34.七夕の夜に
梅乃視点に戻ります
34.七夕の夜に
暗くなった部屋を照らすオレンジ色の蛍光灯を眺めながら、思う。
なんか眠れない。
いや、今日いっぱい色んなことがあったし、普通ならすんなり眠れているものなんだと思う。
現にベッドの下では、フリードが仰向けになって眠っている。
ちょっと暑苦しいのか、上に掛かっている布団を足で器用に蹴ろうとするけれど、カエルの足に布団は重いのか、ビクともしていない。
それでもフリードは起きることなく、ぐっすり眠ったままだ。
まぁ、フリードの場合、昨日の夜からどこかに行っていたから、もしかするとずっと徹夜状態だったのかもしれないし、ぐっすり眠れて当然だろう。
だけど、どうして私は眠れないのだろうか。
私だって色々あったはずなのに、すっかり目が冴えてしまっている。
仕方がないので、キッチンに何か取りに行こうと、部屋を出た。
すると、自室から出てきたカリムとばったり廊下で出くわした。
「どうした? こんな時間に」
「うーん、なんか眠れなくって。カリムは?」
「俺か? 俺はこれ」
カリムは右手に持っていたワインの瓶を掲げ上げる。
見れば左手にはワイングラスも持っていた。
「お前も飲むか?」
カリムは何か悪巧みをするときみたいにニッと笑う。
ちょうど眠れなくて困っていたところだし、私はあんまり考えずに頷いた。
次の瞬間、私の周りに風が起こる。
そしてあっという間に周りの景色が変わった。
やって来たところは、マンションの屋上だった。
私がベッドに入ったのは20時過ぎと割と早い時間だったのだけれど、今はすっかり夜更けだ。
いつの間にか梅雨も明けていたようで、雲一つなく、星も月もしっかり見える。
若干蒸し暑いのが鬱陶しい気もするけれど、昼間に比べればずっとかマシだ。
とは言え、本来の時間ならもう朝方なんだよね。
本当に時間の感覚が狂いそうだ。
「そういえばハインから聞いたぞ。ようやくフリードと仲直りしたんだってな」
屋上の真ん中に腰掛けながら、カリムが白いワインの入ったグラスを差し出してくれる。
どうやらグラスもワインも冷やされてあって、この時期に飲むにはちょうどいい。
「まぁハインさんのあれは少し強引な気もしたけれどね。でも前みたいに戻れて良かったよ」
何せひと月前にフリードと仲を悪くしてから、無視されたり突っぱねられたりで、どうすればいいのか分からない状態だったのだ。その上、シャルロッテの乱入や豹変とかもあって、まともに話することも出来なかったのだ。
それがようやくまともに話せるようになったのだ。
別にこれといった話し合いをしたわけではないし、フリードの足は怪我したままだし、相変わらずつんけんはしてくるけれど、フリードの様子に冷たさはもう感じられなかった。
未だに私の部屋にフリードを放り投げるハインさんにはどうかと思うけれど、フリードと険悪でいるよりかはずっといい。
それに何より、ようやく私のことを名前で呼んでくれるようになったのだ。
ずっと「あんた」呼ばわりされていたから、その分以前より仲良くなった感じがして、なんだかすごく穏やかな気分だ。
するとずっと隣でワインを揺すっていたカリムが、「ふーん」と含みのある反応を示す。
「前みたい、ね。お前もつくづく鈍いよな」
カリムはこちらに顔を向けてニヤッと笑う。
それがやっぱりどこか意味ありげで、なんだか面白くない感じがする。
私はむっとした視線をカリムに送ってから、夜空を見上げた。
私たちが向いている南の空には、いつしか見えなかったこと座のベガが、青白く輝いていた。その左下ではわし座のアルタイルが白い光を放っている。
その間には天の川が走っているため、少し距離は離れているけれど、それはまさしくお互いを見つめ合う織姫と彦星のようだった。
「はぁ、今日は本当に色んなことがあったなぁ……」
夜空にかかる二つの星を眺めながら、しみじみと思ったことが言葉に出た。
オケの演奏会が始まるかと思いきや、瀕死の状態のフリードがやって来て、気が付いたら薄暗い部屋に縛られて、ランプを盗まれていて、蹴られたり銃を撃たれたり、炎に飲まれそうにまでなった。
あんなところで死ぬつもりなんか毛頭なかったけれど、正直本気で絶望的な状況だった。
その全ては昴さんの企みで――――。
「梅乃、手貸せ」
「え? って、わあああっ」
突然腕を引かれたかと思うと、次の瞬間、身体が宙に浮いた。
カリムはそのまま私の腕を引いたまま、空高く飛び上がる。
いきなり足元が落ち着かなくなって、私はカリムの腕にしがみつく。
「ちょ……っ何でいきなり……!?」
「いいからしっかり掴まってろよ」
「え? って、わああああああっ」
カリムは宙に浮いたまま、器用に私の身体を後ろから抱え直す。
突然の密着に私は当然焦るけれども、カリムはそんな私にお構いなしに夜空を飛行する。
それがまたものすごいスピードで、まるでジェットコースターに乗っているかのようにスリリングで身体が震えそうだ。
だけどしばらくそのままでいると、だんだんこのスピードにも慣れてきて、周りの景色も見れるようになる。カリムに上から抱えられる形で飛んでいるから未だに怖いけれど、それ以上に眼下に広がった街並みに目を奪われた。
いつも私たちが暮らしているマンションも、大学も、公園も駅もお店も、すべてとてもちっぽけで、それがなんだかものすごく不思議に思えた。
するとそこでカリムはくるっと身体を反転させる。
見えたのは視界いっぱいに広がった夜空。
雲一つなくて、無数の星が夜空いっぱいに散らばって、自身を象徴するかのように大きな満月が掛かっている。
沢山の星と大きな月とちっぽけな街並み。
そんな世界で暮らしているんだなって思うと、とても変な気分だ。
カリムはしばらくそのまま飛ぶと、近くにあった教会の屋根に着地し、私を下ろした。
「はぁ……いきなりびっくりした。ジェットコースターみたいで楽しかったけれど、ちゃんと予告してよね」
飛んでいる間ずっとバクバク言っていた心臓を宥めながら、カリムを睨み付ける。
だけどカリムは少しも悪びれる様子を見せずに、私の隣に腰掛けた。
そしてこちらに顔を向け、ニット笑みを浮かべる。
「でも、頭は冷えただろ?」
月明かりに照らされたその琥珀色の瞳が、不思議と私の心を安心させた。
同時に私の目頭を熱くもさせた。
次の瞬間、一粒二粒と、涙が零れてきた。
「やだ……ごめん。すぐに止めるから待って」
慌てて私はそれを拭い取る。
だけどそれは次から次へと溢れてきて、どうにも収まる気配はない。
すると大きな手が私の頭に乗っかった。
それはとても温かくて、ゆっくりと私の頭を撫でる。
「なんかさ……ひととおり解決したけれど、今日のこと考えると、なんか腹が立って来ちゃって……」
「うん、そうだな」
「あんな男のこと本気で好きになっちゃって……利用されたりなんかしてさ……ほんっとうに最低…………」
溢れてきた涙と一緒に、これまでの積もり積もった想いが次から次へと込み上げてくる。
堰きとめたいのに、一度溢れ出した気持ちは止まりそうもない。
私はそのまま膝に顔を埋めた。
カリムは私の背中を撫でながら、はぁと鼻で息を吐いた。
「だが、あんなことがあった後でも、梅乃が男嫌いにならなくて良かったって、正直俺は思ってる」
いつもとは違うとても優しい口調に、私はぐちゃぐちゃな顔のままカリムを見上げる。
「普通ならそうなってもおかしくない。だけどお前は今まで通り、俺たちと過ごしてくれている。そのことに俺はものすごく安心しているよ」
カリムは口調と同じく、安心させるような優しい笑顔を浮かべて言った。
それがささくれだった心をひどく落ち着かせてくれる。
同時にじーんと温かくもなった。
「それは……私が家主だから? カリムとアサドの主人だから?」
どうしてだろう。
何故か思わずそんな質問が零れてしまった。
カリムは一度目を丸くさせると、琥珀色の瞳を悪戯げに細めた。
「さぁ、どうだろうな?」
ニッと口角を持ち上げて誤魔化されたというのに、なんだか不思議と嫌な気分は湧き起こらなかった。
私は残りの涙を拭いながら、そのまま屋根に寝転がる。
広がった夜空はさっきマンションの屋上から見たものと同じなのに、なんだかさっきと違って見えた。
織姫と彦星も、今はとても穏やかな気持ちで眺めることが出来た。
するとそこで、一つ忘れていたことを思い出した。
「あ、そういえば、今年短冊書いてない」
「は? 短冊?」
「うん。知らない? 七夕の日って、短冊にお願い事書いて笹につるすんだよ。そうすればお願い事が叶うって話」
きょとんとするカリムにそう教えながら、なんだかこんな会話を以前にもアサドとしたことがあるなと、ぼんやりと思い出す。
あのときのアサドは、どこか艶っぽい雰囲気を醸し出していたっけ?
だけどそれと対照的に、カリムは盛大にため息を吐いた。
「普段から無欲なお前が何を短冊に書くんだよ」
「えーそりゃあ授業の単位が取れますようにとか、来年までに痩せますようにとか、そんなことかな?」
「はぁ、本当に無欲だよな」
するとカリムは私の左手を取って、その中指にサファイアの指輪を嵌めた。
「だが、これはきちんと着けておけよ。ランプもな。例え普段大丈夫でも、何があるか分からないからな」
私はそれを眺めながら、カリムの言葉に頷いた。
カリムの魔法の指輪に、アサドの魔法のランプ。
その二つを手にするということがどういうことか、今回身を以て思い知った。
アサドの力は誰もが求める力なのだ。
だからランプが狙われるということは、普通に起こりうることなのだ。
そうなったとき、頼れるのはカリムだけだ。
だけど、指輪もなくしてしまっては、私にはどうすることも出来ない。
だからこそ、私にはこの二つを守る義務があるのだ。
それは主人としての役割。
だけどそれ以上に――――。
「私、男嫌いなんてなれないよ」
ひと言そう言えば、カリムがこちらに顔を向ける気配を感じた。
私は夜空を見上げたまま、続ける。
「確かにどうかと思うヤツもいるし、みんな個性も強いけれど、私、今の生活が好きだもん。みんなの賑やかな様子に、ものすごく救われてる。だからずっとこのままの生活が続けばいいなって思ってる」
今回、フリードがおとぎの国へ帰るかもしれないなんて話が浮上したり、アサドが攫われたりなんてことがあったけれど、本当は誰もおとぎの国へは帰って欲しくない。
そんなのは私のわがままで、いずれは誰かしらどこかへ旅立ってしまうは分かっている。
だからこそ、出来るだけみんなには長くこっちの世界にいて欲しいと思う。
それは必ず帰らなくてはいけないと分かっているアサドにも、そしてカリムにもだ。
カリムは私のおでこに手を乗せると、とても優しい笑顔で、顔を覗き込んできた。
「安心しろ、お前の願いはきっと届くよ」
その言葉が私を安心させるものだと言うことはすぐに分かった。
だけどこの瞬間だけは自然と心に溶け込んで、とても穏やかな気持ちになれた。
次話で今の章は完結です




