた。

 火薬の爆発による衝撃波は周辺の家屋を襲い、その爆炎は工場で働いていた従業員21名を残らず飲み込んだ。生存者はすぐさま市内各地に点在する大型の病院へ運ばれ、各地の大病院や消防署は人命救助の為に奔走することになった。




自衛隊横須賀病院 救急救命室


 自衛隊横須賀病院が救命救急センターとして指定された2018年に、3次救急を行うための設備として新たに設置されたばかりの救急救命室(ER)では、いずれかかってくるであろう電話に備え、救命医や看護師たちが待機していた。


「南消防署西分署から負傷者4名の受け入れ要請!」


 電話を取った看護師が、受話器の向こうから届いた救急隊員からの要請を伝える。臨時ニュースを見て、すでに状況を把握していた救急救命室のスタッフたちは、ついに訪れたその一報に一斉に立ち上がる。


「受け入れろ! 直ちにこちらへ来るように言え!」


 救急救命室室長の香月渡は、受け入れOKの指示を出す。救命医や看護師たちは、4名の重傷患者を受け入れる為に、急いで機材や器具、病床の準備に取りかかるのだった。



『9319コールです! 9319コールです! 院内の医師は直ちに救急救命室(ER)へ向かってください!』


 病院内に緊急事態発生を伝えるアナウンスが響き渡る。ちょうどシフトを抜けていた為、手が空いていた柴田と、彼と同じ脳神経外科医の獅子尾は救急救命室へ向かっていた。周りでも所属する部署や科を問わず、手が開いている医師や看護師たちが、一路救急救命室へ向かっていた。



 柴田と獅子尾が救急救命室へ着くと、すでにそこには4人の緊急患者が運び込まれていた。


「柴田先生、獅子尾先生! 良かった、ちょうど呼びに行こうと思っていた所だったんです!」


 救急救命室所属の看護師が、ほっとした表情で2人に近づいて来た。どうやら今回は招かれざる客ではなさそうだ、2人がそんなことを考えていると、看護師の後ろから救急救命医の香月が出て来る。彼は血相を変えて2人に現状を伝えた。


「爆発時の頭部強打によって急性硬膜下血腫の患者が2人いる! 柴田先生、獅子尾先生頼みます!」


「「!」」


 急性硬膜下血腫・・・脳挫傷に伴う出血によって、脳の表面と硬膜との間に血液が溜まることで起こる。死亡率は高く、多くの場合は脳挫傷を伴っている為に例え助かっても何らかの障害を残すことがある。


「・・・まずいな」


 柴田、そして獅子尾は焦っていた。今回の2名の患者は、爆風に吹き飛ばされた際の頭部の強打による脳挫傷に伴う急性硬膜下血腫だ。恐らくは緊急手術を行わなければ助からない。2人は看護師から緊急CT画像を受け取り、血腫の位置を確認する。


「血圧78/42及び75/39、脈拍70及び68、両者とも呼吸は弱く出血に伴うアシドーシス有り・・・現在輸血を流しています」


 看護師は患者2人のバイタルサインについて説明する。明らかに多量の出血による症状が現れていることが見てとれる。


「頭蓋内圧は?」


「今の所、開頭手術が出来ない程の内圧亢進はありません!」


「「!」」


 獅子尾の質問に対する看護師の答えによって、2人の腹は決まった。柴田、そして獅子尾は振り返ると、彼らと同じく救急救命室に集まっていた看護師や医師たちに指示を出す。


「今すぐ緊急手術だ! こっちの患者を第二手術室、向こうは第三手術室へ! 麻酔科の先生に手が空いている人が居れば、2人、4階へ来る様に伝えて!」


「はい!」


「オペ看は繁道と・・・唯川が手が空いているはずだ! この2人も今すぐ第二、第三手術室へ向かわせろ!」


「分かりました!」


 2人の指示を受けた看護師や医師たちは、蜘蛛の子を散らす様にしてその場から立ち去って行く。その後、患者と共に第二手術室へ向かった柴田の元へ集まって来たのは、彼より20歳年上であった麻酔科医の田淵水樹と、オペ看の唯川であった。更には第一助手の天童と臨床工学技師の二村を交えた計5人で、緊急手術が開始されることとなった。




4F 第二手術室


 手術室へ集まった5人のスタッフたち、彼らの目の前には、全身麻酔をかけられ、頭部をテープで固定されている1人の患者の姿があった。別室の第三手術室では、すでに獅子尾医師がもう1人の患者の手術を始めていたことだろう。

 彼らが担当する患者は42歳の男性で、今回の事故が起こった花火工場の副社長を勤めていた男だった。意識は元々無く、運び込まれてから数度のけいれんを起こしている。恐らくは脳挫傷の症状だ。


「・・・」


 一回深呼吸をする。手術用手袋の具合を確認するために手を二回握りしめる。手術前のルーティンを済ませた柴田は目を見開き、口を開く。


「術式を始める。右側頭部を切開し、血腫を取り除いた後に出血部位を確認、止血へ移る」


「「!」」


 術式開始の宣言、彼の言葉を合図に他4人の意識も変わる。唯川からメスを手渡された柴田は、手術部位へと第一刀を入れる。

 彼が唯川と共に手術に当たった回数は、すでに10回を越えていた。初めこそ彼女に対しては軽率そうな奴だと若干見下した印象を抱いていた柴田だが、仕事を共にすることで、彼女のオペ看としての技能が若くして非常に優秀なものであることに気付いた彼は、認識を改めていた。


「頭皮クリップ!」


 柴田は次なる器械を要求する。唯川は即座に求められたものを手渡す。

 頭皮を切開すると、頭蓋骨を覆う筋肉や腱膜が現れる。複数個の頭皮クリップで皮膚を挟み込み、皮膚の止血を終えると、作業は頭蓋骨の除去に移る。腱膜や側頭筋の一部を剥離し、側頭部の頭蓋骨を露出したのちドリルで穿孔、頭蓋骨に開けた(バーホール)から頭蓋骨の裏に付着している硬膜をはがす為の硬膜剥離子(スパーテル)を差し込み、硬膜をはがす。


電動ノコギリ(クラニオトーム)


 硬膜の剥離を終えると、ついに脳を露出させる為の頭蓋骨の除去に入る。手渡された電動ノコギリで頭蓋骨に開けた(バーホール)同士を切って繋ぎ、術野を覆う頭蓋骨を骨弁として頭蓋骨全体から取り外すのだ。

 頭蓋骨を取り外すと硬膜が露出する。本来なら綺麗な白であるはずの硬膜は、その下の血腫のせいだろうが、心なしか黒ずんで見えた。


「・・・」


 硬膜を開き、血腫へ至る為に柴田はメスを近づける。ついに病巣へたどり着こうとしていたその時・・・


プルルルルル!


「「!」」


 突如、手術室に電話がかかって来た。もしや新しい患者では・・・そんな予感に囚われ、室内にいる5人が緊張する中、臨床工学技師の二村が受話器を手に取る。


「はい・・・こちら第二手術室。え・・・あ、はい。居ますが・・・。いえ、今本人は手が離せる状態ではないので、私が代わりに伝えます・・・」


 二村は電話の向こうの声に頷きながら応答する。4人はそんな彼の様子をやや不安げに眺めていた。


「・・・え!? 何ですって!?」


「!」


 手術室内に響き渡った二村の叫び声に、柴田、唯川、田淵、そして天童は思わず体を震わせる。その後しばらくして受話器を耳から離し、電話を切った二村の顔は、悲痛な表情を浮かべていた。


「・・・」


 そこから読み取れる芳しくない何らかの事態と、これ以上ないほどの嫌な予感が彼らの体を包み込む。


「唯川さん・・・今、共済病院から連絡が!」


 電話の主の目的は唯川への連絡であった。二村はその内容について彼女に伝える。


「祖父が・・・危篤?」


「ええ、爆発した花火工場の近くにいたらしく、爆風で吹き飛ばされた破片が頭に直撃したそうです!」


「!?」


 唯川に伝えられた事実、それは彼女の祖父が爆発事故に巻き込まれ、重体となっているという知らせであった。唯川は顔を青ざめており、他の3人もあまりにも酷なその内容に驚きを隠せない。


「・・・オペ看は他には居ないのか?」


 わずかな沈黙の後、そう口を開いたのはこの手術室内で1番の年長者であった麻酔科医の田淵だった。”祖父に会うために共済病院へ向かうだろう唯川の代わりに成り得るオペ看は他に居ないのか”と、彼は聞いていたのだ。


「ほとんどの看護師が、従来の業務から手を離せませんし、手が空いていたわずかなオペ看は救急救命室(ER)に回っています!」


 第一助手の天童が答える。重傷患者が一気に4人も入って来ている今、病院内は人手がぎりぎりの状態であった。


「・・・仕方ない。天童、器械出しに回って貰えるか?」


 彼の答えを聞いた柴田は、第一助手の天童にオペ看の代わりを依頼する。第一助手が器械出しに回れば、執刀医である柴田の負担はもちろん増えるが、元々術野が狭い脳手術にはあまり人手は要らない為、自分1人でも何とか出来るだろう。彼はそう考えていた。


「・・・分かりました!」


 少し間を開けて天童は答えた。彼の返事を聞いた柴田は唯川の方を向く。彼女は未だ心ここにあらずといった様子だった。


「聞いたろ? ここはもう心配要らない。早く共済病院へ・・・!」


 柴田は唯川に、危篤の祖父に会う為に手術室から立ち去る様に述べる。例え人手が足りなくなろうが、肉親の命が危ないとなれば、彼女をその場に立ち会わせてあげたいと思うのが人情というものだ。


「・・・」


 しかし、落ち着いた様子の彼女の口から出た一言は、彼ら4人の予想を大きく超えるものだった。


「・・・嫌です!」


「・・・何!!?」


 唯川の返答に柴田は思わず叫ぶ。”拒否”・・・彼女が露わにした感情、その決断に他の3人も目を見開き、驚きを隠せないでいた。


「患者が目の前にいるのに! ここを投げ出す事なんて出来ません!」


「っ・・・!」


 唯川の言葉に、柴田は驚愕と呆れの感情を抱いた。彼女はあくまでも”看護師”として、”今向き合っている命を救うことを優先する決断”をしたのだ。

 しかし、それが”看護師”としていくら正しい決断だとしても、1人の”孫”として”祖父の危機に向かわないという決断”は間違っている。もしこれで、肉親の身に万が一のことがあれば、底知れない後悔の念に駆られてしまうに決まっているからだ。


「何を言っている! お前は早く出て行け!」


 何とか唯川を彼女の祖父が運び込まれているという共済病院へ向かわせる為、柴田は強い口調で彼女に出て行く様に訴える。天童と二村は、新人看護師と医師との衝突を不安げに見ていた。


「いくら術野が狭い脳手術とは言え、急性硬膜下血腫の手術(オペ)を柴田先生1人でやるなんて、あまりにも負担が大きすぎます!」


「大丈夫だと言っているだろ! 早く行け!」


「嫌です!」


 言い争いを繰り広げ、両者は衝突する。直後、そんな彼らの様子を見ていた麻酔科医の田淵が、保っていた沈黙を破り、唯川に語りかける。


「・・・唯川さん。あんたは若いから後先を考えないことが出来る。それは若者の特権だよ。だがね、肉親に関わる大事は、万が一のことがあったら一生後悔することになる。それが両親・兄弟・祖父母だったら尚更だ。その後悔を一生背負って行くには、お前さんは少し若すぎる・・・!」


「・・・」


 一時の判断で肉親を看取ることが出来なかった後悔、そんな後悔の念に駆られて気を病んでしまう患者遺族を大勢見てきた田淵は、医師としての長い経験と年長者の立場からの忠告を述べる。


「分かっています。・・・でも私は今、この患者を投げ出す方が一生後悔する・・・。だから、共済病院へは行けません!」


「・・・!」


 田淵の言葉を受けても唯川は意志を変えることは無かった。頑なに考えを変えない彼女の様子に、柴田はため息をつくと、吐き捨てるように口を開いた。


「そうか、じゃあ勝手にしろ。・・・天童、第一助手に戻ってくれ」


「・・・分かりました」


 執刀医の指示を受け、天童は再び手術台を挟んで柴田の反対側、第一助手の位置へと戻る。


「・・・ありがとうございます!」


「・・・」


 唯川は頭を下げながら、柴田に礼を述べる。そんな彼女の姿に柴田は視線を向けることは無かった。彼の心の中には、再び彼女に対する侮蔑に似た感情が抱かれていた。その後、唯川がオペ看についたまま手術は続行され、手術は無事に成功。患者は手術から2日後に意識を取り戻すことになる。


〜〜〜〜〜


現在 リチアンドブルク赤十字病院 待合スペース


「・・・」


 神崎が語る柴田の過去、その内容を田原は黙って聞いていた。いつの間にか2人は、会話の場所を昼休診の為に閑散としていた待合室に移していた。田原は、天井を眺めながら煙草を吹かして過去話を語る神崎の横顔を眺めながら、話の続きを尋ねる。


「それで唯川さんのお祖父さんは・・・?」


「・・・」


 田原の問いかけに、神崎は煙草の煙を天井に向かって吹き出すと、ゆっくりを口を開く。


「そのまま亡くなったと聞いた。だが彼女は手術(オペ)が終わった後にそれを知っても、特に変わる様子もなく、翌日も普通に出勤してきたそうだ。

そんな彼女の姿を見て、周りの人達は”もしかしてお祖父さんのことを嫌ってたんじゃないか、何て薄情な人だろう”って、妙な噂を立てたらしいが、ある日、そんな彼女が無断欠勤したことがあったらしくてね・・・、近しい身内が亡くなった後に真面目だった人間がいきなり音沙汰も無く休んだもんだから、もしやと思った柴田の上司が、ちょうど代休を消費してて暇していた彼に、彼女の家に行くように連絡を取ったらしいんだ・・・」


 神崎は続きを語り始める。田原は再び耳を傾けるのだった。

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