23.前夜
23.前夜
「本番は明日なのに、梅ちゃんやる気あるの?」
前日リハーサルが終わり自宅の最寄り駅からの帰り道、ハンスが嫌みったらしく言ってくる。
私は構わず早足で先を進む。
「そんなに支障来すなら早いところ夏海ちゃんに謝ったらどう?」
「うるさい! ハンスにそんなこと言われたくない!」
「はぁ、またそうやって当たる。その癖もいい加減に直した方がいいんじゃない?」
勢いよく振り返ってハンスを睨み付ければ、呆れたようなため息が降ってきた。
まるで他人事のような発言に私は何か言い返したかったけど、言い返したところで同じやりとりが繰り返されるだけだ。むしろその分のエネルギーがもったいない。
私は無言で歩幅を大きくする。
後ろからわざとらしいため息が聞こえてきたけど、すべて無視。
私に嫌味を言いたいだけならさっさと先に歩いていってくれたらいいのに、いちいちこういう態度とるから夏海にも誤解されるんじゃないの。
本当に迷惑だ。
すると前方からこちらに向かって走ってくる人影が二人見える。
「あっハンス兄に梅乃!」
「お、ちょうどいいところにいた」
やって来たのはカールとテオだった。
「どうしたの? こんな時間に二人して」
時計を見ればもう夜の10時。コンビニ程度ならまだ分かるけれど、普段クリスや魔神たちがあれこれ整えてくれているから、コンビニに行かなくてはいけないような用事なんてないはずだ。
「夕方からフリードの姿がどこにもないらしい。お前ら見てないか?」
テオががしがしと頭をかきながら尋ねてくる。
そんなの普通の質問なのに、「フリード」という言葉が聞こえてきた途端、胸が痛くなった。
すると、背中に誰かの手の感触がした。
「俺たちは見てないよ。というか、どうして君たち二人が探しているの、あんなヤツ」
ハンスは冷たさを含んだ声でテオの問いに答える。その声とは裏腹に私の背中を撫でる手は優しく感じるのは気のせいだろうか。
「まぁ普段のフリードでも放っておけば戻ってきていたから、俺達は探すつもりはなかったんだ。だが、シャルロッテがうるさくてな……」
「えぇ本当にロッティ様は賑やかでございましたね」
いつの間に現れたのか、ハインさんがとてもナチュラルに会話に混ざってきた。テオもカールも走ってきていたのに、この人普通に歩いてきた。
相変わらずマイペースな人だ。
「明日帰らなくてはいけないというのにフリードリヒ様がいないわ、どこかで迷子になっているのかしら、あんなに美しいお姿だから誰かに攫われたのではないかしら、大変大変大変大変、などと喚き散らしていらっしゃいました」
「ハイン、マネするなら棒読みで言うなよー」
「しかし本当にひどかった。ただ喚くだけならともかく、家のあちこちが大惨事になっていたぞ」
ハインさんはともかく、現場に居合わせたカールとテオは頭を抱えて項垂れる。相当ひどかったのだろう。
だけど私は、家の様子を案ずるより、別の単語に引っかかった。
「そっか……明日、だもんね」
ぽつりと口に出せば、他のみんなは急に押し黙り、それぞれ顔を見合わせた。
「あーじゃあ、俺たちは探しに行くから、お前らも帰り道に見かけたら連絡してくれ。行くぞカール、ハイン」
「はい、それではお二人とも、明日に備えてごゆっくりお休み下さいませ」
「梅乃、明日楽しみにしてるからなっ」
テオが気まずそうにその場をまとめると、ハインさんもカールもそれに付いて行った。
隣でハンスが未だに私の背をさすりながら息を吐く。
「……探しに行かないの?」
どことなく笑みを含んだそれに、私は首を横に振った。
だって面と向かえばきつい言葉をぶつけられる。その言葉はすべて私を孤独感に向かわせる。もちろんあれが正気なフリードとは思わない。
だけど私はすっかりフリードに対して臆病になっていた。
ハンスは「そう」とだけ言うと、このことについては特に何も聞いてこなかった。
家に帰れば聞いていた以上の大惨事で、キッチンの方から焦げた匂いが漂い、リビングもどうしたらこんなことになるのかというくらい荒れていた。
「あっ二人とも帰ったんだね。でも、ごめんね、こんな汚くなっちゃって。二人とも明日本番なのにゆっくり休みたいよね? それなのにあんまり掃除が間に合わなくて……」
キッチンの方から三角巾を顔に巻いたクリスがやって来た。見るからにクリスが悪いわけじゃないのに、既にクリスのネガティブモードは全開だった。
その様子にハンスが首を竦める。
「部屋は別に何ともないんでしょ? なら、俺はもう部屋に籠もるよ」
と、まるで他人事のようにハンスは階段を上がり、部屋へと消えていった。
相変わらず自分勝手なヤツだ。
「クリス、何か手伝うことある?」
私は異臭に顔をしかめつつもクリスにそう尋ねれば、クリスは今にも涙がこぼれ落ちそうな瞳を瞬時に輝かせた。
だけどそれはほんの一瞬で、クリスは再び泣きそうな顔を見せる。
「演奏会の前夜にこんなことをして梅乃さんの手を煩わせるなんて……」
「え、いや、別にかまわないんだけど?」
「ダメダメ! 万が一掃除中に手が焦げたりどこかにぶつけたり、あぁ顔も汚れたりなんかしたら、明日舞台に上がれなくなっちゃうよ?」
掃除中に手が焦げるって一体どんな惨事が広がっているって言うんだ。
だけどクリスは頑なに首を横に振る。
「あーもう梅乃。ここはクリスに任せておけよ」
リビングの方からかったるそうにカリムが出てきた。どうやらリビングの片付けをしていたらしい。
カリムの姿に昨日の繁華街のことを思い出すけど、それには構わず、ここはカリムの言うとおりにした。
「――で、どうしてカリムも付いてきてるの?」
別に呼んでもないのに私の部屋の前までカリムが付いてきた。
振り返れば何の気なしにカリムは首を捻る。
「ちょっと気になることがあってな」
「気になること?」
別にいつも無断で入ってくるから今更な話だけれど、こういうところを見るとモヤモヤしてしまうのは何故だろう?
私は何とも言えない気持ちで自室の扉を開ける。
すると、何故か私の部屋にはシャルロッテがいた。
「きゃっ勝手に開けないで下さいます!?」
勝手にって、シャルロッテこそ勝手に私の部屋に入ったんじゃないか。
しかも棚のものからクローゼットのものまで、割と片付いていたはずの部屋が散らかり放題になっていた。
もはや怒る気力も湧いてこない。
「ひどい有様だな。お前こそここで何をしていた?」
後ろからカリムが私の身体を支えながら、シャルロッテに相対する。
シャルロッテはビクリと身体を揺らしながら、腰に手を当てふんっと顎をしゃくった。
「フリードリヒ様がいらっしゃらないから探していたんですわ。もしかすると、この部屋に隠されているかもしれませんし」
「隠すってお前、フリードはもうカエル姿にならないんだから、こんな狭い部屋に隠れられるわけがないだろ?」
そう、その通りだ。
理由はどうであれ、豹変した日以来、フリードはずっと人間のままなのだから。
シャルロッテは再びビクリと肩を揺らすと、さっきよりも大きく顎をしゃくった。
「とにかく! わたくしのフリードリヒ様を誘惑するのはやめて下さるかしら? 迷惑も甚だしいですわ!」
それだけ言うと、未だに扉に立ちつくす私たちを押しのけて、シャルロッテはフリードの部屋へと帰っていった。
「あいつ、俺らを散々振り回しといてあの態度かよ」
「はぁ、もう一気にやる気なくなったよー」
カリムがぶつぶつ不満を漏らすのを流しつつ、私はベッドの空いたところにそのまま倒れ込む。カリムははぁとため息を吐くと、部屋に散在していたものを、それぞれ浮かせてまとめ始める。
「……まぁシャルロッテはせいぜい明日までだから、あと少しの辛抱だ」
「明日、ね……」
そのワードが何度も心に引っかかる。
先月までなら待ちに待っていた演奏会本番なのに、今の私は明日を迎えるのがひどく憂鬱だ。
ちょうどそのとき、携帯のバイブが鳴るのが聞こえてきた。
見れば昴さんからのメール。
――明日、ここを旅立たなくちゃ行けないんだ。だから演奏会が終わった後に、返事を聴きに行くよ。
私は携帯を閉じてため息を吐く。
昨日で揃ってしまったのだ、昴さんに言っていた条件が。
本物かは分からないけど、それ相応のものを用意し、更には私に手を差し伸べてくれた昴さん。正直、昨日は心が揺らいでしまった。
どちらの返事にしても、ちゃんと考えなくちゃいけないのに、心が追いつかない。
するとそこで、カリムの作業する手が止まっていることに気が付く。
見れば昴さんからもらった“磨けば磨くほど光り輝く植木鉢”を手に、じっとしている。
「カリム? どうしたの?」
声をかければカリムはふっと顔を上げて「あぁ……」と返事をしてきた。
だけど未だに訝しげにそれを眺めている。
そういえばいつかも同じようなことがあったけど、どうしたんだろう?
「うわぁ、梅乃ちゃんの部屋も相当ひどいね」
アサドが相変わらず楽しそうに入ってきた。この人もまるで他人事のようだ。
「どうしたアサド。こんな時間に」
「ほら、これ」
アサドはぽいっと何かをカリムに向かって投げた。
カリムはそれを受け取る前に宙に浮かす。
アサドが投げたのはどうやら二つあるみたいだけど、そのどちらもが薬瓶のようだった。
「一週間もかかってようやくこれだけだけど、カエル君が変わった原因がとりあえず分かったよ。ロッティの荷物から出てきた。片方が以前ボクがあげたカエルの魔法を一日分解く薬」
「なるほど。シャルロッテがフリードに飲ませていたからカエルにならなかったのか」
「もう一つの方は?」
アサドはそこでやれやれと肩を竦める。
「どういう効果があるのか色々成分を調べてはみているんだけど、まったく上手くいかないね。一体どこで手に入れたのか知らないけれど、ボクの魔法と相当相性が悪いみたいだ」
いつも愉快そうにしているのに、アサドはどことなく面白く無さそうにそう言う。
そのとき、肩の横に出したアサドの両手が焦げているのに気が付く。
それを見ると、何だかやるせなさがこみ上げてきた。
「もういいよ、アサド。どうせ明日だし、変わりっこないよ」
私はベッドに項垂れたまま、ぽつりとそう言う。
二人がこちらを向くのが気配で分かった。
「随分弱気だね、梅乃ちゃん。まだ時間はあるよ?」
「そうだぞ、明日って言ってもおとぎの国と行き来できるようになるのは夕方からだからな」
「そういうものなの? でもアサドの魔法でも原因突き止めるのに一週間もかかったんでしょ? もう、無理だよ、忘れようよ」
私がそう言えば、カリムはため息を吐き、アサドはやれやれと再び肩を竦める。
「ご主人サマにこうも不可能だって言われると、流石に凹んじゃうな」
「正直言われたくない言葉だよな」
「……う、ごめんなさい」
すると、急にベッドに散在していたものが宙に浮き、空いたところに二人が腰掛けた。
カリムの手が私の背中をさすり、アサドの手が私の頭に乗っかった。
「ま、梅乃ちゃんは大事な演奏会があるんだし、こっちのことはボクたちに任せて」
「明日にはきっと良くなっているからな」
その瞬間、アサドの手がほんのり温かくなり、一気に睡魔が押し寄せてきた。
フリードのこととか夏海のこととか昴さんのこととか、考えなくちゃいけないことは沢山あるのに、私はすべてに無視をして、そのまま眠りに引き寄せられていった。




