「お父さん」と呼んでもいいですか?
「菱川さんのお父さん」というのは、長くて呼びにくい。
以前、「お父さん」でもいいよとは当のご本人はおっしゃっていたけれども、あれから大分間が開いてしまったし、今更なれなれしく「お父さん」と呼んでもいいものなのか。時間が隔たれば、あの時の距離の近さも気のせいのように思えてきて、どうしても二の足を踏む。
しれっと「お父さん」と呼ぶか否か。それが問題だ。
測りかねた「お父さん」と私の距離。詰めるにはどうしたものか、と自問し続けて幾星霜(実際はそこまででもないけれども)。当の「お父さん」は至ってフランクに接してくれていると思う。
「最近はこの店で何が一番売れているの?」
今日も今日とて、パックご飯を大量買いされていく「お父さん」。……ご飯、まだ作ってもらってないんですね。もしもほんの数か月間の自分の壊滅的な食生活と同じような暮らしぶりだったらと思うと、何だか心配になってきた。頭のバーコードさえ無くなってしまったのもそういう不健康な生活から来ている……わけではないと思いたい。今日も素敵に輝いているので健康そのものだと信じたい。
会計のスムーズさに響かないようにしつつ、私は少し考えてから、
「そうですね。この間まではシンプルな収納ボックスが売れていましたけれど、今はクリスマス商品に、鏡餅や正月の飾りつけ、カレンダーも売れますよ。年の瀬が迫っていますから、掃除用品も売れるんじゃないでしょうか。……あとはインスタグラムで投稿されたり、テレビで放映されたものはちょこちょこ売れていきます」
「あー、やっぱりそういうものなんだねえ。公人もこの間、熱心にインスタグラムについて語っていたよ。それなりに効果があるってことか」
菱川さんが? と聞き返しかけて、目の前の人も「菱川さん」だということを思いだした。すんでのところで、公人さんらしいですね、と相槌を打つ。機械系に強そうな菱川さんのことだ、あらゆるSNSに手を出している気がする。
釣銭の値段をきっちりと確かめてから、「こちら200円のお返しになります」と「お父さん」に渡す。
後ろに誰もお客さんがいなかったからか、「お父さん」はちらっと私のほうを気にしながら、
「……公人は、三木さんによくしてくれているかい? あまり心配はしていないんだがちょっと聞いてみたくてね」
「え? ええっと、ひ……公人さんには、いつも大変お世話になっております、が」
あれ、この言い方だと、私は菱川さんの後輩か部下みたいだ。店員口調とごっちゃになってるよ。
しかし「お世話されている」のは当たらずとも遠からず。菱川さんはいつも私のペースに合わせてくれているからなあ。
あ、今度日ごろの感謝を込めて何か送ろう。ちょうど世間はクリスマス一色に染まっているし。
「お父さん」は軽く笑う。笑い方が菱川さんにちょっと似ていた。
「それならいいな。あいつは一見何でもできるようだが、色々抜け作なところもあるからなあ。もしよかったら見捨てないでやってくれ」
はっはっは、と軽く笑い声を上げながら、「お父さん」は再び去っていく。……重そうな袋を抱えて。
それからすぐに別のお客さんの応対に追われたけれど、何となく「お父さん」のことが印象に残った。まあ、理由はわかっている。
「お父さん」と呼んでいいものかどうか、会話中ずっと迷っていたからだ。
男女を隔てるのは「逢坂の関」なんてことも古典では言うけれど、人と人との距離感そのものを近づけるのにも、ある種の関を越えなくちゃいけないのかもしれない。
菱川さんは最初から関を軽く通過して、私の傍まで来てくれたけれど、大多数の人間はそういうわけではないわけでして。もっと色々話したいと考えても、もう一歩の距離が縮まらないもどかしさを感じる時がある。
うーん、難しい。
※
ところで近頃の神坂さんは無気力な様子で研究室の机で本を広げていることが多い。もう卒論を仕上げる時期だというのにその調子で大丈夫なのか、なんて思ったりもしたけれど、私が何か言う前に、自分から「今、充電中なんだよ」と言い訳がましく言っている。
「考えると頭がパンクする。だから別のことを考えようと思って」
ね、と同意を求めつつ、本の背表紙を見せる神坂さん。何があった。
神坂さんが読んでいたのは、世界一のベストセラーと呼ばれる本だった。別名『旧約聖書』。
まったく自分の専攻と関係がないという……。そもそも国が違うよ。
「今、創世記まで読み終わったから、次は出エジプト記なんだよ」
だから神坂さん、何があったんですか。なぜに聖書? クリスチャンになるつもりで?
私の疑問には答えず、神坂さんはパタン、と本を閉じ、うん、と一人頷いている。
「そういえば、私、前『恋活でもしてみようかなあ』みたいなこと言ってたでしょ?」
「言ってましたね」
「あれからよく考えてみたんだけど、来年からも私はこの研究室にいるでしょ」
「そうですね」
「この学部って女子がものすごく多いでしょ」
「まあ、そうですよね」
「この研究室でも女子が多数。男子は少ない」
「どこの研究室でもあまり変わりませんよね」
「ちなみに私はサークルなんかもやっていないし、バイト先もやっぱり女性が多いしってことを考えると……この状態でいる限り、私に出会いが訪れないということがわかったわ」
なんとも反応に困る断言の仕方をしてくれた神坂さん。自己完結しちゃっているよ。
「えーと、神坂さんは彼氏が欲しいんですよね」
恋活しようということは、つまりそういうつもりなのは間違いないはず。
「欲しい……ことは欲しいけれど。そう思い始めたのは梢ちゃんがきっかけなんだよね」
「私ですか?」
「幸せそうに見えたからねえ」
幸せオーラが出まくっていたということですか。……面と向かって言われると面はゆいというか何というか。
「あと、将来孤独死になるのは嫌だなあっていうのもあるよ」
「それは私も嫌ですよ」
素で答えれば、だよね、と同意されてしまった。
「今まで自分は自分で、他人は他人って割り切って、自分には恋愛が縁遠いものだと決めつけていたけれど、それだけだと自分の人生がとても狭いものになってしまうんじゃないかって」
まあ、私がここで悟ったところで、出会いはないものはないんだけれどね! と明るく話を締めくくる神坂さん。
神坂さんの気持ちは何となくわかる。
私だって、最近こそは違うものの、高校生活まではきれいさっぱり何もなく、世の中の高校生カップルはどうやってくっついたのだろうと首を傾げていたものだ。ほんと、気づけばくっついたり別れたりして、たまに修羅場の噂が流れてきたリしてたからなあ。
好きな人とかもちっともできなかったけれど、友達はそれなりにいたから、別段不都合のない高校生活だった。ただ、ほんのちょっと、卒業式の時に制服の第二ボタンもらえるような相手は欲しかったとは思っているけれど。もちろん、当てもなかったので私の手元にはボタンの一つも残っていない。
それでも私の前に菱川さんが現れたから、結局その時には縁がなかったということかもしれない。
神坂さんの前にも、ある日突然いい人が現れることだってあり得る。
深く付き合ううちに神坂さんのいいところをいっぱい知って、好きになってくれる人が。
言葉足らずながら私がそう言えば、神坂さんがしんみりした顔で、「梢ちゃんって……ほんと涙出てきそう」と空泣きしてみせていた。
ちょっと顔が赤くなっていたので、きっと照れていたんだと思う。貴重な姿をいただきました。




