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『キス』の味わいをご存じですか?

 言葉というものは難しい。


 たとえば時代によって変わる。現代人が平安時代の人みたいに「いとをかし~」なんて言っているのを聞いたためしがない。今に生きる私たちがタイムスリップしたところで、意志疎通がはかれないだろう。今私たちが一般に話している標準語というのは明治以後、東京山の手あたりで話されていたものを基礎にして作られているそうだ。平安京は京都にあるわけだから、イントネーションはまず間違いなく関西弁寄りなんだろう。


 さらに言えば、話し言葉と書き言葉の違いもある。言文一致だなんだの騒がれてから、まだ百年ちょっとしか経っていない。それまでどうしていたかというと、いわゆる源氏物語みたいな古文を書いていたり、教養ある人だとかっちりとした漢文で漢詩や日記をつけている。もちろん彼らだって日本人だから、漢文そのままに日本語を話していたわけもないし、書き言葉とは大きく隔たった話し言葉を使っていた。


 現代に生きている私も、言葉の難しさを外国語習得で実感させられているぐらいだ。英語塾にも通わせてもらっていたのに、その割に英語の成績が振るわなかった。きっとこれは終生の謎として、永遠に謎のままだろう。そもそも単純に日本語イコール英語で訳せない微妙なニュアンスが存在するし、もしも完璧にイコールでつなげられるなら、きっと翻訳家は必要なかったと思う。


 私見ではあるけれど、「言葉」はある概念や現象、行動などを「記号化」して誰かに正しく伝達するツールであって、それは言葉を発する側と受け取る側で同じ共通意識を持つことを前提としている。


 だから、生きている時代が違えば、多少言葉が変化してきても仕方がない。


「『徳利とっくり』に酒を入れるようになったのはまだそこまで昔の話やないらしいな。それまでは油なんかを入れていたそうや。今ではあんまりイメージないなぁ」


 言葉の変遷を調べる演習授業の中で、海野先生はご自慢の骨董コレクションたる青磁の徳利を生徒たちに回しながらそう説明している。徳利は割れ物なので、皆割れないように慎重に両手で持ちながら次の席の人に渡していく。


 私も自分の番が回ってきて、両手にすっぽり収まった徳利に見入る。大体の人が思い浮かべるような細長い楕円みたいな形じゃなくて、ぷっくりと膨れたような形で、さわるとすべすべだ。


「今だとこういう小さめの焼き物は一輪挿しにして楽しむこともあるんや。なかなかおつな話やわな」


 確かに一輪挿しはおしゃれかもしれない。そういえば、菱川さんの店でもこういう焼き物を見た気もする。骨董品系も扱っているって以前言っていたかも。


 でも、なんだかこの徳利、色むらがあるし、言っては悪いけど、いまいち骨董品らしい風格に欠けているような気も……。


 そんなことを思っていた私に、海野先生は下膨れ顔に似合わぬ邪悪な笑みを浮かべた。


「ああ、ちなみにな、その徳利は何でも十四世紀から十五世紀ぐらいの作らしいで。そう考えてみると色に深みが出てきいへんか?」


 急に両手が重く感じた。

 一言もそんなことを聞かされていなかった皆の驚きの視線が一気に私の手元に集中する。


「君もそう思わんか?」


 無言でかくかく頷いた私は、これ以上勘弁とばかりに次の人に徳利を渡した。その人も、異常なほどの時間をかけて受け取る。さきほどまでの「ふーん、こんなものなのねー」という扱いとは段違いである。かくいう私も、唐突にあの徳利の良さに目覚めた。いい味だしていたよね、特に色味が。


 海野先生はこの間も非常にいい笑みを見せていらっしゃった。なかなか味のあるおじさんである。





 最近は一気に陽が短くなった。昼間雨が降っていたからか、特に今日は早くに陽が落ちた。街灯の下、アスファルトの道路が黒光りしている。雨で落とされた葉っぱなんかもあったから、きっと金木犀の花も全部落ちてしまったに違いない。少しだけほっとする。憑き物が落ちた感じだ。この清々しさはつい先日のお祓いの効果だろうか。だったらいいな、と思う。


 ふと見上げてみれば、うっすらとかかった雲から三日月がのぞいている。

 夜の大学構内の空気は澄み渡り、冷たい風は確かに冬の訪れを前もって知らせているようだった。私は上着のボタンをしっかり留め、歩き出した。


 ゆったりと歩いていると、何だか散歩をしているみたいでうきうきした。夜の散歩、というと、優雅だけれど少しだけいけないことをしている気分だ。


 構内から出る頃に、スマホのバイブが鳴る。菱川さんからの安全確認メッセージである。



 ……何と言いますか、近頃の菱川さんはちょっと過保護気味です。家を出る時と大学やバイトから帰った時は連絡必須で、特にバイトの帰りは菱川さんの終業に合わせて送られて帰ることも多く……。さすがにあれは私が通りがかるのをすでに待ちかまえられているなというのは察している。しかしながら、私がやらかしたこともやらかしたことでもあり、何より自分が自分を信用していないので、おとなしくしていた。それに、こうやって細々と菱川さんと連絡が取れることを喜んでいる私もいたりして。


 そう思いながらメッセージを確認すると、いつもと違う文面が見えた。


『今日は早めに上がるから、迎えに行っても大丈夫?』


 えっ、とその場で声を上げた。慌てて返事を書き込む。


『今、授業は終わって帰るところですが、もう構内を出るところです。行き違いになってもいけないので、このまま一人で帰ります。心配しないでください』


 ……送ったけど、ちょっと冷たかったかな。うーん、かと言ってわざわざ来てもらうというのも申し訳ないしなぁ。


 そんなことを考えながら、再びてくてくと歩く。菱川さんのお店の前まで来た。菱川さんが待ってた。


「明日からまたしばらく出張だから、今日は早めに終わったんだよ。ここならいつも梢さんが通ると思って」


 菱川さんはにこりと笑って、私と手を繋ぐ。もしも私が通りかからなかったらどうするのだろうと尋ねれば、僕が好きでやってるからいいんだよ、と返された。徒労に終わらせることがなくてよかった。


「……今回は東京に出張でしたっけ」

「うん、そう。色々繋ぎをつけておかなくちゃいけない取引先がいくつかあって、同時に回るつもり。まあ、二三日のことだよ」


 たわいもない雑談を交わす。変わったことと言ったら、家に送られる頻度が多くなったことぐらい。

 そういえば、秋口に菱川さんに抱きしめられたけれど、なんだかんだとあったせいで、そのことについてまったく話せていない……。でも自分から話を持ちだすのも藪蛇になりそうだ。結果として、私は口を噤み続けている。非常に情けないです、はい。


 それに近頃は別のことも私を悩ませ始めている。菱川さんの口から出てきた「キス」という言葉。以前、ポップコーンの件で少しだけ触れてしまったけれど、あの唇が、と思うと、色々と意識せずにはいられない。気づけば菱川さんの口元を見つめてしまっている自分がいたりして、もうどうしようもない状態になっている。そもそも韓国ドラマの最終回周辺あたりの濃いキスシーンどころか、アニメのキスシーンにもそっと目を逸らしたくなってしまうのに。


 菱川さんの「キス」という言葉が破壊力へと繋がるなんて誰が想像したことだろう。今となっては、キス、キス……というと……クリムトの代表作「口づけ」と斜め上の回答を出したくなるぐらいである。脳裏でぱあっと世紀末らしい黄金に包まれた破滅的なカップルの姿がありありと見えてくる。あれはいい絵だ。


 まあ、でも。こんな私と違って、菱川さんは色々と経験済みなんだろうな。どこかの綺麗な大人の女の人と、とか。なんだか嫌だな。そういうのって。全然勝てそうな気がしてこない。


 もうすぐ自分の住むマンションにつくところで思い切って聞いてみた。


「……菱川さんの、ファーストキスってどんな感じでしたか?」

「ファーストキス?」


 菱川さんは不思議そうに眼を瞬かせ、ついでちょっと苦いものを口にしたときのような顔になる。


「僕としては、あれをファーストキスとは呼びたくないんだけれどね……。梢さんが聞きたいなら話すけれど、聞く?」


 ああ、やっぱり経験あるよね、そうだよね……。少し複雑だったけれど、頷く。本当はこういうことは聞いちゃいけないのかもしれないけれど、どうしても我慢できなかったのだ。


「僕の場合は、フランス留学中でね。パブで酔っぱらったフランス人の友人とだったんだけど」


 金髪碧眼あたりのむっちりとしたフランス人美女を思い浮かべた。セリフは「ボンジュール、ジュテーム」と言ったところだろうな。


「こっちは嫌がっていたにも関わらず、無理やりやられたんだよね。さすがにあれは勘弁してほしかった。しかも後で別の友人から聞いたところによると、『彼』はどうにもそっちの気があるらしくて。告白もされたけれど、断ったんだよ。……うん、相当にひどい思い出だね、あれは」

「彼、ですか? ……男性だったんですね」


 フランス人美女がフランス人美男となり、「ボンジュール、ジュテーム」と言いながら、投げキッスをするところまで思い浮かべ、なんだか菱川さんが気の毒になった。さすがに菱川さんにそっちの気はないだろうから、とても困ったはずだ。


「…………うん」


 返事までの長い時間に、菱川さんの万感の思いがこもっている気がした。


「まあ、そういうわけで、あまりいいものじゃなかったよ」


 だからと言ってはなんだけど、と菱川さんは街灯から少し離れた物陰へと引っ張り込んで囁いた。


「梢さんが、しっかりと上書きしてくれるといいんだけれどな。そうしたらきっぱり忘れられるよ」


 藪蛇だった。ものすごい大蛇が出てきた。


「え、えーと……」

「やっぱりまだ駄目かな。恥ずかしい?」

「恥ずかしいことは、恥ずかしい、ですけど……」


 私の視線は彷徨う、彷徨う。きっと黒目が旅に出そうなぐらいだった。

 でも、私の返事を辛抱強く待ってくれている菱川さんを好きなことは確かなのだ。

 だったら、と。覚悟を決めた。

 菱川さんの大きな手を握り返す。


 私だって、上書きしたい。


「お、お手柔らかにお願いします……」


 三木梢、一世一代の決心とはまさにこのことである。


「うん、了解。じゃあ、目を閉じて?」


 菱川さんはふっと笑い、眼鏡を外して——。





 

 終わった後、ふらふらの体で自室に戻った私が、まっすぐにベッドにうつぶせになって身悶えしたのは言うまでもない。


 菱川さんは、技巧派だった。






これにて秋編終了

いつも読んでいただきありがとうございます

しばらく充電期間を置きまして、冬編(仮)をお送りします


〈冬編予告〉おそらく梢さんの実家がもめそうです

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