24.幕が上がる
24.幕が上がる
本当はこんなつもりじゃなかった。
もっと早くに謝って許して、仲直りして。
なのにいつまで経っても僕は素直になれなくて、自分の無能さに苛立って。
いつだって彼女の周りには頼りになるヤツばかりで、その度にコンプレックスを感じては、色んなことから逃げていた。
だけど、そんなことは愚かすぎるほどにどうでもいいことだった。
彼女を傷つける言葉で、僕自身が傷つくなんて、知らなかった。
彼女の泣き顔を見るたび、こんなにも苦しくなるなんて、思ってもいなかった。
僕じゃない僕が、ひどい言葉で、何度も彼女を打ちのめす。
何度抗おうとも、気が付けばいつの間にか感覚は麻痺していて、意識が朦朧としている。
でもようやく薬の効果が切れてきた。
意識がはっきりしている。
ああでも、足がひどく痛む。
当然か、だって元に戻っただけなのだから。
空が白んできて、一晩中僕を見下ろしていたさそり座もすっかり消えている。
身一つで出てきてずっと歩き回っていたから、体力もそろそろ限界に近づいてきた。
だが、ここで力尽きてはいけない。
知らないうちに見つかって再び僕は自分を手放してしまうかもしれないから。
このまま別れるなんて、絶対に嫌だ。
そもそも帰りたい気持ちなど微塵もない。
それに、伝えなくてはいけないことがある。
彼女が待ち望んでいたものを壊してでも――――。
7月7日、遂にこの日が来てしまった。
大事な大事な日なのに、今の状況にため息しか出ない。
「はぁ~」
「ちょっと梅乃、頭動かさないで」
「あっはい、すみませんっ」
本番の一時間前、時刻で言うと昼の12時半なのだが、私は由希に髪の毛を結ってもらっていた。男子たちはスーツに着替えるだけなのに、女子はお化粧や髪の毛のセットとか、とにかくやるべきことが多い。
まぁ私の場合、お化粧も着替えも済んで、あとは髪の毛だけなのだが。
「それにしても、梅乃ほんと今朝と別人だよね」
「う、うるさいな……朝用意する時間なかったんだってば」
「だからと言ってすっぴんでここまで来ちゃダメだよー」
由希がからから笑う。
今朝9時から最終リハーサルがあったのだけれど、夕べ帰った格好のまま寝てしまった私は朝8時に目が覚めて、そこからシャワー浴びたり出かける用意しなくちゃいけなかったりと、大騒動だった。幸い、カリムがホールまで私を飛ばしてくれたことで何とか間に合ったけど、流石にお化粧する時間まではとれなかったのだ。
大慌てで出てきたから、何か忘れ物している気がしてならないけれど、今のところ問題はなさそうだ。
「よし、出来た! 我ながらに完璧!」
由希の声に鏡を見れば、左側から右側にかけてルーズに編み込まれ、流れた毛束が右の耳より高い位置に水色の可愛らしいバレッタでふんわりまとめられている。正面から見れば柔らかさとシャープな感じを与える。
「うん、ありがとう由希」
「いえいえ、じゃああたしも自分の用意するかな」
由希が私の隣の化粧台に並んで髪の毛をいじり始める。
すると楽屋の入り口の方から夏海がこちらに近づいてくるのが鏡越しに見えた。
「梅、楽屋の前に楠葉ちゃんが来てるよ。行ってきたら?」
昨日まで透明のシールドを張って近寄りにくくしていたはずの夏海は、何事もなかったかのように普通の様子で、その態度の変わりように困惑してしまった。
「ほら、ぼさっとしてないで行ってきなよ。ついでにとてつもない王子様もいたからさっ」
夏海は呆然とする私の肩を叩く。
すっかりいつもの調子だ。
「とてつもない王子様!? やだ、それは確認しに行かないとね! ほら、梅乃も夏海も行くよっ」
「えっちょっと由希!?」
「いや、あたしはいいんだけど。っていうか由希は行かない方が――」
「いいからいいから! ほらほら!」
ほんの一瞬で自分の髪を仕上げた由希が、急にテンションを上げて私と夏海の腕を掴んだ。150センチそこらしかない由希の一体どこにそんな力があるのやら、由希は強引にそのまま楽屋の外へ私たちを引っ張って行く。
ちらりと夏海を見たら、やっぱりいつもの調子で由希にやれやれと言っている。本番直前だしこの前のことはひとまず置いておくということなのだろうか、それともなかったことにしようとしているのだろうか。
いずれにしても夏海とはきちんと話さなくてはいけない。
ちゃんと演奏会が終わったら、夏海と向き合おう。
楽屋前の廊下に出れば、そこは驚くほどに女子で溢れていた。
いや、もとからオケは女子が多いけど、それにしてもだ。
まぁ、それもそのはずか、キラキラ輝く見目麗しい王子集団がそこにいれば。
「あ、お姉ちゃん、観に来たよ!」
「こんにちは、差し入れ持ってきたよ。あとで桐夜さんたちも来るって」
私を見つけた楠葉がこちらに寄ってくる。
クリスも素敵な王子様スマイルでお菓子の袋を掲げている。
「お、梅乃決まってるじゃないか。ソラも後から来るぞ」
「あ、そうなんだ。みんな勢揃いだね」
クリスの隣でテオが片手を上げて爽やかに言ってくる。
クリスもテオもコンサート仕様なのか、どちらかというとフォーマルな格好をしていて、二人ともいつもの2倍増しにキラキラしている。
「みんな来るなら、梅ちゃんもちゃんとソロを弾ききらないとね」
と、水を差してくるのはハンス。多くの団員がリクルート仕様のスーツを着ている一方で、この人は仕立てのいい高級そうなスーツに身を包んでいる。
確かに今日の演目でチェロのトップのソロがあって、ここ最近の練習ではそこに手こずってしまっているけれど、いちいち言わなくてもいいじゃないか。嫌なヤツ。
「ちょっとちょっと梅乃!」
いきなり由希が私の腕を引っ張って耳に顔を寄せてくる。
「な、何どうしたの由希?」
「ハンスさんはともかく、何でこんなイケメンな外人と知り合いなの? っていうかみんな日本語ぺらぺらすぎない!?」
「う、そっそれは……っ」
一体どう答えたらいいんだ?
私はちらりと夏海の方を見る。
すると夏海は私と視線が合うと、気まずい様子ですぐに逸らした。
その横顔は何か言いたげだ。
「梅乃さんのお友達かな? 実は団員のみんなにも差し入れ持ってきたんだ。始まる前とか休憩の時間とかに是非どうぞ」
私が夏海を気にしている間に、クリスが一歩前に出て、相変わらずの王子様スマイルで大きな横型の紙袋を掲げた。見ればそこには色とりどりのカップケーキが一個ずつ梱包された状態で入っていた。
クリスの女子力も流石なのだが、やはり女の子を一瞬に魅了する王子様スマイルの威力はすごい。由希もその場にいた女子たちもほっぺを赤く染めて、すっかり見惚れている。どうして日本語が流暢なのかとかもはやどうでもよさげだ。
するとその様子が面白くないのか、楠葉がクリスの服をきゅっきゅっと引っ張る。
楠葉の気持ちを知ってかどうかは謎だけれど、楠葉の方を見るとクリスはうんと頷いた。
「それじゃああんまり長居しても邪魔になるだけだし、僕たちは受付の方に戻ってるね」
「じゃあね、楠葉ちゃん。梅ちゃんのソロ楽しみにしてあげてね」
「はい! じゃあね、お姉ちゃん」
しっかり私のソロの宣伝をしたハンスにも嫌な顔一つ見せずに、楠葉はクリスと一緒に表の方へ去っていった。
テオも二言三言ハンスと会話をすると、表の方へ行こうとした。
しかし、ふと私の方へ振り返って真面目な顔をした。
「梅乃、フリードのことだが……」
「うん、分かってる。もういいよ、演奏会楽しんで?」
私はあまり顔に出さないようにテオに答えた。テオは眉を潜めて何とも言えない顔を浮かべるけど、特に何も言わず、私の頭に手を置いてから消えていった。
夕べ、テオとカールとハインさんがあちこち探し回ったらしいけれど、結局フリードは見つからなかったらしい。もしかすると今朝私がいない間に戻ってくるかとも思われたけれど、それすらもなかったようだ。
でもどうせ、いくら悩んだって結論は一緒なのだ。
だから蓋をしてしまった方が楽だ。
「さてと、俺は楽屋に戻って音出しするかな」
来客がいなくなると、ハンスはそう言って男子用の楽屋に戻っていった。
その場にいた女の子たちもぞろぞろと楽屋の方へ戻り始める。
「私たちも戻ろ――」
「――ハンスさんって楠葉ちゃんのことも知ってるんだ……」
「え?」
それはほんの小さい声で言われたけれど、私の耳にはしっかり届いた。
夏海の顔を見れば、下唇を噛んで何か言いたげにしている。
でも夏海はふっと口角を上げて、力なく笑った。
「あたし、飲み物でも買ってくるわ」
夏海はそれだけ言うと、そそくさと自販機コーナーの方へ行っていった。
由希が隣から私の背中を叩いてくる。
「ほら、今日は気にしない」
「う、うん。そうだね」
「うんうん、それにしてもさっきの人たちかっこよかったね! 梅乃ってば本当に隅に置けない!」
由希が再び興奮した様子で私の背中をバンバン叩いてくる。まぁクリスに至ってはおどけたサンチョでも有名だから、由希が見惚れるのも納得する。むしろ毎日顔を合わせていなければ、私もドキドキするレベルには違いない。
「ふーん、好きなヤツいるのに他の男に乗り換えか。軽いヤツ」
と、その場にはそぐわない声が、いきなり後ろからかかった。
もしやと思って由希と一緒に振り返れば、そこにいたのはカールだった。
由希の顔が見る見るうちに別の意味で赤くなっていく。
「な、何であんたがここにいるのよ……っ!?」
「何でってそりゃ」
「俺に差し入れしに来てくれたんだ。出来る後輩だろ?」
カールの後ろからスーツに身を包んだ柳さんがニカッと笑ってカールの肩に手を回した。
由希はカールと柳さんそれぞれに何か言いたそうにしながら、口をわなわなさせている。
「どうやら森山にも用事があったようだし、ちょうど廊下に出ていてくれていて助かったよ。じゃ、俺も音出ししに行くから後は頼んだぞ」
柳さんは楽しそうにカールの肩をポンポンと叩くと、そのまま男子楽屋の方へ消えていった。その後ろ姿に由希が「あっ」と声にならない音で手を伸ばすけれど、本人は気づく様子もない。相変わらずの鈍感ぷりだ。
「それにしても、いつもと違う」
唐突にカールが言った。
由希がふんっと腰に手を当てる。
「当たり前でしょ? 舞台に上がるんだし、おしゃれして当然」
「ふーん?」
舞台衣装と言えば男子はスーツだけれど、女子は上が白で下が黒だ。私はノースリーブブラウスにパンツスタイルでかっこよく決めているけれど、由希は女の子らしくフリルの付いた細めのブラウスにふんわり広がるロングスカートで合わせている。
おまけに髪型もお化粧もいつもよりきちんと整えているから、普段と違うのは当然だ。
カールは由希と私を下から上まで観察すると、屈託なく笑った。
「うん、いつもより断然いいと思うぞ。特にあんた」
「な……っ」
それだけ言うと、カールはひらひらと手を振って表の方へ消えていった。
その背中に由希は口をぱくぱくさせるが、しばらくしてはぁとため息を吐く。
「梅乃、あたし決めてるんだ」
「ん? 何を?」
「演奏会終わったら、打ち上げ行く前に柳さんに告白しようかなって」
由希の方を見れば、カールが消えていった方向を見ながら、顔を赤くしている。
だけどその口調に迷いはなかった。
演奏会が終わったら、私はどうしよう?
夏海と仲直りして、昴さんにきちんと返事をして、それから――――。
同じ頃、ハインリヒは部屋に戻っていた。
急に行方不明になった主を一晩中探し回っていたのだが、遂に見つからず、先ほど一旦家に戻ってきたところだ。
本当に困った主を持ったものだ。
意地っ張りで素直になれずに一人で自己嫌悪に陥る。
それだけならいいのだが、急に別人のように変わったのには、正直なところ驚いた。
あれで本当におとぎの国へ帰りたいのなら問題ないのだが、主の性格を考えたらそれは違うだろう。
とにかく夕方が来る前に何が何でも見つけ出さねばならない。
ハインは部屋で一息吐くと、再び出かけようと廊下に出た。
そのとき、廊下の一番奥の部屋――梅乃の部屋から小さな人影が出てくるのが見えた。
「……ロッティ様? 一体梅乃お嬢様のお部屋で何を?」
ハインが尋ねればシャルロッテは肩を大きく揺らし、ハインの方を見た。
その様子にハインは首を傾げる。
しかし、シャルロッテは何も言わずに勢いよく走り出し、ハインを押しのけて階段を下りていった。
一体何事かとハインは疑問に思うばかりだったが、シャルロッテが玄関を出ようとした瞬間、ハインは見てしまった――――手に光る金色を。




