第二十五話 監視者
ハルガダ帝国皇帝バラク直下の諜報部隊に所属し、現在アンナ第一皇女の元で任務に就いているこの男の名前はターミル。28歳になるターミルはこの道15年のベテランであり、諜報部隊の小隊長を務めている。そのターミルが帝国北部にある2つの自治領での任務を終えて帰国するなりすぐに新たな任務を言い渡されたのはアメイジア新暦745年5月20日だった。
「たった10日の休みかよ。」
諜報部隊の長である男から告げられた新たな任務は10日後から始まるのだ。通常は国外で活動してきた諜報員には1月以上の休暇が与えられるのだが、今回は特別任務らしく慣例は無視されていた。そして新たな任務の内容は「異世界人の監視」である。10日後に行われる召喚魔術が成功すれば異世界人が現れるらしい。その人物を監視するのがターミル小隊10名の新たなる任務であった。
短い休暇を終えたターミルたちは任務初日の5月30日に大混乱に見舞われる。監視対象者は1人と聞いていたにもかかわらず、白く輝く魔法陣の中からは7人もの異世界人が現れたのだ。ターミルの所属する諜報部隊は全10小隊を合わせても100名だ。各国に散る小隊と休暇を取っている小隊、どう考えても7人それぞれに張り付くには人数が足りなかった。そこで苦肉の策として異世界人には騎士と魔法士とメイドをそれぞれにつけることで監視の目を保つことになる。
初日の混乱によって激務が予想されたが、8月29日までの監視はそれほど苦労しなかった。7人の異世界人が宿泊していたのが迎賓館だからだ。迎賓館はその名の通り国の内外を問わず、要人が宿泊するための場所として建てられている。当然、帝国の諜報員が活動しやすい作りになっているのだ。各部屋の隙間、天井裏、忍び込めない場所はなかった。唯一苦労したといえば、7月も半ばを過ぎたころから2人の異世界人が頻繁に繁華街に行くことになったこと位だろう。娼館の天井裏から裸の男女が嬌声を上げているのを観察するのは慣れているとはいえ精神的にきついのだ。
8月30日。この日から監視体制は大きく変わった。ターミル小隊の監視対象者が1名に限定されたからだ。対象者の名前は黒崎大輝。この3か月間監視が一番楽な相手だった。なにせ、殆ど部屋から出てこなかったからだ。ターミルの大輝に対する印象は「変人」だった。何が面白いのか、部屋内で半日以上も瞑想し続けたり、火や水の形状を変えて人形遊びをしていることが報告されているからだ。
「引き籠もりの監視任務なら楽だな。以後この監視対象を「黒」と呼称する。まあ、残り9か月楽をさせてもらおう。そして終わったら2か月のバカンスだ!」
部下たちに声を掛けるターミル。小隊全員が短い休暇に士気が下がっていたのだ。監視任務の任期は1年、つまり12か月であり日数で言えば360日だ。楽な監視対象であると判断したことにより、残り270日を交代で部下に休暇を取らせながら任務を遂行することにするターミル。
しかし、すぐにその楽観的な判断は取り消された。理由は2つ。引き籠もりだと思った「黒」が旧壁を出た直後に冒険者ギルドに登録し、翌日から依頼を受け始めたのが1つ。もう1つはターミル小隊以外の者たちが「黒」を監視していることに気付いたからだ。
すぐさま長へと報告したターミルは、監視対象の「黒」だけではなく、他国の手の者と思われる他の監視者にも注意を払うように指示される。他の監視者たちの素性調査こそ他の小隊に役目が振られたが面倒事が増えたのは間違いなかった。
「長からの通達だ。これより監視を強化する。特に他国の手の者が「黒」に接触する場合はその会話内容まで把握せよ。「黒」本人へも出来るだけ察知されないように気を配れよ。」
「黒」が帝都で冒険者になってから神経質になった割にはそれほど報告すべき内容はなかった「黒」は毎日黙々と依頼をこなしているだけだし、他国の者と思われる監視者たちにも目立った動きはなかった。唯一の特異な点といえば、帝都郊外でのフォレストウルフ退治だろう。街中と違い、気付かれることを恐れて遠目に監視していたので戦闘の詳細まではわからないが、「黒」が10頭ものフォレストウルフを単独撃破したのだ。当然この情報は長へと届けられたが、特に返答はなかった。
「異世界人は異世界人か。」
引き籠もりに見えた「黒」の戦闘力を聞いてターミルはこれまで以上に慎重に監視することだけを心に留める。
9月11日、突然「黒」がこれまでの行動を変えた。朝一で冒険者ギルドへ行って依頼を受けるところまでは一緒だったが、北門から外へ出たのだ。依頼受付カウンターで封筒を受け取っていたことから配達依頼の可能性が高い。出来ることならギルドに依頼内容を喋らせたいのだが、彼らは余計な情報を出すことはない。せいぜいがこちらが依頼主の場合に、依頼内容に即した人物を紹介してくれる程度だ。仕方なくターミルは追跡を開始する。ただし、他にも監視の目がある以上は相当な距離をとってだ。
しかし、この判断は裏目に出た。「黒」が身体強化を使って30キロもノンストップで走り続けたからだ。確かについていけないスピードではないが、「黒」だけではなく他の監視者たちにもこちらの姿を見せずに追跡するのは困難だった。結果、「黒」を監視する3グループは互いの姿を確認してしまう。ターミルたちはもちろん、他の2グループも同じ監視対象を見ている以上は他の存在に気付いていただろうが、姿を現すのはよろしくないのだ。
「っち!ミスったか!」
ターミルは舌打ちするがすでに遅かった。互いに監視の任を帯びた身であるが、なんらかの決定権を持つわけではない。それぞれの情報を交換するわけにもいかず、かといって任務は放棄できない。失態を報告した上で裁定を待つだけだ。それは同じなのだろう。2グループも特に襲ってくるわけでもなく、互いを見やった後に何事もなかったように「黒」の後を追う。
マサラの街で監視を続けていたターミルへ届いた長の言葉は叱責ではなかった。互いの面が割れたのを好都合と捉えたようだ。「三竦みの状態を維持せよ。」「黒」への他国の接触を防ぐ意図があるのは明白だった。少なくとも「黒」が帝国内にいる間は無理な接触は危険が伴うと意識させられたというのが長の見解であり、その状態を維持することがターミルの役目となったのだ。それを理解したターミルは牽制のために監視の目を他の2グループへと若干振り分ける。それがさらなる失態に繋がるとも知らずに。
9月21日深夜。ターミルたちはマサラの街の北北西120キロ地点の荒地を必死に捜索していた。捜索対象は「黒」だった。
「黒」は18日の早朝にマサラの街を出発した後、街道を北上し続けた。ただし、帝都を出た際のように身体強化で真っ直ぐに走るのではなく、時折街道を左右に外れて魔獣を狩ったり薬草を採取したりと随分と無軌道に行動していた。2泊を街道沿いの野営地で過ごした後、農村で魔獣の皮や薬草を売って路銀を稼ぎさらに北上する。そんな旅人とも冒険者とも言える行動を取っていた「黒」をかなり後方から追っていたターミル小隊が21日に歩みを止めたのは17時頃。「黒」が街道沿いの野営地に入るのを確認したためだった。見張りを残して野営地から1キロほど離れた位置にテントを張るターミル小隊。残念ながら任務中のため火を起こすことはできず、干し肉をそのまま齧ることで空腹を満たし始めた時。
「しょ、小隊長!」
「黒」の見張りについていたはずの男2人のうち1人が駈け込んできた。何事だと報告を聞こうとしたその時、
ドドーン! ドーン!
と連続した物音ともに僅かながらの振動を感じた。反射的に音のした方角を見ると、火の手が上がっている。場所はターミルからみて北北西だ。「黒」の野営地からほど近い。
「何があった!」
緊急事態だと咄嗟に判断いたターミルが部下に問いただす。見張りについていた部下が駈け込んで来たこととさっきの物音が関係しているだろうことはすぐに予想がつく。
「「黒」の野営地に魔獣の群れが襲撃を掛けた模様。拠点から距離があり、また夕闇のために襲撃を行った魔獣の詳細は不明。」
ターミルは迷った。「黒」への接触は禁じられているし、「黒」の戦闘力なら余程の相手でない限りは切り抜けるとも思う。マサラの街への道中でもCランク魔獣であるフォレストベアーを屠っていることも情報として聞き込み済みだ。そしてなによりもこの任務は護衛ではない。
「4人ついてこい。拠点まで行って状況を判断する。」
大きな物音と火の手が上がっていることが気になり、「黒」の野営地後方500メートルに設置した監視拠点まで移動することにしたターミルだったが、移動中にも時折強化した耳へ聞こえてくる戦闘音と思われる音に焦燥感が漂う。監視対象者の状況が不明なことほど恐ろしいことはないのだ。
ターミルが監視拠点に着いてしばらくして戦闘音は聞こえなくなった。しかし、いつまで経っても「黒」の姿は野営地に帰ってこない。すでに周囲は真っ暗であり、「黒」の野営地の焚き火以外に明かりはない。今夜は新月で月明かりもなければ雲に覆われて星の光も遮られている。
「遅いな。」
「剥ぎ取りだけじゃなくて解体でもやってるんじゃないですかね?」
1時間経っても戻ってこない「黒」のことを考えるターミルだが、部下たちは早く食事の続きをしたいらしく呑気なものだった。「黒」が魔獣にやられたなら任務からも解放される。そんな考えもあるかもしれない。なぜなら、護衛対象ではないし帝国に取って有益な人物でもなのだから。「黒」が他国に属さないための監視が任務だ。そして死んだ場合はその死体を確認すれば任務は終了となり晴れてバカンスとなる。
結局2時間経っても「黒」は野営地に戻ってこなかった。ここでようやく不自然なことに気付く。
「剥ぎ取りや解体をこの暗闇の中でやるのは不可能だ。」
戦闘音が響いていた地点は林と荒地、沼地の混合地帯だ。火を焚けばこの暗闇の中では目立つはずなのに見つからない。そうなると、「黒」は魔獣に殺されたか瀕死の状況で動けない可能性が高い。もし瀕死のところを他国の監視者に救われた場合どうなる? 感謝するだろう。
「まずい!「黒」の野営地に行くぞ!ほかの奴らも呼んで来い!」
感謝の証としてその国に仕える可能性は十分ある。それはバラク皇帝、アンナ第一皇女の意向に反する。それを知っているターミルは焦った。500メートルを全力疾走で駆け抜けて野営地に到着したターミルが見たのは、薪が燃え尽き消えかけている焚き火とその上に煮え立ったスープの入った鍋。そのすぐ近くには組み上げられた簡易テントがあり、「黒」が背負っていた背負い袋が無造作に地面に置かれている。おそらく、夕飯の準備をしていたところで魔獣の接近に気付き、剣だけを持って討伐に向かったのだろう。
「これが魔獣が来た原因か。」
木柵を越えて西に30メートルの地点に血だまりがあった。おそらく、「黒」が到着する直前まで冒険者か猟師によって獲物の血抜きが行われたあと、その後始末を怠ったと思われる痕跡があった。血の匂いは魔獣を刺激する。だから必ずその後始末をしなければならないのに、どこかの馬鹿がその手間を惜しんで立ち去ったのだろう。「黒」自身がこれから野営をする地でこのような不始末をするはずがないのだから。
ターミルは戦闘が行われたと思われる地点に到着すると茫然と立ち竦むことになる。
「黒」が魔法を使ったと見られる地点には黒焦げの大木が4本に轟音と震動の原因と見られる倒れた大木が数本あった。その周囲には体長2メートル近い魔獣が3頭息絶えている。3頭はそれぞれ体表に切傷や火傷の痕があり、激しい戦闘が行われたことがうかがわれる。
「ウェイストパンテーラ・・・」
荒地に生息するヒョウの魔獣化したものだ。数は少ないものの、身体能力が非常に高く魔法を当てることは困難であり、余程の熟練者でなければ剣や槍さえも躱されてしまうこの魔獣はCランクに指定されているのだが、それが3頭だ。群れを形成しないはずのウェイストパンテーラが3頭同時に存在していることも驚きだが、それを返り討ちにしたであろう痕跡が信じられなかった。それどころか、この場に「黒」がいないことから3頭以上存在しており、残りとの戦闘もしくは逃亡のために場所を移動した可能性がある。
「集合! これより「黒」の捜索を開始する。しかし、高ランク魔獣が居る可能性が高い。2組に分けて捜索するがくれぐれも気を付けるように!」
そう言って散開したターミルたちが2時間で集めた情報は「黒」の生存を否定する材料ばかりであった。ウェイストパンテーラ3頭の骸から北に200メートルの地点では「黒」の着ていた革鎧の胸当ての部分が爪に引き千切られたかのような状態で見つかった。その西100メートルの地点ではフォレストウルフの骸6つとともに「黒」が持っていたと思われる折れた両手剣が見つかった。さらに北西に300メートルの地点には大きな血だまりがあり、そこから足跡が点々と続き川幅5メートル程の小川にぶつかって消えていた。足跡が人間のものである以上「黒」の可能性が高い。他国の監視者たちの偽装の可能性もあるが、ターミルたちが周囲を走り回って捜索している間に感じられた気配の数が変わっていないことからその可能性は低いと感じられた。彼らも同様に異変を感じて捜索しているようだった。そうなれば少なくとも「黒」が単独で戦闘に突入した上で重傷を負っているのは明らかだった。しかし死体を確認できていない以上は任務を達成できていないし、対象者を見失っているこの状況は不味い。
「再編成する!1班と2班はオレと共に小川の下流を捜索!3班は「黒」の野営地周辺の捜索!4班は近隣の村と街に怪我人が運び込まれる可能性を考慮して領主へ協力依頼を出しに行け!5班は帝都への状況報告だ!行け!」
ターミル率いる捜索班は翌日の昼まで不休で「黒」発見に努めたが、新たに見つかったのは西へと流れる小川の下流500メートルに漂う草色のシャツの一部だけだった。
こうしてターミル小隊を含めた3つの監視グループは黒崎大輝の姿を見失った。