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旦那様、紅茶のお代わりはいかがですか?

 菱川さんは眼鏡をかけている。黒縁の、フレームが少し大きめのやつだ。


 そのレンズ向こうの黒い目は、多くの日本人がそうであるように少し茶色がかっている。形は少し切れ長なぐらいで、何の変哲もない凡庸な形と色だった。今は少しだけうるんでいるようだけれど、それ以外はまったく普通で、ほとんど印象に残らないだろうパーツ。


 それでも私は菱川さんの眼がきれいだと思った。思わず惹きつけられてしまうような、きれいな目だ。昨日には気づかなかった。


 いつか何かの本で読んだことがある。人が恋をするとき、その感情は目や脈に現われる。瞳孔は開き、脈が速くなる。目は口ほどにものを言う、という言葉がある通り、目は感情を訴えかけるのだ。


「僕と結婚を前提にお付き合いしてください、梢さん。きっと大事にする。だから梢さんの人生を僕にくれないかな? もちろん梢さんが大学を卒業するまで待つ覚悟はあるよ。考えてみてくれないかな」


 私はこの人にどう見られているのかな。菱川さんが私に向けている目以上の「何か」が私の目に現れているのかな。例えば、情熱、とかね。言うのも恥ずかしい言葉だ。


 まるで現実世界から切り取られたように、空気が停滞している。菱川さんが私の返事を待っているからだ。


 一種のけじめなのかもしれない。


 始まりが少しばかり一般的でなかった。私が「愉快な旦那さん」が欲しいと言って、それは僕ですよ、と菱川さんが言った。でもそれだけじゃ、本当の付き合いは始まるはずがない。私も菱川さんも互いに付き合おう、結婚しよう、とはっきりと口にしたわけではなかった。合意を確認しなければ、全部ふわふわと曖昧なままで終わってしまうぐらい脆いものだった。


 だから、菱川さんは真剣に私のことを考えてくれている。私が菱川さんを信じられるように、全力を尽くしてくれていると思うのだ。


 私はこの人を信じられるのだろうか?


 正直に言えば、わからない。私は菱川さんのことをあまりにも知らなさすぎる。もちろん、菱川さんにとっての私も同じことだろうけれど、菱川さんはそれでもいいと思って、私の「愉快な旦那さん」になることを申し出たんだろう。


 なので答えは「信じたい」になる。私は、菱川さんを信じたい。


 ぐるぐると考えたあと、私はようやく口を開くことができた。自分でも頭がぐちゃぐちゃで、言葉がつっかえつっかえになってしまったけれど。


「わ、たしには、今誰も、家族がいません。だから今、一番欲しいものと言われたら、家族って答えます……。菱川さんが、私の家族になってくれますか」


 菱川さんの強張った頬がほっと緩んでいく。すぐに笑みを形作った。


「うん、そうだね。……僕は君の旦那さんだからね」


 目の下を優しく人差し指で拭われてからはじめて、私はまたもぼろぼろと泣いていたことに気づいた。昨日今日と泣いてばかりいたら、私が泣き虫みたいじゃないか。


「梢さんは涙もろいのかな」


 ほら言われた。きっぱりと横に首を振れるぐらいに否定しますよ。でもまぁ……この状況では信じてもらえないだろうなぁ。


 菱川さんはできる人だった。すぐさま鼻がセレブになれる高級ティッシュを一枚差し出してくれる。私は遠慮なく鼻をかんだ。鼻水が垂れてきそうだったのでやむをえなかった。 


 気づけば菱川さんが向かい側から私を見つめている。


「ほんと、可愛くて困るよ。ね、梢さん」

「ふうんっ!」


 まさしく鼻水が出そうになったところに奇襲をかけられ、間一髪でティッシュバリアーを発動させた。危うすぎる。代わりに鼻にかかったような変な声が漏れたけど。


 今度は別の意味で涙目になった。ひ、ひどい……。

 恨めしげな顔になっても仕方がないと思うの。


「せっかくだし、このチョコとクッキーも全部食べていって。紅茶も冷めてしまったから淹れなおすよ」


 それで私の機嫌が直るとお思いで……うん。クッキーがサクサクほろほろで、ぶっちゃけ美味でごじゃる。紅茶もいい香り。う、うむ、苦しゅうない、苦しゅうない。許してしんぜようぞ。


 さながら私は菱川執事を従える梢お嬢様、いや、菱川侍従を従えた梢麿こずえまろ。出されるままに美味じゃ美味じゃと平らげる。……気づいたら、そうなっていたよ。なんといっても、お菓子の魔力にやられた。これもチェコの魅力なのかしら、いざ旅立たんチェコ共和国。美味しいお菓子があなたを待っている――あれ、私はチェコの回し者?


 ……逃避してました。現実に帰ろう。一番の原因は、菱川さんがあまりにも自然な動作で給仕をしていたからだと思う。かゆいところまで手が届きそうな采配だ。皿が遠いなと思えばこちらに寄せてくれ、紅茶が欲しいなと思うと淹れられる。鼻をかみたいなって思えばティッシュが差し出される案配だ。うーん、この手際の良さはやっぱりまだ謎のままかも。元々気遣い屋さんで、器用な人なのかな?


 じいいいいいっと見てみた。


 するとじいいいいいっと見返された。負けた。自分の方が恥ずかしくなった。顔が見られません。

 聖母様の微笑みに私は弱い……。


 


 一つ分かった。菱川さんを相手にすることは、羞恥心と戦うことと同義らしい。



 





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