## 第1話:きのこの籠と赤き煙
籠の中には、採れたての見事な椎茸が詰まっていた。森の湿気を吸い込んだ茶色の傘は肉厚で, ほのかな土の香りを漂わせている。今夜は久しぶりに、きのこ鍋だろうか。両親の笑顔を思い浮かべながら、カクは軽い足取りで小屋へと歩いていた。
その時だった。
鼻を突く、異質な臭い。それは穏やかな森の香りではない。何かが巨大なものが焼け焦げるような、忌まわしい甘さが混じった煙の臭いだ。カクの足が止まる。魔力に敏感な彼の神経が、悲鳴を上げ始めた。
「これは……」
カクが顔を上げ、村の方角を仰ぎ見た。青いはずの空が、奇怪な鮮紅色の染まっていた。遠く、村があった場所から、黒い煙が巨大な蛇のようにのたうち回りながら立ち昇っている。
トサッ。
手に持っていたきのこの籠が地面に落ちた。よく実ったきのこたちが泥の上に散らばる。だが、カクにはそれを拾い集める余裕などなかった。心臓が暴走するエンジンのように鼓動する。
「まさか……」
カクは走り出した。普段、静かに力を隠して生きてきた少年のものとは思えない速度だった。森の枝が頬を掠めたが、痛みすら感じない。頭の中にあるのはただ一つ、村の人々と、そこにいるはずの少女の顔だけだった。
村に到着した時、そこはすでに地獄と化していた。
「あああああ!」
「助けて! お願いだ!」
悲鳴と爆音が乱舞する。村の住人たちが振るう2画の**『刀』や4画の『火』**の魔法は何の意味もなさなかった。彼らの貧弱な魔法は、敵の巨大な肉体に触れる前に霧散してしまう。
侵略者たちは奇怪だった。その体は人間の常識では理解し得ない、複雑で不気味な線の集合体。20画を悠に超える高画数の魔力体が、圧倒的な威圧感を放ちながら村を蹂躙していた。
燃え盛る広場の中央で、カクは見た。
地面にへたり込み、喉が張り裂けんばかりに泣き叫ぶ少女、リンを。そして彼女の前には、冷たくなったリンの母親がいた。その傍らに立ち、卑俗な笑みを浮かべて巨大な剣を振り上げる存在がいた。
魔王軍幹部、『競』(20画)。
「たかが2画の刀遊びで私を止めようとは。人間とは、実にか弱いものだな」
『競』がリンに向けて剣を振り下ろそうとした、その刹那。
「その手を退けろ」
低く沈んだカクの声が、火炎を突き抜けて響き渡った。『競』が首を巡らせ、カクを睨む。その目に映るカクは、平凡な10画限界の人間に過ぎなかった。
「何だ、ネズミが一匹増えたか? 貴様もあの女のように、2画の『刀』で挑むつもりか?」
カクは答えなかった。代わりに、静かに手を伸ばす。彼の目には、他者には見えないものが見えていた。『競』の巨体を構成する20画の精巧な魔力構造。その隙間を繋ぐ細き魔力の糸――『連結点』。
人間の器では、20画を受け止めることはできない。だが、20画を4画のパーツにバラバラにしてしまえば、話は別だ。
「部首単位で……解体する」
カクの指先に, 冷徹な魔力が集束する。
「分!」
カクの叫びと共に、透明な魔力の線が『競』の正中央を垂直に貫いた。
「……は?」
『競』の嘲笑が驚愕へと変わる。20画という圧倒的な魔力の結束が、たった4画の干渉に呆気なく崩れ去った。『競』の巨躯が、まるで紙が裂けるように左右へと分かたれた。『立』と『立』、そしてその下のパーツへと。
それだけではない。カクの手が虚空を薙ぐと、分離した破片たちがさらに数多の部首へと刻まれ始めた。
[立] + [立] + [儿] + [儿] + [口] + [口]
つい先程まで20画の威圧を放っていた魔王軍幹部は、今や5画以下の無力な断片となって虚空を漂っている。自我を失い、霧散していく魔力の残骸。
「こ、こんな馬鹿な……私の魔力が、なぜ……!」
『競』が断末魔を上げる暇もなくパズル状に分解されていく中、カクが最後の一撃を放つ。
「削!」
9画の魔力が、散らばった断片を根こそぎ薙ぎ払った。存在の根幹である画数を失った『競』は、悲鳴一つ残さず塵となって消滅した。
火の手が上がる村の広場。カクは荒い息を吐きながら、座り込んだままのリンの元へ歩み寄った。四方に散らばったきのこの籠の残骸のように、穏やかだった日常はすでに粉々に砕け散っていた。
だが、少年の目はすでにその先を見据えていた。空を覆う赤い煙の中で、さらに巨大で奇怪な『漢字』たちが蠢いているのを。




