「無欲」な彼が知るささやかな事実。
欲がないと人から言われる。
そんなこともないはずなのだが、不思議とそう評価されるのが多いということは他人にはそういうふうに見えているのだろう。
穏やかだとか、薄味だとか形容できる顔は無害な人間に違いないと思い込まれやすい。その点で接客業や営業は結構向いているのだろうが、もっと自分の手で手広くやりたい思いはあった。
百貨店の外商も悪くはないが、やはり組織に属する中ではやれることにも限度がある。
それにやりたいこともあった。
父が道楽で始めた店舗部門。かつてバックパッカーでの世界一周を成し遂げたことを自慢する父親が買い漁った民芸品や骨董、雑貨を売り出したものだが、どう考えても会社のお荷物だ。
客は棚に所狭しと押し込まれた商品をまさしく「発掘」しなければならず、値段さえついていないものまである。
よくよく見れば面白そうなものもあるだけにもったいなかったのだが、片付け下手で小売業に疎い父に任せるよりは自分で段取りする方が効率的だという結論に至るまではさほどかからなかった。
それからしばらくして仕事を辞めた。考え直してくれと上司に惜しまれたのはありがたい話だが、それなりに夢と希望を持った門出であったので躊躇う理由はない。
だから彼――菱川公人が今の職業についたのは徹頭徹尾、彼が望んだからであって、そこには彼なりの欲がある。
無欲だとか言われると、本人は首を傾げるのだが、どうにも他人には伝わりづらいらしい。
長年の友人の男は「いつもしれっとした顔で何でもできてずりい奴」と言うが、それは逆に特に秀でたものがないと言い換えられるはずだ。
友人が迷いなく「柔道をするのが楽しい」と言い切るのと違い、彼には特別好きなものも嫌いなものもなかった。高校時代まで野球を続けていたが、あれはキャッチャーとしてチームを勝たせることを一番に考えていたのであって、野球そのものはどうだったかというと、かなり疑問だ。
同様に男女交際にも積極的になれなかった。世の中には色々な女性がいるけれども、その誰もが自分の琴線に引っかかってこない。大学生時代には似たような女性がたくさんいるように見えて困った。話しかけられても人違いしてしまうぐらいにはひどかった。
例の友人は「ひでーよ!」と赤ら顔でビールをあおり、
「もうあれだな、コージンは出家した方がいいんじゃね? ほら比叡山とか高野山とかあるじゃん」
「いやうちは浄土真宗本願寺派だから行くなら西本願寺だけど」
あと浄土真宗の僧侶はほかの宗派と違って肉食妻帯が可能なのだが、この友人にとっては西本願寺も東大寺も延暦寺も金剛峯寺も全部ひっくるめて「僧侶」というくくりに放り込んでしまうに違いない。今回比叡山と高野山が出てきたのはたまたまニュースでパワースポット特集が流れていたというだけだ。彼には悩みがなさそうで結構なことである。
「お前、つまらんやつだよなぁ」
無神経な一言を吐き、こたつでごろ寝する大熊。この大熊は時々、的を射たことを言う。
菱川公人という男は何の変哲もないごくごく平凡な男だ。この際、あだ名が「坊主」だ、「賢者」だと付けられても仕方がない。
もしもこのまま自分に人生の春が来なかった場合、潔く出家してしまおうか。その方が色々とすっきりしそうなので、本気で検討してみてもいいかもしれない。――半分冗談だったが、そんなことも考えたこともあった。
その年の秋は久しぶりに金木犀の香りを嗅いだ。卒業して働いていると季節の実感もなかなか得られないのだが、その日は出張帰りに大学図書館で本を借りようと緑豊かな母校のキャンパスを歩き、その歩道の傍らにオレンジの花を付けた金木犀を見つけたのだ。本当は実家の庭にも植わっているはずだが、意外とこういう時でなければ気づかなかったりするのが不思議だ。
本を借り、図書館横のカフェで暖かいコーヒーを一杯飲んでから店へと向かう。今の肩書は店長でもあるので、一応店内の様子を見ておこうと考えたのだ。
途中、六車線の横断歩道前に、大学生らしい女の子が立っていた。黒のミディアムヘアで、パステルカラーのカーディガンとひざ下のスカート。そこは今時の女子大生らしいと思うが、背負ったリュックサックは飾り気のない黒一色で大きく、サブバッグを肩から重そうに下げている。うつむいた横顔からは、まるで彼の存在に気が付いていないようだ。しかも化粧で誤魔化しきれないほどに青ざめている。
さすがに心配になりつつも、歩行者信号が青になるのを待つ。ほかに誰もいなかったから、彼は気兼ねすることなく、彼女を観察した。美人というよりは可愛らしさが勝る女の子が、妙に気になった。
その時、ブーン、と大きな音が近づいてきた。青いスポーツカーが派手なファンファーレを奏でて走って来る。運転が荒そうだと思った時、横の身体が、ぐらりと傾いたのが見えた。方向は前へ。――スポーツカーの前に飛び込むように見えた。
「危ない!」
すべては一瞬であった。彼は心底叫び、手を伸ばして、彼女の身体を渾身の力で引っ張り、自分の方へと引き寄せていた。車が通り過ぎた後になって、腕の中の身体がびくりと震える。
「す、すみません! ぼうっとしていたみたいで……すみません!」
伏し目がちにぺこぺこと頭を下げた彼女は、直後に信号が変わると一目散に逃げだした。重そうな荷物を持ってのバタバタと音を立てているような全力疾走だった。よほど恥ずかしかったのだろうか、その顔は耳まで赤く染まっている。
その後ろを彼は歩いた。彼女が走り去っていったのは彼が向かうのと同じ道だったからだが、それはとても都合がいいと思う。
店の前まで来ると、さすがについていくのをやめた。ストーカーと思われてはかなわない。
ただ、これからはもう少し店の外にも注意を払うことにした。
よく観察してみれば、彼女は意外と店の前を通っていた。大学か、そのすぐ傍の地下鉄の駅か。毎日のように通っていく。この頃には店内の商品の七割ほどが片付きつつあったので、店の奥に配置した作業机からわずかに見える外を眺めることが日課になった。
秋、冬、春。
彼女はほとんど毎日通っていく。いつみても、彼女には生気がない。顔には深い影があり、なかなか消えることはなかった。感情に乏しいタイプかと思いきや、そうでもない。怒っている時や苛々している時は口元を強く引き結んで、肩で風を切るようにして歩く。少し上機嫌の時はちらちらと周囲を見渡しながら歩く。何度か目が合ったのだが、慌てて逸らされてしまった。
奥手なのかもしれない。そう考えると少し楽しい。いつ話しかけてみようか。
タイミングをはかっている五月の下旬に、当の本人が店の方へと真っすぐやってきた。迷いながらも入り口をくぐる。最初に話しかけるのはもちろん彼しかいない。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
まずは慎重に距離を取らなければならない。そして徐々に縮めるためには、印象第一。なるだけ無害で無欲そうな男に見せなければ。あわよくば、という下心をさらすのはもっと先でいい。
自分なりの渾身の笑みを見せると、彼女は落ち着かなさそうにしながらも、あれこれと考えているようだった。彼としてはいくらでも待っていたっていいのだが。
彼女はぽろっと零した。
「旦那さんが、欲しい、です……」
「どんな旦那様をお望みですか」
表向きには冷静に見えただろうが、そんなこともない。
旦那さんが欲しいというのなら、ここにいた。もっと彼女のことを知りたくてたまらない男が一人。だが。
「え、えっと……。愉快な、旦那さん?」
彼女の注文には「愉快な」と枕詞がついてきた。自他ともに認める「つまらない男」はこの時脊髄反射的に決意する。
目の前にいる女の子を笑顔にできるような「愉快な旦那さん」になろう。
精一杯の虚勢を張って、こう告げるのだ。
「僕が、お客様のお探しの『愉快な旦那さん』です」
これが、本当の始まりだった。




