春遠からじ
もう三月にもなるというのに、まだまだ雪はしぶとく残っていて、さっぱり春めいてくる気配がない。コートもマフラーも手袋も手放せず、根深い雪のお陰で自転車にも乗れない。聞けば南の方では既に初桜が開いているという話だけれど、こちらでは全くもってさっぱりだ。北国での春というものはどうにも、融け残った雪と跳ね散らかされた泥雪に彩られていて、季節感というものが薄い。梅も桜も悠長に咲いている暇なんてあったものではなく、というかこちらで花見ができるという話はついぞ聞かない。そもそも植えられているのだろうか。まあ、そんな場所があったところで繰り出すような人間関係もないのだけれど……明日春が来たところで、会いに行く誰かもいない。
「……寒い」
天気がいい。抜けるような青空だ。まだ空気も澄んでいて、降りかかる陽光も気分がいい。しかし皮肉なことに、晴れていればいるほど寒くなってしまうのが現実だ。路面も凍結して、油断すると三歩ごとに転びそうになりかねない。
桜前線北上中、ね。
「こっちじゃ桜どころか、花の一輪も咲いてやしない、と」
早く、暖かくなってほしいものだ。
まあ、気分が明るくならないのは別に春先が汚いという理由だけではない。大学生活もいよいよ三年目に突入し、そろそろ就職を考えなければならなくなってくる頃合いだし、かねてから折り合いの悪い実家とも何らかの形で決着を観なければならないだろう。――風が吹く。
「ああ……寒い」
誰ともなしにつぶやきながら歩く。身を切るような寒風はまだしぶとく、コンビニまでの短い距離ですら躊躇してしまうほどに、外は寒い。早く暖かくならないかと思うも、長く続く冬のお陰で何度も通り過ぎてきた夏が全て幻だったのではないかとすら思われる。このまま永遠に冬なんじゃないか。もう暖かくなることなんてないんじゃないか。……大げさのようでいて、時折本気でそんなことを考える。
いや、何だかんだ言ったって、顔を上げて見てみれば、侘しい木々の梢にはもう木の芽が、蕾が暖かくなるその瞬間を今か今かと待ちわびているのかもしれない。顔を上げることなんてできないけれど。寒風に煽られて、顎を襟にうずめることで精いっぱいだ。
春はどこからやってきますか。
内からも外からも、そんなもののやって来る気配はついぞない――
「……ん」
コンビニを目の前にして赤信号に立ち止ったとき、舌打ち混じりに茫洋と足元を彷徨っていた視線が、ふとそれを見つけた。どうせ信号はすぐには変わらない。周囲にも人の目がないことから、俺は何となくしゃがんでそれをよくよく見てみた。
電信柱の根元、わだかまった泥雪を押しのけて、顔を出している色がある。
緑。
「……おお」
思わず小さく感嘆してしまう。
アスファルトを割って目を出している草花の生命力というものは、夏場ですら感心するものではあるけれど、この寒さの中、アスファルトのみならず残雪までも貫いて見せるのか。
名も知らぬ花は。
近くに他を探してみても、どうやらこれだけのようだった。けれどそれだけに、この小さな、片手で覆い隠せてしまえるほどにか細い一輪に、大きな強さを感じられずにはいられない。
名も知らぬ花ですら、かくも確かに咲いている。
いわんや俺においてをや?
まだまだ遠いと思っていた春だけれど、瞼を閉じればもうそこまで近づいているのかもしれない。
そんな風に、思えた。
信号が変わる。
俺は立ち上がって、歩き出す。
偶然見つけた小さい春は、風にも負けず、何も言わずに咲いている。
春も夏も幻ではなく、やっぱり何度だって巡り続けるのだろう。きっと、そのたびに新しくなりながら。
……何度新しくなっても、俺の上に桜が降ることはないけれど。
頑張って見上げなくても、足元にだって見つけられる。
そんなことを思うと、自然と歩みが軽くなった。
「もうすぐ春ですよっ」
明日か、明後日かはわからないけれど。
春が来る。