19.グリムの魔女(フリードリヒ)
フリード視点です
19.グリムの魔女
どす黒い硝煙があたりに立ちこめる。
身体に力を入れていないと、僕のような弱小動物はすぐに気を失ってしまいそうだ。
しかし、どんなに堪えていても、煙の中から放たれる気はとても恐ろしく、身体の震えは止められない。
僕はごくりと息を飲んで、鏡から現れたその女を睨み付けた。
黒いとんがり帽に黒いローブに茶色の杖。
とんがった鼻にいっぱいに持ち上げられた真っ赤な唇。
気味悪く吊り上げられた真っ黒な瞳。
ところどころ皺の走った土色の肌は、その女を一層不気味に仕上げている。
この女こそが、『カエルの王様』で僕にカエルの魔法を掛け、『白雪姫』で白雪姫をあの手この手で殺そうとし、他にもおとぎの国のグリム地方で数々の悪事を行ってきたグリム童話の悪い魔女だ。
カリムが僕とカールを背に守りながら、ぐっと奴を睨み付ける。
「一体どういうつもりだ? 何故お前がここにいる?」
「嫌ね、久しぶりに会ったっていうのに随分なご挨拶。もう少し歓迎してくれても良いんじゃないかしら?」
「黙れ! 監獄に繋がれているはずのお前が、何故ここにいる?」
「何故って、出て来たからに決まっているじゃない」
「出て来た? まさか……」
何か心当たりに行き着いたかのようにカリムがハッと息を飲むと、グリムの魔女は悠然と頷いた。
しかし僕には何が何だかよく分からない。
「カリム……どういうこと?」
「あぁ、オリオンの事件の直後、“おとぎの国新聞”に書いてあったんだ――監獄からの脱走、複数地域で多発、とな」
「なんだって……?」
「あくまでおとぎの国での話だと思って油断していた。こんな奴を野放しにするとは、ポリスの連中も歯が立たなかったのか……?」
「歯が立つわけ無いじゃない、このわたくしに!」
瞬間、大きく広げたグリムの魔女の手から凄まじい闇の魔法が放たれる。
すかさずカリムが風の防御を作るが、魔女の威力の方が大きく、そのまま後ろにはじき飛ばされる。それでもカリムは僕とカールへ風を送り、魔女の魔法の直撃範囲外から逃れさせてくれた。
飛ばされた反動で僕は思いっきり部屋の壁へと叩きつけられ、カールは離れたところへと倒れ込み気絶する。同時に化学室にも見えるアサドの部屋の実験台から、ガラス器具が割れる大きな音が鳴り響いた。
首を伸ばして見れば、その台の後ろにカリムが背中から倒れ込んでいる。その長躯から、煙のようなものが上がっているように見えた。
「カリ――」
急いでカリムの方へ向かおうとしたとき、目の前に黒いローブが立ちはだかった。
目線を直上に向けると、恐ろしく細められた不気味な黒い瞳が、僕を見下ろしていた。
すぐ後ろの壁へ、僕はへばりついた。
「あ……あ……来るな……」
「まったく。長年繋がれていた憂さを晴らそうと思っていたのに。代わりにお前で遊ぼうかしらね」
「く……っ待て! そいつには手を出すな!」
すぐに体勢を立て直したカリムが再び風を送ってこちらに飛んでくるが、グリムの魔女は片手を一払いして更なる闇の魔法を放ち、カリムの身体を尚も窓ガラスへと叩きつけた。
「ふん、お前では準備運動にもならないわ」
吐き捨てる魔女の言葉と、普段は頼りになる指輪の魔神の身体から上がる硝煙に、僕は絶望的な気持ちになる。
「さぁ、次はお前の番ね」
魔女が僕へ微笑みかけてくる。
「にしてもお前、よっぽどその姿が気に入ったのねえ。せぇっかくカエルの魔法が解けたって言うのに」
「そんなわけ……ないだろ……」
もっと言うべきことがあるはずなのに、目の前の脅威に舌がもつれて上手く喋れない。
すると魔女の微笑みは一層濃くなった。
「ふふ、そんなに気に入ったならわたくしがプレゼントを差し上げるわ」
「な……何を……」
「一生カエルでいられるようにしてあげる」
「フリード、逃げろ!!」
立ちすくんで動けない僕の目に、杖を振り上げるグリムの魔女と、ボロボロになりながらもこちらに向かって手を伸ばして向かってくるカリムの姿が、同時にゆっくりと映った。
そして次の瞬間――。
「うああああああああああああ!!」
全身を凄まじい電気が流れる。
鋭く刺すような痛みがあちこちに走り、全身が痺れて僕は呻くことしかできない。
「くそっ、フリード!」
「ふん、無駄よ」
視界の端でカリムが僕とグリムの魔女に質の違う風を送るが、敢えなくそれははじき返される。
そうしているうちに、僕の身体を纏っていた電流が止まった。
僕はその場に倒れ込む。
「おい! フリード! しっかりしろ!!」
遠くにいたはずのカリムの声が、真上から聞こえた。僕の身体を揺さぶる大きな手も、彼のものだろう。
痛みに身を捩りつつ、僕はうっすら目を開けた。
「フリード、良かった。大丈夫か?」
視界いっぱいに安堵の表情を浮かべるカリムの顔が映った。
散々グリムの魔女に攻撃されたからか、この指輪の魔神も相当ひどい有様だ。
とにかく身体の無事を伝えなくては。
大丈夫、と――。
「ゲコッ……!?」
自分の口から聞こえてきた音に、僕は自分の耳を疑った。
「ゲコ……っゲコゲコッ!」
「フリード……お前……」
なに、これ。
普通にいつも通り口を動かしていたはずなのに、僕の口から出てくるこの音。
こでではまるで……。
「あらあら、あらあら。いい声で鳴くじゃない! まさにカエルそのものねえ!」
「ゲコッゲコゲコ……ッゲコッ」
「グリムの魔女……お前……」
高らかに笑い声を上げる魔女に、カリムが歯がみする。
僕は未だにこの状況を理解したくなくて何とか言葉を出そうとするが、全く人間の言葉を話せない。
一体どうやったら治るのか、そう考えたとき、一つの予感が頭をよぎる。
まさか、僕はこのままずっと人間の言葉を話せないのだろうか――?
すると、カリムが両手をグリムの魔女へかざした。
「あら? まだやられたいの? しつこいわねえ」
「一つ聞かせろ。お前はこっちの世界に何しに来た。何が目的だ」
固く、鋭い口調でカリムが尋ねると、魔女は鬱陶しそうに目を細めてそれを鼻で笑った。
「何って、分からない? ずぅっと薄暗くて狭ぁくて汚らしい監獄へと繋がれていたのよ?」
「当然だ。お前はグリム地方の至る所に現れ、数々の悪事を引き起こした。むしろ処刑されてないだけマシだろう」
「ほぅら、お前達役人はこぞってそう言うんだわ。そしてわたくしは悪者。まぁ、確かにわたくしは悪者かも知れないわね。それなら――」
魔女は杖をカリムに向けて口元の笑みを濃くした。
「悪者なら悪者らしく、この世界を滅茶苦茶にして、わたくしの恨みを晴らさせていただこうと思ってね!」
「ぅぐぐ……っ!!」
魔女の杖から、鋭い闇の空気砲が放たれる。
先ほど同様カリムが正面で風の壁を作ってそれを受ける。その壁はさっきよりもやや厚さを増してはいたが、魔女の威力に圧されているのが、後ろから眺めていても分かった。
すると、カリムは片方の手で風の壁を守ったまま、もう片方の手を背中で左右に振った。
次の瞬間、カリムの足元から何本もの風の槍が発生し、それぞれあらゆる角度から魔女に向かっていく。
風の壁の向こうで、魔女の口元が歪んだのが見えた。
「ふん、こざかしい真似を……」
しかし魔女は更に杖で床を大きく叩き、杖を握っていない方の手を大きく天にかざして円を描いた。
その円はカリムが送った風の槍を全て吸収し、魔女が放つ闇の空気砲へと織り交ぜていく。
もはや風の壁では抑えきれないほどに、魔女の空気砲の威力は大きなものへと変わり――。
「ぐぐ……っ! ああああああ!!」
遂にカリムは魔女の攻撃を抑えられず、一身に魔女が放った闇の空気砲を浴び、勢いよく壁を突き抜け、隣のテオの部屋の壁へと叩きつけられる。
カリムが倒れたところから、細い煙がいくつも上がっている。
整然と器具が並んでいたアサドの部屋も、すっかり色んなものが散在し、滅茶苦茶になっている。
グリムの魔女が鏡から現れてたったの数発の攻撃で、その場はまるで地獄絵図に変わり果てていた。
あまりの恐ろしさに、僕は動くことすらままならない。
「さて、ここも飽きてきたし、そろそろお外に行こうかしらね」
グリムの魔女は満足そうな表情を浮かべると、一歩、また一歩とゆっくり僕とカールの前を通り過ぎ、部屋の入り口へと向かった。
しかし、数歩僕たちの前へ進んだとき、魔女の足が止まった。
というより、若干魔女がつんのめったように見えた。
魔女はもう一度足を前に出そうとするが、今立ち止まっている位置から魔女が前に進むことは、何故か叶わない。
「なに、かしらこれ。一体どういうこと……?」
苛立った様子で魔女が更にもう一度、足を前に出そうとしたときだった。
「君がいた鏡には特別な魔法が掛けられていてね、例え鏡が割られて君が鏡の外に出られても、鏡から半径5メートル以上先へは行けないようになっているんだ」
「お前は……っ!」
破れた壁から見えるテオの部屋から、愉快そうに話すよく知る声が聞こえてきた。
コツリコツリと固い足音を響かせて現れたのは、赤い髪のランプの魔神アサドだ。
アサドはいつもと変わらぬニヤニヤ愉快顔を浮かべているが、その垂れ目がちな金色の瞳は、全く笑っていなかった。
「随分とうちで暴れてくれたみたいだね。これは黙って見過ごすわけにはいかないなぁ」
「何を……くっひああああああ!!」
瞬間、グリムの魔女が胸元を押さえてその場に膝を突いた。
アサドがゆっくりと魔女の前へと近づく。
「おまけに、君は善良なマーメイドたちに邪悪な魔法で洗脳したみたいだね?」
「何だと……? まさかあのハンスのクラゲとかも、こいつの影響なのか……?」
身体中焼けこげの痕を作ったカリムが、片足を引き摺って戻ってくる。
「半々だとは思うけどね。だけど人魚のアジトにあり得ない量の鏡があって、みんな大事そうにそれを抱えていた。梅乃ちゃんがおかしいのも絶対グリムの魔女が噛んでいるはずだよ、鏡が関わっているはずだからね」
「何だと……」
僕とカリムは息を飲んでグリムの魔女を見た。
最近梅乃の様子がおかしいのは何となく気が付いていたけれど、まさか人魚の一件からずっとこの女が裏で糸を引いていたなんて。
梅乃の暗い顔を思い出すと、沸々と怒りが湧いてくる。
だけど同時にこの女の目に見えない脅威に、身体の震えが更に増す。
「ふん、もともとあの子たちは殺気立っていたじゃない。わたくしはすこぉし力を貸してあげただけよ、事態を面白くするためにね」
「何だと? お前まさか、人魚と梅乃の契約のこと、知っているのか?」
「さぁ、どうかしらね? わたくしは面白ければお前達であろうと人魚であろうとどうなったって構わないからねえ?」
魔女はヒヒヒと楽しそうに笑い声を上げた。
「で、鏡から半径5メートル以上先、だったかしらね? まったく忌々しい魔法が掛かっているものだわ」
「残念だったね。いくら君の魔法が強くとも、行動範囲が制限されているようでは好き勝手出来ない。君の野望もここまでということだね」
「もうこれ以上……好きにはさせない」
「何……!? きゃあああああああっ!!」
アサドがすっと右手をかざすと、魔女は先ほどと同様に胸元を押さえて後ろに下がる。
しかし、今度はカリムの手から伸びた風のロープが魔女の身体を縛り、魔女はアサドの攻撃から逃れられなくなった。
「さあ、最恐の魔女と謳われた君も、ここまでかな?」
「やめ……っやめあああああああっっ!!」
アサドは左手に光の玉を集めると、それを勢いよくグリムの魔女へとぶつけた。
瞬間、鋭い閃光が部屋中を覆い、魔女の悲鳴が部屋中に響き渡る。
声帯を潰されたが如くのそれに、アサドは愉快そうな笑みを濃くし、カリムはじっと光の中心を見守っている。
次第に声は小さくなっていき、ようやくグリムの魔女が力尽きたのだと、少なくとも僕はそう思った――。
「……なんて、そう簡単にやられるとお思いかしら?」
光の中心から、はっきりとした魔女の声が聞こえてきた。
ハッとして声のしてきた方を凝視すると、薄くなってきた光の中で、グリムの魔女が、割れた鏡の中から全くの無傷で勝ち誇ったように笑っていた。
「やっぱり一筋縄ではいかないね」
「くそ……っだが鏡の外へも簡単には出てこられまい。お前の企みもそこまでだ」
「ふっふ……バカね、お前達アラブの魔神は」
「何……?」
「お前達、知らないのかしら。わたくし、鏡の中ならどこへでも自由に行き来できちゃうの」
鏡の中で顎をしゃくって悠然と微笑むグリムの魔女に、アサドは目を瞠り、カリムは息を飲んだ。
「で、なんだったかしら。鏡の外では自由に動けない? それならいいわ、外で好きに出来る力を手に入れればいいものね?」
魔女はおかしそうな笑い声を上げながら、視線をアサドへと流した。
それだけで、この女が何を企んでいるのか、僕たちは一瞬にして分かってしまった。
アサドは金色の瞳を細めていつもの愉快顔を作った。
「なるほど? だけどボクが君にランプを渡すわけがないよね? 当然奪われるつもりもないよ」
「だから、借りていくわね」
「借りる――?」
「おい! アサド、あいつの足元……!!」
ハッと異変に気が付いたカリムが、鏡の中のグリムの魔女の足元へと指差した。
暗くてぱっと見では何があるのかよく分からない。
しかしよく目を凝らして見ると、そこにはショコラ色の髪の――。
「あれは……カール……!?」
僕は目を疑った。
つい先ほどまで僕のすぐ側で倒れていたはずのカールが、魔女の足元で同じように気絶している。
「くそ……っ! カール!!」
カリムとアサドが同時にカールを引き戻そうと鏡に向かって魔法を掛けるが、いずれも敢えなく跳ね返される。
その様子に魔女は高らかに笑った。
「なるほど? 鏡に掛けられた魔法とやらは、魔神の攻撃魔法も効かないようになっているのねえ? これは好機だわ」
魔女は杖を高々と掲げた。
今までで一番黒い闇色の渦が、魔女の前に出来上がる。
「わたくしに楯突こうとしたことを、後悔することね!!」
言葉と共に、作った闇色の渦が鏡から勢いよく放たれる。
瞬間アサドとカリムが咄嗟にシールドを張るが、間もなく辺りは真っ暗闇に覆われ、そして――。
「ぐ……っぐぐあああああっっ!!」
「うっぐ……っ!!」
目とぎゅっと瞑ってその場に縮こまるしかない僕の耳に、二人の魔神の呻き声が響いてくる。
何が起こっているのか、いちはやく確認しなくてはいけないのに、肺に流れ込んでくるひどい空気と四方から掛かる強い衝撃に、僕は堪えるのがやっとだった。
「ふふ……っ待っていなさい。最高に面白いショーを見せてあげるから」
グリムの魔女の声が木霊する。
頭にも響くあの女の声を必死に頭から追い出しながら、僕は何とか薄く目を開けてみた。
未だ真っ暗で気持ちが悪くなる空気の中で見えたのは、部屋の端で倒れたまま指先一つ動かさなくなった赤色の魔神と、反対側の壁際で拳を握って唸る青色の魔神、そして何にも映さなくなった割れたままの真っ暗な鏡――。
魔女の姿はもうそこにはいなくなっていた。




