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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『水飲み場とサッカーボール』 ~section1:無人の蛇口と、無駄な時間~

月見坂市に夕暮れが訪れ、如月学園の敷地が茜色の光に包まれ始める頃。

 六時間目の終わりのチャイムが鳴り響き、帰りのホームルームが解散となった直後の教室で僕は、自分の席の斜め前に座る小柄な背中へと、すがるような声をかけていた。


「き、如月さん! 今日もよろしくお願いしますね! 僕、授業中もずっとあの水飲み場の怪談のことが頭から離れなくて、生きた心地がしなかったんですよ!」


 僕の切実な声に、如月瑠璃は鞄に教科書をしまう手を止め、ゆっくりと振り返った。

 如月コンツェルンの社長令嬢であり、天才的な物理的観察眼を持つ孤高の鑑定士。彼女は今日も、如月学園高等部の指定である制服を完璧に着こなしている。彼女が着ると、まるで中世の寄宿学校から抜け出してきたかのような気品と近寄りがたいオーラが漂うのだった。


「……騒々しい男じゃな。教室の中で大声を出すでない。それに、お主のためではないと昨日も言ったはずじゃ。わしは、己の認識内に論理で説明できない『ノイズ』が放置されている状態を何よりも嫌う。それゆえに、この学園にはびこる下らない怪談を、物理の光で粉砕しに行くというだけのことじゃ」


「はいっ、分かってます! 如月さんのその徹底的な物理的証明だけが、僕の精神の平穏を守る唯一の盾なんです。昨日の黒板の髪の毛は、ただのナイロン繊維と中学生の痛い設定遊びだったって分かりましたけど、だからって残りの三つが絶対に幽霊じゃないとは限らないじゃないですか。特に水飲み場は、子供の泣き声が聞こえるっていう生々しい噂つきですし……。もし本物が出たら、僕一人じゃ確実に心臓が止まります!」


「やれやれ。お主のその脆弱な精神構造には、つくづく呆れ果てるわ。昨日あれほど見事な物理現象の証明を見せつけてやったというのに、まだ幽霊などという非科学的な概念に怯えておるとはな」


 如月さんは深く、心底呆れたようなため息をつきながら、純白の手袋と銀のルーペが入った古い革の鞄を手に取った。


「さあ、行くのじゃ。日が暮れて気温が下がれば、わしの思考の調律に狂いが生じる。さっさと二つ目の事象を論破し、図書室の温かいこたつに戻って極上のダージリンティーを飲むとするぞ」


「はいっ! 荷物持ちでも照明係でもなんでもやりますから!」


 僕は大きく頷き、彼女の背中を追って教室を出た。

 こうして僕たちは、昨日解明した『三年二組の教室』がある高等部の旧校舎エリアではなく、敷地の反対側に位置する初等部のエリアへと向かって歩を進めることになった。


 ここ、月見坂市は、ネットワークを介した情報収集や環境操作が可能な、高度に発展したスマートシティである。

 如月学園の初等部もまた、その恩恵を大いに受けていた。僕たちが歩くアプローチには、人の動きを感知して自動で足元を照らす流線型のLEDフットライトが埋め込まれており、初等部新校舎の壁面には、気温や湿度に応じて自動で開閉し、空調を最適化するスマートウィンドウが等間隔に並んでいる。

 グラウンドの広大な芝生エリアには、土壌の乾燥度合いをAIが計算し、必要な時だけ必要な量の水を撒く自動スプリンクラーシステムが完備されていた。すべてがデジタル技術によって徹底的に管理され、無駄がなく、清潔で、どこか無機質なまでの美しさを持った空間。それが、この学園の表の顔だ。


 しかし、どんなに完璧に設計されたスマートシティのインフラであっても、必ず『システムの死角』や『時代の遺物』というものが存在する。

 如月さんが目指す場所は、ピカピカの初等部新校舎の入り口ではなく、グラウンドのはるか奥——防球フェンスと古い桜の木々に囲まれた、薄暗い一角だった。


「着いたぞ、サクタロウ。あれが本日のターゲットじゃ」


 如月さんの細く白い指が指し示した先。

 そこには、スマートシティの洗練されたデザインとは完全に乖離した、ひどく無骨で、時代遅れなコンクリートの塊が鎮座していた。

 幅二メートルほどの、古い手洗い場——通称『水飲み場』だ。

 表面のコンクリートは長年の雨風によって黒ずみ、所々にひび割れが走り、角の部分には緑色の乾燥した苔がこびりついている。上部を這う太い水道管は銀色のメッキが剥がれて赤茶色の錆を浮かせ、そこから等間隔に、真鍮製の古い蛇口が三つ、下を向いて取り付けられていた。

 今時、手をかざせば自動で適温の水が出るセンサー式の水道が当たり前のこの街で、手でひねらなければ水が出ない、しかも上を向けて水を飲むための丸い飲み口すらついていない、純粋な「ひねるだけの古い蛇口」。

 まるで、ここだけ昭和の時代から切り取られて、ポンと置かれたかのような強い異物感があった。


「うわぁ……なんか、ここだけ空気が違いますね。初等部の子供たちも、普段ここは使ってないんじゃないですか? 校舎の中にもっと綺麗で自動で水が出る場所、たくさんありますし」


「その通りじゃ。見ろ、水受けのコンクリートの底には、乾燥した土や枯れ葉が溜まっておる。日常的に水が流れていれば、これらは洗い流されているはずじゃ。つまり、ここは完全に『使われなくなった古いインフラ』として放置されている場所ということじゃな」


 如月さんは、水飲み場の数メートル手前で立ち止まり、周囲の環境を鋭い視線でぐるりと観察した。

 彼女のアメジストの瞳は、古い蛇口そのものだけでなく、足元の土の踏み固められ具合や、水飲み場の裏に生い茂る手入れのされていない雑草、そして、少し離れた場所に設置されているマンホールの蓋の配置にまで及んでいるようだった。


「さて、サクタロウ。噂のおさらいじゃ。この放置された古い水飲み場で、一体何が起きるというのじゃったか?」


「えっと……夜の決まった時間になると、誰も蛇口を捻っていないのに、突然『ゴボォッ』っていう不気味な音と一緒に、大量の水が噴き出してくるらしいんです。その音が、いじめられてここで泣いていた生徒の泣き声に聞こえるとか、地下に埋められた怨念が吹き出しているんだとか……生徒の間で、そういう尾ひれがついて広まってます」


 僕が怪談の概要を伝えると、如月さんは深く、そして心底退屈そうなため息をついた。


「いじめられた生徒の涙が水道管を逆流して噴出するじゃと? 怨念が水圧をコントロールすると? ……馬鹿馬鹿しいにも程があるわ。物理法則を完全に無視した低俗な妄想じゃ。人間という生き物は、己の理解が及ばない事象に直面すると、すぐにそうやって安易な怪談に逃げ込む。脳味噌のシワがツルツルなのではないかと疑いたくなるわ」


「そ、そうは言っても、実際に誰も触ってないのに水が出るのを見たって生徒が何人もいるんですよ! 火のない所に煙は立たないって言いますし!」


「ふん。ならば、その『煙』の正体を、わしの物理的観察眼で白日の下に晒してやるまでじゃ」


 如月さんはそう言うと、持っていた革の鞄を足元の乾いた地面に置き、その場に仁王立ちになった。腕を組み、三つの古い蛇口を真っ直ぐに睨みつける。

 どうやら、ここで『その時』が来るのを待つつもりらしい。


僕はゴクリと唾を飲み込み、如月さんの斜め後ろに立った。

 風が吹き抜けるたびに、周囲の桜の木々の枯れ葉がカサカサと音を立てる。

 十月下旬の夕暮れは、あっという間に空の色を奪っていく。赤紫だった空は急速に黒味を増し、学園の敷地内のあちこちで、センサー式の街灯が一斉に点灯し始めた。しかし、この古い水飲み場の周辺だけは、照明の死角になっているのか、薄暗い影の中に沈み込んでいる。


 ……怖い。

 幽霊はいないと頭では分かっていても、理屈と本能は別物である。日が暮れ、暗闇が迫り、これから怪奇現象が起きると言われている場所で、じっと立ち尽くして待つという行為は、想像以上に僕の精神を削り取っていった。

 スマートシティの洗練された光が遠くに見えるからこそ、照明の届かないこのアナログな暗がりが、いっそう異界のように不気味に感じられるのだ。


 僕は恐怖を紛らわすために、ポケットの中でスマートフォンを強く握りしめ、頭の中で推しの地下アイドル『魚魚っとラブ』の最新シングルのメロディを必死にループ再生した。明るくポップな曲調で、この陰気な空気を脳内から追い出そうと試みる。

 しかし、五分が経過し、十分が経過しても、水飲み場には何の変化も起きなかった。

 ただ、乾いた風が吹き抜け、遠くから新校舎の空調設備の低い稼働音が微かに聞こえてくるだけだ。


「……如月さん。何も起きませんね」


「騒ぐな、サクタロウ。まだ時間が来ておらんだけじゃ」


「でも、もうすっかり暗くなりましたよ。寒いですし……もしかして、今日は現象はお休みなんじゃないですか? 明日に出直した方が……」


「黙って待っておれ。わしの貴重な時間を割いてここまで足を運んだのじゃ。手ぶらで帰るという選択肢はわしの辞書にはないわ」


 如月さんは、微動だにせず蛇口を見つめ続けている。

 しかし、その横顔をこっそり窺うと、彼女の目にも明らかな『退屈』の色が浮かび始めていた。彼女が好むのは、複雑なルーツを持つ不純物の鑑定や、難解な暗号の解読であって、こうして『ただ待つ』という受動的な行為は、天才の脳細胞にとっては最も苦痛な時間なのだろう。


 如月さんは小さく舌打ちをすると、ブレザーのポケットから古い銀の懐中時計を取り出し、カチンと蓋を開けて文字盤を確認した。


「……全く。時間を浪費させることにかけては、この学園の愚鈍な怪談は天下一品じゃな。サクタロウ、あの周囲のインフラ設備の配置を見るのじゃ」


 退屈を持て余した如月さんが、突然、水飲み場から視線を外し、グラウンドの端を指差した。


「え? インフラ設備?」


「左様。あそこにある四角いコンクリートのマス、そしてその先にある二つのマンホール。さらに、新校舎の裏手へと伸びている地表のわずかな隆起……。あれは全て、このスマートシティの地下を走る、複雑な上下水道のネットワークの痕跡じゃ」


 如月さんは、まるで暇つぶしのパズルでも解くように、目に見えない地下の配管の図面を、地表のわずかな手掛かりから脳内に描き出し始めた。


「この月見坂市の水供給システムは、中央のAIによって完全に自動化されておる。時間帯ごとの水の使用量の統計データを分析し、各エリアの配管の水圧をリアルタイムでバルブの開閉によって調整しているのじゃ。夕暮れ時から夜にかけては、住宅街である旧市街や新市街のマンション群で、一斉に夕食の準備や入浴が始まる。当然、生活用水の需要が爆発的に跳ね上がる時間帯じゃな」


「はあ……。それが、この水飲み場と関係あるんですか?」


「大ありじゃ。需要が増えれば、システムは全体の水圧を上げ、各エリアへの供給量を増やそうとする。しかし、この初等部のグラウンドのように、夜間は誰も使わないエリアの配管はどうなる? 高い水圧のまま放置すれば、老朽化した配管が破裂する危険性がある。ゆえに、システムは特定のバイパス管のバルブを自動で操作し、水流の方向を変えたり、圧力を逃がしたりする制御を定期的に行うのじゃ」


 如月さんの流れるような解説を聞きながら、僕は彼女が何を言わんとしているのか、少しずつ理解し始めていた。


「なるほど……。じゃあ、その圧力の自動調整のせいで、この古い水飲み場に影響が出てるってことですか?」


「お主にしては察しが良いな。その通りじゃ」


 如月さんが懐中時計の蓋をパチンと閉じた、まさにその瞬間だった。


 ——ゴォォォン……ッ。


 足元の深い地中から、重く、鈍い振動音が響いてきた。

 地震ではない。もっと局所的な、何かが地下のトンネルを猛スピードで駆け抜けてくるような、不気味な地鳴り。


「ひっ!?」


 僕は思わず肩をすくめ、後ずさりした。

 地鳴りは数秒で止んだが、その直後、今度は目の前の古い水飲み場の配管から、異音が鳴り始めた。


 カンッ! カンカンッ!

 金属のパイプを、内側から硬いハンマーで強く叩きつけるような、鋭く暴力的な打撃音。


「な、なんですかこれ!? 管の中から音が……! 誰かが、地下から叩いてる……!?」


「静かに観察するのじゃ、サクタロウ。いよいよショーの始まりじゃぞ」


 如月さんは全く動じることなく、むしろ探求者の冷たい笑みを浮かべて、目の前の蛇口を凝視した。

 金属の打撃音が数回鳴り響いた後。


 ——ゴボォッ……ゴボボボォォッ!


 真ん中の古い真鍮製の蛇口から、まるで人間が水中で溺れながら空気を吐き出しているような、あるいは、喉の奥から絞り出すように泣き咽んでいるような、ひどく不気味で湿った音が響き渡った。

 これが、噂に聞いていた『いじめられた生徒の泣き声』の正体か。暗闇の中で聞けば、確かにそう錯覚してしまってもおかしくないほど、有機的で生々しい音だった。


 そして次の瞬間。

 誰も触れていない真ん中の蛇口の隙間から、プシューッ! という空気の抜ける音と共に、大量の白く濁った水が暴力的な勢いで噴き出したのだ。

 水はコンクリートの水受けに激しく叩きつけられ、周囲に泥水としぶきを撒き散らした。


「うわああああっ!! 出たっ! 水が出ましたよ如月さん!! やっぱり幽霊だ! いじめられた生徒の怨念が、涙になって噴き出してるんですよぉぉぉ!!」


 僕は恐怖のあまり完全にパニックに陥り、頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 誰もいないのに水が出る。泣き声のような音がする。怪談の条件は完全に満たされている。これはもう、物理現象なんかじゃない。絶対に呪いだ!


「やかましいわ!」


 僕の悲痛な叫びを、如月さんの氷のような声が一刀両断した。

 恐る恐る顔を上げると、如月さんは噴き出す水しぶきを避けるために一歩だけ後ろに下がり、心底呆れ果てたような目で僕を見下ろしていた。


「泣き声? 怨念? お主は先ほどからのわしの推論を、耳の穴から脳味噌を素通りさせて鼻から抜いておったのか? 少しは己の目と頭を使って、目の前で起きている現象を論理的に分析してみるのじゃ」


「ろ、論理的って言っても! 実際に誰も触ってないのに水が出てるじゃないですか! これのどこが物理現象なんですか!」


「だから、それがただの『ウォーターハンマー現象』じゃと言っておるじゃろうが」


 如月さんは、勢いよく水を噴き出し続けている蛇口をビシッと指差した。


「よく聞くのじゃ、サクタロウ。先ほども説明した通り、この時間帯、スマートシティの地下配管では、住宅街への水供給を増やすために水圧の急激な調整が行われておる。システムがどこかのバイパスのバルブを急閉鎖、あるいは急開放したことによって、管内を流れる水の運動エネルギーが逃げ場を失い、激しい圧力波となって古い配管のネットワークを逆流してきたのじゃ。先ほど配管から聞こえた『カンカン』というハンマーで叩くような音は、その圧力波が管の曲がり角や弁に激突した際に発せられる、極めて典型的な水撃音じゃ」


「水撃、音……」


「左様。そして、この初等部の古い水飲み場は、最新の減圧弁や水撃防止装置が取り付けられておらん、いわばスマートシティのインフラの『死角』じゃった。行き場を失った強烈な水圧は、このネットワークの末端にある、最も古くてパッキンの緩んだ蛇口へと一気に集中したのじゃ」


 如月さんの説明は、まるで大学の物理学の講義のように理路整然としていた。僕のオカルト的な恐怖は、彼女の論理のメスによって、少しずつ、しかし確実に切り刻まれていく。


「でも、あの『ゴボォッ』って泣き声みたいな音は……!」


「それも極めて単純な流体力学の結果じゃ。この水飲み場は長期間放置されていたため、蛇口に至るまでの配管の内部には、水ではなく大量の『空気』が溜まっておったのじゃ。そこに下から急激な水圧が押し寄せてきた。配管内で圧縮された空気が、緩んだ蛇口の隙間から一気に外へ押し出される。その際、水と空気が混ざり合い、狭い隙間を通過することで、あのような『ゴボボボ』という湿った振動音——お主ら愚か者が『泣き声』と錯覚する音が発生したのじゃ」


 如月さんは、噴き出す水流の勢いが徐々に弱まっていくのを冷静に見つめながら、結論を突きつけた。


「そして、空気が抜けきった後、配管内に残っていた古い水が、圧力に押し出されて噴出した。……これが、誰もいないのに水が出るという『不思議四天王』の二つ目の、完全なる物理的真実じゃ。幽霊の涙でも、怨念でもない。ただの、スマートシティの高度な配管制御が引き起こした、アナログな末端設備への物理的なしわ寄せ……ただの『水道管のバグ』じゃよ」


 如月さんが説明を終えるのとほぼ同時に、蛇口から噴き出していた水は、まるで最初から何もなかったかのように、ピタリと止まった。

 コンクリートの水受けに溜まった水が、排水口へとチョロチョロと吸い込まれていく音だけが、静かになった空間に響いている。


「…………」


 僕は、完全に押し黙った。

 ぐうの音も出ないほどの、完璧な論破。

 地下配管の圧力調整。ウォーターハンマー現象。圧縮された空気の排出音。

 すべての怪奇現象の要素が、見事なまでに科学的・物理的な事象として説明されてしまった。そこにオカルトが入り込む余地は、ミリ単位すら残されていなかった。


「……なんだ。ただの、水道管のバグ、か……」


 僕は、全身から一気に力が抜けるのを感じた。

 しゃがみ込んでいた姿勢から、へなへなとその場に座り込み、深く、深い安堵のため息を吐き出した。

 なんだ、やっぱり幽霊なんていなかったんだ。ただの古い水道管の故障を、夕暮れの不気味な雰囲気に当てられた生徒たちが、勝手に怪談に仕立て上げていただけだったのだ。

 昨日の黒板の時と同じだ。人間の脳は、理解できない現象を前にすると、すぐに物語を作って納得しようとする。如月さんの言う通り、僕の脳味噌は鳥並みに単純で、パニックに陥りやすいのだと痛感した。


「ははっ……ビビって損しましたよ。如月さんの言う通りでした。幽霊なんていない。全部、現実的で論理的な理由があるんですね」


 僕は座り込んだまま、脱力した笑顔で如月さんを見上げた。

 僕を苦しめていた二つ目の怪談も、これで無事に解決された。完全に安心しきった僕は、肩の力を抜き、水飲み場の裏の茂みに向かって無防備に背中を預けようとしていた。


 この奥に、昨日見たフランスパンの残骸を遥かに凌駕する、底知れぬ『痛々しい黒歴史』の痕跡が眠っていることなど、この時の僕は全く気づきもせずに。



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