菱川山の登頂を目指しませんか?
「それでは……菱川さん、とお呼びしますね」
私は目の前の爽やかな聖母マリア様を見上げた。顔のパーツ一つ一つはとりたてて目立たないけれど、全体のバランスはほどよく整っている。雰囲気イケメン、というのが一番近いかも。そこに黒いフレームの眼鏡が、さらにこの人を「できる大人」に見せている。
あれ。よくよく考えてみたら、この人は私のタイプかもしれない。
雰囲気や笑い方、立ち姿や振る舞い方。どれをとっても嫌いだと思えるところがない。そんな人が私の「愉快な旦那さん」になってくれるという。つまりは、私はこの人の奥さん……お、くさん。
――ん? んんっ!?
接客業で培ってきたコミュ力が一瞬で吹っ飛んだ。自分でもわかるくらい、かああっと頬が熱くなる。一度理性的に考えてしまったのだが駄目だ、私ほとんど告白されたも同然だった、いやそもそも私はさっき、とんでもないことを口走ってなかった!?
「だったら僕は梢さん、で。結婚するんだから敬語じゃなくてもいいかな?」
「は、え、あ……はい」
菱川さんの追い打ちにもはや過呼吸になりそうです……。男の人に下の名前で呼ばれるなんて初めてだから。以前一度だけ付き合った人もそんなに深い付き合いになる前に別れてしまったし。梢さん……とか。ものすごく恥ずかしい。
「よろしくね。そうだ、スマホ出してもらえる? 連絡先を交換しておこうか」
「そ、そうですね、えっと……」
動揺しているうちに菱川さんはさらっと私の携帯番号とメアドを自分のスマホに登録していた。そして気づけば私のスマホに菱川さんの連絡先が入っていた……。やることはやっている私。
「いつでも連絡してきて」
「はい……」
スマホの画面に映る「菱川公人」の文字。なんだか現実感がわくなあ……。
――ん? 菱川? 確かこの店の名前って……菱川産興じゃ。
「どうかした?」
菱川さんは察しのいいひとだった。あの、と恐る恐る画面上を指差すのを見て、
「ああ、名前か。うん、そう。ここ、うちの会社なんだ。同族会社なんだよ。社長が父で、専務が母、叔父が常務でね。中小企業だから大した規模じゃないけど」
御曹司という言葉がぱっと浮かんだ。中小企業とは言え、社長の息子だ。社長といえば、お金持ち。お金持ちで……玉の輿?
いやいや待って、と首を振る。お金の魔力もそりゃ大事なものかもしれないけれど、それで目が曇っちゃだめだよね。バイトのことでさもしい心持ちになるのも無理はないけど、菱川さんをそんな目で見ちゃ失礼だ。
「でも梢さんを養うくらいはできると思う。だから安心してお嫁においで」
聖母マリア様はそんなことをおっしゃって、きゅっと私の両手を自分の手で包み込む。私は手元から体中に熱が伝導していくような感覚を味わった。正確に言うと、恥ずかしくて顔が上げられません。
ガチでふるふると震えている私に、頭上からぼそりと、
「……梢さんって、可愛いひとだね」
こ、この人はー!
私は自分の未来を予見した。私と菱川さんの関係性。たぶん、私が一方的に振り回されます。きっとこの人は言葉を惜しまない。ものっすごく恋人に甘い人だ、そうに違いない。
菱川山。恋愛偏差値低め女子には、難易度が高い山でした……。