私と菱川さん、それと眼鏡?
ニードルフェルトを投げ出した。
ピンクの子豚になるはずだった作りかけのそれは、目も耳も鼻もなく、ただピンクの毛玉となって小物箱の中に納まった。ニードルフェルト用の針と発砲スチロールも一緒だ。
私には確信があった。この子豚ちゃんが完成されることはないのだと。申し訳ないのだけれど、作る理由を失ってしまったのだから。
――きっかけは、百均でニードルフェルトで子豚のキーホルダーを作れるキットを見つけた時だった。以前読んでいた小説の主人公がニードルフェルトを趣味にしていて、自分でやってみたらどんなものだろうと思ったのだ。子豚にしたのは、高校時代の友人がブタグッズを集めるのを趣味にしていたから。他大学に進学した彼女はちょうどアメリカ留学中で、次に会う時までに作って見せてみようと思ったのだ。……まあわかる通り、上手くいかなかったんだけれどね。
彼女はすでに帰ってきてしまい、つい先日会ってしまった。帰国してすぐに会いに来てくれたのは嬉しかったけれど、ニードルフェルトは完成しておらず。「その子に会うまでに完成」という目標を失った私はついに諦めてしまったのだ。
……ニードルフェルト、針でぶすぶす刺すところは楽しかったんだけれどな。細かく目鼻をつけるとか、耳を作るとかの作業があまり楽しそうじゃなかった。手芸初心者には不恰好にならないで完成させるのは難しい。胴体部分だけで満足しちゃった私は一体なんなんだ。
無駄遣いという言葉が脳裏をよぎる。確か同じ日に買った動物消しゴムも出番なく、同じ小物箱の中に入っているのを考えると、うん。物欲は抑えるべきだと実感する。
自分の罪悪感を取り除くべく、ごろごろとベッドで転がっていると、スマホが震えた。受験勉強を終えたばかりの神坂さんがメッセージを送ってきた。
『人間は考える葦である』
いきなりのパスカルだった。あれ、私たちは哲学専攻ではないはず。
スマホの画面を凝視しながらしばし。……補足がない。え、これで何を察しろというんですか。
仕方がないので考えた。この唐突なインテリジェンスとウィットに富んだ問いかけの答えを。
そして五分後に奇跡的にひらめき、ぽちぽちと文字を打つ。
『我思う、ゆえに我あり』
哲学者には哲学者を。パスカルにはデカルトである。思いついた私はどや顔だったかもしれない。
神坂さんの返事はすぐに来た。
『なるほど』
『ちょっと励まされたかも。明日結果発表だったから動揺してた』
『ありがとう』
よくわからないうちに感謝されてしまったけれども、神坂さんがお礼をいうということはそこまで的を外さない答えだったと思う。……でも、そっか。院試の発表明日なんだなぁ。
夏休みもそろそろ終盤戦。私もさすがに進路のことを考えなくちゃいけない。
……そしてさしあたって考えなくちゃいけないことは、金策だったりするんだけれど。
そろそろ減り続ける通帳の預金残額が嫌になってきた。そうだ、働こう。職種はもちろん飲食店以外 (トラウマだから)。そして健全な労働環境を手に入れるのだ!
「そういうわけで、そろそろバイトを探してみようと思ってるんです」
世間話のついでに菱川さんにそう報告してみると、ちょっと心配そうな顔をされた。
「気持ちはわかるけれど。大丈夫? 前は色々あったわけだし」
菱川さんがこう言うのも、私の以前のバイトのごたごたを知っているからである。私は大丈夫です、と頷いた。……齧っていたあずきバーを一旦口元から離しながら。
「ちょっとしばらくぐうたらし過ぎてしまっていたみたいで。学費とか生活費はある程度どうにかなるんですけど、自分の自由になるお金も欲しいんです。頑張って働かないと」
なぜか菱川さんは私の頭をいい子いい子、と撫でた。
「……あのう」
「うん」
「私、当たり前のことを言ってますよね?」
「まあ、そうだね。これは僕が好きでやっていることなんだ。いやかな」
ぶっちゃけてしまえば嬉しいけれど、子どもみたいに扱われているような気も無きにしもあらず。
大人の女に私はなりたい。具体的な計画はさっぱり思い浮かばないけれども。
というか、大人の女って何するの。男性に振り回されないようにするってこと? それ、とんでもなく高いハードルじゃないかな。
うーん。
「……大人って何でしょう?」
就職して、自活できれば立派な大人とはみなされるだろうけれど、世の中には色んな大人がいるわけで。
私は二十歳超えているので世間的には大人だけど、菱川さんに頭を撫でられるのは好き。飼い主に撫でられた猫ってこんな気持ちになっているのかも。……と、あずきバーを完食しつつも撫でられながらつらつらと考えてみた。
「答えがあまりはっきりと出ないような難しい質問だね。自分のしたことに責任を持てるようになる、というのはよく言われているけれど、僕自身もわかっていないかも。……どうなんだろう」
「私の知る先生は以前、感情を表に出さずに上手く嘘をつくのが大人だと言っていました。それはそれで納得できる話ですが……」
いつ何時でも感情を表に出さないのは苦しくないだろうか。少なくとも全部が全部隠せるようになってしまったら苦しくなると思う。だって、誰も気づいてくれなくなってしまうから。
「社会で生きていくなら間違ってないね。やっぱり仕事で多少の方便を使うことだってあるし。ただ、いつもかもそうしなくちゃいけないってわけでもないよね? 勉強でも仕事でも切替ってすごく大事なことで、全部をさらけ出せる家族や友人、恋人の前では必ずしもずっと大人でいなければならないわけじゃないよ。現に梢さんと話している時の僕は梢さんを甘やかすことしか考えてない。ほら、まったく大人らしくない」
「そ、それはそうかもしれないですけど」
……ごにょごにょ。私はさりげなく明後日の方に視線を逸らせた。
「むしろ、本当に好きな相手を前にする時も完璧な大人でいられるはずもないよ。色々と欲が出てきちゃうものだからね。特に男なんて好きな子の前でカッコつけたり、その子の笑顔を見ただけで舞い上がってしまう単純な生き物なんだよ。それが毛筋も表に出てこないなんて普通はない」
「……そういうものですか」
でも菱川さんは私の目にはいつも自然体に見えているのだけれどな。メンソールのような清々しさだ。
疑問が顔に出ていたのか、菱川さんは頭に伸びていた手を下ろして髪先をもてあそんだ。……むずむずする。
「そういうものだよ。少なくとも今日の僕は梢さんに会えたから最高ににやけきった顔をしてる。もちろん梢さんがいないところではちゃんとしているつもりだけど……今は仕方がない。でもそれが梢さんにわからないということなら、僕の偽装は上手くいっているってことかな。嬉しいことなのか、情けないことなのか、複雑だけれど……あ、唐突だけど、話を変えていいかな」
じりじりと追い詰められている感覚に陥っていた私はその提案に飛びついた。どうぞどうぞ。
「今度、コンタクトに変えてみようと思うんだ」
「コンタクトに? イメチェンですか?」
「まぁ、それもあるんだけど……それだけでもない感じかな」
菱川さんの視線が私の目の少し下で止まった。なんとなく居心地が悪い。今日の菱川さんはぎゅんぎゅん来るなぁ。
「ちなみに眼鏡を外したらどんな感じなんですか?」
私の言葉に菱川さんは少し躊躇いながらも眼鏡を外した。その顔をじっと眺める。
……全体的に今までの印象と明らかに変わるわけでもないし、それなりにバランスの整った私の好きな顔だちだと思った。素敵です。……ただ、なんというかパンチが足りない? そう、何かが足りていなくて……。
そうだ、眼鏡だ。
眼鏡が足りないんだ!
私は失礼します、と菱川さんの眼鏡を取り上げてかけさせてみた。そして眼鏡をまた外す。二度三度繰り返してみても私の確信は揺らがなかった。
菱川さんは眼鏡が似合う人なのだと。
眼鏡フェチでもない私が言うぐらいなのだから、おおよそ信ぴょう性はあるはずだ。菱川さんに必要なもの、それは眼鏡。
「眼鏡とコンタクトのどっちがいいと思う?」
「眼鏡の方がいいですね。なんというか、こっちのほうが見慣れてしまっているからかもしれませんが。私はこっちの菱川さんのほうがいいです」
「うん、わかった。じゃあそうしよう」
菱川さんはあっさりと意見を翻した。え、コンタクトに変えるつもりじゃなかったの?
「まぁ、眼鏡のほうが楽ということもあるしね」
「わかります。私も眼鏡が似合っていたらずっとかけ続けていたかもしれません」
実は高校時代からずっとコンタクトだった私。眼鏡も持っているけれど、実際かけることはほとんどなかったりする。……いや、ほんと、絶望的に似合わないのです。
「あれ、そうだったんだ。梢さんも視力が悪かったんだね」
「はい、一応。でも度は弱いほうですよ。たまにホワイトボードが見にくくて」
「なら僕の方が度が強いかな」
そう言って、ひょいと私の顔に自分の眼鏡をかけてしまう菱川さん。……全然視点が合わない。というか、私、今コンタクト装着中ですよ。
「ごめんね。ちょっとやってみたかっただけなんだ」
笑みを含んだような声とともにすぐに眼鏡が外されて、視界はクリアに。あれ、こんなに顔が近くなってたんだ……と、一人でどぎまぎした。
「うん、これで僕が聞きたかったことは終わり。ちょっと話が脱線してしまったけれど、バイトの話に戻ろうか。梢さん、いまのところどんなバイトを考えているの?」
「そうですね。二十四時間営業の飲食業以外でしょうか……」
できれば食べ物関係はあまり扱いたくない。お客さんのクレームが厳しいから。
「時給は……やっぱり高い方がいいよね」
「それはまぁ……でも、長く働けそうなところがいいです。家からもそれなりに近くて、あと人間関係が良好なのが理想ですね……」
同じバイトの中で男女が別れたやら、それが原因で片方がやめたとかでシフトがさらにシビアに……思いだしたくない過去である。ああいうことがあると、雰囲気がぎくしゃくするんだよね……。もっとアットホームな感じでいきたいものだ。
「自分でも色々調べてみたんですが……この辺りって都市圏なのでバイトの募集もたくさんあって、絞りきれないんですよ」
「うーん、ちょっと待って」
菱川さんが手早くスマホをいじる。ややあって、私にも画面を見せてくれた。
「ここはどう?」
それはこの間、動物消しゴムとニードルフェルトキットを買った近所の百均チェーン店舗のバイト募集のページだった。ここバイト募集していたんだ。気づかなかったよ。
「時給もそこそこあるし、土日と夕方はプラス五十円、週二日からオーケー。海外にも展開している大きなチェーンだから、バイトの待遇も結構いいと思う。前みた限りだと、スタッフは女性ばかりで年齢層も高めだった。梢さんはわりとうちの商品も興味持って見てくれているし、こういう雑貨を扱ってみるのもいいんじゃないかな」
「へえ……」
一通り見た私は、早くもその勧めに心動かされた。確かここ、別店舗で神坂さんも働いていたところだったよね。以前、「自分に合ったバイトかも」って言っていた気もする。
いいかも。
顔を上げた私は明るい展望を見た気がして、「私、ここ受けてみます」と上機嫌で出ていった。
そして、面接日。終始なごんで雰囲気で進むと思いきや、終わり際に面接官だった年配の女性店長が言った。
「やる気はありますか?」
おぉ。唐突な流れで怯んだけれども、
「あ、あります……! どんどん(こき)使ってください!」
抜けきれない社畜感に後で大いに落ち込むことになった。
なお、バイトそのものはうかった。
あと一話で夏休み話を終えるつもりです




