1.試験勉強
1.試験勉強
チリーンチリーン。
夜も更けたリビングに響く風鈴の音。
開けた窓の外が一体どこなのか謎ではあるが、夏の暑さを吹き飛ばしてくれる涼しげな音に、水ようかんでもあったら幸せだ。
……なんて、思っていられるほど余裕であったならば、どれだけよかったことか。
「あーもう、何であんたそんなに飲み込み悪いの!? だから違うって言ってるだろ!?」
「あいだっ」
苛立たしげな声と共に、ハリセンで頭を叩かれる。
カエル姿のフリードの一体どこにハリセンを持つほどの力があるのかは謎なのだが、とにかく手加減無しに容赦なく、しかも至近距離で叩いてくるから本当に痛い。
「もう、暴力反対! 女の子は丁重に扱えこのやろう!」
「うるさい。飲み込み悪い上に、あんたがよそ事考えてるから悪いんだろ!?」
「ぅ……っ」
どうやらこのカエル王子さまは、私が「風鈴に水ようかん」などとちょっとでも考えたのがお気に召さないらしい。
まぁ、それも私が悪いと言えば悪いのだが。
「あっはは、カエル君、スパルタだねー! 女の子にも容赦ない! よっ鬼畜ガエル!」
「お前がそれを言うのかよ、うあーあっちぃ……」
私の向かいのソファで、アサドが愉快そうにフリードをからかう。少し長くなった赤髪を頭上でちょんまげにしている姿は、少し新鮮だ。
その奥で、カリムが窓際に寝転がって暑そうに外から中へ風を送り込んでいる。暑い地域出身のくせに、早くも夏バテ気味のようだ。
「フリード殿下も鬼畜になるまで成長したのですね。なんと素晴らしい」
「いや、ハインは一体どこに素晴らしさを感じたんだ?」
アサドの隣で、ハインさんが大袈裟にハンカチで目を拭う仕草を見せる。カリムが室内に風を送り込んでくれなければ本当に暑くて仕方がないのに、この人は側近らしく、長袖カッターシャツ姿で涼しげにしている。流石だ。
その隣の一人掛けソファで、テオがパソコンと睨めっこしながらハインさんに突っ込む。
「ま、鬼畜はともかく、梅ちゃんの飲み込みの悪さに苛立つのは分からなくもないね。やる気があるのかないのか、フリードも気の毒に」
などと、部外者のくせにいらないことを言ってくるのはハンス。相変わらず言葉の端々に嫌味を混ぜてくるところは、おおよそ王子らしく見えない。
「でも、あんまり根詰め過ぎてもよくないし、そろそろ休憩にしたらどうかな? ほら、水ようかん作ってきたよ」
誰かさんのせいで荒んだ気持ちを一瞬で綺麗にしてくれるほどの爽やかな笑顔を浮かべて、クリスがリビングに入ってきた。普段からキラキラ王子様スマイルを浮かべるクリスだが、一緒に持ってきてくれた水ようかんに、この瞬間だけ本気でクリスが白馬に乗った王子様のように思えた。
だが、そんな私の希望も、くそカールのせいで潰えてしまう。
「あ、梅乃たちここで勉強してんの? 俺も一緒に――ってわああっ」
「――え? って、わああ、カール君!」
クリスの後ろから現れたカールが、何かに躓いたようで、そのままクリスに激突。
結果、二人とも一緒に床に倒れ込んでしまった――もちろん水ようかんも一緒に。
「いったたた……悪いクリス兄。だいじょー――……」
「あぁ……どうしよう。水ようかんが床に……。カール君にもっと早く気付いていれば、それか僕が支えきれれば……」
待ち望んでいた水ようかんが台無しになってしまったのは残念だが、それ以上にいつの間にかクリスのネガティブモードのスイッチが入ってしまったことに、私とフリードはため息を吐いた。
一見すると豪華な洋館の豪華なリビング。
実はこれ、私が暮らしているワンルームマンションの一室なのだ。というのも、本来の私の部屋である一人暮らしの8畳部屋は、ただ今、どこにあるのか謎な豪華な2階建ての洋館に繋がっている。
それもこれも、今このリビングでまったりしているイケメン外国人8人と一緒に生活するためだ。
この8人、パソコンやら水ようかんやら風鈴やらに自然に馴染んでいるけれど、実はこの世界の住人ではない。
メルフェンとファンタジーの世界“おとぎの国”から来たおとぎ話の登場人物なのだ。
というのも、おとぎ話の後でヒロインと破局してしまった4人の王子と元王様が、「庶民で暮らす乙女心を理解するため」に、今年の4月にこちらの世界にトリップし、留学生として私の大学に通っている。
それを、二人の魔神アサドとカリム、そして「カエルの王様」に登場するフリードリヒの側近であるハインリヒさんは監視・世話するために一緒にやってきたらしいのだが、何故か成り行きで私まで世話係に任命されてしまったのだ。
しかし、本来の目的の「庶民として暮らす乙女心を理解する」は実現されているのかは、果たして謎だ。
……などと考えていると、勢いよく頭にハリセンが飛んできた。
――バッシィン!!
「だーかーらー! よそ事考えない!」
カエル姿のフリードは、相変わらず強い力でハリセンで叩いてくる。
これを見るなり、さっきの「庶民で暮らす乙女心」は全く理解できていないと伺える。
すると隣からしゅんとした様子のカールが話しかけてきた。
「梅乃ーごめんな? 水ヨーカン楽しみにしてたんだろー?」
「ううん、だってカールも勉強疲れてたんでしょ? それにクリスが新たに作り直してくれるらしいし」
「そうだよ、だってこの人さっきから水ようかんのことばかり考えて、まったく集中できてないんだし、ちょうどいい」
フリードがぱんぱんハリセンを叩きながら、カールに言葉を返す。
なかなか今夜のフリードは手厳しい。
色々なことがあった七夕とオケの演奏会から既に一週間が経ち、早くも7月半ば。外はむしむし暑いけれど、再び穏やかな日々が続いて、このまま夏休みかと思いきや、その前に立ちはだかるのは一学期期末試験。
さすがに大学3年ともなれば科目数は少ないと思われがちだが、専門科目は結構あるのだ。そのうちレポートや出席だけで単位を取れる科目もあるけれど、もちろん期末試験で成績を付ける科目もある。
そういう試験がある科目に限って私の苦手分野で、なおかつ必修単位だったりするものだから、非常に困る。
というわけで、私と同じ学科の、私よりも遙かに要領も頭もいいフリードリヒカエル大先生に苦手な科目を見てもらっているのだが、これがかなりスパルタ指導だった。
「しかし、梅乃はともかく、フリードは試験期間中もその姿なんだろう? 試験どうするんだ?」
ふと、パソコンから顔を上げてテオがフリードに尋ねる。
確かにその疑問はもっともなものだった。
もともと昼は人間、夜はカエル姿になるフリードだけれど、色々あった七夕の日から一ヶ月間、フリードは一日中カエル姿で過ごすことになったのだ。
当然カエル姿で学校に行くわけにもいかないし困るはずなのだが、フリードにそんな素振りはまったくない。
というのも。
「僕は緊急帰国で仕方ないからと、試験の変わりにレポート出されたよ。それももう全部提出したけど」
「本当に優秀だよな、お前は……」
テオの言うとおり、本当に優秀すぎるカエルだ。
そのカエル脳を分けて欲しいくらい。
そんなことを話しているうちにクリスが戻ってきたので、ようやく待ちに待った水ようかん休憩をすることにした。
木匙でつつくとぷるんと揺れる水ようかん。粒あんの小豆のところを掬い一口食べれば、あんこの絶妙な甘さがちょうどいい温度で口の中に広がる。
実家に届いたお中元の水ようかんなんか比べものにならないくらい、クリスの手作り水ようかんはおいしい。
「本当に幸せそうに食うよな、お前は」
窓際で団扇片手にウイスキーを飲んでいるカリムが、しみじみと言う。正直そんなのを飲んでるから暑くなるんじゃないかと思う。
「だって本当においしいんだもん。クリスの作るお菓子は最高だね!」
「へーえ? ボクにも味見させてよ」
「え……? って、ちょっとアサド!」
向かいにいたはずのアサドがいつの間にか隣に座り、ぐいっと私の右手を引っ張りその手に持っていた木匙に食いついた。それに乗っていた水ようかんも一緒にアサドの口の中へと消えてしまう。
「うん、あまーいね」
瞳の奥で金色を光らせながら、上目遣いになってぺろりと舌を出す。
どことなく魅惑的なその笑みに、一瞬だけ私は目を逸らすけれど、これではいけないと気を取り戻す。
「もうアサド! 自分の分あるでしょ!」
「あ、ボクの分も欲しいの? だったら素直にそう言えばいいのに」
「違うってば!」
相変わらず愉快そうに私をからかうアサドに、その場にいる何人かのため息が同時に聞こえてきた。
するとそのとき。
――ドンドン! ドン! ドーン!
「な、何だこの音は。大砲か?」
「えーっ大砲!? やべーじゃんっ」
「たっ大変だねっ。急いで避難道具を用意しないと――」
聞こえてきた音に、テオとカールとクリスが焦った様子でわたわたし始める。その様子に私は思わず笑ってしまった。
「違うって、大砲なんか平和な日本にあるわけないじゃん。花火だよ、花火」
苦笑混じりにそう言えば、それまでせっぱ詰まった表情を浮かべていたテオの灰色の瞳がキラキラ輝き始め、同時にカールもクリスも嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「花火の音までしてくると、ますます夏って感じだな」
既にだいぶ暑そうにしていたカリムが、ふぅと息を吹きながら言う。
カリムの息に、窓枠に掛かった風鈴が揺れて音が鳴った。
それをにっこり眺めながら、クリスが尋ねてくる。
「梅乃さんは夏休み、何か予定あるの?」
「うん、いっぱい遊ぶよ!」
何せ大学生の夏休みは二ヶ月もあるのだ。遊ばないわけがない。
花火大会ももちろん、オケの合宿に臨海実習に学科でのバーベキュー。
それに夏海と由希と一緒に沖縄旅行も――――。
「あ、そういえば梅乃ちゃん。これ、頼まれていたものだよ」
ふとアサドが懐から大小二つの袋を出した。
中は確認していないけど、それが何かはすぐに察した。
当然疑問に思ったカールが尋ねてくる。
「梅乃ーそれ何なんだ?」
「頭痛を和らげるアイテムだよ。この前アサドにお願いしたの」
「こんな真夏に頭痛なんて夏風邪? 夏風邪はバカが引くって聞いたけど、なるほど、梅ちゃん確かにクレバーとは言い難いものね」
などと会話に割り込んでくるハンスを無言で睨み付ける。
そもそもこのアイテムは夏海にあげるものだし、その原因になったのは全てハンスのねじ曲がった性格のせいなのだ。
だが、そんなことをここで言ったところできっとハンスは聞く耳持たないだろう。
私はため息を吐きながらアサドから受け取った二つの袋に視線を落とす。
今年の夏休み、沖縄旅行もそうだけど、夏海とは学科が同じため予定が結構被る。だけどハンスのことで最近夏海とはぎくしゃくしたままだ。
七夕からまた少し以前のようには戻ったけれど、それも表面的だ。
夏休みに入る前に、早くこのわだかまりを解消出来たらと、思うばかりだ。
などともう一つため息を落とせば、再び頭にハリセンが飛んできた。
「いだっ」
「ため息吐く前にあんたは勉強。じゃないと夏休みどころじゃなくなるよ」
相変わらず容赦ないハリセン裁きなフリード。
だけど、そのまま考え込んでいればきっとネガティブ思考に突き進むだけだったので、逆に助かったと思う。
とは言え、フリードのハリセンスパルタはやっぱり地獄だった。




