上様、恋愛下手な私に勇気と希望を与えてくれませんか?
怒涛の一日が終わった……。
アパートの自室に戻ってきた顔からベッドに倒れこみ、手探りでエアコンのスイッチを入れた。
冷風を浴びながらつらつらと今日の出来事を思いだし……ベッドに向かってうぅー、と唸った。ほとんどが羞恥心のためだった。
――店員さんのお尋ねに焦って答えを返したら。
彼氏どころか旦那さんができました。しかもとても優しそうな。
一瞬騙されたかもと思ったら泣きました。謝られて、信用してもらえるようにすると言ってもらえて。
その人の父親にさっそく紹介されました。お父さんができました。
今日はあれやこれやと出来事が盛りだくさんだった。いつもの一日よりも十倍ぐらいめまぐるしかったと思う。主に前半部分であった、前のバイト先で塩撒かれた事件がかすむ勢いだった……。
今日という日を名づけるとしたら、間違いなく「菱川さんデー」だ。手帳にメモでもしておこうかしら。……ちなみに今日は日曜じゃありません。
ごろんと仰向けになって、薄暗い中、スマホを操作する。画面で燦然と輝く「菱川公人」の連絡先が。
――どうしよう。明日からどうやって過ごそう!
ずっと動悸しっぱなしだ。息切れもある気が。いまこそ必要、心を救うお薬。
でも何より。さっき思いだして急に恥ずかしくなったことが。
……途中で泣いたから、化粧崩れたままでお父さんにご挨拶してしまった!
これだった。間違いなく色々まずい状態だった! あれは若さで誤魔化せる問題じゃない!
「あー! あああああああああぁ!」
私は夏のミノムシ。ブランケットの妖精でもあるの。もうここから出られません。
菱川さんにも見られちゃったし……うん、これは仕方がないと諦めがつくけど……いや、つかないかなぁ。
昔お父さんが言ってたな。「鼻毛が出てたら百年の恋も醒める」って。
鼻毛は出てないはずだけど百年の恋醒めちゃったかもしれない……! はやい、はやすぎるよ……!
と、そこに。
チャララ~、チャ、チャ、チャ、チャ~。
白馬に乗った上様が出てくる素晴らしいドラマのテーマ曲が流れた。
私のスマホの着信音です。いいよね、私も暴れたい。じいやを困らせながら貧乏旗本の三男坊を仮の姿に、世の悪をすかっと成敗したいぃ~!
「……はい。もしもし」
もちろん電話に出ました。
『こんばんは。菱川です』
噂をすれば着信アリ。菱川さんだった。着信時に名前が出ていたとはいえ、ちゃんと話せるかな、声震えてなかったよね!
「あ、ひ、菱川さん……。昼間はどうも」
『うん、こちらこそ』
菱川さんは電話の声も優しげだった。聖母マリア様の微笑みが脳内に浮かぶようです……。
そして同時に思考停止してしまった私は何を話していいのかわかりません。たぶんここで何か返事しておいた方がいいと(ブラック)バイトによるなけなしの社会経験値が囁きかけている……。
すると菱川さんの方から話を振ってくれた。
『無事に家についた?』
「は、はい。今、ゆっくりしていたところで……」
嘘。ほんとはジタバタ悶えてました。
言葉がぷつんと不自然に切れてしまった。あ、私詰んだ。もうダメかもしんない。
電話の向こうの菱川さんは気にした様子もなく、さらりと私の気持ちを汲んでくれた。
『緊張してる?』
「緊張、してます」
無意識のうちにベッドの上で正座していたぐらい緊張してました。い、いつの間に!
でもこうやって男の人と直接電話するのってバイトを除いて今まであんまり機会がなかったかも……。
菱川さんは年上の社会人だから人生経験違うし余裕あるのかな。
『そっか。突然だったからね。気がせいてしまって、親父のところにも連れていったし、落ち着かなかっただろうね』
「いえ、そんな。う、嬉しかったです……」
だって、家族に紹介ってそれだけ真剣に考えてくれているってことで。うわ、羞恥心がぶり返してきた。
『うん、僕も嬉しかったよ。親父に気にいられたこともそうだけれど、僕の一方的な一目ぼれで終わらなくて済んだから。僕のことを意識していてくれてるのがわかって嬉しい』
……一目ぼれ。この人が私に? え、どういうこと?
『秘密。またそのうちにね』
答えをはぐらかされてしまった。
……あー、なんだろうこの気持ち。くすぐったいけど、顔を覆いたくなるほど恥ずかしい。でも嬉しい。落ち着かなくて困るよ。
『それで本題に入るのだけど、明日ってどこか時間空いてる?』
「時間ですか……? ちょっと待ってください」
部屋のカレンダーの曜日と手帳を手早く確認。
明日は午前と午後の各一コマで終わりで、他の予定はない。バイトも今までが散々だったからしばらく何もしないつもりだ。
一体どうしてこんなことを。ううん、時間が空いてるって尋ねてくるということは……と頭の隅で考えながら、大丈夫です、と返した。
「午後最初の講義が終わってからなら」
『だったら、それから店の方に来てもらえないかな。今日言い忘れたことがあって』
今日の明日でさっそくのお誘い。どきりとしてしまった……。今日だけで私の寿命がだいぶ削られたのではないかしら……。
それにしても「言い忘れたこと」ってなんだろう? 電話じゃ話せないことなのかな?
「わかりました。お店の方に伺いますね。三時ごろになりますが構いませんか」
『うん、まったく問題ないよ。美味しいお菓子も用意しておくから楽しみにしておいて』
なんと三時のおやつのお誘いでもあるらしい。しかも「美味しい」という形容詞がつくということは期待していいってことですか菱川さん。
私の心のボルテージが当社比1、5倍になった。ぜひともうかがわせていただきます。
ああ、なんて単純な私……。
はい、という返事が否応なくはずんでいた。
電話越しの菱川さんが小さくふき出す。
『梢さんはお菓子好きなんだね。でもできれば僕と会うことも楽しみにしていて欲しいな』
思わずスマホを取り落としそうになった、リアルで。
「ひ、ひひひひ、菱川さん!」
『ん? なに?』
絶対にこの人は確信犯だ……。
的確に私が動揺するツボを押さえにかかってると思うの。
まだ電話でよかったそうじゃなかったらと考えると恐ろしすぎる!
今回電話という媒介を使用していたからダメージは少ない。頭の中で「冷静に」と百回ぐらい唱えた私は落ち着いた。フリをした。
「い、いえ、大丈夫です。明日の三時ごろですよね、バッチリです!」
『うん。じゃあ、もう夜だし、切るよ。また明日。おやすみ』
そう言って電話は切れた。通話終了画面をちらりと見た私は、少しだけ呆然としていたと思う。
おやすみ。
メールやトークアプリのやりとりとかで使われていても、直接声で「おやすみ」と言われたのは何年振りかな……。そっか、家族や本当に親しい間柄じゃないとなかなか使わない言葉だから。
おやすみ。うん、いい言葉。
こうして菱川さんデーが終わった。