8.なかったこと
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8.なかったこと
「俺は梅乃のことが好きだ」
いつもクールに涼しげに喋る声に、どこかせっぱ詰まったものを感じる。
いつもは人を見下す若草色の瞳が、切なげに細められながらも、まっすぐにこちらに向けられている。
見るからに真剣そうなそれを、私はまっすぐに睨み返した。
「私はあんたなんか嫌い」
はっきりとした発音と、よく通る声で言い放つ。
瞬間、ハンスの眉と瞳がぴくりと動く。
私はこの勢いのまま、更に続けた。
「そもそも、こんなの正気の沙汰とは思えない」
「……まさか、これでもまだ冗談だとでも言うつもり?」
「当然でしょ? 仮にそれが本気だとしても、私はそれに答えるつもりは一切ない。だから、さっきのことも、この話もこれで終わり。お互いなかったことにしよ」
私は若干嘲笑気味にそれだけ言うと、ハンスから目を逸らして更に一歩下がり、手の甲で唇を擦った。
一刻も早く唇に残る感触を消してしまいたかった。
今起こったことと一緒に、何もかもなかったことにしてしまいたかった――例えそれが手遅れだとしても。
「…………なかったこと?」
「え――?」
ハンスは喉の奥で低く呟くと、離していた距離を一気に詰めて私の腕を引っ張った。
あっと思ったときには、既に私の身体はハンスの腕の中にいて、腰をがっしりと固定されている。
ハンスの手が私の顎を掬い上げ、若草色の瞳と目が合う。
先ほどまで切なげに細められていたそれは、仄かに奥を光らせ、苛立ちを顕わにしている。
相変わらず瞳は笑わないまま、口元だけが笑みの形を作った。
「なかったこと、ね。それで? 梅ちゃんはなかったことに出来たの?」
「ここ」と、私の顎を掴んでいた手が、そのまま首筋から鎖骨へと降りる。その質問と手が意図することにすぐに気が付くと、思わず身体がぴくりと動いてしまった。
そこはひと月前、カリムに痕を付けられた場所だ。
正確にはその後にアサドに何度もからかい半分で付けられてはいるけれど、カリムのは完全に事故だった。だからお互いになかったことにしたし、あれから色々あってあんなことは記憶の彼方へ消えていったはずだった。
消えていった、はずだったのだ。
「……そんなのあんたに関係ないでしょ」
私はハンスを睨み付けたまま、かろうじて答えた。
ハンスはつまらなさそうに瞳を細めるだけだ。
「そうだね、関係ない。だけど、それを言われた側の気持ちはある程度は汲んでもらえるとは思ったんだけど」
「痛……っ」
不意に鎖骨に置かれた指に力が入れられる。
突然与えられた痛みに顔をしかめれば、気が付いたらハンスは身を屈めて顔を耳元へ寄せてきた。
「俺は――なかったことになんかさせない」
「え……ちょっやだ……っ!!」
囁くようなその台詞と同時に、首元に息がかかる。それが何を意味するかなんて明白で、思わず私はハンスを押しのけようと藻掻く。だけどハンスの力は私以上で、ビクともしない。
ただでさえどうにも出来ないところまで来てしまったというのに、これ以上追い詰められたらどうすればいいの?
「――そこまでだ」
焦りと絶望に飲み込まれようとしていたとき、私の首元に触れていた柔らかい感触が急に遠のいた。それと同時に、後ろ向きに強い力がかけられる。
いきなりのことに後ろによろければ、筋肉質の頑丈な腕に背中を支えられ、濃紺色の髪が視界に入る。
「一方的に押しつけると、嫌われちゃうよ?」
するとどこか愉しげな声が聞こえてきた。見れば、いつの間にかハンスの後ろにアサドが来ていた。アサドはこの上なくとてもいい笑顔を浮かべているけれど、同じくらいにドス黒いオーラが漂っているように思える。
ハンスは私とカリム、そしてアサドへと順に視線を送ると、顔を歪めてアサドに掴まれていた腕を乱暴に振り払った。
「……そんなこと、お前たちに言われる筋合いはない」
「でもほら、まだ病み上がりでしょ? 今日はこの辺にしておきなよ」
それは確かにアサドの言うとおりだった。未だに身体にクラゲの毒が残っているせいか、ハンスはアサドの腕を振り払った反動でバランスを崩し、結局はアサドに受け止められた。
アサドの苦笑に、ハンスは更に機嫌を悪くし、舌打ちをする。
「梅乃も今日は色々あったんだ。察してやれ」
「そうそう。それにこれ以上言い合いしたって、進展する兆しなんてなさそうだしね」
カリムとアサドがそれぞれそう諭すと、ハンスは一度自分を落ち着かせるかのように盛大にため息を吐いた。ハンスは乱れていたブロンドの髪をかき上げると、まっすぐに私に視線を定めてきた。
「俺も少し頭に血が昇っていた。今日はこの辺にしておくよ。だが、さっきのことは取り消さない、俺は本気だ」
それだけ言うと、ハンスはアサドに支えられていた腕を振り払い、そのまま去っていくかのように思われた。
だが、去り際にハンスはその不機嫌そうな顔をアサドに向け、何か呟く。その瞬間、アサドとハンスの間で何かが鋭く光り、そしてハンスの身体が崩れた。
「一体誰のおかげで一命を取り留めたと思っているんだろうね?」
さっきはハンスの身体を受け止めたアサドだけど、今度は受け止めもせず、ただ鋭い視線を倒れたハンスに送るだけだった。
顔はいつものように愉快そうに笑っているのに、どことなく苛立ちが垣間見えるのは気のせいじゃないだろう。むしろ、こんなにも苛立ちを露わにしてるアサドは珍しい気もする。それほどのことをハンスが言ったということなのだろうか。
「さてと、ボクはハンスを連れて先に戻るよ。梅乃ちゃんは気が落ち着くまでゆっくりしておいで」
アサドはそれだけ言い残すと、地面に倒れたハンスの身体を浮かせて、一瞬のうちにどこかへ消えていった。
アサド達が来てからというもの3人のやりとりをどこか遠巻きに見ていたのが、ハンスが消えたことで、ようやく自分の感覚が戻ってくる。それと同時に、さっきの出来事が一瞬にしてフラッシュバックする。
私は衝動的に唇をこすった。
すかさずカリムが抑えに掛かる。
「おい梅乃、やめろ、口が腫れるぞ」
「やめてよ放してよ!」
「ダメだ、そんなことしたって消えないんだからやめろ」
「うるさい! だったらカリムが消してよっ!!」
その瞬間、カッと頭に血が上り、私は身体を反転させてヒステリック気味にカリムの胸を叩いた。もう、何を言っているのかも自分でも分からないくらい、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「カリムだったら全部なかったことに出来るでしょ!? なんとかしてよっ」
「お前、何を言って……」
こんなのただの八つ当たりだって分かってる。だけど、唇に残る感触に、さっきの出来事に心を掻き乱されてどうすればいいのか分からない。
カリムは困惑した表情を浮かべながら、しばらく私の八つ当たりを受けてくれている。なんだかそれが無性に空しくなって、私はその場に崩れた。
私に泣く資格なんてないのに、溢れてきた涙は止められなかった。
「ねぇお願い、時間を戻してよ……」
今ほど時間を戻して欲しいと思ったことはなかった。ハンスにキスされて、ハンスの気持ちを聞いてしまって、ただでさえ夏海との関係がぎくしゃくしていたというのに、もう二度と口も聞いてもらえないかもしれない。
夏海と何のわだかまり無く過ごしていた頃が、もはや幻のように思えてくるほどに、どうすればいいのかまるで分からない。
すると、膝に埋めた頭に、大きな手が乗っかった。
いつだって私を安心させてくれる大きな手だ。
だけど、降ってきた言葉は私の期待を裏切るものだった。
「悪いがその願いは聞いてやれない」
カリムは私の気を落ち着かせるように、頭に乗せていた手を背中に滑らせ、ゆっくり背中をさする。
「まぁもっとも俺じゃ時間を戻すなんてことは出来ないが、仮に時間を戻すとして、一体どこまで戻すつもりだよ? この合宿の前まで、ではないだろ?」
その通りだ。だって夏海とぎくしゃくしだしたのも、ハンスがやたらと構ってきたのも、もっと前だ。少なくとも昴さんがあれこれ絡んできたときには、夏海は私に距離を置き始めていたように思える。
それならどこまで戻ればいい? どこまで戻ればこんなに面倒なことにならない?
もういっそのこと、ハンスと出会う前から戻れたら――。
「もしお前が考えているのが俺の予想通りなら、ハンスどころか俺達と過ごした時間も全部、なかったことになるんだろうな」
ぽつりと聞こえてきた言葉に、私は思わずカリムの方を振り返った。
カリムは少し困ったように笑って、私の頭を上から下へと撫で下ろす。
「梅乃の気持ちがどうであれ、なかったことには出来ない。時間を戻したところできっと変わらない。それにお前だって、分かってたんだろ? 遅かれ早かれこうなるだろうことは」
それはカリムの言うとおりだった。
――ハンスさんの気持ちだって、本当は気付いていたんじゃないの?
さっき夏海にそう言われたとき、私は咄嗟に否定できなかった。正直言えば、ハンスの行動にそういう素振りがあるのではないかと、以前から薄々感じていたのだ。
でも、ずっと考えないようにしていた。
だって、相手はあのハンスだ。
面と向かえば嫌味ばかりでいけ好かないヤツだけど、それでも同じ家で過ごしていて、学校では夏海に想われている。そいつがまさか心の内でどう思っているかなんて考えてしまえば、何もかもが崩れる気がしていたのだ。
だから、ずっと考えないようにしていた。
現実を見ないようにしていた。
「これからどうすれば、いいのかな……?」
「それは、俺が言わなくても、お前は分かってるんだろ?」
「分かってるけど……ハンスはともかく、夏海はもう、口も聞いてくれないと思う……」
さっき本人にそう言われてしまったのだ。面と向かって拒絶されてしまった以上、どうやって夏海と向き合えばいいのだろうか。
再び拒絶されたら、もう立ち直れる自信なんかない。
すると、カリムが再びため息をこぼした。
「あんな現場を見たら、そりゃあ気持ちの整理も付かないし感情的になるだろうな。でもお前ら、ハンスとの付き合いなんかよりもっと長いだろ? それくらいで向き合えなくなるような友情かよ」
えらく簡単に言ってくれる。そんなこと言ったって、こじれるときはとことんまでこじれるというものだ。そんなのどうしようもない。
だけど、このまま何も話さないままでいれば、多分この先夏海とは本気で喋れなくなるかもしれない。上っ面の会話しか出来なくなるのはもっと嫌だ。
それに、夏海が私に対して怒る理由も分かる。
私がずっと、夏海の気持ちにもハンスの気持ちにも、見て見ぬフリしていたから――。
「ごめん……八つ当たりして。それになかったこととか無茶言って」
「いいさ、それでお前の気が落ち着いたなら。まぁ散々きついこと言っておいてアレだが、今はとりあえず何も考えずに休め」
ぽんぽんと背中を叩くカリムに、私は無言で頷いた。
とにかく明日になったら、ちゃんと二人と向き合おう。
自分の心に嘘を吐かずに話し合えば、きっと――――。
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