6.募る思いを我慢して(恭介)
6.募る思いを我慢して
俺の今の心境を表すならただ一言。
信じらんねぇ。
梅乃から突然「星見ながら酒盛りしよう」なんて電話があったのはほとんど2時間ほど前のこと。あまりにも唐突の誘いに何かあったのかと駆けつければ、やっぱり何かあった様子で。
だが、その悩み相談が終わったと同時に梅乃はすんなり寝やがった。
それが俺か梅乃の家ならまだ救いようはあった。しかし……。
どうして学校の芝生の上にレジャーシート敷いて座っているんだ!?
しかもその状況で寝るとか。
幸い梅雨にして今夜は雨が降らないことを安心するべきか。
焚かれた蚊取り線香の匂いに泣きたくなってくる。
マジでこいつを殴ってやろうかと思ったくらいだ。
「おい、梅乃。こんなところで寝たら虫さされだらけになるぞ」
「んにゃ……」
こいつマジ起きねえ!!
流石に朝までこの状況は勘弁と思って身体を揺すってやるが、梅乃は「んにゃ」とか「ううーん」とかくぐもった声を出してレジャーシートの上を転がるだけで、一向に起きる気配はなかった。
こいつ、色んな意味でこれがどういう状況か分かっているのか? いや、微塵も理解していないだろうな。とりあえず梅乃が今日、足先だけ出るタイツみたいなのを履いて生足晒してなくてよかったと切に思う。
いやマジで、色んな意味で。
「しっかしどうするよ。俺も梅乃も自転車だし、タクシー呼ぶにしたって門の外まで行かねーとだし……」
出来ればこいつがほんの少しでも目を覚ましてくれたら、俺が担がずに済む。
そう思ってもう一度身体を揺すってやった。
すると梅乃の首元に巻かれてあった薄手のストールがずれて、鎖骨が露わになった。
当然そこに刻まれた赤い痕も目に飛び込んでくる。
俺は思わず拳を握った。
梅乃がお節介だろうが向こう見ずだろうが、そんなことは俺は正直微塵も気にならない。
だが、梅乃のこういう無防備なところには、かなり苛立ちを感じる。
しかもそれを俺の前だけでなく、他の男にも晒していることにだ。
さっきの話――先週の件で梅乃が薬を盛られ、“仲のいい人達”を襲ったという話を聞いたときも、俺は密かに拳を握っていた。そしてそれを普通に俺に話してくる梅乃にも腹が立った。
「勝手だな俺は。話せと言ったのは俺なのに」
梅乃の鎖骨をなぞりながら自嘲気味に言う。
正直な話、梅乃の言う“仲のいい人達”というのは大方見当が付いている。鎖骨の痕を誰が付けたのかということも。
何故ならあのとき俺は、朦朧とする意識の中で見ていたからだ。
フリードがカエルになった瞬間も、突然上がった白煙の中から出てきた見覚えのある二人のアラブ人が、不思議な力を使っていたことも。
気がついたらいつの間にか意識を飛ばしていて、起きたら翌朝自分の部屋のベッドに横になっていた。
だがそれだけは確実に覚えていた。
きっと梅乃が襲ったという“仲のいい人達”っていうのも奴らのことだろう。青い方は梅乃と同じマンションに住んでるって言ってたしな。
そして梅乃の鎖骨の痕は、とにかくあのアラブ二人のどちらかのものだ。俺の嗅覚が正しければ、おそらく赤い方だろう。赤い方とは大学祭の時にしか相見えていないが、あのときと同じ匂いが梅乃から漂っている。
──俺の知らないところで、梅乃が男に迫り、男に襲われる。
そう考えたら無性に苛立ちがこみ上げてくる。
あいつらにも、そんな痕を簡単に付けられてしまう梅乃にも。
すると梅乃が急に苦しげに顔をしかめた。
気がついたら鎖骨を触る指から、いつの間にか爪が飛び出てしまっていた。
ハッとして手を離すが、幸い傷はついてなかった。
俺はほっと胸を撫で下ろす。
そしてふっと笑った。
「ただの大学生、か……」
ただの大学生なら、先週の歓楽街一帯を誰が仕切っていて、あの場にいた奴らが誰なのかということを知っているはずがない。
そう、俺は知っていた。
知っていたのに、気がついたときにはもう遅かった。ただ倒れ伏すだけで何も出来ず、無力だった。
ただの大学生なら、あれを不可抗力だったと割り切ることが出来たのだろうか。
そこまで考えて、ふと思った。
梅乃もいつの間にかただの大学生じゃなくなっている。
なんせいきなりカエルになるフリードとありえない力を使う二人のアラブが側にいるぐらいだしな。しかもその事情をなんとなく知っている風だった。
あいつらの正体までは分からないが、おそらく俺と同じだろう。
梅乃には“普通”の相手がふさわしいと思って身を引き続けてきたが、あんな奴らが側にいるなら俺が遠慮する必要はあるのか?
梅乃はあいつらを襲ってどこまでいったんだ?
まさか最後までいっていないと思うが、そうなるのは時間の問題かもしれない。
それならいっそ、今この場でこいつを奪ってしまってしまえたら──。
「寝込みを襲うとは、感心しないな」
俺が少し身を乗り出したちょうどそのとき、突然そんな声が聞こえてきた。
はっとして腰を浮かせてそちらの方を見れば、ここから10歩ほど離れたベンチに、あの青髪のアラブ人が、アラブ衣装のまま座っていた。
「しかも本能のままにとは。キミは結構利口な方だと思っていたのに」
また別の方から少し明るめの声が聞こえてきた。
何の気配もなく現れたそいつは、青髪アラブが座っているベンチから少し離れたブロンズ像の土台に、こちらもアラブ衣装のままの赤い方のアラブ人が、足を組んで座っていた。
俺は奥歯を噛んだ。
「それは……っ薬にうなされた女を襲った奴らの言うことなのかよ……!」
拳を握りながらそう返せば、何がおかしいのか赤髪のアラブがクスッと笑う気配がした。
「へぇ、梅乃ちゃんがそう言ったんだ? まぁ間違ってないよね、実際襲ってたんだし」
「お前は自分のことを棚に上げるなよ。俺はあれ以来何もしてないからな」
当然だ。心の中でそう毒づく。
お前らも俺もほとんど変わりはないはずだ。
なのにどうして俺は遠慮して、どうしてお前らはこんなに我が物顔でいる?
本当にイライラする。
すると、青髪アラブがため息を吐いてベンチから立ち上がった。
「俺らはただそいつを迎えに来ただけだ。何もするつもりはないから、その角と爪をしまえ」
「牙もね」
赤髪アラブも非常に軽い足取りでブロンズ像の土台から飛び降りると、そう言ってきた。
俺はこいつらの発言に思わず息を飲んだ。
その様子が伝わったのか、赤髪アラブが再びクスッと笑ってこちらに手をかざす。
「どうして知っているのかって顔だね。ボクたちは何でも知っている――キミも、もうボクたちのことには感づいているんでしょ?」
「あ、おいアサド!」
「――!!」
その瞬間、俺の隣で横たわっていた梅乃の身体が、浮いた。
あまりに唐突すぎるそれに、言葉も出なかった。
梅乃の身体はそのまま赤髪アラブの腕に落ちる。
「はぁ、お前はいつも唐突すぎるんだよ」
赤髪アラブの様子に青い方がため息混じりにそう言うと、こいつもこちらに手をかざしてきた。するとレジャーシートの付近に停めていた梅乃の自転車が浮いて、そのまま赤髪アラブの前に飛んでいく。
赤髪アラブはその自転車のサドルに梅乃を後ろから支えながら乗せると、俺の方へ顔を向けてきた。
「今日はまだ木曜日で明日また学校あるんでしょ? キミも早く帰った方がいいんじゃないかな?」
「梅乃は俺らが確実に送り届けるから安心しな。じゃあな」
「――っ!!」
青髪アラブが自転車の後輪を掴むと、裾の長い水色の上着を翻すと同時にその場にいた赤髪アラブと梅乃共々いなくなった。
後に残るのは、梅乃の自転車に並列してあったもう一台の自転車と、レジャーシートの上で立ちつくす俺。
蚊取り線香の煙が鼻につく。
「――くそっ」
この何とも言えない虚無感と苛立ちをどうしたらいいか分からず、俺は近くにあった空き缶をベンチに投げつけ、荒々しくレジャーシートに横になった。
悔しいのは颯爽と梅乃を連れ帰ったあの二人にか、それともいきなり不思議な力を見せられ身動き一つ出来ずにいた俺自身にか。
どうしようもない苛立ちばかりが募る。
するとそのとき、どこかから芝生を踏む音が聞こえてきた。
またあいつらかと急いで起きあがってみれば、どうやら一般人のようだ。
「ふーん、なんだか穏やかな様子じゃないみたいだな。せっかくいい雰囲気だったのによ」
しかしその人物から発せられた低めの柔らかい声を、俺は知っている。随分久しぶりだが聞き間違えるはずがない。
「っていうか未だにモノに出来てないって、俺の時から変わってないな、鬼塚」
やっぱりと思った。
テレビのアナウンサーにでもいそうな整った顔に清潔感のある出で立ち。
それは俺が所属している剣道部のOBであり、そして梅乃の元彼でもある星合昴だった。
「どうしたんすか、昴さん。今仕事で石油掘りに行ってたんじゃないんすか?」
俺の3つ年上の昴さんは、社会人2年目で石油会社に就職している。
本社は確か隣県だし、4月からは出張でしばらく中東に行くと、以前いつかの剣道部の合宿に来たときに言っていたはずだ。
だから、今ここにいるのはかなり違和感がある。
しかも、こんな夜遅くにだ。
すると昴さんはやれやれといった様子で肩をすくめた。
「向こうでの仕事が片づいて帰国してみれば、先週から急にこっちの事業所でしばらく仕事することになってさ。働きづめだからって今日から週末休みもらったから、ちょっと大学に立ち寄ったんだ」
「そうしたら見知った顔がいたから」と意味ありげに口元を笑わせてきた。
俺は何とも言えない気持ちになるが、同時に昴さんは今の光景を見ていたんじゃないかと疑問に思う。
しかし、俺がそれを口にするよりも早く、昴さんが切り出してきた。
「そう俺、梅乃とヨリ戻そうと思っているから」
それはあまりに唐突に、そして予想外にもまっすぐな視線で言ってきた。
喉が、急激に渇いていく。
「それを……俺に言ってどうしたいんすか?」
言葉が知らず震える。
昴さんは何も答えず、ふっと笑うだけだった。
「じゃあまた休みの日でも部活行くから、みんなによろしく言っといて」
まるで今のやりとりがなかったかのように、昴さんは手を振ってその場から去っていった。
梅乃を我が物顔で攫っていく赤と青の二人のアラブ。
かつて俺から梅乃を奪っていった昴さん。
既に握っている拳に、更に力が入る。
すると突然手に痛みが走った。
見ればいつの間にか爪を尖らせていたようで、手から血が溢れていた。
それと同じタイミングで、ズボンのポケットに入れてあるスマホが振動した。 中を確認すれば実家からの一通のメール。
内容を読んで、俺はそれを忌々しくズボンのポケットに戻した。
そうだ、俺はただの大学生じゃない。
だから身を引くべきなのは分かっている。
しかしそう思えば思うほど心は悔しさと焦りに支配され、どうしようもなく梅乃を求めていた。
「7.仲直らない」は明日20時更新予定!