15.契約の効力
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
梅乃視点です。
15.契約の効力
楽しいものになるはずだった3泊4日のオケの合宿は、最悪な状況で幕を閉じた。
私に腹を立てた夏海は途中で帰り、由希や柳さんや曜子さんには余計な心配ばかりかけさせ、他の団員にはかなり気を遣わせた。正直空気はかなり悪くなっていたと思う。
それもこれも、すべて目の前にいるこの男が原因だ。
「おかえり。残念ながら俺は途中で帰ることになってしまったけど、残りの日程はどうだった? 梅ちゃんなら思う存分楽しんでいるだろうと思ってたけど、その様子じゃそういうわけにいかなかったみたいだね」
家に帰り、リビングに入るやいなや、ハンスはしれっとした様子でそう言ってきた。
ソファに足を組み、クリスが淹れたお茶を切り子ガラスで出来たティーカップで楽しむ様は、さぞかし涼しげで、何もなかったかのようだ。むしろ、隣のソファに座るクリスの方が当事者のようにおどおどしている。
顔を見た瞬間に怒りが湧いてきた。
思いっきり息を吸った私を、すかさずカリムが右側から抑える。
「おい、落ち付けって梅乃。挑発に乗るなよ」
「分かってる、分かってる。あんなのはいつものこと……」
「うんうん、我慢だよ。ハンスも顔合わすなりそんな挑発するようなこと言うなんて、暇だねー」
「そりゃあ、誰かさんに邪魔され気絶させられ起きたらここだったからね。暇を持て余していたところだよ」
カリムの反対側からニヤニヤ愉快顔で嫌味をぶつけるアサドに、ハンスが尚もしれっとした様子で肩を竦める。
その瞬間、アサドの方から冷たい空気を感じたけど、それよりも早く私の怒りが沸騰した。
「あ、おい! 梅乃!」
私はカリムの腕を振り切ってハンスのもとに行き、思いっきり手を振り上げる。
しかしそれは、振り下ろす前にヤツの手に止められてしまった。
ハンスが相変わらず笑わない若草色の瞳で私を見上げながら、クスリと笑った。
「昨日と今日と残りの二日間。俺のことで頭がいっぱいだった?」
「んなわけないでしょ! 誰があんたのことなんか!! 一体誰のせいで夏海とこじれたと思ってんの!! ほんっとうに腹が立つ!!」
「ふーん。まだ足りてないのかな?」
「何を――っ!!」
突然容赦ない力で引っ張られたと思ったら、ヤツの唇を押し当てられた。
すぐにヤツの身体を押し退けようとするけど、逆に背中に回ったハンスの腕が私の身体をしっかり抱き込んだせいで、腕を突っ張ることも出来なくなってしまった。
「んぅふっ!!」
せめて顔だけでも逸らそうとするのだが、いつの間にか頭は固定され、深く侵入してきた舌が私のそれを捕らえ、攻め立てる。
妙な感覚が、這い上がってくる。
「んん……っ!!」
何とか必死に引き剥がそうとするが、ハンスは身体を捻って私をソファに押し倒した。
その瞬間、こちらに駆け寄ろうとする琥珀色の瞳と目が合った。
瞬間、二つの気持ちが、心の中でヤツに訴えかける。
早く助けろバカッっていう気持ちと。
嫌だ! お願いだから見ないで――……!!
すると突然体中に電流が走り、ハンスが私の身体から離れた。
そして気が付いたら私は別の人物に抱きしめられていた。ちらりと赤いベストが見えたから、アサドだろう。カリムはその隣に眉を潜めて立っていた。
ハンスが不愉快そうに二人を睨み上げる。
「……どうして邪魔するかな? むしろこの場は二人きりにして欲しいところなんだけど、察せないものなのかな。お前も、カリムも」
「そんなおいしいシチュエーションをハンスにだけ味わわせるのは悔しいじゃない? ボクだって梅乃ちゃんといちゃいちゃしたいし、むしろハンスがどっか行ったらいいよ」
「アサド、お前もお前でどうなんだ……まぁいい。ハンス、お前こそ梅乃が嫌がってるってこと察してやれよ」
アサドは相変わらず愉快そうに言い、カリムは呆れた様子でハンスを窘める。この状況をずっと見ていたクリスは、顔を赤くして絶句している。
ハンスは一瞬だけ眉間に皺を刻むと、片口角を持ち上げた。相変わらず笑わない若草色の瞳が、私の方へ向けられる。
「嫌がってる? 俺にはまんざらでもないように思えたんだけどな。むしろ、気持ちよかったんじゃないの、俺とのキス」
ハンスはちらりと魔神二人に目配せして言った。ヤツにしては珍しく下品な物言いをしたのも絶対わざとだろう。
一瞬にして私の頭に血が昇った。
「そんなわけないでしょ! 気持ち悪くて吐きそうだわ!! ぺっぺっぺのぺっ!!」
「ふん、素直じゃないね。さっきは目がとろけかけていたのに」
「うるさいっそんなことないし!! あんたなんか本当に大ッ嫌い!! 死んでしまえばいいのにっ!!」
声高に叫んだ私の声がリビングに響く。
流石にこの発言にはアサド以外の面々が私に眉を潜める。
知ったことか! だって本当に最低最悪なんだもん!!
しかし、次の瞬間――。
――だから殺せばいいのよ。
――憎いなら殺してしまいなさい。
――そうすればみんな幸せになれるわ。
つい最近聞いたばかりの声が、頭にハウリングする。
頭が痛くなるほどのそれに、息が詰まりそうになる。
「梅乃ちゃん? どうかした?」
私を抱えたままのアサドが、真っ先に私の異変に気付いた。
何とか足を踏ん張って誤魔化そうとするが、それよりも早くクリスが心配そうな顔を向けてきた。
「本当だ。梅乃さん、ものすごく顔色が悪いよ? 疲れたんだね。何か休まるもの後で持っていくから、今日はもう部屋で休んだ方がいいよ」
「そうだな。ほら、アサド。梅乃上に連れて行くぞ」
「え、いや、みんな大げさ。ちょっとふらついただけで、私は別に大丈――……」
言いかけて私は止まってしまった。
リビングに唯一掛かっている姿見。
ちょうどハンスの後ろにあるその中で、私が、不気味に笑っている。
その『私』は手に鋭く光るものを掲げていて――――。
「ダメッ!!」
私はアサドの手を振り払い、ハンスを鏡の反対方向へと突き飛ばした。
突然のそれに、ハンスはテーブルに躓きソファに倒れ込む。
「おい、梅乃……?」
「どうかしたの?」
カリムが不審げに尋ねてくる。
アサドも愉快そうな表情を浮かべながらも、目を丸くしている。様子を見守っていたクリスも、突き飛ばされたハンスも、わけが分からない様子だ。
私は姿見をもう一度見た。
そこに映っている私は、今の私の心境を表すかのように、青ざめた顔をしている。
毎朝鏡で見る、いつも通りの、私自身の『私』だ。
悪寒が、背中を駆け上がった。
「私……やっぱり気分悪いみたい! 寝てくる!!」
そう言うなり私はリビングを後にした。
さっきのはただの見間違いかもしれない。
あんな顔、私は絶対にしていないし、さっきの光だって窓からの明かりが差していただけかもしれない。
ただの考えすぎかもしれないのだ。
だけど、さっきの姿見の中にいた『私』は、昨日人魚のアジトで見た『私』と同じだった。
私の焦りとは裏腹にかなり落ち着いたにっこり笑顔。
簡単に誰かを殺してしまいかねないような残酷さが、そこには浮かんでいた。
あれは本当に、私なの?
あれがもし本当に私で、人魚のアジトの時と同じことが起こるとしたら。
私は簡単にハンスを殺せ――――…………。
「うーめのちゃんっ!」
「ほわぁっ!?」
自室の扉を開けるなり、突然後ろから体重がかけられた。
同時にぎゅっと抱きしめられる。
十中八九アサドだろう。
「もう、アサド何? 疲れてる時にあんたの体重は重すぎる」
「やだなあ梅乃ちゃん。これでもボク、体重気にしてるんだよ?」
「はあどこが。っていうかそういうことじゃなくて――って、ちょっ!?」
アサドはひょいと私を持ち上げると、つかつかと部屋の中に侵入し、ベッドに私を下ろした。
なるほど。気分が悪いとか言っちゃったから運んでくれたのか。などと一瞬安心しかけて私は後悔した。
アサドが私に覆い被さってきたのだ。
「ちょっちょっとアサド!?」
「ねえ、梅乃ちゃん。ボクもう我慢できない」
「はあ? え、どういう……っ!?」
「ね、キスしていい?」
「は!?」
状況を飲み込めないままに真上を見上げれば、艶のある金色の瞳と目が合った。
いつもは愉快そうにニヤニヤしているそれが、今はどこか思い詰めた様子で真剣味を帯びている。
ふざけている感じがどこにもなかった。
アサドはフッと口角を上げた。
「ハンスばっかりずるいよね。ボクにも分けてほしいな」
「分けてって……っあの、冗談はやめよ? ね? ね?」
「冗談、ね。これでも本気なんだけどな」
アサドは私の唇を親指でなぞりながら囁く。
突然の変わりっぷりに、私は戸惑うばかりだ。
そもそもいつも顔合わせていたせいで感覚が麻痺してしまっていたけど、そういえばアサドも王子たちに負けず劣らず心臓に悪い顔だったということを思い出した。
っていうかこれは、ちょっと本気で、ヤバイんじゃない――――!?
「おい、アサド。お前もいい加減にしろよ」
低い呆れ声と共に、アサドの身体が離れていく。
遅れて部屋に入ってきたカリムが、アサドを引き離してくれたようだった。
「もう、いいところだったのに邪魔しないで欲しいな」
「お前、その言い方ハンスと一緒だぞ」
「だってボクも梅乃ちゃんといちゃいちゃしたいもん。ね、梅乃ちゃん」
「ねって言われても……」
言っていることはなかなかに恥ずかしいことだらけだけど、アサドはすっかりいつものニヤニヤ愉快顔に戻っていた。ただでさえ色んなことがありすぎてどうにかなりそうなのに、こんなアサドのおちゃらけに付き合わされて、本当に心臓に悪い。
「まぁでも、少しは気が紛れたでしょ?」
ほんの少しアサドは悪戯っぽく笑った。
調子の良いことを言いやがってと瞬間思うが、確かにさっきまで頭に響いてきた人魚の声も嫌な悪寒も気が付いたら無くなっていた。
普段は困るけど、こういうときアサドのおふざけは正直ありがたいと密かに思う。
「ねえ梅乃ちゃん、昨日人魚たちとどんな話したのか、まだ話せない?」
アサドは声のトーンを落とした。
ヤツにしてはやけに柔らかい声色。こちらに向けられた金色の瞳は、私を気遣うような色が浮かんでいる。
その横で床に座っているカリムも、真剣な眼差しを私に向けていた。
二人の視線に、胸が詰まりそうになった。
あの契約のことは、まだ誰にも話していない。
そもそも昨日のことは全く現実味が湧いてないし、あの契約は本物だったのかすらも疑問だった。何よりあんなことになるなんてというショックが大きすぎて、気持ちの整理が付いていなかった。
でもさっき聞こえてきた人魚の声。そして鏡の中の私。
やっぱりあの契約は嘘なんかじゃない。
私は夏海を助けるためにハンスの命を差し出してしまったのだ――。
その事実を再確認すれば、再び身体が震え上がりそうになる。
だがいくら悩んだところでその現状は変わらない。
それなら今は一刻も早くこの状況を打破するしかない。
私は魔神二人を見上げた。
大丈夫。
私にはまだ心強い味方がいるんだから。
「あのね、実は昨日――」
しかし、異変は再び起きた。
続く言葉が、音にならなかった。
ちゃんと口を動かして喉を鳴らしたはずなのに、声が出なかった。
人魚の声が、再び頭に反響する。
――契約を反故しようなんて許さない。
――破ったらお友達がどうなるか、分かっているでしょうね。
――あたしたちを甘く見ないことよ。
「――梅乃?」
カリムの声に、ハッとする。
いつの間にか不審な目つきをしてる琥珀色の瞳と目が合った。
アサドも気が付いたらいつもの笑みが消えている。
二人とも、察してくれているのに――。
「ごめん、少し横になる」
二人の視線から逃れようと、私は頭から布団を被った。
同時に、今度はちゃんと声が出たことに内心驚く。
一体どういうこと?
「言いかけたのに、まるで事情を話せない魔法でも掛かってるみたいだな」
「なるほどね。分かった。とりあえず、もう一度人魚のところに行ってくる」
「そうだな。今度は俺も一緒に――……梅乃?」
立ち上がったアサドに便乗して腰を浮かしたカリムが、目を丸くしてこちらを見てきた。
思わず咄嗟にカリムの腕を止めてしまっていた。
「どっちかは、そばにいてよ……」
横になるとか言っておきながら、今一人になるのは怖かった。
人魚たちの声もそうだし、鏡のこともそう。
誰かに見張られていないと、自分が自分じゃなくなる気がした。
掴んだ手に、きゅっと力を入れる。
どちらかのため息が漏れ聞こえた。
「……カリム、梅乃ちゃんについててあげなよ」
いつものように愉快そうにしながらも、どこか硬い口調でアサドが言った。
「あ、でも梅乃ちゃん襲ったらこの部屋出禁にするからね」
アサドはそれだけ言い残して部屋を出て行った。
瞬間、頭がフリーズした。それと同時に、一ヶ月前の事件が脳裏をよぎる。
ちょっちょっちょっとアサド! 何を思い出してくれてるんだ!
忘れてたわけじゃないけど、なんでこのタイミングでそんなことを言い出すのか。
というか私も私で、改めて考えたらなんちゅー恥ずかしいことお願いしてるんだろう。
一人になりたくないとはいえ、こんなのキャラじゃなさ過ぎる!
私は掴んでいた手の力をそっと緩める。
すると、カリムがその手を握りながら、ため息を吐いた。
「はぁ、あいつは相変わらず……梅乃、気にしなくていいぞ」
「あ、あのカリム……」
「ん?」
「やっぱり平気そうだからどっか行きたいなら行っても構わないよ――……」
尻つぼみになりながらカリムの顔を見上げれば、眉間に皺を寄せて悩ましげな顔を浮かべていた。
と、次の瞬間には頭に布団が掛けられた。
「ふがっ! ちょっ……っ」
「あーもう、心配しなくても何もしないから、お前は安心して寝てろって」
そりゃあそうだ。何かあったら本当に困る!
そう思うのに、こうもはっきり言われると、それはそれでなんかもやっとする。
んでもってもやっとする自分にもやっとする。
もうわけわかんない。
何とか布団から顔を出せば、額に大きな手が乗せられた。
少し呆れた様子の残る琥珀色の瞳と目が合った。
「しかし顔色が悪いな。そりゃあそうか。この数日間で色々ありすぎたしな」
「本当だよね……今年の夏休みは終わったなぁ」
「自分で終わらすなよ。まだ序盤なんだろ?」
「そうだけどさぁ」
ハンスに迫られ、夏海と喧嘩して、カールのくそ野郎に掻き回されて、人魚の契約。
夏休み入った途端にこれだよ。
しかも日に日に事態は悪くなるばかりで気が滅入る。
「それなら今度花火でも観に行かないか?」
再び陰鬱とし始めたところで、カリムが突然そんなことを言い出してきた。
「え、花火? 何でここでそんな話が出てくるの?」
「何でって、今年の夏休みで楽しい思い出ってまだないんだろ?」
「そうだけど、でも、いいのかなぁ?」
「誰に許可が必要なんだよ。それにお前だって気晴らしが必要だろ? そんな問題ばっかり抱えたまま家に閉じこもってたら、頭がイかれるぜ」
本当にその通りだ。頭がイかれそうになるほどに、色々起きすぎて嫌になる。
自業自得なものあるけど、このままいても気分が下降する一方で、どうにかするにも打開策なんて浮かばない。
確かに気張らしが必要なのかも。
少しくらい、罰当たらないよね?
そのとき、視界の端で何かがキラリと光った。
それは部屋の端に立てかけてある姿見。
私は再びカリムに腕を伸ばした。
「ねぇ、しばらくの間、私のこと監視しててくれない?」
「は? 何を言い出すんだ?」
「お願い」
私はきゅっと手に力を入れた。
最初カリムは困惑した様子だったけれど、次第に何か察したように額に乗ったままの手を数回バウンドした。
伝えられないなら現場を見せるしかない。
とにかく契約の遂行だけは、何としても阻止しなきゃならないんだ。




