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吊橋の上の天使

作者: 阿僧祇


 たとえばこれは、どう見ても妙な組み合わせだった。歳も離れていた。

 俺・時谷滝人(ときたに・たきと)は、大学中退して、アジアやアメリカを放浪した末、帰国後もほとんどの日々をフリーターとして過ごしていた。どうも若く見られる傾向があるが、実は30代前半。いうなれば人生の敗北者だ。

 彼女・江本朋慧(えもと・ともえ)は、現役で入ったバリバリの大学生で中国語学科に在籍の優等生。いわばこれからの日本を導くエリートの一人だ。


 出会ったのは、俺がフリーターで彼女が高校二年だった冬。それ以前は、いつもの駅でいつもの時間に見掛ける、ちょっと気になる女の子の一人にすぎなかった。

 いつのまにか、すれ違う時に頭を下げるようになり、やがて言葉を交わすようになり、気が付くと俺は彼女の雑談相手になっていた。つい調子に乗って、住所や電話番号まで教えてしまった。

 彼女は、とてもエネルギッシュで陽気で、元気な女の子だった。だけど、時々自殺しそうなほど沈みこんでいるときがあって、その落差が激しかった。

 都内の某女子高校に通っているという話だった。毎日のように予備校通いで大変そうだった。相談や愚痴の内容もいろいろあった。家のこと、友達のこと、受験のこと、…そして恋愛のこと。

 いろいろ不安だったんだろう。あまり関わりのない第三者に、もやもやをぶつけたかったのに違いない。俺が話を聞いてあげたあとは、いつもまた元のエネルギッシュな女の子に戻っていた。


 俺も、女の子に頼られるのは悪い気分じゃなかった。恋愛成就なんて経験はこれまで一度もなかったけれど、「好きな人がいるんだけどどう接したらいいかわからない」と相談されたときには、どうやったら男が女の子を意識するかなんて事を詳細にアドバイスしてあげたこともあった。


 しばらくすると、その人のことは「もう嫌いになっちゃった」と言っていた。そして他の男について、「あばたもえくぼ」っぽい話をまた聞かされはじめた。

 俺なんか中学のときの片想いの女の子にいまだ淡いあこがれを抱き続けてるのに、女の子の恋愛感情なんていい加減でコロコロを変わるもんなんだな、と驚いた。


 「吊橋効果」というものがある。

 吊橋の上で出会った男女は恋に落ち易い…つまり、不安だとか喜びだとか興奮だとかで心臓がドキドキしてるとき、近くにいた異性が恋愛感情の対象になりやすいということ。

 お酒が入ると男女の仲が大胆になるというのはまさにこれが原因。ジェットコースターや映画館などがデートの舞台になるのもこれが理由。出会いイベントで激しい運動や緊張を要するゲームなどさせるのもこの効果を出すため。

 苦しいときや不安でたまらないときに近くにいた異性に恋してしまうのも同じ現象。

 ただの脈拍上昇と恋愛感情が、人間には実に区別がつきにくいのだ。

 そして精神も肉体も不安定な彼女たちは、しょっちゅう脈拍があがってるから、その都度、恋愛対象も次々と変わって行くんだろう。自覚もないままに、短い吊橋をどんどん渡って行くんだろう。そんな感じだった。


 次の初夏頃になると、俺の仕事先や時間帯が変わって、ほとんど会うこともなくなった。けれど、どういうわけか数日おきに手紙が届くようになった。

 「時谷滝人様」と、俺の名前がまるっこい文字で書かれていて、なんだかくすぐったい感じがした。手紙が来てから初めて、彼女の名前と住んでるところを知った。封筒の裏に小さく、「江本朋慧」と書いてあった。

 手紙が届くたび、封筒の中からやわらかい香りがして、俺はとまどった。でも、俺はそれを読むたびに元気づけられた。手紙の香りは、まるで天使の妙薬だった。

 そしてそのつど俺は、彼女の悩みに精いっぱい真剣に答えた返事をしたためたのだった。


 7月のある日、俺はちょっと浮かれた気分でバイトから帰ってきた。前に返事を出したたのは4日前。だから今日は彼女から新しい手紙が着いてるはずの日。

 ところが、この日、手紙は来てなかった。俺はちょっとがっかりし、疑問に思いながらも、

(ま、別に変でもないさ。)

 自分に言い聞かせていた。


 翌晩。やっぱり手紙は来てなかった。

(何かあったのかな?)

 俺は少し心配になってきた。

(病気で寝てるとか…事故にでもあったとか…いや、まさか自殺なんか…)

 考え始めると、不安が募っていった。

(もしや、この間俺が話した「吊橋効果」をさっそく俺に試してるんじゃ…あの悪ガキ!)

 いそいでその考えを打ち消した。

(馬鹿な。ただの、女の子らしいきまぐれだよ。)

 でも不安のせいで、心臓が早鐘を打ち始めた。

(やべえ…「吊橋効果」だぞ、勘違いするなよ、俺…)

 こんなときに彼女のことを考えていると、この不安が恋愛感情だと思い込みたくなってくる。

 心を静めるため、以前に届いてた手紙を机の引き出しから取り出して眺めた。女の子らしいやわらかい香りが、部屋の中をただよった。香水だろうか? それとも、彼女の香り?

 俺はいつしか、眠りに就いていた。


 その晩、とんでもない夢を見た。

 冬の雨がふる夕方に、いつもの駅へ帰ってくる俺。ところが改札を出ると、彼女が濡れかけて立っている。

「どうしたの?」

 俺の問いに、泣き顔を向けてくる彼女。

「時谷さん…わたし…わたし…」

 わっ、と泣き出してしまった。

「落ち着けよ! とにかく、どこか…落ち着いて話できるところへ行こう。」

「いやっ!」

 彼女は、俺に激しく抱き付いてきた。

「わたし、わたし、この世にいらない娘?」

「そんなことないよ!」

 俺は反射的に怒鳴っていた。

「少なくとも俺は、江本くんがいなくなったら寂しい!」

「じゃ、連れてって…」

「え?」

 次の瞬間、俺達はベッドの上にいた。


 <<数行省略>>


「いいのか…」

「うん…時谷さん」


 <<数行省略>>


 その瞬間、彼女は爆発するような叫び声をあげ、痛みに全身を痙攣させた。

「ごめん! やめるよ!」

「いいの! そのまま!」

 彼女は目を強く閉じて涙をこぼしながら、力強く俺に抱き付いてきた。


 <<数行省略>>


「う…俺…もう…いきそうだ…」

「…うん、きて、私に!」

「で、できちゃうぞ!」

「いいのっ! 時谷、さんの、赤ちゃん、私が、生んであげる…から!」

「…ト…トモーっ!」

 二人の声が激しい和音になった…暗転。そして、電話で話してる俺の声。

「あっ、朋慧さんのお父さんですか…? せっ…責任取らせてください!」


 目覚ましの音。休日の朝だった。

 心臓が、火事の半鐘みたいな速度で動いている。

「…あっ、まさか!」

 あわてて下着を確認する。…寸前で大丈夫だった。俺はほっとした。と、同時にものすごく恐ろしい気分になった。

(…俺、いつのまにかあのコによこしまな欲望を感じていたんだ! いつの間にか…)

 最大級の罪悪感だった。まるで巨大な山を背中にのせられたような。

(しょうがないかな…二人とも、若いんだし…)

 あわてて首を横に振る。

(馬鹿っ! あのコは妹みたいな存在だぞ!)

 ふと横を見る。読みかけの手紙が、まだ香りを放っていた。

(違う。妹じゃない…天使だ! 生きる気力も無かった俺が最近は、バイトにもまじめに行ってる…天使に元気付けられてるからなんだ! 天使を汚しちゃだめだ!)

 俺は、本棚からHマンガを5・6冊引っ張り出し、ついでに高校の頃少しあこがれたけど後で他人とヤリまくってると聞いて幻滅した同級生の女子をムリヤリ暴行する自分を想像をして、一気に処理した。

(江本くんを…汚さないで、済んだ…)

 ちょっとだけホッとした。

 溜め息をつくと、間髪をおかず飛び起き、水のシャワーを浴びた。心臓が絞られるような冷たさだった。

(汚れた心は洗い流せ…! そうだ、天使に元気付けられるだけの価値がある、立派な心を持たなきゃ!)


 冬になっても、相変わらず手紙が定期的に届いていた。

 おれは、自分がだんだん彼女を強く意識しているのが不安になってきた。そして、彼女が手紙に時間をとられてることも不安になってきた。

「そろそろ試験も近いから、中学生みたいな文通はこのへんでやめとこう。合格したら電話ください。」

 そんなことを書いて送った。それから、手紙はぱったり来なくなった。

 自分でそうしておきながら、だんだん寂しさに耐えられなくなってきた俺は、一度だけ年賀ハガキをだしてしまった。

「がんばれ! でも年賀の返事なんか書くなよ、その時間試験勉強だ!」

と書いておいた。もちろん返事は来なかった。


 それから、ありったけの金を持って花屋へ行き、買えるだけのバラの花を、最初の合格発表日に届くよう指定して、彼女宛てに送った。ただし、男からこんなもの送られては家族が驚くだろうと思ったので、名義は「江本朋慧 応援団 一同」としておいた。

 死ぬまでにいっぺんだけでいいから、女の子の部屋に捨てなきゃならないほどの花を送ってみたいと思っていたので、ちょうどいい機会だったこともある。

 合格すればお祝いになるし、不合格でも元気付けになるよう、二通のメッセージをつけておいた。

 それから当分、塩をかけた白飯だけ一日一膳という貧しい生活になったが、その日に彼女の驚く顔を想像すると、後悔はしなかった。


 そして発表の日。彼女から電話がかかってきた。大量のバラの花のお礼と、最初に受けた大学に落ちたという報告だった。さすがに元気がなかった。

「まだ第一志望の試験はまだなんだな?」

「え? ええ、はい。」

「じゃ、まだわからないぞ。受験は戦争と同じで、実力だけじゃなくて運もある。実力はあっても運で駄目だったのかもしれない! 次は違うぞ!」

「でも…」

「あれだけ一生懸命勉強したんじゃないか、自分を信じろ!」

「は、はい…そうですね!」

「今日はさ、バラの香りにつつまれてゆっくり休んでよ。そして明日からまた戦いだ!」

「はい、ありがとうございました!」


 何日かして、また彼女から電話がかかってきた。旅先からだった。

 第一志望に合格して、友達数人と卒業旅行にきている、ということだった。

「おめでとう! がんばったね!」

「ありがとうございました、いろいろと…」

 うしろできゃいきゃい声がしている。

「静かにしてよ~」

「ひゅー、ひゅー!」

「きゃー!」

 女子校のコたちだもの、友達が年上のオトコの人に電話するとなると、興奮して冷やかすのも無理ないと思った。

「いいねえ、女のコがいっぱいで。楽しそう。俺も今からそこへ行こうかな。」

「ええーっ? 来るんですか?」

「えっ、ここへ来るの!?」

 向こうの喚声がひときわ高くなる。

「あ、あのっ、やめてくださいね! お願いだから。」

「ははは、冗談だよ。」

 半分本気だったが、所持金が足りるかわからなかったし、彼女がやめて欲しいならやめようと思った。

 と、向こうでいきなり誰かが受話器をひったくったようだ。

「こんにちはー。あの~、トモエのこと、どう思ってますか?」

「は?」

「やめてよーっ!」

 遠くから、彼女の笑い声も聞こえてきた。

「だめだよそんな聞き方じゃ」

 別のコが受話器に出たらしかった。

「トモエのこと、愛してますかー?」

「はぁ!?」

「やーめーてーえっ!」

 俺はこの前の夢のことを思い出して、とっさにそれを打ち消した。

「トモエのこと、かわいがってあげてくださいねー?」

「ちょっとまってくれ! そら、かわいいコとは思いますけどね…。」

「ねえねえ、脈があるわよ!」

「きゃーっ、やめてーっ!」

 悲鳴みたいな、でも楽しんでるような彼女たちの声が聞こえてくる。

「俺と江本さんって、けっしてそういう関係じゃないですから。…あの、江本さんに替わってもらえます?」

 受話器は彼女の手に戻った。

「楽しそうだね…。でも、あのね、江本さん。よく説明しときなさいよ。俺は恋愛の対象じゃない、ただの相談相手だって。」

「は、はい…」

「じゃ、旅行、楽しみなよ。」

 おれは電話を切ろうとする。

「ま、まってください! お花のお礼、したいんです!」

「お礼なんかいいって。送りたいから送っただけだなんだし。」

「いえ、お礼させてください。旅行のお土産もあるし…。」

「わかった。じゃあ、昼飯でもいっしょに。」

「は、はい! わかりました!」


 これで俺の役目は終わり。天使は俺に夢をくれて、そして去って行く。

 ちょっと寂しい気もしたが、最後にもうひとつ、俺に「デート気分」という夢を見させてくれるんだ。充分に満たされた気持ちだった。


 制服以外の彼女を観たのは、初めてだったかもしれない。うっすらと口紅を塗っている。まさに「天使」だった。

 それに、女の子とふたりで歩くのは、初めての経験だった。そしてたぶん最後の経験になるに違いない。学生の頃から女の子にほとんど縁がなかった俺だ。

(単なるお礼とはいえ、いっしょに歩いてくれる女の子がいる…)

 これが人生最良の日、とも思えた。一生の思い出にしようと思った。その思いが、思わず口から出た。

「なんか、デートしてるみたいだね」

 笑ってツッコミを入れてくるかと思ったのに、彼女はぷいと横をむいてしまった。

(あれ? 怒ったのかな?)

 俺は不安になり、話を逸らした。

「えっと、じゃ、このへんで食べよう。」

「はい。」

 そこは、乗換え駅近くのちょっとしたレストランだった。

 この辺には仕事先の会社が多く、知り合いの一人くらいポッとやってくるかもしれない。「今日だけの彼女もどき」をちょっと自慢したい気もあった。

 食事が終わっても、馬鹿話に花が咲いた。

 今日でこのコと会うのも最後だろう。大学に入れば、平均以上のルックスの女の子は男たちが放っておかない。女の子を楽しませることができて性格も善良ないい男を捕まえてくれることを祈るだけだ。

 でも、あと何時間だけは、俺だけの…朋慧ちゃんだ。

「江本さん…朋慧ちゃん、て呼んでいい?」

 彼女は急に驚いた顔になった。

「あ、嫌ならやめるよ。ごめん。なんかさ、女の子とふたりきりって初めてだし、君と会うのも多分最後だから、デートみたいな気分を味わってみたかったんだ。」

「ううん、いいんです。いろいろ面倒見てもらったし。それに、私、あなたのこと好きでしたし。」

「うひょっ!」

 俺は思わず後ずさって、わざとらしく驚いてみせた。

 このテの冗談にはそろそろ慣れはじめていた。彼女に冗談で「愛してます」ってからかわれたのも、もう二度や三度は経験してた。

「やだなー、また。何度もそんな冗談言われると、本気にしたくなってくるじゃん。」

「…」

「?」

「…今日は、冗談、じゃあないんです。」

「いいって、もう、お礼は。」

「お礼、じゃあないんです。」

「ははは…まさか、本気じゃないでしょ?」

「本気なんです。今日は、言おうって決めてたんです…。」

 楽しかった「デートもどき」が、急に重苦しいものに変わってしまった。

 どう考えたって、俺は彼女につりあう男じゃなく思えた。

「からかってんのか?」

「本気です。」

「気の迷いか?」

「本気です!」

 その目は、本気に見えた。今にも泣きそうな目だった。

「わかった。ちょっとだけ、一緒に歩こう…デート気分で。」

 俺達はレストランを出て、線路に沿って歩いた。

 彼女の方を見れない。

(いったい、このコは何を考えてるんだろう?)

 からかうにしては、真剣な表情が長すぎる。

(また、きまぐれだ…)

 そういう結論になった。でも、歩いていると次第に心臓が高揚してくる。

(つ…「吊橋効果」だ! まずい…俺、このコを意識してるんだ…!)

 俺は呪文のように心の中で「吊橋効果」「吊橋効果」と繰り返した。

「電車で行こう!」

「…うん。」

 「はい」がいつのまにか「うん」に変わっていた。

 電車に乗っても、心臓の高揚はおさまらなかった。そのまま、彼女の家のもよりの駅まで来てしまった。階段を降りることもできず、俺達はベンチに座を占めた。

 そして、気が付いた。俺は、まだ彼女に返事をしていないことに。

 しばらく考えて、俺はこう答えた。

「や、やめようよ…俺、君の彼氏を務める自信はない。」

 涙目が俺を覗き込んで、首を横に振った。

「そ、それじゃこうしよう。俺はキープ。で、江本くんは一応フリー。俺は、男友達の一人ってわけ。大学へ行けば、いい男がいっぱいいるって。」

 彼女は、もう一度激しく首を横に振った。目からは涙がこぼれている。

 俺は、進退極まった。

「好きじゃないなら、そう言って…。嫌いなら、嫌いって言ってください!」

「嫌いなわけあるか! 好きだよ、俺だって!」

「…キスして。」

 その言葉は、俺を操る呪文だった。俺の身体は、俺の意志と関係なく彼女に吸い寄せられた。

 そのやわらかくて小さくて暖かいものに吸い付いてしまったとき、俺は、全身を駆け抜ける幸福感と、そして大切にしようとていたものを自分で汚してしまったという嫌悪感に引き裂かれた。俺の心の中では何かが崩れていった。

 その後、三回もキスを繰り返した。駅前のベンチでもう一度キスした。キスは、癖になるということをこの日、初めて知った。


 天使は、堕ちてしまった。

 空から夢を振りまいてくれていた天使は、翼をたたんで俺の胸の中へ自分から飛び込んでしまった。俺の、汚れかかった腕に掴まってしまった。

 悲しかった。辛かった。神聖なものが冒涜された気がした。

 でも、嬉しさもあった。天使を独占できた嬉しさも。

 家に帰って、眠ろうとしても、もらったお土産から湧いた彼女の香りで部屋がが充満してる気がして、どうしても眠れなかった。

 翌日、速達で、恋を激白した手紙を書いた。

 その日のうちに、それを撤回する謝罪の手紙を出した。

 翌々朝には、「条件付きで付き合おう」という手紙を書いていた。

 混乱しきっていて、やってることにまったく統一性がとれてなかった。


 数日間、悩みは続いた。

 でも俺は恐かった。天使が再び翼を広げるときが。その時、苦しいのは俺だけじゃないから。俺を離れる天使も…ふたりともが苦しむんだ。

 女子校育ちの彼女のまわりには、これまで異性がほとんどいなかった。だから不安なとき…ドキドキしていたとき、側にいた男に恋愛感情を感じてしまうのはしかたない。

 だけど大学に入ればいろいろな男が周囲にいる。彼女は、さらに広い範囲から自分に合った相手を選ぶことができる。そのとき俺みたいな奴が側にいたら、彼女のその権利を奪ってしまう…俺が彼女を不幸にすることになる。そして、俺自身も大事なものを失って傷つくことになる。

 友達に遠回しな言葉で相談した。ネット上の電子掲示板に仮名で苦しみを晒した。

 ほとんどの答えは、「つきあえばいーじゃん」というものだった。後のことなど深く考えず、好き合ってるものどうしくっつくのが自然だという結論だった。


 一週間も過ぎると、次第に考えがまとまってきた。

 「騎士」だ。俺は、彼女というの姫を守る「騎士」になればいい。騎士に許されているぎりぎりの情愛をもって彼女を愛すればいい。歴史の本で読んだ「騎士の愛」だ。具体的に言えばB止まりだ。

 そして、隠す事無く本当の自分を晒せばいい。

 それでも彼女が大学を卒業するとき、まだ俺を選んでいてくれたら、あらためて一生を彼女にささげよう!

 そうだ、これは彼女にとって俺の試用期間なんだ!

 結論は決まった。俺は、受話器を取った。


 それから一年以上が過ぎた。

 彼女は、まだ俺とつきあっている。

 俺は、いつ天使が翼を思い出すかびくびくしながら、彼女の望むことを少しでも果たそうと一生懸命だった。

 彼女はときどき、俺の望むことをしたいと言った。だから俺はわがままも言った。自分から彼女に甘えたりもした。

 しだいにそんな関係に慣れてきた。

 彼女は、「好きなのはタッくんだけよ」という言葉を何度も何度も繰り返した。

 俺もしだいに、こんな関係が一生続くかもしれないと思うようになってきた。こう考えると、俺は天にも昇る気持ちになった。彼女と暮らす将来の事も考えた。二人で老いる日の夢も見た。そのためにどうすればいいか、いろいろ考えた。

 でも、やはり不安は残っていた。

 だから、最後の一線は越えないまま、なんとなくぎくしゃくした「騎士」の付き合いが続いていた。ただ、後戻りできないように、他人へののろけ話だけは意識的にしていた。


 不満はぜんぶ伝えた。気に入ったところも全部口に出した。直して欲しいところはすべて言ったし、俺の直して欲しいところは言ってくれるように頼んだ。

 いちど、浮気心をおこしかけたことは伝えるのにすこし時間がかかったが、それでも隠したくはなくてなんとか伝えた。彼女は激怒したけれど、すこししてから、正直に懺悔して彼女に帰って来たことを認め、許してくれた。

 このとき、俺はもう自分のための隠し事はしないと心に決めた。


 何度も一緒に食事した。彼女はよく

「一口ちょうだい?」

 と俺のオーダーを味見した。そしてときどき、その後に付け加えた。

「他人の注文したものを食べてみがる人って、浮気性なんだって。」

「…やだなぁ、トモが浮気性だったら。」

「あ、私は違うよ! 浮気なんかしないからね!」

「う~ん、なんか恐い…」

「…もう。わたしはタッくんだけのものだってば。」

 完全に、恋人の会話だった。


 俺だけのもの。

 とくにそう実感するのは、ふたりきりで過ごす時間だった。

 最初は、ところかまわずべたべたくっついてしまった。やがて、人前でべたべたするのは周囲の迷惑だと気がついて話し合った。ただ、街中でふたりきりになれる場所はめったになかった。

 冬の海を見にいったこともあった。誰もいない砂浜で、一緒に弁当を食べて、抱き合って時を過ごした。


 あるデートの帰り、電車の中で馬鹿話をしていた。話題は金縛りのことになった。

「金縛りで恐かったの。誰に助けを求めていいかわからなかった。」

「大声を出すと、金縛りは解けるときがあるんだ。そういう時は俺のこと呼びな。」

 物理的に助けにならなくても心の支えになりたい。そういう意味だった。しかし…

「うん、△◇○のこと呼ぶ」

 彼女の口から出たのは、俺の名ではなく、女性に人気の男性タレントの名前だった。

 俺は、反射的に、彼女の肩を抱いていた手を離した。

「ご、ごめんっ!」

 驚いた彼女はあわてて謝ってきた。

「いや…まってくれ!」

 俺は、額に指を当てて自分の感情を整理した。

(これは、冗談なんだ…他愛ない、軽い冗談なんだ。)

 2~3分かかったが、ようやく気持ちが落ち着いて、彼女の顔を見ることができた。

「ご、ごめんなさい…」

 泣きそうな顔をしている。

「いや、俺が悪かったよ…気が動転しちゃって。」

 だけど、俺の彼女の手を握るしぐさがどうしてもぎこちなくなったし、その日は何かが恐しくて、別れ際も彼女の唇にキスがでず、手の甲にしてごまかした。


 その夜、恐ろしい夢を見た。

 俺の目の前で、彼女が他の男に抱かれていた。俺に許すことのなかった純潔をそいつに許していた。しかも、その男はいかにもいっときの遊びという態度で彼女を汚しているのに、彼女は喜んでそいつに応え、腰を振っていた。

 いつか…来ると…でも、あまりにも唐突でショックだった。

 俺はその場を逃げ出した。震えている俺のところへ、ことを終えた彼女がこともなげにやってきた。

「誰だよ、あいつは!」

 思わず声を荒げる俺。ところが彼女は、俺以上の怒りを声に出した。

「何怒ってんの、たっくん!? あの人、すごくカッコいい人なんだから! これくらいで怒ってんじゃないわよ! バカじゃないの?」

 俺は、彼女を殴ろうとしたが、体は言うことを聞かず、抱きついて泣き始めていた。

 たとえ他の男に汚されたとしても、俺は彼女のことが好きなんだと気が付いた。彼女が俺のことも好きでいてくれれば、俺と付き合い続けてくれていれば、すこしくらいこんなことがあっても許せるんだ…苦しみはするだろうけど許せるんだ。

 そう悟った。俺は、彼女を「愛し」はじめている、と気がついた。


 次に逢ったとき、その夢のことを話した。ただし、最後のシーンは言わなかった。たとえ本当のことでも嘘っぽかったし、喜ばせるために嘘を言ってると思われるのは絶対に避けたかった。だいいち記憶がもう薄れつつあった。

 この話を聞くと、彼女は最初爆笑して、つぎに優しく微笑み、「そんなこと、絶対にしないからね…」と俺の顔を胸に抱きしめてくれた。

 この言葉を信じていいのかどうか、俺は複雑な気持ちだった。


 心だけのつながり。言葉だけのつながり。それは、半信半疑を起こす。

 俺はいつしか、彼女の身体を求めるようになっていた。だけど、「騎士の愛」と決めたことが心に引っかかっていた。

 歴史の本によると、「騎士の愛」は一線を越えて肉体的な結びつきを持ってはならない、とある。だから、彼女が俺を求めてきたときがあっても俺はぎりぎりでためらって、いつもその機会を逃していた。


 そんな中途半端なつき合いがつづくうちに、また一年が過ぎてまた冬がきた。

 そのころ、親が商売に失敗しかけ、田舎の店が危なくなったと知らせが入った。再起のため、社員さんの何人かに辞めてもらって、薄給で長時間使える身内に替えるとのことで、俺にも田舎へ帰るよう命令があった。

 俺は最初拒否していたが、どこかからか「親族が非協力的な店になんか融資できない」と言われたということを聞いてから、だんだん逆らえなくなって、少しづつ手伝うようになった。

 そのうち、「将来に店の経営に参加させるため、滝人を1年間四国のとある店へ修行に行かせる。」という話になってしまった。融資元が出してきた条件だという話で、いわば俺は人質というわけだ。

 融資を受けても店が潰れてしまったりすれば、俺は一生むこうで頭が上がらず、安い給金で尽くさなければならないことになるだろう。でなければ金持ちの女性と結婚させられ、相手の家の財力で…

 どっちにしても、彼女には1年は会えないことになる。下手すりゃ、他の年増女性あたりとの政略結婚を強いられることになる。

(潮時かな…)

 俺はそう思って、決心し、彼女に電話した。

「トモ?」

「あ、タッくん?」

「今度、いつ逢えるかな…ちょっと大事な話があるんだ…」


「一回、別れよう」

 こんな言葉を自分から出すとは思っていなかった。

「1年…おたがい、フリーになろう。その間に恋人をつくるのも自由。そして、1年後に俺が帰ってきたとき、もしもお互いに気持ちが変わってなかったら…あらためて俺から交際申し込む。」

「いや!」

「でも…つらいぞ、遠距離は。」

「私、気持ちは絶対に変わらない! それに、つらかったら逢いに行く! アルバイトしてお金作って、どんなに遠くでも、夏休みに逢いに行く!」

「トモ…」

「もしあなたに、他の好きな人ができちゃったんなら仕方ないよ…私が嫌いになっちゃったんなら仕方ないよ! だけど、好かれたままで別れるなんて、そんなのつらすぎる! それに、私、他の人なんか絶対好きにならない!」

「俺、政略結婚させられるかもしれないし、トモを幸せにする自信もないぞ…」

「他の人と結婚してもいい! ときどき私にも逢ってくれれば幸せだよ! 私のことも好きでいてくれれば私は幸せだよ! まだ身体は結ばれてないけど、私はもう完全にタッくんのものなんだから!」

 俺は、こんなにも…ここまでも、この天使に想われてるのか…!

 感動が俺の全身を包んだ。魂も燃え上がらせた。

(こいつだけだ…俺には、一生! もう、一生、トモだけだ!)

 心が決まった。でも口には出さない。言葉にすると、嘘っぽくなる気がする。抱きしめる事で返事になってるはずだ。

 だけど信じよう。何があっても信じよう、俺の天使を! そう心を決めた。

 そして、1年後には心も身体もともに「俺のもの」になってもらおう! それだけ強い心の結びつきがあれば、彼女も後悔はしないだろう。


 このころから彼女は、また「愛してる」という言葉をすぐ口にするようになった。俺はまだ自信が無いので「好きだよ」と答えていた。

 「好き」と「愛」は違う。「好き」は相手を自分のものにしたいという気持ちで、「愛」は相手のために自分のすべてを捧げたい気持ちだ。

 彼女は、俺が彼女を求めることを求めている。俺は、彼女を求めている。だから俺からは「好き」と言う。

 彼女は俺にすべてを捧げてくれる気でいるようだ。「愛してる」と言われるたびに、俺も、一日も早くそれに答えられるよう、完全な信頼と完全な忠誠を誓えるようになろう、と思った。

 それには、この1年を乗り越えることだ。長く逢わなくても、連絡がほとんどなくても、気持ちが変わらなければ、俺たちはお互いに完全な信頼を持てる…そんな自信があった。


 結局、融資の話は御破産になり、俺は「時間が余っただろ」とていよく田舎の店を手伝わされることになった。

 ただし、「話が違う」とゴネて、1年の期間を半年に値切った。

 秋からの日々は彼女のために使おうと思った。もう、両方の親に公認になってる仲だから、資金さえ貯められれば、どこにでも連れていってあげられる。時間さえ作れば、いくらでも一緒にいられる。

 俺は、昼夜を分かたず仕事に精を出した。毎日最低でも毎日12時間は働き、休日は一ヶ月おきに2日くらい、それも仕事の用件を兼ねてアパートに帰るという状態が数ヶ月続いた。


 春に、一度だけ会う機会があった。

 彼女の友達は、俺が浮気してるに決まってるなんて無責任な噂してるらしかった。

「もしそんなことしたら全部白状するよ。トモに隠し事なんかしない。まだなにも言ってないのは、そんなことしてない証拠だ。」

「…うん。信じてる。私も隠し事なんかしない!」

「へっへーん。信じないよー。」

「…もう~」

 信じてる…自分は何もしないで相手の行動を縛る無責任な言葉だ。簡単には口にしたくなかった。でも、そう言いながらも、実は俺も彼女を信じていた。

 この日、俺は疲労していた上、ものすごくフラストレーションがたまっていたので、情けないところを見せた上にわがまま放題に振る舞ってしまった。

 それでも彼女はくすくす笑いながら、一日、俺を受けとめ続けてくれた。

「身体はまだだけど、心では完全にタッくんと結ばれてるからね。」

 彼女はいつもそう言っていた。俺もだんだんそんな気がしてきた。

 彼女も苦しんでいると、なんとなく感じられた。お互いにもっと理解して、完全な信頼を作って、「恋」を「愛」に変えたかった。


 彼女は寂しがっていた。久しぶりに電話できたとき、ほぼ一ヶ月ぶりの声だと気が付いた。だけど、彼女が「耐える」と言ってた1年に比べれば12分の1だ。

「私、恐い夢みたの。タッくんが来てくれたから、抱きつこうとしたら『離せよ! お前のことが嫌なんだよ、近づくなよ!』って、突き飛ばされるの…。」

「うぉ、それは恐い…」

「もう、こわくてこわくて、うんと泣いちゃって、学校でも思い出して泣きそうになっちゃった…」

「俺はそんなことしないよ。もしやるんなら『わが尻をくらえ~、ぺんぺん』とかスマートにやる。」

「ぜんぜんスマートじゃないよ、それ~」

 ひとしきり笑い。

 よかった。彼女は元気だ。

(悪い夢を見てドキドキした分、恋の熱情は上がったかもね。)

 そんな虫のいい考えが頭をよぎった。

(よし、ここはどれだけ彼女を信じているかを俺が示すときだ。)

「俺さ、トモを独占してるのが、勿体無いって気がしてるんだ。」

「え?」

「だからさ、トモが気に入った男がいたら、ちょっとくらいつまみ食いしてもいいよ。」

「・・・・・。」

「その代わり、本気じゃないってことをちゃんと相手に伝えること。それから、何をやったか全部俺に離すこと。俺より大胆なことはしないこと。俺にそいつと会わせること。これが条件。」

「そんなことしないってばー!」

「その代わり、俺も、もし他の女の人に触っちゃったりしたらすぐトモに懺悔する。これまでも、罪は隠さずに言ってきただろ。」

「うん。」

「だから、トモも隠さないでね。」

 信じてるから…という言葉は飲み込んだ。簡単に言う気にはなれなかった。

「隠すも何も、最初っからしないってば!」

「ははは…まあ、したとしても、の話さ。」

「しない!」

「仮にそんなことがあっても、俺はトモを嫌いにはならないから!」

「わたしも、タッくんを嫌いになんてならない!」

「ははは…好きだよ、トモ」

「…うん。ありがとう。好きよ、タッくん!」

 俺達はしばらく、恒例のふにゃふにゃした長電話を楽しんだ。

 俺は、もう「キープ」でも「騎士」でもない。

 彼女は俺のもので、俺は彼女のもの。それを実感した。

(すべては秋だ。秋になったら、俺はすべての貯金を彼女のために使う。そして、彼女が社会に出て仕事が順調になって、それから彼女が望んだ時にいつでも一緒になれるようにしておくための準備をはじめよう…俺は、彼女を信じる。そして、その気になるまで、いつまでも待つ!)


 2・3日後、店でプライベートメールをチェックしていると、彼女からのメールが届いていた。ダウンロードを開始した瞬間、後ろを通ったバイトの一人が、足にコードをひっかけて、電源を切ってしまった。

 俺はぶつぶつ文句を言いながら、もう一度電源を入れ、メールチェックした。ところがメールはサーバーからすでに削除されていた。

 俺は、彼女宛てに「間違えてメールが削除されちゃった、もう一度送ってくれないかな?」とレスポンスを返した。

 しかし、何日待ってもその返事は届かなかった。


 それから十日もしたころ、夏休みに彼女と行こうと話し合っていた旅行の予約がとれた。

 彼女の写真をプリントしたシャツと、前にプレゼントしたのより上等なネックレスを用意した。次に逢いに行くときに持っていって、驚かそうと思った。その時の顔が思い浮かんで、一人で照れ笑いしてた。


 仕事は予想外の人為的事故が続いて行き詰まり、かなりイライラしていた。だけど彼女に逢えればすべての不満が吹き飛ぶ。旅行中は、思う存分二人きりで甘えあえる。そう思うと、この数ヶ月間の怒りや不満を押さえ込むことができた。


 予約が取れたことを連絡しようと思った矢先、彼女からのメールが届いていた。受け取った時間は真夜中…というより朝方だった。

 それは、彼女が大学で友人に「恋を打ち明けられた」という内容だった。一週間ほど前のことらしい。彼女も、心が動いたということを白状していた。ずっと以前から俺の代わりを無意識のうちに彼に求めていた、ということも。

 出会ってまだ三ヶ月ちょいという相手らしかった。いくら、「恋に時間はいらない」とはいえ…。

 このふたりともが、俺という存在を知ってるくせにあえて無視してた様子を感じてなんだか腹が立ってきた。


 いつかはこういう奴が出てくるだろうとは思っていた。

 ただ、長いこと隠されていたことが不満だった。「俺の代わり」がいて、ずっとそれを隠されていたことが。

 それに、文面からするとなんだか彼女から誘惑していたような印象も感じられた。彼女が女性としてどれだけ誘惑的な言動を無意識にやってしまっているかは、身をもって知っている。

 そして、「(気持ちを伝えられたことで)自分の気持ちも確立してきた」という一文があり、ものすごく気になった。「気持ちを確立」とはどういう意味だろう? 俺とのつきあいの強さを実感したという意味だろうか? それにしては意味深な言い回しだ。

 「嫌われてもしょうがないと思う」という言葉も気になった。これまでトモがこの言葉を使うときは、どうしょうもなくなって助けを求めている場合が多かった。俺が「信じてないよ~」と言うときと同じ、反対の意味の言葉なんだ。「どんなふうに扱われても私からは好きだよ」というのが本音の場合が多かった。しかし今度は何かが違うような気もした。

 どうも奥歯にものが挟まったようなメールだ。結論が書かれていない。

 俺は腹立ち紛れに、「選べないんなら、そいつと話し合った上、二股にしてもいいよ。」という返事を書いた。「もしも俺と別れたいなら覚悟はする。トモの幸せが一番大事だから。そういう愛しかたもある、ということで。」とも書いた。俺の真意はすぐ解ってくれると言う確信があった。

 夜行電車で自分のアパートへ戻って用事を済ませる必要があったので、文章のチェックもせずに送り出してしまった。

 まさかこれが致命傷になるとは思ってもいなかった。


 翌日の夕方。久しぶりにアパートへ帰ると、彼女の携帯に電話をかけた。

「ちょっと待ってて、ごめん!」

 いつもと反応が違った。電車の中だろうと友達と一緒だろうと、あわてて切ろうとすることはこれまであまりなかった。

(まあ、ほら、混んでる電車なんだろうし…)

 俺は、電車が着く頃の時間を見計らってもう一度電話した。

「あ…あの…ごめんなさい。いま、友達といるから。」

「決着は、つけてくれた?」

「…。」

「俺、まだ『トモ』って呼んでもいいの?」

「いいよ。」

「えっ? いいんだ!? ああよかった! これ、そういう意味だよね?」

「あっ、待って! やっぱり、駄目!」

「え?」

「…一ヶ月くらい、くれない?」

 再び、俺の心に怒りが湧いてきた。見合いの話しは全部断わり、店を助けるための政略結婚でさえ頭を下げてなんとか回避してきた俺に、「たとえ浮気しても好きだよ」「俺が本命なら二股許可するぞ」とまで態度を表明した俺に、この仕打ちだ。しかも、「そんなこと、しない」と言ってからまだ二週間も経っていない。

 俺は怒りのあまり、我を忘れた。

「すぐ決めてくれ! 俺、中途半端は嫌だ。そいつをふるか、俺をふるか、二股するか。」

「…わかった。今、駅だから、後で電話して。10時くらいに。」

 電話は切られた。


 「浮気なんかしない」と言ってたのはわずか二週間前。そりゃ人間だから、ちょっとくらいは気の迷いがあったってしかたないけど…。

 でも、これまで即座に返事が返ってきていたのに、今日だけは「待って」と言ってる。これは浮気じゃない。本気としか考えられない。

 1分が、1年くらいに感じられた。時計の秒針を無理矢理進めたい気持ちだった。

 俺は外へ飛び出し、アパートの周りをダッシュした。いつ電話が鳴っても聞こえて出られるように、玄関の扉は開けておいた。

 電話が鳴った。

 俺はアパートへ駆け込み、受話器を取って返答しつつ時計を見た。

 9時。心臓が爆発しそうなほど鼓動していた。

「はいっ!」

「あ、滝人? アンタ、いつお店に帰るんだっけ?」

 母親だった。立腹の度合いが激化した。

「いま、とりこんでるんだ! 明日、電話する!」

 急いで電話を切った。

 呼吸が荒れている。多分、目も血走っているだろう。こんな状態では冷静に話ができない。

(「吊橋効果」だな…)

 心臓が酷使された状態で彼女のことを考えている。

 「トモの幸せのために」と考えていた愛情は薄くなり、「トモは俺だけのものだ」という独占欲がどんどん強くなって行く。

 俺は布団を敷いて横になり、自分を落ち着けようとした。深呼吸して、一から十まで数えたりもした。


 時計を見る。まだ9時15分。

 手足がしびれ始めて、重く感じる。心臓の動悸は激しくなる一方。

 こんな状態であと45分も放っておかれたら、毛細血管なんか内出血を始めるんじゃないかと恐くなった。俺は、意を決して受話器をとった。

 携帯ではなく、自宅に電話をかけた。彼女の母親が出た。彼女に変わってもらう。

「あの…いい付き合いだったと…いい人だったと思っているから」

「もう過去形なのかよ?」

 ツッコミ、つまりギャグのつものだった。

「…うん。」

 しかし、返ってきた返事は俺の心臓を切り裂いた。

「ごめん…わたし、嘘ついちゃって…」

「嘘? 嘘ってなんだ!?」

「ごめん…10時にまた電話して!」

 電話は切られてしまった。こうなれば、待つしかない。

 また、外へ出て走った。頭が混乱して、何が起こっているのか理解できなかった。

 「嘘」ってなんだろう? もしかして、「過去形」というのが嘘か? 他の奴に告白されたと言うのが嘘なのか?

 俺が一月以上も電話ができなかったから、その仕返しに俺を焦らそうと、一芝居打ったのか? それとも、俺の恋の強さを試してみたのか?

 そう考え始めたが、確信にはならなかった。

 つい3~4時間前まで何があっても揺るがないように見えていた彼女への信頼感は、今やひびの入った崩壊寸前のガラス瓶のようになりつつあった。

 9時50分。俺は、受話器を握り締めて時計を睨み付けていた。

 51分。52分。53分。…。

 9時58分、ついに耐え切れなくなり、電話をかけた。


「たのむ、帰ってきてよ、トモ!」

 それが最初に出てしまった言葉だった。自分でも驚いたが、涙声だった。

「いまさら、何言ってんのよ!」

 彼女はヒステリー気味だった。

「さっき、嘘ついたって言ってたね? あれはどういう意味!?」

「ごめんなさい…友達じゃなくて、彼氏とふたりでいたの。友達って言ったから、彼氏に怒られちゃった。」

 彼氏…それは、この刹那まで、この音が俺の耳から脳に届く瞬間まで、俺のことを指す言葉だった。

「言いたいことはわかった。でも、納得するまでちょっとまってくれ!」

 俺は、理解したような言葉をならべつつも、気持ちが整理できなくて、電話の引き延ばしを計った。当然だ。こんなことを完全に理解し納得するには時間がかかる。

 しかし、こういう言葉が降ってきた。

「ごめん、キャッチ入っちゃったから。」

「後でもう一回かける」

「もうかけないで!」

 電話は、切られた。


 あまりに急な変化だった。

 あのメールを読んでから、20時間。わずか20時間。

 20時間前、俺はまだ彼女と旅行に行くための準備を考えていた。別れる可能性など、冗談の絵空事でしかなかった。

 いつか他に男が現われるかも、とは思っていたが、それは、TVドラマや青年漫画のように、何日もかけて話し合って、あるいは殴り合って、納得ずくで、最後に当人が結論を出すことになるだろうと思っていた。

 相手が充分に優れた男でトモを幸せにできそうな奴なら、それでトモもそいつのこと好きなら、いつでも笑ってそいつの肩を叩き、俺は身を引こうとも考えていた。

 しかし、相手がどんな奴かも知らない。そもそも、そんな奴に奪われる可能性があったことさえ20時間前には知らなかったんだ。完全な騙し打ちだった。それも、自分がこの世で一番信じた人間による騙し打ちだった。

 むこうがどれだけの時間をかけてゆっくり考え納得し決めたのかは知らない。が、俺にとっては20時間で、自分の意志に関係なく、未来の希望がすべてが失われたのだ。それどころか、何が起こったのか理解する時間さえ与えられなかった。


 「逢えない」というのはこういうことだった。女の心なんてそんなもんだった。

 知ってたはずだった。しかし今更になってこれを痛感したのだった。


 おれは「恋人」どころか「騎士」でさえなかったわけだ。

 あのとき、無理矢理にでも彼女をフリーにしておかなかったことを激しく後悔した。彼女がフリーであれば、俺はここまで傷つき呪うこともなかったはずだ。多少はやきもちもあったとしても、むしろ彼女の新しい恋を素直に祝福し、あるいは友達として応援してやることもできたはずだ。実際、あのときはそうしようと思っていたのだ。

 彼女の望みを容れ、彼女の愛情を信じたのが失敗の元だった。

(いったいなんなんだよ、これは…!?)

 つきあっていた間の思い出が次々と頭の中を走り去って行く。

(俺、やっぱりキープだったんだろうか…そう考えるとなんとか説明できる。)

 彼女の表情が次々と浮かんでくる。

(それとも、俺とつきあっていたのは、そいつを見つけるまでの時間潰し!? そうだ、その方がキープよりも納得できる!)

 ふたりで交わされた会話が次々と耳朶によみがえる。

(あれは全部、嘘だったのか…!? まさか…俺は最初から躍らされていた!)

 そして、二人きりで過ごした時間…

(いつもぎりぎりで俺を拒絶してたのは…覚悟ができてないからじやなくて、実は俺を焦らせて遊んでいたんだ! そうだ、さっきの電話もそうだ! 気を持たせておいて、希望を見せておいて、しばらく待たせてから取り上げる…その繰り返しだったじゃないか! これは昔、戦争で捕虜を自殺や衰弱死させるときに使われた心理戦術だ! 俺を追いつめていたぶっているんだ!)

 そう思った瞬間、これまで天使だと思っていた彼女の姿が、いきなり悪魔のイメージに変わった。冷たい目で俺を見下し、鼻で笑ってる。暇つぶしに俺で遊んだ。そうとしか考えられなかった。

 想像の中の彼女はやがて角が生え、耳が尖り、鼻は潰れ、肌の色は毒々しい群青色となり、ヘビのような舌をちろちろと出し始めた。髪はすべてミミズやムカデとなり、乳房は体中に10も20も垂れ下がり、その先から毒々しい色で悪臭を放つ液体が分泌しだした。一ヶ月外に放置された豚肉よりも、掃除のバイトで入った化学薬品工場の排水処理施設よりも、ゲロを吐くために汲取式トイレの便つぼに顔を突っ込んだときよりも、もっとひどい気持ち悪い悪臭が、想像上の彼女の全身から漂ってきた。


 おれは、いつも持ち歩いていた彼女の写真を取り出した。ボールベンを握り締め、その顔に思いきり突き刺そうとした。

 しかし悪魔のイメージは、写真を見ているうちに薄らいでいった。そして、あのさらさらした髪、さくらんぼより甘い唇、吸い付くような頬、黒い瞳、きゃしゃな身体の感触が俺を支配した。そして、「タッくん…」とよぶあの声。

 すべて、二度と俺の前に現われることはない…。

 突き刺すことはできなかった。俺には、たとえ写真でも、彼女の姿を傷つけることができなかった。どんなにひどい目にあわされても、まだ彼女を憎く思うことができなかった。

 俺は、どうしていいのかわからず、泣き出した。

 ジャストタイミングでどしゃぶりの音が響き始めた。


 二日後。俺は、まだアパートにいた。あの電話から、何も食ってない。何か胃に入れたら、すぐ戻してしまう気がした。たまに水だけ飲んでいた。

 外では、まだ雨が降っていた。


 占いをやった。しかし気が動転してるから、うまく読めない。すくなくとも今度の彼氏の方が俺より彼女と相性がよさそう、ということは解った。いくらか慰められた。ところが、「女の怨恨」だとか「色情に溺れ」だとか「他人を押しのけて欲望を実現させる力」だとか、不吉な要素がいくつか出ていた。

 自分を占ってみた。するとどういうわけか大吉「願い事がかなう」と出た。一時間後にもう一回やってみるとこんどは大凶「諸事停滞」だった。

 こんな精神状態でまともな占いなんかできるわけない。俺は占いの本を投げ出した。


 気持ちを整理するため、文章を書いてみたりした。それを自分に納得させるため、手紙やメールにして彼女や他の知人に送ってみたり、電子掲示板に掲載してみたりした。人に晒してしまったものなら、自分でも納得するだろうと思ったからだ。

 ところが、書いてから2~3時間もすると、すぐ別の考えが頭に浮かび、新しい考えに頭が支配された。そして、居ても立ってもおられなくなり、前言を取り消してまた書く。その繰り返しだった。

 読まれなくてもいい。とにかく書いて、それをどんどん送ってないと気が狂いそうだった。

 いや、もう気が狂い始めているという感覚があった。


 異変から…あのメールから、60時間。電話からは40時間。

 ものすごい動悸はまだおさまらない。

(「吊橋効果」だ…こんなときに考えれば考えるほど、俺はトモのことを忘れるどころか、さらにどんどん好きになっていってしまう…!)

 そうだ、トモも俺と離れて不安だったに違いない。吊橋に立ってしまってたんだ。そこに、その吊橋の所に、たまたま別の男がやって来てしまったんだ…なんてこった!

 俺は気を逸らそうと本を読んだ。全然頭に入らなかった。

 コンピュータゲームもやった。画面で何が起こってるのか理解できなかった。

 「吊橋効果」を抑えるため、ひたすら眠った。しかし、何度眠っても夢に彼女が出てきた。そして、夢の中で俺が

「恐い夢を見たよ。トモにふられちゃうんだ…」

 と言うと、トモは笑って否定し、その都度、優しく抱きしめてくれた。


 何度目か飛び起きたときに、俺は気づいた。一昨日から夢に出てくる彼女は、一度も俺とキスをしようとしない!

 もう唇は別の男のものだということなのか!?

 俺は、電話を見つめた。

 いまにも彼女から電話かかってくる気がする。

 もう、何でもいい。俺のもとへ戻ってきてくれるなら、なんでも捨てる。そういう気持ちになってきた。

 いきなり電話が鳴った。高層ビルの屋上から突き落とされるときも同じくらいだろうと思えるほど、心臓が爆発した。

 ところがそれは、結婚式場のセールスの電話だった。

 怒りが爆発した。

 わけがわからなくなって、わめき散らしながら占いを始めた。だがやはりこんな状態で未来予想なんか読めるわけない。

 落ち着くため、歌を歌った。ポピュラー曲から民謡、音楽趣味のある知人が作詞作曲した歌、ふざけた替え歌まで、思い出せるものはなんでも歌った。

 それでも動悸はおさまらなかった。


 ネットにアクセスし、自分の書き込みを読んだ。もう前と考えが変わってる。しかし、一回書き込んだものを簡単に削除するのはどうかとためらわれた。

 レスポンスがついていた。しかし今は、どれを読んでもいっそう動悸が激しくなるだけで、頭に入らなかった。ただ、同情から俺に言葉をかけてくれる気持ちはすごく有り難かった。「はやく元気になってください」とか「何も言えないけれど、気持ちは理解できます」という言葉をもらって、孤独感をすこしだけ癒すことができた。

 しかし中には、「彼女がいただけ幸せ者です、あなたは」とか「異性に縁のない者に対するイヤミですか?」とか頭から馬鹿にして冷やかした書き込みや、こういう文章を書き込んだこと自体に対する抗議もあった。

 書き込みを公開すれば、当然こういう反応もありうる。だけど腹は立った。

 それでも、抵抗しようとは考えなかった。彼らから見れば俺の失恋など所詮は他人事である。それに、俺も気が動転して非常識な書きかたをしまったという自覚も出てきていた。立腹はおさえて、抗議には謝罪、書き込み削除を依頼した。

 数時間後、謝罪文に対する抗議がまた載っていた。つきあってると脳も心臓も耐えられそうにないので、もうやめることにした。

 今は他人のことまで考えてられない。これ以上不快にさせないためには、接触を断ったほうがいいと判断した。


 もう、眠ろうとしても眠れない。激しい動悸だけが世界のすべてを支配してしまってる感じだ。世界を道連れに死にたい、というめちゃくちゃなことも真剣に考えた。

 パニックだ。

 また電話が鳴った。もしかして、と思った自分を叱りつつ受話器を取る。

「はい!?」

「あんた、いつまでアパートにいる気なの!?」

 母親だった。仕方ないので、できるだけ落ち着いて、事情を説明した。

「ばっかねぇ…さっさと婚約しとかないから…」

「だって、相手は学生なんだよ!? 結婚なんて言ったら、怖がって逃げちゃうよ!」

「第一、はっきり決まったのはもう一昨日なんでしょ? いつまでウジウジしてんの?」

「あんまり急すぎて…」

「急なものに決まってるでしょ。人生、誰でも経験してることよ。」

「でも…」

「あんたがそんなにサッパリしない男だと思わなかった…あきれたわ。」

「それだけ本気で好きだったんだよ! しょうがないだろ!」

「まあとにかく、会うなりなんなり、なんとかケリつけて、さっさと仕事に戻りなさい。話しはそれから。」

 電話は切れた。

 ふと気がつくと、雨はとっくにやんでいて、晴れ間が覗いていた。

 そうだ、待ってたって向こうから電話が来るわけなんかない。それに今気がついた。

 それにこの2年間、俺の苦しみを癒してくれる相手は、俺が苦しみをぶちまけられる相手はトモしかいなかった。この苦しみをなんとかしてくれるのもトモしかいない!

 俺はもう一度受話器を取った。

「はい…?」

 疲れきった声だった。

「おれ…時谷です。江本くん?」

「…はい。」

「お願いがあります。」

「…はい。」

「もう一度逢ってください。」

「…はい。」

「で…」

「…」

 俺は、意を決した。

「俺と結婚してください。」

「…はい。」

 この声が脳にとどくまで、数秒がかかった。届いた瞬間、俺の脳天に稲妻が走り、雷鳴が轟いた。心が、地獄から一瞬で天国に移動した。ベートーベンの「歓喜の歌」が世界中に響き渡ったような気がした。

「い、いいんだな!?」

「…はい。」

「結婚してくれるんだな、俺と!?」

「ち、ちょっと待って、何の話?」

 口調が急に変わった。

「だから結婚してくれって…」

「…誰と?」

「俺と。」

「誰が?」

「トモが」

「…」

「…」

 まただ。俺の話なんか、いい加減にしか聞いてない。ぬか喜びさせておいてまた突き放す悪魔の所業。

 俺の気持ちは、一気に天国から地獄へ逆戻りした。

「だめなのか?」

「なんで今ごろそんなこと言ってるの!?」

 怒ってる。でも、なぜ怒ってるのか俺には理解する余裕さえない。

「…」

「…」

「わかった。それはもういい。じゃあ、もう一回だけ逢ってくれ。」

「…」

「たのむ、苦しいんだ、助けてくれ!」

「…あの」

「…なに?」

「…本気で嫌いになりそう。」

 俺は、もう何がなんだかわからなくなってきた。もう一度会う。それだけが目的になってしまっていた。

「いいよ、嫌っても。嫌われてもいいよ! だから、会って、はっきりそう言ってくれ!」

 そうだ。好かれたまま別れるのは辛い、と彼女も言っていた。

「わかった。いいよ、会うだけなら。」

「じゃあ、今からいく!」

「今は駄目。忙しいから。」

「いつならいいんだよ?」

「そうねえ…明日も明後日も用があるから…」

 時間が置かれた。その間に、俺の心臓は二百回近く脈打ったんじゃないかと思う。

 焦らされている。わざと焦らされて、遊ばれている。そう感じた。

「しあさって。駅の中のいつもの喫茶店で。」

「しあさって、駅の中のいつもの喫茶店だな? わかった。朝一番で行く。来てくれるまで、ずっと待ってる!」

 プツ…電話はきられた。

 時計を見る。

 そのとき、はじめて気がついた。あの夜の電話が切られてから45時間弱。しあさっての朝までは50時間以上だ。

「これまでの倍も、こんな状態に耐えなきゃならないのか!」

 俺は叫び声をあげた。

 ふたたび、彼女の姿が悪魔とだぶってきた。

 死刑囚。俺は、死刑囚だ。

 でも、死刑囚は、死刑の日を前日まで知らされない。カウントダウンしてたら気が狂うからだ。俺には、五十数時間、3日間のカウントダウンが課せられた。

「ムリだ! そんなにもたない! もちっこない!」

 俺は、あわててもう一度受話器をとった。

「しあさってまでなんて待てない。気が狂いそうなんだ! 今からそっちへ行く。」

「ちょっと待ってよ!」

「もう駄目だ! 俺、おかしくなる! 5分でいいから、今日、会ってくれ!」

「今、忙しいって言ってるでしょ!」

「じゃあ終わるまで待ってる! いつまでも待ってる!」

「…未練ったらしいっ!」

「もう何でもいいよ、とにかく会えれば!」

「わかった。じゃ、駅についたら、電話して。」

 俺は電話を切ると、バスルームに飛び込んだ。一昨日からぜんぜん身だしなみをしていない。

 ガスは止まってるのでお湯は出ない。冷たい水で全身を洗う。激しい動悸を続けていた心臓にものすごい負担がかかり、何度かあやうく気が遠くなりかけた。

 歯を磨き、ひげを剃る。

 そうして、取るものもとりあえずアパートを飛び出した。


 最寄りの駅に駆け込む。電車を待ってる間も、イライラしてどうしょうもない。

 頭の中を、好悪さまざまな妄想がはしりまわる。

 俺だけ待ちぼうけで、夜中になってしまうかもしれない。

 彼女のお父さんが代わりに来て、怒鳴りつけられるかもしれない。

 逆に、誠意を尽くして謝れば、「来てくれたのね…本当は愛してる!」と抱擁してくれるかも…。そうしたら、新しい彼氏にはどんなお詫びでもしよう。トモを諦めてくれたら、一生、恩に着よう。

 そうだ、その新しい彼氏が来てるかもしれない。その時はちゃんと名乗って握手を求めよう。相手が応じようと応じまいと構わない。スジを徹すことだ。話はそれからだ。

 いや、いきなり「ふざけんじゃねえ、てめえ!」と殴り掛かられるかもしれない。よし、こっちだって経験ゼロじゃない。先に手を出してきやがったら、二三発は顔面にぶち込んでやる。…トモが止めに入るだろうな。ヤツの味方をするのか。トモがヤツをかばって、トモを殴れない俺は、ヤツにボコボコにされるのか…畜生。

 いや、この際、俺がトモをボコボコに…嫌われるんならいっそ徹底した方が…

 妄想は電車に乗っても広がる。

(…俺が、何をした!)

 こうなった原因まで思考がいく。

(トモが、『こうしたい』『こうしてほしい』ということを、ムリしてでも徹してきただけじゃないか! トモを、楽しく過ごさせてやろうと思って、ずいぶんいろいろなこと犠牲にしてやってきたんじゃないか! その結果がこの仕打ち!? やっぱり最初から俺への気持ちなんて嘘だったのか!?)

(いや、俺もけっこうトモを苦しめてた。普通の男が言うような定石通りの言葉はめったにかけなかった。わざとらしい気がしたからな。それが不満だったのかもしれない…そうだ、俺は、いつかトモが逃げてしまう気がして、恐くて、そんな気が後ろめたくて、瞳をのぞき込むことさえあまりできなかった…それが不満だったんだ、きっと。)

 ふと顔を上げると、電車の窓から虹が見えた。綺麗だった。なんだか、希望が出てきたような気がしはじめた。だが、1分後にはさっき歌ってた歌のひとつの文句が頭に響いた。

「…愛は虹のように 美しく燃えて そして消える…」

(バカ…くだらないこと気にしてどうするんだ!)

(正直に行こう。正直に、自分の気持ちをぶちまけるんだ。それで認めてくれないんなら、さいしょから価値観の違う相手だったってことじゃないか…。)

 頭の中に、TVドラマや青年漫画のシーンが渦巻いた。

 泣いてすがった男が、女に「これだけ愛してくれてるんだもの、やっぱりあなたと一緒にいたい…」なんて抱き起こされるシーンがちらついた。

 だけど逆に、女性漫画ではそういう奴はすぐ見捨てられ、キザな男がトクをするシーンの方が多いことも気になった。

(バカ…最後のチャンスなんだぞ! 下手な芝居をしてどうする! 正直な気持ちをぶつけるんだ!)

 考えれば考えるほどどつぼに嵌まって行く。

(嫌われるんなら嫌われるでいい。このさい、徹底的に嫌われてやる!)

 ふと外を見ると、二人で来た事のある駅だった。

(あの柱の影で抱き合ったっけ…。そうだ、帰りはちょうどこんな具合に席に座って…)

(これから、ここを通るたびにこんなこと思い出すようになるんだ…)

 恐怖だった。それは、永遠に終わらない苦しみを設定されたかのように思えた。

 かなりの時間が過ぎていった。

 乗換え、また乗換え。そして彼女の最寄り駅まで。

 乗ってくる若い男が、すべて彼女の新しい彼氏に見えた。


「しまった!」

 あんまりあわてて出てきたので、アドレス帳を忘れていた。暗記していたはずの電話番号も、記憶から消え始めていてはっきりしない。

 絶望が俺を支配し始めていた。

 実家へ電話して、住所録に載ってないかも尋いてみた。

(直接、家へおしかけるか…)

 しかし、「家には来ないで」「駅で会おう」と言ってきたのは彼女だ。無理に時間作って会ってもらえるだけでもわがままのに、これ以上彼女の意向を無視はしたくない。

 はっと気がつき、電話帳をめくった。

(江本…江本…)

 それらしい番号をみつけた。でも、それで正しいのかどうか確信が持てなかった。

 俺は迷った。

(ここへかけてみるべきだろうか…)

 テレカを出すため財布を開ける。

 テレカも持っていなかった。

 自分の動転具合に、絶望を感じた。こんな肝の小さい男に本気でついてきてくれる女なんかいるわけない。

 その瞬間、財布の中で折りたたまれた宅配便の用紙の控えが目に飛び込んだ。大急ぎで開いてみる。

「あった…!」

 思わず歓声をあげた。それは、彼女に送った宅配便の控えだった。電話番号も書いてある。俺は指が震え、2度も電話をかけ間違えた。


 夕方、駅前のベンチで待つことになった。そういえば、あの衝撃の告白の日、別れのキスをしたのはこのベンチだったことが思い出された。

 彼女は自転車で来ると言う。きょろきょろ周りを見回す。通り過ぎる若い女性が、みんな彼女にみえた。

(だめだ! 落ち着け…)

 深呼吸して、顔を叩く。だが、心臓の動悸はどんどん早くなり、呼吸はどんどん苦しくなる。肩が震え始め、やがて全身が小刻みに震え出す。

 通る人が疑問顔でのぞき込んで行くことに何度か気がついたが、震えが止まらない。

 もういちど、色々な妄想が頭を駆け抜ける。

(このまま…来なかったら…)

 目に映る歩道のタイルが歪んで見えてくる。

(いや、明日の朝まででも待とう。来てくれなくてもずっと待とう!)

(新しい彼氏が来たら…そう、握手だ。まず右手を出す。そして名乗る。)

(もしお父さんが来たら…礼儀正しく挨拶するんだ。そして、まず騒がせたことを謝罪し、俺の正直な気持ちを伝えてくれるようお願いする。)

(トモがひとりで来たら…)

 その瞬間、俺の思考は真っ白になった。

(あいつがひとりできたら、どうするんだ、俺は?)

 脳裏を、天使の姿と悪魔の姿が激しく交錯した。

(最初に、『好きだよ、トモ!』と…)

(いや、裏切ったのはあいつだ! 最初に顔にビンタを一発…)

(違う、まず抱き着くんだ。そして、『俺を許してくれ!』と…)

(そんなことしてどうする。気にするなあんなひどい女、蹴り一発いれちゃおう…)

(そんなことしたってなんにもならない、まず土下座して…いや、土下座なんかしたって軽蔑されるだけだ!)

 考えはまとまらなかった。しかし、心の中で彼女を『トモ』ではなく『あいつ』と呼び始めてることだけは気がついた。

 しばらく、考えがまとまらず震え続けた。

(まだ来ないでくれ、考えがまとまらない…早く来てくれ、俺を助けてくれ…まだ来ないでくれ…早く来てくれ…)

 矛盾した思考が、心臓を断ち割ろうとしてるかのような苦しさだった。

 考えを巡らしていたとき、俺のすぐ側で立ち止まった足に気がついた。

 なんだか懐かしくて、やわらかくて優しくて甘い…そんな風が感じられた。俺は顔を上げた。

 彼女がそこにいた。

 髪型が変わっていた。あきらかに、俺の好みとは違う髪型だった。

 泣きそうな目をしている。

(天使が俺のために本気で泣こうとしている!)

(悪魔が嘘の涙で俺を惑わそうとしている!)

 ふたつの考えが同時に俺を突き動かした。

「トモっ!」

 俺は素早く立ち上がった。左手は彼女を抱きしめようと肩に手をかけた。だが右手は拳を作って振り上げていた。

「トモっ!」

 彼女は身体を斜めにして目をつぶり、下を向いた。殴られるのも、抱きしめられるのも拒否していた。

 俺は、全身の力が脳天から吸い取られて行くような気持ちになった。

「…殴っちゃいけないよな。」

 彼女は、力なくうなずいた。

「お…俺が悪いんだもんな…。」

「うん!」

 否定してくれると思ったのに、彼女はさっきより強くうなずいた。彼女の顔がまた悪魔に見えた。俺は、その考えを急いで頭から追い出した。

「トモ、ここで話していいのか? それとも、何処かへ行くか?」

「ここでいいよ。」

 人通りの激しい駅前の広場。男を泣かせる女の気分を楽しみたいということか?

(いや、違う! トモがそんなひどい女であるはずがない! ここが、俺達にとって思い出の場所だからだ!)

 俺は自分にそう言い聞かせた。

「トモ…もう一度だけ、俺にチャンスをくれ!」

 彼女は、俺の顔を覗き込んだ。

(迷ってるのか…?)

(違う! また焦らしてるんだ!)

「頼む、もう一度だけ…」

(迷ってるに決まってる!)

(焦らしてるに決まってる!)

 何十回心臓が打ったろう。彼女は、俺の顔を見たまま、静かに顔を横に振った。

「タッくん、…座って。」

 俺は、命じられるままに座って、自分の気持ちを吐露し始めた。何を言ってたのかはっきりとは憶えていない。ただ、涙と一緒に、この二日間考えていた絶望的な希望が次々と口をついて吐き出されていった。

 肩はふるえ、拳は開けず、口はしびれて舌がもつれだした。

「俺、馬鹿だったよ! こんなにトモのこと好きだって、自分でもずっと気がついてなかった! やっとわかったんだ!」

「それは愛情じゃなくて執着よ。」

「嫌われたくなくて、おとなぶってたんだ! 許してくれ!」

「あなたは自分で認めるのが恐かっただけ。」

「俺、なんでもするよ! 全部捨てる! 一生、トモの側にいる! 何でも言うことを聞く! だから…」

「だめ。そんなことされたら、私がわがままでだめな女になっちやうもの。」

 ああ言えばこう、こう言えばああ。すべてが、どこかで聞いたような言い訳のやりとりだと感じ始めた。俺の本音を彼女は真剣そうな顔をしながらよくある言葉で弄んでしまった。でも、冷静に考えれば俺の言葉も月並みな語彙だったろう。

 気がついたら、彼女はL字型の位置の椅子に座って、俺とふくら脛を接しさせていた。体温が伝わってきたが、優しく嬉しく感じるのと同時にいやらしく汚らしくも感じた。でもあえて離れることができなかった。

 俺の話とぎれたとき、彼女は恐い顔をしていた。俺を嫌悪している顔だった。

「なんでいまさらそんなこと言えるの!?」

 俺は、答えられなかった。

「私の気持ちはもう決まったの! いまさらそんな自分勝手なこと言って、私に対して残酷だと思わないの!?」

「ごめん…!」

 謝ってから、

(自分勝手で残酷なのはいったいどっちなんだよ!?)

 と心の中で叫んでいた。

 でも、イニシアチブは終始彼女が握っていた。今、この時、俺はガキで彼女は大人だった。

「…それに、そんな情けない姿を見せられたら、もう、あなたのこと好きになんかなれるわけないじゃない…!」

 最後のときが近づいてきたな、と感じた。こうなったら、徹底的に嫌われてやろう、そうして、諦めざるをえない状況に自分を追い込んでしまおう、とそう思った。

 そして、そのためには決定的な一言が欲しい、と俺は思い始めた。嫌われるなら、希望のかけらもないほうがいい。そう思った。

「私は、彼のことを愛してるの! もう横から邪魔しないで!」

「わかった。でも、俺、まだちゃんと別れの言葉を聞いていないんだ。それを聞かなきゃ、ちゅうぶらりんだ。はきっきりとこの場で言ってくれ。」

「うんわかった。…あなたとは、いいつきあいができたと思う。」

「違う!」

「…?」

「違うだろ? 別れの言葉だ!」

「…あなたは、すごくいい人だった、だからこれからも…」

「違う! そんなんじゃなくて!」

 こめかみに血が逆流しているのが感じられた。

「…あの、いろいろ勉強になって楽しかった…」

「俺はそんな言葉を聞きに来たんじゃない!!」

 つい怒鳴ってしまった。

「じゃ、何を言って欲しいのよ!」

 彼女もキレた。

 自分からは言ってくれないんだ…最後まで、心がスレ違ったままか。そう絶望した。

「決まってるだろ…」

 こんな言葉を、俺がいちばん傷つく言葉を、俺の口から言わせるつもりなんだ…なんてひどい仕打ち…

 口から出したくない。でも、ここまできたら自分で言わなければならなかった。

「…『嫌い、さよなら』だよ…」

 ついに言ってしまった。俺の中で、二年かけて作り直した何かが、二年前よりも激しく壊れて行くのが感じられた。

「じゃ、言うよ…?」

「ああ。」

「…」

 死刑を待つ囚人は、こんな気持ちかもしれない。

「…嫌い、さよなら」

「もう一度!」

 今の言葉は棒読みだった。

「…嫌い、さよなら。」

「もう一度!」

 まだ、心が入ってなかった。

「嫌い、さよなら!」

「…」

 涙があふれた。悔しさで、自分をぶち壊したくなった。自分だけじゃなく、彼女までぶち壊したくなった。地球をたたき壊したくなった。

「…ひっぱたいていいか?」

「え?」

「一発…ひっぱたいていいかっ!?」

 俺は叫んでいた。

「い…いや」

 俺はまだ彼女に逆らえなかった。

 心の中の悪魔を一撃で消し去る機会は、永遠に失われた。俺は、これから時間をかけて悪魔を憎んで行くことだろう。

「わかった。じゃ、最後に一回だけ抱きしめてもいいか?」

「だめ! 私はもう、彼のものだから。」

 心の中の天使を一瞬で思い出のアルバムにしまってしまう機会も、永遠に奪われた。天使はアルバムの中にはおさまらず、しばらく俺を悩ますだろう。

 俺はこれから、心の中に天使と悪魔の両方を飼って苦しまなければならない。いつまで続くのか知らないが…。

「握手、ならいいよ…」

 もう、どうでもよくなった。

 こんな自分勝手な女、好きになってしまった自分が悔しかった。お互いが自分勝手にやって、その結果で勝手に崩壊しただけだ。それだけだ。

 嫌われた。完全に嫌われた。なぜか、目的を達成した満足感があった。もう、彼女と会ったり連絡を取り合ったりすることもないだろう。それを確かめておこうと思った。

「俺、これからどうしようね?」

「え?」

「トモがもう顔も見たくないなら、永遠に顔をあわせない。」

「それは嫌!」

(…まだ惑わす気だ。)

(違う! 好意なんだ! 男性ではなく、人間としての俺に対する好意なんだ!)

 俺はとまどった。ここまで醜態をさらして嫌いになった奴に、まだ関わりたいのか? 関わられたいのか? 彼女の真意がどうしてもわからなかった。

「じゃあ、俺達は…」

「…友達になろう。昔みたいに。」

 昔みたいに。

 ちょっと意識しているけど妹みたいな女の子の一人として、最初から自分のものにはならない偶像として、俺は彼女を見て行かなければならない。だけど、彼女の幸せを願い、恋愛や悩みをを手伝うことだけは許してくれるらしい。

 中途半端で苦しいけれど、自分さえしっかりしてればいい。昔に戻ればいい。彼女がそれを望むならそうしよう、と思った。

「友達か…江本朋慧くん、お久しぶり…。」

 口調を変えると、涙があふれた。

 その後は、友達としての雑談を始めた。涙は、いつしか目の中に溜まるだけにおさまっていた。もう彼女の目を見ることができなくなっていた。

 俺は、自分の足元を見ながら、一昨日から何も食えなかったんだ、と笑った。

「一緒にごはん、食べてく?」

 また衝撃が走った。

(ここまできて、まだ誘惑して悩ますのか、この悪魔…!)

(違う! 天使が失意の俺を慰撫しようとしてるんだ!)

 俺は彼女の顔をのぞきこんだ。わずかな緊張があった。

「…友達としてだよ。それでふんぎりがつくのなら、食べてく?」

 初めて、そして最後に友達として一緒に食事をしたあの日を思い出した。

 あれを最後に、もう会わないつもりだったんだ。それを思えば、このコは俺に二年もいい夢を見せてくれた…感謝しなければ。

「でも、かえって未練になるんならやめとく?」

「…いや、行こう、久しぶりの友達とメシ食いに。だけど内臓が弱ってるから、消化の良いものにしてね。アイスクリームとか、お粥とか。」

「アイスクリームは消化悪いよお。お粥にしよう、じゃ、中華?」

「よし、そうしようか。」

 これが友達の会話になってるといいな、と祈る気持ちになった。


 俺たちは、近くの店に入って友達として一緒に食事を取った。

 会話は、「前のカレ」「前のカノジョ」の悪口を言ったり、友達として彼女の「カレ」のことを聞いたりした。でも、俺が何度か「俺にはもったいなかった前のカノジョ」との思い出をぽろっと口に出すと、彼女は不愉快そうに目を伏せた。

 「俺の知り合い」が、元カノジョの夢を見るけどキスができないという話しをした。新しい彼氏ともうキスをしたという話を聞いた。目の前にいる友達を祝福してあげたい気持ちと、何処かへ消え去った元カノジョに対するどうしょうもない悲しみ・怒りがいっしょに起こった。

 俺は、消え去った元カノジョを責めるより、目の前の友達を祝福してあげよう、と自分に言い聞かせた。

 まだ抱擁はしてない、と言っていた。今度の彼は女性経験豊富らしい、とも。

「思いっきり焦らしてやれ。簡単に許したら、相手に軽く見られちゃうし、焦らされた方がその時感動するんだから。」

 と言って笑った。彼女っも笑った。

 いくらか心が落ち着いた。

「ごめん、携帯にメッセージ来てる…ちょっとカレに電話してくるね。」

「ああ、行っといで。俺からもよろしく。」

「うん。」

 「吊橋効果」。俺の心臓の動悸はおさまりつつあった。それと歩調を合わせ、しだいに、熱病のような恋が冷めて行くのが感じられた。なんのことはない、要するに俺の方が彼女よりワンテンポ遅かったというだけだ。

(俺の友達の江本さん…可愛い娘だよな。ルックスはまあまあ、スタイルも良好、性格は、気まぐれだけど、根はやさしい…。幸せになって欲しいね…せめて誰かの手で。)

 俺も、かつて彼女に引きずり出された吊橋から離れ始めていた。


 食事が終わって、別れることにした。外はもう暗くなっていた。

 俺は、ためしにもう一度言ってみた。

「最後に一度だけ、抱きしめちゃ、だめか?」

 彼女が天使なのか悪魔なのか、いまこの場ではっきりさせておきたかった。抱きしめてみれば分かるという気がした。それができれば、その場で殺されてもいいと思った。

 しかし彼女は露骨な恐怖心を顔に出して後ずさり、

「だめ! 私はもう彼のものなんだから!」

 と冷たく叫んだ。声がすこしうわずっていた。

 俺の中で、同じ名前をもつ天使と悪魔の争いがふたたび始まった。俺の心をまきぞえに破壊しながら、両者の戦いはまだまだ続くのだろう…。

 俺はかるくため息をついた。

「じゃ、握手しよう。友達として。」

 そう言ってから、ふと、香港の歌謡曲に「抱擁が握手に変わるとき」というのがあったのを思い出した。

 彼女の手を強く握った。彼女は手を差し出しただけで、指を曲げもしなかった。

「痛いよ…」

 彼女は小さく抗議した。

「もう…手も握ってはくれないんだな…。」

 俺のつぶやきに、彼女ははっとして目を見ひらいた。あわてて握ろうとした手を、俺は自分からふりほどいた。

「それじゃ、長い間…ありがとう、江本くん!」

「…ありがとう、時谷さん。」

 彼女は手を振って、去りかけた。でも、一回足を止めた。

 こっちを向いてちょっと微笑んだ。目がすこし潤んでいた。

 俺も微笑みながら目が潤んだ。

 二年間の思い出が走馬灯のように走り去った。

 でも嬉しかった。天使が、最後に微笑んでくれた。最後に、この長くて短かった楽しい夢に綺麗なエンドマークを描いてくれた。

 そして彼女は、もう一度背を向けると、暗くなってきた町角に消えていった。

「…トモーッ!」

 最後だ。もう俺がこの天使の名を呼ぶことはないだろう。あってほしいが、ないほうがいい。

 俺もきびすを返した。振り向きはしなかった。




 こうして天使は、微笑みをのこして俺と渡った吊橋を離れた。今は、他の男と新しい吊橋を渡っている…夢をばらまき、自分も、夢を夢と自覚せずに楽しみながら。

 あるいはあれは、悪魔の微笑みだったのかもしれない。長い間だまされて調子に乗った結果、すべてを失ってしまった馬鹿な男への冷たい嘲笑だったのかもしれない。

 新しい吊橋をも渡り終えてしまったとき、彼女は、俺の知らないその男を俺と同じ目に遭わせるのだろうか? それともその男は、天使を吊り橋から逃がさないだけの豊富な経験と知識のある奴なんだろうか?

 どっちにしても、元カレという意識があってはいい気分ではないが、相談相手の友達という立場に気持ちをあらためて遠くから見守っていたい、と強く思った。


 いったい、彼女は天使だったのか、それとも悪魔だったのか?

 その後の彼女と俺はまだ会ってないのでどちらとも決めることができない。いつか、友達として再会したときに結論が出るかもしれない。

 だけど、この一件を人に話すときの締めくくりの一言は、もう決めてある。




 「俺に夢をくれた天使は、最後に一回だけ微笑んで、空に帰っていったんだよ…」



<完>

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