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お姫さま抱っこはテンプレですか?

 ミュージカル『オペラ座の怪人』は、たとえミュージカルを観に行ったことがない人でも一度くらい名前を聞いたことぐらいあると思う。原作はフランスの作家、ガストン・ルルーの小説から。舞台は1905年のパリのオペラ座。そこには謎の怪人が住んでいるという噂があり、当のオペラ座にも怪人から脅迫状がもたらされ。事態を甘く見た関係者に次々と不幸が襲う。


 その最中、新たな歌姫が誕生した。このヒロインの名はクリスティーヌ。目立たない端役から一気にスターとなった彼女には「音楽の天使」がついていて、彼女の歌を指導していたのだ。


 けれど「音楽の天使」=「オペラ座の怪人」とクリスティーヌの関係は、彼女と幼馴染のラウルが恋に落ちたことで、オペラ座全体を巻き込み、不吉な方向へと動き出す――。


 華やかな「オペラ座」に「謎の怪人」、ヒロインの歌姫とその幼馴染の青年貴族、怪人の「三角関係」。そして怪人の持つ「悲劇的な過去」と「仮面の秘密」。観客に同情さえ呼び起こさせるその悲惨さにも関わらず、怪人には幸せな未来は訪れない。それを自分でも承知していながらヒロインを手放した哀れさが、このミュージカルの醍醐味なんだろうなぁ、と私はハンカチを握りしめながら考えた。つらつらと批評じみたことを思考したのはなんということはない。そう冷静を装わなければ、舞台に向かって「エリック(怪人の名前)ー!」と叫びだしそうになるからだ。とんだ迷惑なお客だ、危ない危ない。


 薄々勘付いていたけれど、最近の私は涙もろくなった。映画やテレビを見ても、感情移入しすぎて困る。今『ほたるの墓』を見せられたら、私を泣かせにかかってくるとしか思えないほどだ。色々な意味で怖くて見れない映画ナンバーワンかもしれない。基本的に、物語はハッピーエンドのほうがいい。


 でも『オペラ座の怪人』は、ヒロインはともかく怪人にとってはバッドエンドだ。人殺しまでしているのだから仕方がないと思う部分もあるけれど、どこかもどかしさが残っていて、もやもやする。なんだか尾を引きそうな予感……。


 私の席は前から二列目のS席だったからか、臨場感がものすごい。声は響くわ、音楽も大きいわ、シャンデリアは冗談じゃなく落ちてきそう。演出で何度かシャンデリアが動くのだけれど、驚きすぎて肩がびくっとなったぐらい。


 うん……でも、ミュージカルを好きになる人の気持ちはわかった。日常なんてどこかに吹っ飛んじゃいそうなくらいキラキラとした世界が広がっているんだ、もう一度、と思ってもおかしくない。また機会があったら、別の作品を観に行ってみようかな。


 舞台ではカーテンコールが何度も続いている。とりわけ多くの拍手をもらうのは怪人を演じた役者さんだ。気持ちはわかる。舞台では一番の嫌われ者が、観客にとっては一番の人気者なんだ。最後にはスタンディングオペレーションだったよ。


 まだまだ夢から醒めない心地で、劇場から出れば、隣の神坂さんもどこか心ここにあらずといった調子だ。


「ラウル役の役者さんがイケメンだった……。でも声はファントムのほうが好き……」


 ミーハーだった。


「昨今、2.5次元が流行るのも納得だわあ……」


 そんなことをぶつぶつと言いながら、ふらふらと段差のある歩道と車道の境目を歩いていた神坂さんを見ていたら、日常感が戻ってきた。私はそれとなく車道側に並ぶことで神坂さんの交通安全を試みた。


 神坂さんは突然、ぐわっと私に迫ってきた。距離が近いです。


「梢ちゃんはラウルとファントム、どっちが好きだった!?」


 幼馴染の青年貴族か、謎を抱えた薄幸の怪人か。それはもちろん。


「ファントムですよ、断然。報われなくても、クリスティーヌを愛してしまうんですよ? もう切なさで胸一杯……」


 私の心は、今、涙を流しています。それにしても男二人を夢中にさせるとは、クリスティーヌ、なんという小悪魔。確かにクリスティーヌにはそれだけの可愛さがあったけれども!


「ファントムはきっと、海よりもふかーく、クリスティーヌを愛していたのに……たぶん、彼女、その半分も気づいてなさそうなのが、よけいに、切ない……!」

「わかる、わかるよ、梢ちゃん……! さすがはわが心の友よ……!」


 と、言いあっていたら、案の定車道側に立っていた私は段差につまずいた。近づく地面をどうにか回避して、どうにか転ばずに済んだ。日常感、まだまだ戻ってきてなかった。


 ……冷静に考えてみたら、私がファントムの愛について拳を握って熱く語り合うことも、神坂さんが映画版ジャイアンみたく「我が心の友」宣言することは普段はない。もっと早くに気が付くべきだった。


 しかし、それだけ舞台の空間が濃密だったということでもあるし、なによりも『クリスティーヌ』が愛されていていいなあ、と憧れたのだ。女は愛するよりも愛されるほうが幸せっていうけれども、私もそっちのほうがいいなあ……。


 日常感を引き寄せながら地下鉄の駅まで行き、そこで神坂さんとは別れた。

 神坂さん、夕方の地下鉄の混雑で、現実に戻ってくることを祈っています。


 一方の私は、帰り道に新しいサンダルを買った。たまたま見た靴屋で夏物セールを開催しており、そこで一足のサンダルに一目ぼれしてしまったのだった。さっそく明日おろして菱川さんのところに行こう。








 色々考えが甘かったのかもしれない、と昨日の決断を後悔している。


 最近、実はよく蚊に刺されることがよくあって、特に足を何か所もやられている。常に赤味が引かずに腫れている箇所が二、三あるぐらいだ。今ちょうど、その一つが足首にあって、サンダルを履いていると擦れてかゆいのが一番辛い。


 元々、私は人より蚊にさされやすい体質のようでいつも苦労しているのだけれど、刺されるまで「夏=蚊の季節」という認識を毎年忘れてしまうのだ。喉元過ぎれば何とやら。


 部屋自体には一応、吊るしタイプの虫よけを設置済み。でも一体どこで刺されるのか、気が付けば刺されている。今年は手首にはめる「虫よけブレスレット」を購入してみようか。なんでも百均のものは結構効果があって、デザインの種類も豊富らしい。


 道端のビルの影で、蚊に刺されていた足首と太ももを軽く掻く。掻くほどに治るのが遅くなることはわかっているんだけれど、我慢するのもたえがたい苦痛。


 さらに気づいてしまった、太ももを指先で掻いた時に揺れる肉が、以前よりも厚くなっていることに。音として形容するなら、ぷるぷる、ではなく、ぶるんぶるん、に変化した。不安になって、摘まんでみると、案の定、不安は的中する。太った。


 よく体型のことで、リンゴ、バナナ、洋ナシなどと例えられることがあるけれど、私自身は確実に洋ナシ型だ。上半身はやせ形に見えるけれども、見えないところにお肉がついちゃってるのだ。


 それでも、まあ、ちょっと前まではそれなりに痩せていたと思う。……ぶっちゃけ、食生活が不規則過ぎたのだ。お昼抜きも平気でやっていたし、あまりに疲れていると食欲もわかない。自然と食事量が制限されていたのだ。


 そして今はわりと結構食べているし、おやつもがっつりいただいていて……。あふれる食欲のままに食べ散らかしているなら、仕方がない部分もある。でも当分体重計には乗りたくない。……寝る前に下半身のストレッチを入れてみよう。ひきしめ美脚を目指すんだ。


 あぁ、と落胆しながら歩くうちに、虫さされの件に加えて薄々感づいていた「あること」を意識せずにはいられない。……両足の小指が猛烈に痛い。


 私は再び日陰に入ってそっとサンダルを脱いで確かめてみると、その部分はみずぶくれとなっていた。


「うわぁ……」


 思わず軽く呻くぐらいに痛々しい足になってしまっていた。新しいサンダル選び、失敗したかもしれない。それとも私の下半身には悪霊が憑りついているのか。妙に足ばかりに災難が集中している気がするぞ……。


 しかし、こうしてばかりもいられない。外は炎天下、アスファルト地獄。長くいるほどバテてしまうだろう。私は足の痛みをこらえながら、残り少ない道のりを小さな歩幅で歩いた。


 いつもの店の前まで来ると、菱川さんが木製の桶と柄杓を持って、歩道に向かって打ち水をしていた。これぞ、昔ながらの夏の風物詩、涼しげですね、菱川さん。


「よかった。待っていたんだよ、梢さん」

「こんにちは」


 頭を下げて、菱川さんのところへ行くと、ちょっと気が付いたように私の足元を見た。


「……もしかして、足痛い?」


 あなたはエスパーですか。


「あ、はは。えっと、今日新しいサンダルを履いてきたので、靴擦れになってしまって……」


 苦笑いをして言えば、菱川さんが桶と柄杓をその場に下ろしながら心配そうな顔をする。


「歩くの辛いよね。一応店に絆創膏は常備しているから、手当てするよ。早く入って。あ、でもこれ以上、歩かせるわけにもいかないし……梢さん、ごめんね?」


 なぜ唐突に謝るのだろう……と思っていたら。

 膝裏に菱川さんの手が回り、気づけばひょいと横抱きにされていた。俗に言うお姫さま抱っこ。そう、どんな女の子でも一度は憧れる夢のシチュエーションの、お姫さま抱っこ……って、え? え。


「そんなに驚かなくても。可愛い奥さんが足を痛めてしまったら、運ぶのが旦那さんの役目でしょ?」


 そ、そういうものっすか……。動揺のあまりに変な語尾がついた私は、菱川さんがあんまりにも当然みたいな口調でいうものだから妙に納得してしまった。うん、おかしくない。おかしく、ない……? いや、おかしいよね? 私としては肩を貸してもらうだけで十分だったような気が。


 反論するべきだったのだろうけれど、菱川さんは鼻歌を歌いそうなぐらいに上機嫌だったから、何も言えなかった。バックルームに行く間にも、私の顔を見つめながら、


「梢さんは、近くで見れば見るほど可愛く見えるよね」


 と、さらっと言うぐらいだ。私の体温が急上昇したのは言うまでもないことで、近くにいたちょび髭カンカン帽おじさんが二度見したのも無理からぬことだと思います。びっくりさせてごめんなさい、名も知らぬおじさん。




 


 


 


 



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