二人でダンスを踊りましょう?
私と神坂さんの言う「実習」とは「博物館実習」のことを指す。
うちの学部では大きく二つの資格を取得できることになっている。一つは社会系や語学系の教員免許、もう一つが学芸員資格。この博物館実習というのは、学芸員資格取得のために必要な授業の一つだ。
内容としては、隔週ぐらいで近隣の美術館、博物館の展覧会を見学し、ときには現役の学芸員のレクチャーも受けること。学期末にはレポートも書いたりしなければならないけれど、それ以外は小中学校の社会見学みたいな感じの授業だ。違うところは、大体最後は流れ解散になること。移動時間を含めると、見学場所によっては午後から大学で授業受けるのが厳しくなってしまうからね。
そんなわけで、学期最後の授業は、ルノワール展の見学です。誰もが知ってるビックネーム。でも他の画家の作品だって出ている。例えば、モネ、ドガ、ミレー、ロートレック。なんでも今回の展覧会の着眼点はルノワールの生きた「時代」に焦点を当てているのだそうな。だから画家たちもルノワールと同時代に生きた人物ばかり。この時代はまだまだ写実的な作品も多いからどうにかその作品の良さもわかる (気がする)けれど、カンディンスキー以降はまるでわからない。ピカソの〈ゲルニカ〉なんて、直接見たら迫力が凄そうだけれど、絶対作品の意味を半分も理解できてないと思う。あとやっぱり時代のせいもあってか、どこか暗い感じがする。抽象絵画は私にはハードルが高すぎる。
その点単純な私は、ルノワールの明るい色彩は特に好きだ。実は今期の実習の中で一番気になっていた展覧会がこれだったりする。すばらしきかな、ベル・エポック。じっくり観るぞー。
学芸員さんのレクチャーもしっかりメモ取りながら聞いて。そしていよいよ本番の見学。
この美術館は学生証を見せれば、大学生はタダで入れることになっている。こういった美術館や博物館はいくつかあるけれど、実際に行くときは本当に便利だ。受付で顔パスならぬ学生証パス。無料って素晴らしい。
入口のところでは神坂さんがいて、展覧会の前だからか、小声で、
「十二時ぐらいにきりをつけて移動するけれど、それでいい?」
つい先日、「オペラ座の怪人」を観に行く約束をしたものだから、そのことで念を押しに来たらしい。私も小声で返した。
「わかりました。お昼は近くで食べるってことで良かったんですよね」
「うん、そういうことで。……じゃ、あとは各自見学ってことで」
と、いう感じに神坂さんが締めたものの。
「うーん……。結構人が多いねー。さっきカッコつけなきゃよかった。明らかに早く見学終えるつもりだったからなぁー」
展覧会というものは、大体入口の方が人が多い。たぶん、入り口には早いスピードで観る人と、遅いスピードで観る人とが一緒にいるからだと思う。逆に言えば、そこを抜ければ少しは楽になる。
神坂さんが入ってすぐにある二点の作品を見て、あぁ、とうとましそうに声を上げた。
「最初にドガとミレーの作品が出てるからかぁー。一流画家を二人持ってくるんだから、そりゃ混むかー」
「どちらも有名ですよね」
ドガは踊り子をはじめとした都市風景で、ミレーは牧歌的な田園風景を描いたことで有名な画家だ。片や都会、片や田舎を象徴するような二人の画家たち。この展覧会を象徴するかのようでもある。ルノワールの生きた時代は主に十九世紀フランスで、発展する都会とのどかな田舎がごく近くに隣り合い、環境も極端に違っていた頃。要は、都会っ子の菱川さんと、田舎っ子な私がごく自然な感じで同居していると思えばいい。本来なら全然接点のない環境にある二人が恋愛することにはなかなかならない。そのはじまりも、私の妄言からで、普通だったらありえないことなのだ。十九世紀フランスは、そんなちぐはぐさもごく当たり前だった時代。
「私、このミレーの作品は好きですよ。女の子の膝にかかる木漏れ日の入り方とか。この女の子の雰囲気も淡い感じがして、純朴そうで」
「そうだねぇ。ドガも割と嫌いじゃないんだけどね、田舎出身としてはこのミレーの作品には郷愁を感じるわ……。いや、今もその田舎にばりばり住んでるんだけどさ」
二人の意見が一致したところで、人の流れのままにあれこれと小声で囁き合いながら作品を見ていく。
「あ、これは田舎ですね」
「隣は都会だよ。で、その隣は……?」
当時の海水浴場を描いたらしき絵を見つめる。
「半々、でしょうか。前景の人は明らかに都会から来た人ですけど、背景にいるのは現地の人ですよね。確か、さっきレクチャーで……」
「と、するとこれは都会近郊の観光地ってところかなー」
実習で集まった美術館でも、ぼっち鑑賞の多い私だけれど、誰かと鑑賞しあうのって結構楽しい。感覚は人それぞれだから、同じ作品を見てもどこに注目しているのかで意見が違うし、同じところを注目したところで、受ける印象は違う。だから人の意見を聞くと、自分の気づかなかったところにも目が行く。美術館では大声で騒ぐな、というのが暗黙の了解だけれど、こういうことがあるから多少は許されたっていいと思う。あくまで素人意見だけれど。
「さて、ここまで来たところで、今回の目玉作品というと……」
「ルノワールの〈ブージヴァルのダンス〉、ですね」
私は作品リストの紙に目を落としながら言う。おしゃれなドレスを着た都会の女性と、飾り気のないジャケットを着た田舎者の男性が踊っている姿が描かれた油絵だ。展覧会のポスターにもなっている。
その油絵は結構大きく、やっぱり目立つように展示してあった。他にも見ている人がちらほらと……。
あ……。
背の高い男性が一人、そこにいた。それもひどく見覚えのある後ろ姿。もうすでに何度か目に焼き付けてしまっていて、私にはすぐに誰かわかってしまった。目で認識するよりも早く、心臓がどきどきと高鳴る。
私の目は釘づけになったけれど、少し足が竦んでしまった。
話しかけた方がいい? 挨拶はしたほうがいいよね。でも、熱心に観ているから、迷惑にならないかな。
私の迷いなんて前を行く神坂さんにはわかるはずもなく、彼女はさっさとその作品の近くに……ちょうど空いていた、菱川さんの隣に入ろうとする。
菱川さんと神坂さん。間違いなく二人に接点なんてないだろうし、知り合いであるはずがない。隣同士に立っているのも、ほんの偶然なのだ。わかってる。ただ——私が、眺めていたくなかっただけ。
私は、後ろから菱川さんのワイシャツの袖を掴んだ。ひどく驚いた顔で振り向かれる。
「え……梢さん……?」
「こ、こんにちは、菱川さん……」
勢いでやったはいいもののどんな顔したらいいのかわからないので、とりあえずにへら……ともおぼつかない笑みを張りつける。
「ご、ごきげんうるわしゅう……」
うるわしゅう……自分でも意味不明すぎる。
「うん……僕もまあ、うるわしいかな、たぶん今」
意味不明な私の言葉にも律儀に返してくれる菱川さんは今日も今日とて爽やかお兄さんだった。すぐさま切り替えた聖母マリア様の微笑みがまぶしすぎる……。菱川さんの笑みは、ラファエロの聖母マリア様に似ているのだ。
「どうしてここに?」
「大学の実習で見学に。菱川さんは……」
「仕事を中抜けしてね。ドガを目当てにこの展覧会に来ようと思っていて。趣味なんだよ、美術鑑賞が」
「そうだったんですね。それにしてもすごい偶然です」
ついこの間、雨の日に大学でばったり会ったばかりだというのに。一度あったら二度あるもの? だったら三度目もあるということ?
すると菱川さんはふっと謎めいた笑みをひらめかせた。さながら、モナ・リザのごとき、アルカイック・スマイルを。
「意外と僕と梢さんの生活圏は重なり合っていると思うよ? 梢さんが知らないところできっと何度もすれ違っているんだ」
――さあ、考えてみて。
そう言われているようだった。どういうことだろう。ただ単に近くに住んでいるだけではそんなことを言わない。つまりは、この人は私を以前から知っていた? わからない。一体、何を告げたいんですか、菱川さん——。
1883年制作、ルノワール〈ブージヴァルのダンス〉は、都会者と田舎者とで踊るダンスの絵画。その前で、都会者は田舎者に一つのなぞかけをした。




