12.6人の人魚
12.6人の人魚
湿った風が、頬を鋭く撫で付ける。
さっきまでは止んでいた雨も再び降り始めて、全身どこもかしこもびしょ濡れだ。肌に張り付いた服が少しだけ気持ち悪い。
だけどそんなことを気にせず私は合宿所の方に向かって走り続けた。
とにかく走っていないと何をするか自分でも分からないでいた。
カールのヤツ……本当にありえない!!
あんな下らない“秘策”でどうにかなると思っているあいつの脳みそを疑うわ!
あのくそボン野郎め!!
思い出すだけで、腹が立ってくる。
鼻の頭がつんとして目頭が熱くなってきた。ぎゅっと目を瞑ると、溜まっていた涙が零れた。
いつの間にか私の足は緩やかになっていて、気が付いたら立ち止まっていた。
私はその場にしゃがみ込む。
本当にどうしてカールの策にかかっちゃったんだろうか。
強くなった雨足は、まるで夏海の怒りを表すかのように、激しく背中に突き刺さる。
でも、いくら悔やんだところで夏海はもう家に帰ってしまったし、そもそも私ともう二度と目も合わせてくれないだろう。
どれだけ泣いたって時間は戻らないのに、涙ばかりが次から次へと溢れ出て止まらなかった。
「梅乃ちゃん? どうしたの?」
何の気配もなく、よく知る軽い声が上から降ってきた。
それと同時に私を突き刺してきた雨が当たらなくなる。
私は顔を上げた。
思ったよりも近くにあった赤い頭。
愉快そうに持ち上げられた口角。
しかし、いつもは愉しそうに細められた金色の瞳が、今は何故かものすごく優しそうに見えた。
「アサドぉ……もうダメかも……」
「うん、話してごらんよ」
縋り付くように近くにあったアラブベストに手を伸ばせば、アサドは私を落ち着かせるように大きな手を背中に回し、私を自分の胸元に引き寄せた。
こんなこと、いつもならすぐに突き飛ばすのに、このときの私はそんな余裕もなく泣きついた。
背中をさするやけに優しい手を感じながら、私は合宿所でのことやコンビニでのことを全て話した。
「うーん、なるほどね。それは確かに深刻だね」
しかし言葉とは裏腹に、アサドはいつもの如くどこか愉快そうな雰囲気を醸し出す。
人が必死で悩んでいるのに、その反応は流石に薄情だ。
私は反射的にアサドの腕から逃れようと藻掻く。
「やっぱあんたに聞いてもらわなくてもいい!」
「ええ、何で梅乃ちゃん。こういう時こそボクの胸で受け止めてあげるのに」
「うるさいうるさい!」
必死にヤツの手を振り払おうとするのに、アサドは大きい体格を利用して私を腕の中に押さえ込む。
ますます逃げられなくなって私はアサドを睨み上げる。
すると、アサドは金色の瞳を意味ありげに細めた。
「まぁ落ち着いてよ、梅乃ちゃん。とりあえず夏海ちゃんと話するのはひとまず置いておこうよ」
「はあ? 何でそうなるの」
「ほら、お互いに冷静にならないとダメでしょ。それよりも梅乃ちゃん、出来ることが他にもあるよ。むしろ今はそっちの方が良いかもしれない」
「どういうこと……?」
この愉快顔から発せられた“今出来る良いこと”に、私は眉根を寄せるしかなかった。さっきのカールの秘策に続いて、また誰かの策略で夏海との仲を掻き乱されるのかと、頭の中は警戒心でいっぱいだ。
しかし、例えこの遊び好きとはいえ、アサドはれっきとしたランプの魔神。その魔神が提案する“良いこと”というのが何なのか、正直気になる。
私の心中を察したのか、アサドはニヤリと口角を持ち上げた。
「とりあえず、ボクに付いてきて」
「へ? って、わあああああ!!」
アサドは突然私の身体をお姫様だっこし、そしていきなり宙に浮かび上がって凄まじい勢いで空中移動を始めた。
何が起きたのかと私は思わずアサドの首に手を回す。
「えっちょっえっ!?」
「しっかり掴まっててね。まぁ、ボクが梅乃ちゃんを落とすなんてことは絶対あり得ないけど」
「ちょっちょっと待ってアサド! どこに向かおうとしてるのこれ!?」
訳が分からなくて必死にアサドに問いかければ、アサドは至ってあっさりとした様子で答えた。
「人魚のところだよ」
「に……っ――――!?」
「人魚!?」と言う間もなく、私たちは海の中に飛び込んだ。
やばい、死ぬかも! と思って咄嗟に息を止めて目を瞑る。
しかし、確実に海の中に入る瞬間を見たのに、どうにも水の中に入っている感覚がしない。さっきよりもだいぶ深く潜っているはずなのに、耳もそんなに痛くないし、息もそんなに苦しくなかった。
恐る恐る目を開ければ、どうやら私たちの周りには特別なシェルターが出来ているようだった。これもアサドの魔法なのだろう。
辺り一面は真っ青な世界が広がっていて、深海性の小型のサメやエイがゆったり泳いでいた。上の方を見上げれば、小魚の大群が泳いでいて、もはや水面が見えなくなっていた。
「うわ……すごい。水族館の中にいるみたい」
「むしろ水族館がこれを真似てるんだけどね。もう少しで着くよ」
そうして更に深いところへ潜っていく。正直ほとんど暗くてよく分からないのに、アサドの目は優れたものだと感心する。
しかし、どういうわけか、目的のところは私にもよく見えた。
何十メートルもしくは何百メートル潜ったのか分からない。
本来なら光も射し込まないような深い深い海の底。
その中で、唯一淡い光を放っている珊瑚礁で出来た建造物があった。
ここが、人魚の住処――――?
アサドは珊瑚の建造物の前まで行くと、私を海底に下ろした。
そして何の臆面もなしに、その扉を叩いた。
「やあ、麗しのマーメイドたち。ボクが誰か分かるだろう? ランプの魔神のアサドだよ」
そこでようやく私は状況を理解した。
というか、瞬く間に海の底になんて連れてこられたものだから、今になって人魚と会うという実感が湧いてきた。
頭の中が一気にパニック状態。
えっと、要するにアレだよね。ハンスと夏海の件を交渉しなくちゃいけないのよね?
そんな大事なことなのに、前置きなしにいきなり連れてこられたら、何話せばいいのか分からないじゃないか!
えっどうすればいいの!?
などとゆっくり考える間もなく扉が開かれた。
「やーん、久しぶりじゃなーい! みんな、アサドが来たわよ!」
「あらぁ、アサド会いたかったわぁ!」
「わざわざここまで来てくれるなんて、なんて色男なのかしら!」
「こっちの暮らしはどう? カリムは元気?」
「会いに来ない薄情者の指輪魔神は忘れましょ!」
「私たち、みんなアサドに会いたかったのよ!!」
やたらとテンションの高い6人の女の子たちが、次から次へと建造物の中から飛び出てきた。
みんな下半身には魚の尻尾を生やし、顔の横にはトゲトゲの耳。ピンクやグリーン、イエローなど、それぞれグラデーションのかかった綺麗な長い髪を水に浮かばせている。
そしてみんな、とてつもなく美人さんばかりだった。
これが、人魚……。
空想上でしか知らない存在を前にして、私は呆然とする。
おとぎメンバーと関わるようになってこれ以上驚くことはないだろうと思っていたけれど、そんなことはなかった。
しかし、そんな私を置いてけぼりにしてアサドは人魚たちの輪の中に入っていく。
「やぁごきげんよう。みんなも相変わらず可愛いね。食べちゃいたいくらいだよ」
「んまぁー上手いんだからぁ!」
えっと……お前は一体どこのホストだ。
人魚たちも神々しい見た目とは裏腹に、かなりギャルっぽいはしゃぎよう。なんか雰囲気がイメージと違いすぎる。
すると、一人の人魚が私に目を向けた。
「あら? あの子は誰?」
「あぁ、彼女は梅乃ちゃん。ボクの大事な大事な愛しのご主人サマだよ」
人魚たちの輪の中からこちらに瞬間移動して、アサドは私を後ろから抱きしめる。
何なんだ、その紹介は。
私はアサドをどうにか引き剥がそうとするけれど、やっぱりこの体格差じゃ難しい。
「ふーん、アサドって冴えない子の世話するの好きよねー」
「前のご主人もほんっとうにみすぼらしい男の子だったもの」
「あの子もゴミ臭かったわ」
「あら、でも彼は磨いたら光ったわ。今ではアラビアンナイトのプリンスよ?」
「それはもともと素材が良かったのよ」
「もしくはアサドの腕が良かったのよね」
6人の人魚たちは、まるで値踏みするような視線をこちらに向けながら、私たちの周りを泳ぎ回る。
この人魚たち……なんだかものすごく失礼じゃない?
彼女たちが話題にしているアサドの前の主人、『アラジンと魔法のランプ』の主人公アラジンが、どれだけ昔はみすぼらしくて今がどれほどかっこいいのか知らないけれど、暗に私の場合は磨いても光らないと言っているようなものじゃないか。
そもそもおとぎの国の住人と比べるなんて間違ってるよ。
「君たち、分かってないね。ボクなんて毎日ベッドに忍び込みたいと思ってるのに」
ひいぃぃぃ! なんてことを言ってくれるんだ、このチャラ男め!
いくら冗談だとしても、多大なる好意を寄せてくれている人魚の前でそんなことを言わないで欲しい。
案の定、キンとした視線が6方向から向けられる。とてもイタイ。
その中でも、やけに棘のある視線を一人の人魚が送ってきていた。
私はそちらに顔を向けた。
その人魚は、グラデーションのかかった鮮やかなパープルの髪を、まるで怒りに逆立てたみたいに水中に浮かせ、綺麗な紫色の瞳をきつく細めながら、私を指差した。
「あたし、この子知ってるわ。叔父様をたぶらかした女よ」
「は……?」
言っている意味がよく分からない。
だって彼女たちとは初対面だし、人魚たちの関係者なんてハンス以外に知らない。
なのに他の人魚たちも、私に向けた視線に憎悪を含ませていく。
「まさか、こんな子に騙されたの?」
「せっかくこっちの世界で新しく生まれ変わったというのに……!」
「それじゃあ、もしかしてあの男と関係あるのかしら」
「あの憎きハン――ああっ名前を思い出すだけで腹立たしい!!」
「口が穢れるもの、言わなくていいわ!」
よく分からないけれど、話が一気に飛躍している気がする。
一体何? 誰のことで怒っているの?
だけど、それを指摘するにも、既に彼女たちの美しい顔は、恐ろしく歪められていた。
滲み出る憎悪のためか、澄んだ海の底はいつの間にか禍々しい空気に包まれていた。
濃くなる殺気に、私の身体は知らず震え出す。
それを安心させるように、アサドがきゅっと私を抱きしめる腕に力を入れる。
「それは間違いだよ。身内の前で言うのもなんだけどね、梅乃ちゃんはオリオンをたぶらかしてなんかないし、むしろオリオンが梅乃ちゃんを利用しようとしたんだよ。そもそも彼は、窃盗犯で誘拐犯だった。梅乃ちゃんに関係なく彼は悪い人物だったんだよ」
アサドの弁明に、私はようやく彼女たちの言っていることを理解した。
ギリシア神話の中でも有名な登場人物オリオンは、海の神ポセイドンの息子で、腹違いの兄の子であるこの6人の人魚たちの叔父にあたる。ギリシア神話の中でサソリの毒で死んだオリオンは、こちらの世界で姿を変えて新しく生まれ変わっていた。
それが私の元彼の昴さんだった。
昴さんは、前世で自分を虐げたギリシア神話の神々を憎み、昔の恋人を忘れられずにいた。そうして彼は、おとぎの国からかぐや姫の宝物を盗み、織り姫を攫い、そしてこちらの世界で私からランプを奪って、復讐と復縁を目論んだ。しかし、最終的にこちらの世界に来たおとぎの国ポリスに彼は逮捕された。
たった二週間前に起きた、ぞっとするような出来事。
そもそも私なんか殺されかけたっていうのに、何で責められるのかが分からない。
流石にこれには人魚たちも納得せざるを得ないようで、彼女たちは渋々と憎悪を引っ込める。
「まぁ良いわ。それよりアサド、その新しいご主人様を連れてわざわざここに来るって事は何かあってのことなんでしょう? とりあえずこんなところもあれだから、上がってちょうだい」
一人の人魚がため息混じりに建造物の中へ手招きする。
それに続いて3人の人魚が先に中に入った。
「梅乃ちゃん、準備はいいかい? ここからが本番だよ」
人魚たちの後ろに続きながら、アサドが小さく耳打ちする。
ここに来てから驚かされて怯えさせられてばかりだったけれど、とにかく私はここで人魚たちにお願いしなくちゃいけないのだ。
少なくとも夏海に呪いの念を送るのをやめてもらわなくてはいけない。
ハンスのことは何も考えてないけど、その辺はアサドが何とかフォローしてくれるだろう。
不安な気持ちを胸に、私は人魚たちのアジトに入った。




