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処女の血

作者: 相口夏来

 消灯は午後十時だけど、みんなが眠りにつくまでにそれから二時間はかかる。

 でも、ドアの隙間から多少声や光が漏れていたところで、見回りの先生たちは咎めようとしない。自分が生徒だった時からの伝統なのだ。そういう馴れ合いで、この学校は回っている。


 それを良いことに、今日もうちの部屋では品評会が始まった。審査員は二段ベッドの下段で寝る者同士、彩瑛と未優、そして品物はクラスの男子たちだ。枕に頭を沈めて肩まで掛布団をかぶったまましばらく下で垂れ流されるままの鑑定を聞いていたが、やっぱり菊地海翔が出てくる気配はない。それが、通路を挟んだ向こう、彩瑛の上で菊池とのLINEに興じている深尋への当てつけになるのだ。

 それから、下段の二人は話しをすること自体も私への当てつけになると思っているらしい。確かに、入学してから五年、高等部二年になった今もまだ、堂々とこんな栗色の髪の毛を靡かせてきているというのに浮いた話のひとつも聞かれないというのは、お笑い種だろう。あるいは単純に髪を染めるのが禁止されているこの学校で、生まれつきだからとこの髪色を許されているのも気に食わないがゆえの遠回りな攻撃なのかもしれない。厳密に言えば、許されているのではなく無視されているという方が近いのだけれど、そんなことは知ったことではないのだろう。保護者会に親が来ないし、そもそも親がひとりだけの生徒をきちんと擁護してくれる空気や環境は、ここにはない。この監獄におあつらえ向きの娯楽として、私はみんなからも認められている。


 私は掛布団を静かに剥ぐと、枕元のロザリオを取って首から提げて、パジャマ姿のままベッドの梯子に足を掛けた。深尋は相変わらず、場違いに煌々と光を放つスマートフォンにしか興味が向いていなかったけど、それも、私が床に降り立った途端に、示し合わせた――ように――意地の悪い視線を向けてくるふたりに比べれば、とても優しかった。

「あれ? もう消灯だけど。どしたの?」

「また外出るのお? 何しに?」

「安部さんが変なことする訳ないだろ、あんたじゃないんだからさ」

 輪の閉じた疑問文を投げつけて、陰湿な視線を刺してくるのが彼女たちの常套手段だ。でも、そんな言葉も視線も知らない。物言わぬ私は、まっすぐ伸びる背筋でそれらをはね返して、気兼ねなくこの牢から出る。


 この牢の良いところは、お手洗いがすぐ目の前にあることだ。ほとんど廊下を横切りさえすれば、監視カメラ――学校は防犯カメラと言っているそれ――には一、二秒しか映らない。ただし、それと引き換えに私がトイレに入ったということはルームメイトに音でわかってしまう。そして、あらぬ想像を巡らされる。彩瑛が、わざわざ個室に籠って自慰をしていると触れ回るのを小耳に挟んだこともある。そして、クラスメイトはすべて鵜呑みにするのを目の当たりにしている。私ならありうると思っているんだろう。


 最近はますます、クラスメイトとの距離が遠くなった気がする。栗色の髪の毛もずっと伸ばし続けたら顔の大半を隠すようにもなったし、そうでなくても教室で向かい合うのは教科書と聖書――これも教科書みたいなものだけど――とノート、それから図書館で借りた小説ばかり。この監獄でやっていくには、まず考えられない過ごし方だろう。いわば異常であり、特別であり、不思議だ。

 しかし、そんなレベルの低い形容に甘んじる気はない。私は、母から生まれたこの私を、そう、「奇蹟」と表現する。奇蹟を背負う私に、この監獄は必要な試練なのだ。逃げてはならない、そのことが分かっているからこの学校生活を受け入れている。


 お手洗いの入口でピンク色のゴムサンダルに履き替えると、最低限、用を足せる程度に照らしてくる蛍光灯の淡い光の中をまっすぐ進んだ。一番奥の個室はもちろん空いており、そこに入って静かに扉を閉めると、慎重にロックバーを差した。そうして閉じ籠ることで、私は牢から脱出することができる。ただ、脱出するのが私の一番の目的ではない。それならイヤホンを耳に突っ込んで掛布団を頭までかぶった方がましだ。

 私はその場でしゃがみ込むと、ふたもC字の便座も上げて、ぬめりが光を返す便器の中に顔を突っ込んだ。

 そして、私は胃の中身を吐いた。食堂で詰め込んだ白いご飯もお味噌汁もブリの塩焼きもホウレン草の胡麻和えも麦茶もぜんぶ、酸っぱい胃液に包み込んで体外に戻した。食べなければやっていけないのだが、身体が毎夜のごとく拒絶してきて、内容物をエネルギーもろとも奪っていく。

 でも、別に辛くはない。これから必ず迎える痛みに比べれば、どうってことはない。母も乗り越えたのだから。この奇蹟を、私のインマヌエルを棄てる訳にはいかない。


 私は左手で少し張った腹をさすり、右手で首からだらんとぶら下がるロザリオを掴んだ。

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