第七十九話 ナール商会
ヘッセン侯爵領において食品関連最大規模の商会であるナール商会の現商会長であるユングは13歳でナール商会に奉公に出た庶民であった。当時のナール商会はギーセンでこそある程度名を知られていたものの大商会といえるほどではなかった。しかし、ユングが店番を卒業して仕入れや値段設定に係わるようになってから変化が起きた。利益率が右肩上がりで上昇し始めたのだ。その後も順調に出世したユングはギーセンの街に3店舗、近隣の街や村に6店舗を新たに出店しいずれも大きな利益を上げている。そしてついに前商会長の娘を嫁とし入り婿となって今やヘッセン侯爵領内で5指に入るナール商会を継いだのだ。そんな順風満帆なユングが青い顔をしている。初対面の冒険者の前で。
「はじめまして。冒険者の大輝と申します。」
大輝は丁寧に頭を下げる。ユングはかなり興奮しているが大輝は敵対するつもりはなく、協力を請いに来たのだ。その様子を見てユングは目の前の冒険者がすぐに秘密を暴露するつもりはないと理解して少し落ち着く。
「取り乱して申し訳ない。私がナール商会を預かるユングという。」
静かに握手する2人。そこに大輝の魔法の言葉を伝言としてユングへ伝えた店番の女性が戻ってきて驚く。なにせ徹底して面会者を絞り、貴族並に会うことの難しい人物として知られる商会長が店先にまで出て握手を交わしているのだから。
「あるお方からユングさんへ手紙を預かってきております。また、それとは別に直接お伝えするようにと伝言も預かってきております。お忙しいでしょうが少しお時間を頂けませんでしょうか?」
大輝はマルセルから預かっている手紙を懐から出してユングへと見せる。
「っ!その手紙の主と大輝殿の関係をお聞きしてもよろしいですかな?」
ユングの見た手紙には差出人の名前は書いていない。書いてある文字は「親愛なるユングへ」だけだが、その横にユングと思われる似顔絵が描かれている。太い眉が印象的なとてもよく特徴が捉えられていた。それを見たユングには差出人がわかったのだろう。
「付き合いは長くありませんが、今は同じ目的の為に動いています。」
短く答える大輝をじっと見つめるユング。大輝も視線を逸らさずに受け止める。ユングが大輝を見定めようとしているからだ。5秒、10秒とゆっくりと時間が進む。
「ふぅ。いいでしょう。続きは中でお伺いしましょう。」
たっぷり30秒以上経ってからユングが言う。どうやら大商会の長の一次審査はクリアしたようだった。大輝はユングに促されるまま応接室へと向かう。後ろで予想外の事態に遭遇したように呆ける店番の女性を残して。
豪華なソファにテーブルが配された応接室に入って5分程で大輝とユングの前に茶を出した女中が下がり、男2人の密談が始まった。
「まずは手紙を読ませて頂きたい。」
ユングが言う。本音としては対面している大輝が魔法の言葉の意味をどの程度知っているかを問い質したいのだが物事には順序があることを知っているユングは自身を抑える。そのために特別待遇で2人だけになれる応接室へと通したのだ。
「はい。こちらになります。」
大輝は手紙を懐から出してテーブルにスッと置く。それをユングがペーパーナイフで開封して読み進めると表情が変わっていった。まずは安堵の表情を浮かべ、次に苦渋の表情を、最後には驚きの表情へと変わる。
「大輝殿はこの手紙の内容はご存知ですかな?」
「はい。手紙をしたためるのを目の前で見ていましたので。」
「なるほど・・・」
しばらく考えをまとめたいのかユングが黙り込み、大輝はそれをゆっくりと待った。
ユングを始めとした信用できる者宛ての手紙にはフュルト家令嬢であるマーヤが無事であることの他に逃亡しなければならなかった事情が詳しく書かれている。ベルナー家の謀略についてもだ。そしてそれに屈せずに反攻の意志があることが書かれており、最後に協力の要請で終わっている。
失敗した場合のリスクは非常に大きい。謀略の裏にはベルナー家だけではなくヘッセン侯爵自身が係わっている可能性もあるのだ。下手をすれば逆に罪に問われることになるだろう。だから大輝は口を挟まずにユングの決断を待つ。マルセルたちが一番最初に訪問するように指定した以上はユングが味方に付いてくれる可能性は高いのだろうし、初対面である大輝が余計な事を言うべきではないと思っている。もちろん大輝自身もユングという人物を見極めようとしているのだが。
10分程経ってユングが顔を上げて大輝を見た。それを見て大輝もカップをテーブルに置いて聞く体勢に入る。ユングの心は手紙を読んですぐに決まっていた。数少ない心を許せる友人であるマルセルの頼みは聞いてあげたいし、フュルト家の公正な振る舞いには敬意も抱いていたからだ。しかし、確認しなければならないことがある。事の真偽だ。確かに手紙の筆跡も似顔絵もマルセルのものだということをユングは疑っていない。だが、領内有数の商会を率いるユングは政治の暗部ともいうべき権力闘争を知っており、これがライバルであるベルナー商会の陰謀である可能性も疑っていた。例えば捕縛されたマルセルが無理やり手紙を書かされ、これ幸いとナール商会をも傘下に置こうと画策しているのではないかと。狡猾なベルナー家であればこの機会にフュルト家に与する者たちを一網打尽にする手を打つはずだとの確信があったのだ。だからこの場で唯一確かめられる手段を手放さない。つまり目の前にいる大輝との会話で事の真偽を確かめようとしたのだ。
「大輝殿、少し話をしてもいいだろうか?」
「はい。」
「彼から聞いた魔法の言葉の意味を君は知っているのかな?」
「とても大切な名前であることと、秘密にすべき事項であるということは知っています。」
「うぬ・・・。そ、そうか。それ以外には?」
ユングはマルセルから自分と面会するために聞いたという『魔法の言葉』を話のネタに選んだ。自身の秘密でもある彼女たちのことを知っているのはマルセルを含めたごく親しい友人だけのはずだからだ。もちろん敵対する商会などが諜報活動をして手に入れた情報である可能性もあるので突っ込んで聞く。断じて身の破滅を恐れて大輝に探りを入れているわけではないと自身を偽りつつ・・・。
「それぞれの言葉の意味を聞いています。ラウラというのは聡明を、レアというのは可憐を、ヤーナというのは優美をそれぞれ象徴していると。象徴的な数字で表すと、始まりは21、16、18、さらに現在は26、18、19ですね。さらに花で表すと・・・」
「い、いや、もうその辺でいい・・・最初の麗句だけで十分だ。」
ユングの顔は赤かった。ラウラ、レア、ヤーナは3人とも妻に内緒のユングの愛人である。入り婿で商会を継いだユングは妻への申し訳なさから隠してるのだ。そして聡明、可憐、優美はユングが気心知れた仲間たちに惚気る時に彼女たちを評してよく使う麗句である。始まりの数字とは愛人に迎えた時の彼女たちの年齢であり、現在の数字とはもちろん今の年齢だ。ユングはスラスラと述べる大輝を見てこのままでは好きな花以降何が飛び出て来るのか怖くて聞けなかった。例えば出会いのシチュエーションだとか口説き文句だとか下手したら自身の性癖まで口にされる予感がしたのだ。だが、羞恥だけで大輝の言葉を遮った訳ではない。最初の麗句を聞いた瞬間に少なくともマルセルが捕縛されている可能性はないと断言出来たのだ。ユング自身がその麗句を持って彼女たちを評するのは密室でマルセルたちと酒を飲み交わす時だけなのだから。そしてマルセルはどんな責め苦に遭っても仲間を売るようなことはしない。そもそも無理やり手紙を書かされたとは思っていないのだ。仮にマーヤを人質に取られていたとしても手紙に何らかの暗号を潜ませるなり不自然さを演出するだけの知略を持っている男である。だからユングが疑っていたのは大輝だ。手紙を強奪してマルセルの仲間を装っていることを憂慮したのだが、これだけの情報を知っている以上はマルセルが信用している証だと納得したのだった。
「ご納得頂けたようですが、これだけは言うようにと言われているので続けさせていただきます。」
大輝もユングが疑っていることは承知だった。逆にいえば、疑ってくれないようなら協力してもらう範囲も流す情報も大きく減じるつもりだった。いくら大商会の長であってもお人好しではベルナー家に情報が筒抜けになる可能性があるのだから。その点目の前の人物は危険を回避しようとする知恵はあるし頭の回転も早そうだった。用意していた『魔法の言葉』の説明は本来かなり長い。その中に順番に決定的な言葉を散りばめてどのタイミングで判断をするか試していたのだ。
(数字や花には意味がない。調べるのは難しくないからな。でも最初の麗句だけは仲間内でないと知らない事実だ。その言葉を聞いてすぐに気付いたんだろけどすぐに判断を下すのではなく、オレが数字について話している間に頭の中で検証したんだろうな。頭の回転がいいだけではなく思慮深い証拠だ。)
大輝はユングがマルセルの言う通りの人物であることに満足していた。そしてマルセルからの伝言を続けようとする。
「いや、もう必要はない。疑って申しわけなかった。手紙も本物であるし、大輝殿がマルセル殿のお仲間であることを確認させてもらいたかっただけなのだ。そして私は納得した。だから先に返事をさせてもらいたい。このユング、そしてナール商会は助勢させていただく。」
大輝の言葉を遮ってユングが協力要請受諾を宣言した。それもユング個人ではなく商会を挙げての協力という形で。
「ありがとうございます。ですが、まだ重要な伝言が1つ残っておりまして・・・」
大輝は深々と礼をしてから言葉を続けた。
「実は・・・この魔法の言葉の意味についてユングさんの奥様はとっくに気付いているそうです。」
「なんですとぉぉぉっ!!」
大声を上げてソファを立ち上がったユングが落ち着くまでかなりの時間を要した。ユングの義父は隠居したとはいえ健在であるし、代々続くナール商会の正統なる血筋は妻であってユングではない。そのユングが商会内の女性3人に手を出していることを妻が知っている。ユングでなくとも顔が青褪めるだろう。離縁され、無一文で商会を叩きだされる自身の姿を想像してしまうかもしれない。それなら最初から手を出さなければいいのだが・・・。しかし、それは妻や世間が許さなかった場合だ。
「つまり、妻も義父も許容しているということですかな?」
「はい。これはマルセルさんが言っていたことですが、王族はもとより貴族や上級騎士、高ランク冒険者、そして大商会の長たちは複数の妻を持っていて当たり前です。血筋を残すということもあるのでしょうが、経済力のある者がより多くの者を養うという側面もあるそうです。そして有能な者たちを囲うという側面も。」
この世界では男性の平均寿命の方が女性より圧倒的に短い。一番の理由は男性の方が身体的そして性格的に戦闘職につく率が高く、魔獣相手に戦わざるを得ないからだ。他にも街中にいれば安全度は高いが一歩も街の外へ出ないで暮らしていける者は少なく、外に出て魔獣に出会えば優先的に男性が盾になることとなりやはり命を落とす確率が高い。つまり男女比率が均等でないのだ。
「私が遠慮しすぎていたということですか・・・」
商人として非常に有能であり人格的にも慕われているユングだが、入り婿という立場にコンプレックスを感じていたのだ。それでも女性を愛でることを止められなかったのだが。
「これはマルセルさんからのアドバイスですが、奥様を大切になさっている限りは深く考えなくて良いそうですよ。ただし節度を持つようにとも言っていましたが。」
「ははは。そうか。妻も知っていて何も言わなかったということは私から言い出すのを待っていてくれたのかもしれないな。いや、マルセルがこのタイミングで助言をするということは隠し事をしているつもりになっている私に妻が限界を感じているだろうと思ったのかもしれない。うん、感謝しなければならないな。」
実際にマルセルがそこまで予想出来ていたとは大輝は思わない。なにせ2カ月半もギーセンの街を離れていたのだ。だからこの暴露は大輝とユングの間で共通の話題として使うようにとのマルセルの配慮なのかもしれないと思っていた。
(マルセルさんの好意に甘えさせてもらおう。)
この後、しばらくの雑談を経て大輝とユングは互いの情報を交換し合った。大輝からはこれまでの間にマルセルたちから聞いていたことを手紙に記されている内容より詳細に語り、王領で得た情報も開示していく。ユングからはマーヤたちがギーセンの街を出てからのことを詳しく聞いていく。フュルト家の扱いがどうなっているのか、当主の行方はどうなっているのかをはじめ、細かな街の変化やベルナー家の動向についても聞いていく。結局その日は商会の来賓用の客室に泊めてもらう程に時間を掛けたやり取りが行われた。




