悪魔の誘惑に屈しますか?
前回の続きからです
「梢さん、ごめんね、今ちょっと電話をしていたから遅くなってしまって」
と、菱川さんは動物消しゴムを握っている私を見た。どうにも隠し切れなかったパンダ消しゴムは、実にまぬけた顔をしていた。
あはは、と笑みで誤魔化してみる。誤魔化せた気がしない。なので。
「ボブくん(テディベアの名前)のお友達として、パンダくんを用意してみました。……ほら、飾ってみると完璧……」
じゃなかった。よくよく考えればサイズが釣り合わなさ過ぎた。机に置き直したパンダくん(仮名)は人差し指一本で簡単に転がった。高級テディベアと百均消しゴムには越えがたいクオリティの差がにじみ出ていた。気づくのが遅すぎた。数十秒前までの自分の行動がくやまれる。
「えーと……梢さん」
見なくてもわかった。菱川さんは今、私にどん引きしている。今の私は滑ったお笑い芸人ほどに情けない。いいんだよ、「どんとまいんど」だよ、私……。
ややあってから、くしゃりと頭に重みが乗せられる。菱川さんの手だった。
「そのパンダくんは、どこで捕まえてきたの」
「百均です……そのう、たまたま買って」
菱川さんの手がパンダくん消しゴムをつまむ。私の手の中にあるよりも、二回りほど小さく見えた。菱川さんは興味深そうに眺めている。
「これ、結構いい出来だよね」
「そうですか?」
「うん。そういえば、子どもの頃にはこういう何かの形をした消しゴムを持っている子とかいたよね」
うーん、と私も思いだしてみた。消しゴム、消しゴム……。あ、私もかぼちゃの形をした消しゴムを持っていたな。あれ、どこへやったんだっけ。
「消しゴムのカスをまとめて、練り消しを作って、隣の席のやつに投げてみたり」
「菱川さんも投げたんですか?」
菱川さんは爽やかに頷いた。
「うん、山田にね。投げられたからお返しに投げたんだよ。梢さんはそんなことなかった?」
「私は投げたりはしていませんが、匂い付きの消しゴムとか好きでしたよ。イチゴの匂いの消しゴムとか。……でも、そういうパンダの消しゴムみたいなのって、もったいないので使えませんでした」
当たり前だけれど、消しゴムは使うほどに形が崩れていくものだ。それが嫌だったから、もっぱら観賞用にしていた。今回買ったのも、使用目的ではなかったと思う。つくづく無駄な買い物だったなぁ。
それにしても。子どもの頃の菱川さんは今のように落ち着いているかと思いきや、山田に練り消し投げているとか、ちょっと意外な話だった。こういう零れ話は案外楽しい。
菱川さんは私の手のひらにパンダくん消しゴムを返すと、今度は箱からテディベアを取り出した。
「そのテディベアはどうしたんですか?」
「親父の貯めこんでいたガラクタ部屋を整理したら出てきたやつだよ。梢さんが好きそうならあげようかと思って。こういうのって好き?」
「好きです!」
私は前のめりに答えた。前のめり過ぎたかもしれない。菱川さんはくすくすと笑った。
「それなら、はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
テディベアは私の腕の中におさまった。癒しのふわふわがこの手に。
いや待て。これ、現地で買ってもウン万円ぐらい平気でするシロモノではなかろうか。わぁい、ってのんきに受け取っていいものじゃない気がする。たぶん。
私は無言で机の上にテディベアを戻した。こてん、と転がるテディベア。
「……本当に、もらっても大丈夫なんですか?」
「別にいいよ。うちは仕事と趣味の実益をかねるせいか、色々物を集める癖があるんだけれど、実際ずっと使っているものが少なくて、どんどん増えていく一方なんだ。だから梢さんが協力してくれると嬉しいな」
菱川さんは慈愛の笑みを満面に浮かべ、私の正面の席に座った。菱川さんの定位置になりつつある。私はちらっとそちらの方に目を向けてから、少しだけテディベアを自分のところに引き寄せた。
「それではありがたくいただきます」
……菱川さんの言い方ってずるいなぁ。
絶対、私の躊躇いとか見越しての発言だった。私だったら、こんな感じに相手を気遣えるだろうか。
そんなことを考えながらテレビをつけると、ちょうど人気刑事ミステリーの再放送が始まっていて、私の好きな俳優が出てきていた。つい見入ってしまう。
「あぁ、これか。社会問題とかも取り上げていて、割と面白いよね」
菱川さんが本日のおやつを用意しながら納得した声を出している。しかも緑茶完備。
ぬかった。菱川さんにお茶ぐらい用意したいって前々から思っていたのに。英国紳士風味のダンディ俳優に夢中になっていたばかりに!
私の微妙な敗北感はさておき。本日のおやつはフルーツタルトです。見た目がおしゃれの塊みたいなお菓子です。美味しいよ! って全力で主張しているよ。きらきら輝いているよ……。
ちなみにここ最近出されたお菓子はというと。
前回、ザラメ入りカステラ(ザリザリとしたザラメがよかった)。
前々回、ガトーショコラ(白い粉砂糖が雪みたいにかかっていてきれいだった)。
前々々回、バームクーヘン(一口でわかる高級感)。
恐ろしいことにほとんど生菓子で、そんなに賞味期限(消費期限かもしれない)が長いものではないはずで……私がなんとなく足が向いてやってきた時も毎回こういったものを出してくるということは……。
私はいまだにこの疑惑を口にすることができていない。
そんなに私のためにお金使わないで! と言うと、自意識過剰な気もするし、菱川さんもそれなりの節度を持って出費しているはずなので、指摘することこそ余計なお世話なのだと思う。第一、私と菱川さんの金銭感覚が違う可能性も無きにしも非ず。
菱川さんにお礼を言い、フルーツタルトを口元に運ぶ。
……あ。確かバームクーヘンの前は赤福だったなぁ。
あれはなかなか衝撃的だった。二回目のデートと聞いて、うきうきしながらやってきた私に、菱川さんがこう告げたのだ。
「今日は伊勢に行こう」
なんの脈絡もなかったような気がした。……いや、後から思いだしてみれば、帰省帰りに菱川さんと帰った時、パワースポットとサミットの話題になって、伊勢っていいですねぇ、となんとなしに言った気もするけれど。
そんなわけで車に乗せられてやってきた伊勢。駐車場近くで「このこし餡が好きなんですよね」なんて言いながら赤福を食べ、参拝を済ませ、遅いお昼に伊勢うどんを食べて帰ってきたんだった。うん、楽しかったです。
テレビの中では、性格がまったく違う相棒がなんだかんだと協力しあって、犯人を追いかけているところだった。抵抗する犯人。危ない、その手には刃物が。けれども私の好きな俳優さんの役は、英国紳士っぽい見た目に反して、結構強かった。犯人の手から刃物が落ちる。かっこいいなぁ。
「いつもより熱心に観ている気がするね」
菱川さんが自分の分のタルトをつまみながら優しげに聞いてくるので、私は素直に頷いた。
「そうですね。私、この主役の俳優さんが好きで……ちょっと年上ですけど」
というよりかは、私はそもそも年上好きなのだと思う。小学校の時かっこいいなぁと思って眺めていたのは某暴れん坊将軍で、今も水戸黄門さまやってる俳優さんが好きなのである。あくまで眺める対象として好きなだけなのだけれども、最近のアイドルや朝ドラで出てくるような若手俳優は眺めたいという気にもなっていないかも。
実は菱川さんのお父さんも、バーコードやめて芭蕉みたくスキンヘッドにすれば結構ダンディないい感じになるのではないだろうかと常々思っている。以前にご挨拶してから、なかなか会えていないけれど。
「人の好みは人それぞれだから、いいんじゃないかな。僕も梢さんよりちょっと年上だし」
なぜだろう。後半にものすごく力が入っている気がする。
「……ただ」
「ただ?」
菱川さんは私をじっくりと見つめてから笑う。
「梢さんの一番が僕であればいいなぁって、そう思うよ」
「そんなもの……」
とっくに一番ではあるけれど。……うん、こういうことは口に出しづらいよね。
最近、ますます菱川さんが言葉を惜しまないものだから、感覚が麻痺してきそうになるけれども、これが一般常識……のはずだ。そうあって欲しい。じゃなかったから私、絶句する頻度がうなぎ上りになってしまう。
とにかくフルーツタルトを食べた。美味しかったです。けれどカロリーが怖いです。
実は帰省している間に、一度心配になった体重が元に戻っていたのだ。圭子おばさんの和食中心の食事とインターンシップのストレスフルな四日間の賜物である。
けれどもこれほど頻繁に高カロリーなお菓子を食べ続けていれば、下半身の肉付きがよくなりすぎてしまう危険がある。
……これは、ここに来る頻度を下げるべきなのか。
来たら自動的に出されてしまうおやつ。菱川さんが笑顔で進めてくれるものだからつい食べ過ぎてしまうという負のスパイラルが起ころうとしている気がする。
「あ、よかったらあずきバーもあるけど、食べる?」
度重なる悪魔の誘惑。あずきバー美味しいよね。
食べたい、けれど食べたくない。天秤は両方に激しく触れた。けれども、私はそっと菱川さんから視線を外しつつも、英断を下した。
「好きですけど……ダメです。食べ過ぎてしまうので」
フルーツタルトとあずきバーのダブルコンボは避けるべきだ。大丈夫、今度スーパーで買って、一人で食べるから。
「まあ、そうだね。しばらくは冷凍庫にあるから、来た時にでも食べるといいよ。なんなら名前の書いた付箋でも付けておく?」
それは名案だ。でも、付箋を使うのはもったいないから。
冷凍庫から出してもらったアイスの袋に油性ペンで大きく「三木梢」と書いておいた。これで山田は手も足も出せまい。
ドラマが終盤に差し掛かってきた頃に、店を出た。来た時にはなかったテディベア入りの紙袋を持って。
「フルーツタルト、ごちそうさまでした」
「うん、またおいでよ。梢さんのアイスもあることだし」
菱川さんが名残惜しげに繋いでいた手を放す。でも、それからすぐに「さよなら」と手を振りあって別れるのではなく、ただじっとそのまま立っている。
「……菱川さん?」
私が思わず名前を呼べば、菱川さんの眼鏡の奥の黒い眼が揺らいだ気がした。その顔が少しだけ近づいて、私の耳元に声が吹き込まれた。
「好きだよ」
どきっと心臓が跳ねたのは言うまでもない。おそるおそる菱川さんの顔を見れば、いつも通り微笑んでいて。……でもちょっとだけ悲しそうに見えたのだった。




