32.巻き戻った時間とともに
梅乃視点
32.巻き戻った時間とともに
開演10分前、事前チューニングも終わり、舞台裏は緊張感に包まれていた。
私や夏海たちが待機する舞台下手側も、みんなそわそわし始めている。舞台へと続く扉の隙間から7割方埋まった客席が見えるから、尚更だ。
正直なところ、こんな直前の緊張感を二度も体験なんて、心臓に悪すぎる。
「梅ってば、顔が硬い」
そわそわチェロを持ったまま貧乏揺すりをする私の頬を、夏海がつねる。
見ればいつも通り私を安心させてくれる頼もしい笑顔を浮かべている。
「だってソロが上手くいくか不安じゃん……」
「大丈夫大丈夫、梅ならきっと上手くいくよ」
「うんうん、それにあたしが梅乃を可愛く仕立てたんだからね。自身持ってよ!」
明るく笑って背中を叩く夏海の後ろから、由希がクラリネットを持っていない方の手でガッツポーズをしながら励ましてくれる。
この光景に、まぶたが熱くなるのを感じながら、私は頷いた。
「うん、そうだね。頑張るよ」
そんなことを言っているうちに開演のベルが鳴り、私たちはそれぞれ下手の扉から舞台に上がった。
フリードのお願いは、魔法が全回復したアサドによってしっかりと叶えられた。
本来、時間を戻すというのは色んな面において弊害が起こりうるため、多用はあんまりよろしくないらしい。おそらくフリードはそれを知っていたため、「どんな代償でも払う」とか言いながら土下座なんてしたのだろう。
しかし実際のところ、たった数時間であれば後から帳尻合わせをすれば問題ないらしく、アサドにかかればお茶の子さいさいだった。
とは言え、いつものニヤニヤ愉快そうな調子を取り戻したアサドがそんなことをすんなり叶えるわけがなくて、きっちりとフリードから代償を払わせることになった。
別にすんなり叶えられるなら代償なんていらないじゃないかとアサドに詰め寄ってみたのだけれど、数十分前までは珍しく本気で焦った様子を見せていたくせに、「ボクは面白くなればそれでいいよ」なんて言うから相変わらずタチが悪いと思う。
それと同時に「これはカエル君へのお仕置き」とも言っていたけれども。
そんなこんなで、アサドの魔法にかかって時の流れが巻き戻ったのだった。
ついでにアサドは私の怪我を即座に治癒し、この数時間の間にすっかりボロボロになってしまっていた舞台衣装と髪型を元通りにしてくれて、その場にいた全員を舞台ホールへと送り届けてくれた。
そうしてようやく私は舞台に立てることが出来たのだった。
「梅乃ー! 良かったわよ! 拍手拍手ぅ~」
「もうお母さん! 恥ずかしいってば!!」
終演後、楽器や器具の片付けに追われている舞台裏に、やたらとテンションの高いお母さんが乗り込んできた。それを楠葉がばんっとその背中を叩く。一緒についてきたお兄ちゃんとクリスは何とも言えない顔でそれを眺めていた。
「ま、でもお疲れさん。今日はこれでいいもの食えよ」
お兄ちゃんは財布から万札を一枚私に渡すと、お母さんと楠葉を引き連れて出て行った。
こうもお札を丸出しで渡す兄もどうなのかと、内心で呆れていると、ぽんとクリスが頭に手を乗せてきた。
「でも本当に梅乃さんが無事で良かった。今日はとても疲れたでしょう? 打ち上げが終わったらゆっくり休めるようにしておくね」
クリスはとても柔らかく微笑んで、私の頭を優しく撫でてくれた。
後から聞いた話だけれど、どうやらクリスはいざというときの説明役として客席に残っていたようで、つまり時間が巻き戻る前の演奏会からずっと聴いていたらしい。
だけど一回目はひどいものだったらしい。というのも、開演直前に私が攫われ夏海が倒れ、それで団員に動揺が走っているところにハンスも舞台に上がらなかったものだから、ありとあらゆるところにミスが目立っていたらしい。
一方二回目は、一回目とは比べものにならないくらいにそれぞれがそれぞれの役割を果たし、大成功というくらいに沢山の拍手を浴びた。
正直なところ、あんなことが起こった後だったから私も落ち着いてソロを完遂させられるか不安だったけれど、舞台に並んだ団員たちや客席に見える大学の友達を見たら一気にやる気が湧いてきたのだ。
今度こそ上手くいって本当に良かったと思う。
「えぇ、本当にようございました。梅乃お嬢様がご無事で何より。そして演奏会も無事に終わって何よりです」
「ハインはやることがいちいち大袈裟だなぁー」
楠葉たちを追って出て行くクリスと入れ替わりにハインさんとカールがやって来た。
ハインさんはわざとらしくハンカチを目元に当てて、いかにも涙ぐましいといった仕草をしている。その反対側の腕は、首から吊された三角巾に固定されていた。
時間が戻る前に私たちは一旦カールやテオと合流したのだけれど、そこでハインさんが何者かに襲われた話を聞いた。
聞けば車を走らせている最中に、銃で撃たれた上に車が横転するなんて事故が起きていたらしい。その後すぐにハインさんは病院に搬送されたみたいで、それにカールとテオが付き添っていたのだけれど、力を取り戻したアサドの魔法によってすぐに治癒された。ただ骨折の怪我の場合は、こうして一日固定しておく必要があるみたい。
そもそもハインさんが車を走らせていたのも、ランプを持って逃げていたシャルロッテを追ってのことらしいので、ハインさんを襲った犯人が誰かなんて明白だ。
それを考えると何だか苛立たしさが湧き起こりかける。
「おやおや、私のためにそんな目くじらを立ててはいけませんよ。ほら、これで怪我人主従なんてコンビも作れるわけですし」
「ハイン、それ笑えねーぞ……」
うむ、まったくもって笑えない冗談だ。
とは言え、捕らえられた人をとやかく言うのもだし、ハインさん自身が気にしていないようなら私があれこれ言っても仕方のない話だ。
「それで、その主とシャルロッテはどこにいるんですか?」
ハインさんと言えば大体いつもフリードのいるところに現れがちだ。そしてここ数週間の話だけれど、フリードのいるところには必ずと言っていいほどシャルロッテがいる。
だけどそのどちらもがここには来ていない。
まぁ、アサドに「代償」を払ったフリードに、シャルロッテが飛んでいくかは別問題なのだけれども。
「あぁ、ロッティ様がこれからあちらへ帰られると言うことで、お見送りに行っています」
「お見送り……そっか、もう帰るんだね」
「えぇ、まぁ本来の時間であれば、今はもう夜の10時頃ですからね」
そうなのだ。
七夕の夜に天の川に橋が架かってこちらの世界とおとぎの国とを行き来出来るようになるらしいのだけれど、それが可能なのは本来の時間軸の日没から日の出までの間らしい。
今は5時間くらい時間が戻ってしまっているけれど、ちゃんと時間を間違わずに橋を渡らないといけないのだ。
「梅乃お嬢様は、お見送りに行かれないのですか?」
ハインさんが小首を傾げて尋ねてきた。
私は肩を竦めて答える。
「どうせ私が行っても嫌な顔されるだけだし」
「そうでもないと思うけどなぁ」
カールが薬瓶を手の中で転がしながら割り込んできた。
それは確か昨日アサドが言っていたフリードが豹変していた原因の薬だった。
突然現れてあれこれ騒いで罵倒してきて、正直シャルロッテは本気でイラッと来る行動ばかりでさっさと帰って欲しくて仕方なかった。
だけど彼女も彼女で必死だったと言うことは、その薬が証明していた。フリードの心をなんとしても掴もうとしていたシャルロッテは、そこをまんまと昴さんに利用され、魔法のランプを手に入れることを交換条件に、その薬を受け取ったらしい。
それで騙され、蹴られて踏まれるなんて自業自得だとは思うし、色々と腑に落ちないところだらけだけれど、すべてが終わった後、ふて腐れた様子で私に謝ってきたからそれでいいのだ。
「まぁ、フリードは引き続きこちらの世界にいらっしゃいますからご安心下さいな」
そう、元に戻ったフリードはきっぱりとシャルロッテに告げたのだ。
帰らない、と。
これまでは何かと理由を付けて無理矢理にでも帰らせようとしていたシャルロッテだったけれど、なんだか急に憑き物が落ちたかのようにフリードのそれを受け入れた。
つまりこれまで通りなわけだけれど、私にとっては何よりもの朗報だった。
色々あったからフリードとの間にあったわだかまりもうやむやになってしまったけれど、このまままた前みたいに仲良くできたらいいなと、切に思う。
「梅乃ー喋っていないで楽屋の方に忘れ物ないか確認してー!」
搬入口の方から片付けをしている団員が叫んできた。
見ればお喋りをしている間に楽屋で片付けをしていた団員たちがほとんど打ち上げ会場へと移動していったため、残っているのはあとわずかだった。
「あまりここに長居してはいけませんね、私はここで失礼します」
「俺は柳さんにでも挨拶しに行くかな」
ハインさんは丁寧にお辞儀をすると、ホールの表口の方から去っていった。
一方楽屋の点検を任された私は、カールと一緒に男子楽屋へと向かった。
そのとき、舞台裏から男子楽屋への途中にある給湯室から話し声が聞こえてきた。
「――そっか、全然気が付かなかった。俺なかなかひどいことしてたんだな」
聞こえてきたのは柳さんの声だった。
困惑混じりのそれにちらりと中を覗けば、柳さんの身体に隠れるように由希の姿が見えた。
「でも俺、お前のこと後輩としか……」
「最初はそれでもいいんです。だから私と――」
その後の言葉を聞いて、私は時間が戻る前の開演前に由希と話したことを思い出した。
本番が終わって打ち上げに行く前に柳さんに告白するということを。
「……なんだ、もういい感じじゃん」
一緒に来ていたカールはへっへと乾いた笑いと一緒にそう呟く。なんだか言葉に張りがないなと思ってカールの方を見るけれど、カールはいつも通りの陽気な笑みを浮かべて続けた。
「せっかくいい雰囲気なのに俺がいたらまた台無しだよな。だから帰るわ。梅乃も気をつけて帰れよ」
それだけ言うと、カールは片手を上げて去っていった。
いつも通りの調子なのに、なんとなくいつもよりも元気が足りないように思えるのは、きっと気のせいじゃないんだと思う。
「相変わらず妙な場面に出くわすよね、梅ちゃんは」
すると男子楽屋の方からいけ好かない声が聞こえてきた。
振り返れば案の定、高慢な笑みを浮かべているハンス。そしてその後ろから、テオと空も現れた。
「梅乃、お疲れ様! すごくかっこよかったわよ」
「あぁ、ダントツ梅乃は輝いていたな」
なんてちょっぴり恥ずかしいようなくすぐったいような言葉を二人は掛けてくれる。後ろにいるハンスとは大違いだ。
私はテオを見上げる。
「テオもお疲れ様」
テオもカールと一緒にハインさんの介抱に回っていたのだ。
あまりに突然すぎたから、テオも相当疲れたに違いない。
だけどテオはきょとんとした顔を浮かべて「あぁいや」と言う。
「俺は大して何もしていないから気にするな。それよりお前はちゃんとハンスに礼を言っておくんだぞ」
「え、何で?」
そんなの天地がひっくり返っても言いたくない。
だけどそんな気持ちはテオの次の言葉に掻き消された。
「何せカリムに梅乃の緊急を知らせたのはハンスだからな」
テオは私の肩をぽんぽんと叩くと、空と一緒に帰っていった。
その場に私とハンスが取り残される。
私は信じられない気持ちでハンスを見た。
この自己中冷徹男がまさかそんなことを?
そんな眼差しでハンスを見ていると、ハンスはつまらなさそうにふんっと肩を竦めた。
「ま、俺としても自分の奴隷が好き勝手されるのは気に入らないからね」
ハンスはそう言いながら、未だ片付けをしている搬入口の方へ去っていく。
その言葉の意味を考えようとすると、どうにも解けない謎にぶち当たってしまうけれど、何はともあれ、ハンスに救われたんだなぁとしみじみ思った。
そんな何とも言えない気持ちを抱えつつ、男子楽屋を点検し、女子楽屋に戻ると自分の身の回りの片付けをしている夏海が残っていた。
夏海は少し目を丸くしてこちらを見つめている。
私も私で、ついさっきハンスと話していたから妙に気まずくなる。
すると夏海はニッと明るく笑い、鞄を持ってこちらに寄ってきた。
「ほら、早く打ち上げ行かないと、みんなもう乾杯始めちゃうよ」
今朝まであったわだかまりを感じさせないような様子で、夏海は私の腕を引っ張っていった。
それが少し意外で、そしてなんだかものすごく安心した。
未だにわだかまりが消えたわけじゃないし、時間が戻ってみんながハッピーというわけでもないと思う。
だけどこうやってみんなで和気藹々と過ごしているこの平和な光景が、私にはとてつもなく嬉しくて幸せなんだなって、今この瞬間に改めて実感したよ。




