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そうして火蓋は切られた?

 菱川さんの言うとおり、正月1日と2日はテレビを見たり、初詣に行ったりしてゆったりと過ごした。心身ともに休みモード突入したという感じだ。たまに半裸でうろうろしている悠くんを視界に入れないようにするぐらいで、あとはモモを構い倒す。おばさん曰く、最近はリンゴをむいた皮の部分が好きらしく、よく食べているんだそうな。


 私もおばさんから皮をもらって、モモに与えてみる。確かに食いつきがいつもよりいい気がする。

 手の中のリンゴの皮がなくなると、モモは自分の寝床の毛布を「よいしょ、うんしょ」と整え始め、やがて私に黒い背中を見せながら丸くなった。


 思わず触りたくなってしまうような丸みを帯びたシルエット。時々、頭だけ動かして私の方を見つめている。この魅力は一体なんだろうと考えていたら、ゴヤの『裸のマハ』的なものだと気がついた。ああやってモモは無意識のうちに私を誘惑しているのだ。小悪魔さんめ。


 しかしながら3日の朝。散歩につれていったところ、モモの毛並みが乱れている。特に人間でいう太もも辺りの毛が浮いている感じだ。何だろうと思って、その部分の毛を触ってみたら……黒い毛並みに隠れ気味だった白い毛がごっそり取れた。


 え、何これ。ストレス禿げではないよね。冬毛が抜けただけだよね。抜けるの、早すぎないかな?


 私の心配をよそに、モモはとことこと普通に散歩から戻り、用意したドッグフードを完食した。


 毛がごっそり抜けたことをおばさんに言えば、


「まあ、今年の正月は暖かいからねえ。モモの身体はもう春が来たーってなってんのやろ」


 そんなものなのかもしれない。ただ、その言い方だとうちのモモが若干アホな子のように聞こえる……。

 私とおばさんが会話している間にも、くわっと大口開けてあくびしているぐらいなんだから、取り越し苦労なんだろうなぁ……。







 お昼食べたぐらいのタイミングで菱川さんから、『もう少しで着くよ』とメッセージが来たので家の前まで出てきた。


 なぜか悠くんまで着いてきた。いつものジャージやスウェットよりは幾分かましな格好をしていたけれど、見るからに裾がすり切れたジーパンを穿いているのはどうなんだろう。……どうなんだろう(二度目)。


「あの、悠くん。すごくやりづらいんだけれど」

「まーまー、気にするもんじゃないて」


 電信柱に寄りかかった悠くんは腕まで組み、キザっぽい雰囲気を醸し出そうとして失敗していた。なぜなら、悠くんはどう踏ん張っても二枚目ではなく、三枚目だから。余計なことばかりべらべらしゃべる。


 そもそも今回急にこんなことになったのは、半分ぐらい悠くんに責任があるんじゃなかろうか。

 普通は、私から言うのが筋なのに。


 自分であれやこれや色々考えているところに、無遠慮に踏み込んでくる感じなのだ。……無神経すぎる!

 そんな性格で浮気までするなら、そりゃ恋愛も長続きしないんじゃないの、と言いたくなるけれど、そこは我慢。


「……悠くんって、いくつだったっけ?」

「えとなあ、二十九やった気がする。梢ちゃんはもう二十……?」

「二十一だよ」

「大人になったなあ。確かに、彼氏の一人や二人はできるわなあー」


 しみじみ、ではない。ねっとりした言い方。セクハラ親父めいているよ。うちのおじさんだって、そんな言い方しないと思う。


 ――まあ、いいや。


 無理矢理心を切り替えていると(諦めたとも言う)、見覚えのある車がやってきて私の前に止まった。

 わんわん、と家のガラス窓からモモがけたたましく吠えた。


 私は開いた車の窓の外からその人と目を合わせた。

 その人は私の顔を見ると嬉しそうに笑って、


「あけましておめでとうございます」


 と、すがすがしいまでの新年の挨拶をされたので、思わず私の方も、


「あけましておめでとうございます」


 車の窓にぶつかる勢いで一礼した。


「あの、一応車庫にスペースがあるので、こちらに止めてください」


 車一台分のスペースを指しながら言うと、菱川さんは一つ頷いて車を動かす。

 その間に悠くんが私の隣に並んだ。なぜか震える声で、


「あれが、彼氏やよな?」

「……うん、まあ、そうですよ」


 気恥ずかしくてそっと悠くんから視線を外す私。


「悠くん、急に何?」

「いや、なんかさ……俺、負けてる男として負けてる。やべえ」

「男として?」


 よくわからないことを言い出した悠くんは急に身体を縮こまらせて、寒いからお先ー、と家の中に入ってしまった。一体、何しにここまで来たんだか。


 車を降りた菱川さんはスーツにコート姿だった。いつも店のエプロンを着けている姿の方が見慣れているので、しっかりとスーツの上着を羽織っている姿が新鮮だ。東京駅から出てきて横断歩道を渡っていそうな若いサラリーマンを思い出す。


 うん、どう言ったらいいんだろう。どきどきする。私って、スーツ萌えの気があったんだっけ? 初めて知ったよ。


「あ、えっと菱川さん……今日はわざわざありがとうございます」

「こちらこそご招待ありがとう。……で、いいのかな。さすがに今日は緊張してあまり頭が働かないな」


 緊張すると言っているわりにはいつも以上に落ち着き払っているように見えた。ちょっと近づきがたさがある、東京駅前の若サラリーマン(できる男風)だ。私では遠目でときめくぐらいが関の山。


 そう考えると、今こうして実家まで挨拶に来てくれていることは奇跡なんじゃなかろうか。


 菱川さんを見上げながらそんなことを考えつつ、


「……私には普段通りのように見えます」

「そうかな。昔からそう言われることは多いんだけれどね」


 菱川さんが私の手を引く。私よりも大きな手は、いつもよりも体温が高く、しっとりと湿っていた。


 前言撤回。

 菱川さんだって、「普段通り」でいられないらしい。


 玄関の引き戸がガラガラと音を立てて、開く。

 土間から一段上がったところの狭いスペースに、おじさんとおばさんが並んで立っていた。おばさんはまあまあまあ、と興味津々の目を菱川さんに向けていたけれど、おじさんの顔には感情が見えない。


 おじさんとおばさん、菱川さんと私。この四人が揃った瞬間、なんとも言えない空気が漂う。


 しかしながら、菱川さんは強かった。持ち前の人当たりの良さでもって、


「はじめまして、菱川公人と申します。こちらの梢さんと今お付き合いしています。今回、もっと早くご挨拶に伺えればよかったのですが、お待たせしてしまい申し訳ありません。こちら、ささやかですがお土産です、どうぞ」


 私がしどろもどろに説明し始めるよりも早く、さらっと。

 さらっと、おじさんの先手を取った。


 隣にいる私が聞いていても謙虚さが伝わってくる口調。反射的に「いやいやいや、構いませんよ」という言葉が口をついて出てきそうだ。これが社会人の社交術というやつなのかもしれない。

 和菓子が入っているらしき紙袋をおばさんに手渡している姿は貫禄さえある。


「よう来たな。上がってけ」


 そのためかおじさんも強く出ることもなく、低いテーブルのあるリビングへと誘導した。言葉が少ないのが逆に恐い。


 しっかりと片付けられているリビングのテーブルに、おじさんとおばさんが横並びに座り、その向かい側に菱川さんと私が正座する。ちなみに、滅多に出されない上等な座布団が敷いてあった。


「圭子。お茶」

「はいはい」


 圭子おばさんはさっそく立ち上がってお茶を用意しにいった。

 

「さて。菱川さんと言ったか」


 おじさんはさっそく口火を切った。


「こずえと付き合っとると聞いた。どのくらいになる?」

「そうですね……大体半年ほどになると思います。私が働いている店に、梢さんが客として来たのがきっかけでした」


 菱川さんの一人称が「私」になった。言葉もいつもより張りがあるかもしれない。

 横をちらりと見れば、菱川さんは非常に美しい正座をしていた。知らず、私の背筋までぴんと伸びる心地だ。


「ほうか」


 対して、適当な相づちを打つおじさんはくたっとしていた。しかもすでに胡座に変えていた。戻ってきたおばさんに湯飲みを渡された時に、足を組み替えたのを確かに目撃した。


 熱いお茶がそれぞれに行き渡ったところで、おばさんも席に着く。

 するとおじさんがずばっと、


「……うちのこずえのどこがよかったんや?」


 定番といえば定番で、当事者になってみればいたたまれなくなる質問をしてきた。

 おじさんやめてほんと勘弁してください……。いますぐテーブルに突っ伏したい。身内への気恥ずかしさがピークに達した気がする。


 どこが、ということもありませんが、と菱川さんは動じた様子もなく前置きをした。

 一体何を言われるんだろう。


「今まで会った人の中で、一番傍にいたくなったのが梢さんです。初めて会った時も、きっと自分はこの人と結婚するんだろうと漠然と思いました。元々好みの女性だったこともあるかもしれませんが、それ以上に惹かれるものがありました。そうとしか言えません」


 菱川さんが私を見て、微笑んだ。私の頬が燃える気がした。羞恥のピークはまだ先があったらしい。体中がむずむずしてたまらない。


「知り合っていくうちに、どんどん好きなところが増えました。恥ずかしがり屋だったり、まじめな努力家だったり……あと意外と食べ物に執着していて、美味しい物を食べた時に幸せそうな顔を見るのが好きですね」

「ほおん?」


 おじさんが意味ありげな視線を向けてくる。私はとっさに、「おじさん……!」と咎める声を上げたが、おじさんは案の定、黙殺した。


「それで……将来的にはどうするつもりなんかな。この子はまだ学生で、しかも大学院、ってやつにも進むらしいんやけども、それまで待つつもりなんか? ここに顔出せたちゅうことは多少は本気だと考えてもええんやろか?」

「もちろんです。彼女とは最初からそのつもりで交際しています。ですが、彼女が進学したいという意志も尊重していますし、学生である彼女を数年待つぐらいは元々覚悟していたことです。好きなことに打ち込む梢さんを応援するのも私の役目だと思っています。そしていずれは結婚のお許しをいただきに改めて伺いに行きたいと考えています」


 菱川さんが、かっこよかった。

 私が進学するということは、結婚する時期もずれるということ。それなのに菱川さんは私のために待ってくれるし、応援もしてくれる。その覚悟と本音を聞いて、私はますます菱川さんを尊敬した。


 どうしよう、私の未来の旦那さんは私が思う以上に良い男すぎて困る。心は大海原より広いんじゃないだろうか。やっぱり、結婚するならこの人じゃないと嫌だな。


 菱川さんの話を聞いたおじさんが私に話を振った。


「こずえの方はどうなんや。真剣なんか?」

「……はい」


 おじさんを見返しながらしっかりと頷く。

 今までの人生でここまでおじさんの目をきちんと見た時はなかった気がする。たった一人で放り出されたかのような心細さに襲われて、ふと助けを求めるように隣を見る。ふ、と相手がかすかに微笑んだのを確認したやいなや、両膝の上のこぶしを覆うように菱川さんがそっと手を添えられたのに気づく。心臓が派手に跳ね、同時に「頑張ろう」と思った。


「おじさん、私ももう大人になりました。自分の選択には最後まで責任を持つつもりです。私から見て、菱川さんはとても素敵な男性です。……なので、その……好き、になったので……おじさんにも、応援してもらいたいです。お願いします」


 丁寧にお辞儀して、姿勢を戻してみれば。


「……圭子。ティッシュ」

「はいはい」


 目頭を押さえてうつむくおじさんと、ティッシュケースを差し出すおばさんの姿があった。

 なんだか泣いているようにも見える……。


「お、おじさん?」


 おじさんのそんな姿を目にした事が無かった私は狼狽したが、おじさんの方はくぐもったような声で、


「うるさいんや。昼間池の水をたくさん飲んじまったから、目からもこぼれちまっただけなんやでな」


 この後に及んでおじさんは冗談ともつかないような言い訳をしていた。



あと本編残り二話です

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