第1話『黒板とフランスパン』 ~section5:『解明と、次なる怪談』~
三年二組の教室には、重く、そしてひどく間の抜けた静寂が舞い戻っていた。
西日が完全に落ちきり、古い木枠の窓ガラス越しには、月見坂市のスマートシティ特有の無機質で均一な街灯の光が、微かに、そして冷ややかに差し込み始めている。
その青白い夜の光の中で、教卓の上の花瓶に真っ直ぐ突き刺さった一本のフランスパン——特売シールの糊跡を残した『邪竜の腕』は、先ほどまでの不気味なオーラを完全に失い、ただの【食べ物を粗末にしてはいけないという道徳的教訓のシンボル】のように、ひどく哀愁漂う姿を晒していた。
「……貧相な邪竜じゃな」
静まり返った教室の中で、如月さんがポツリと、心底呆れ返ったような、温度のない声で呟いた。
彼女はすでに純白の手袋を外し、銀のルーペやピンセットといった愛用の鑑定道具一式を、一切の乱れもない完璧な所作で古い革の鞄の中へと収納し終えていた。その手つきには、極上の謎を解き明かした後の余韻を楽しむような素振りは微塵もなく、ただ『ひどく不快な汚物を片付けている』という明確な拒絶の意志だけが込められていた。
「えっ? 如月さん、今なんて言いました?」
「……いや。ただの愚か者が、己の浅ましい設定遊びの果てに、半額のパンを置き忘れただけじゃ。わざわざ声に出して考察するのも馬鹿馬鹿しいわ」
如月さんは、僕の問いかけに対して適当に誤魔化すように言い捨てると、教卓に背を向けた。
先ほど、彼女自身の口から「小遣い不足で妥協した少年の、涙ぐましい儀式の供物である」という完璧な論理的推論を聞かされたばかりだ。しかし彼女は、これ以上その『痛々しいルーツ』について語ることを、自らの脳細胞が本能レベルで拒否しているようだった。
僕もそれ以上は追及しなかった。というよりも、追及したくなかった。あのパンのルーツである『厨二病の少年の涙ぐましい妥協』という真相は、これ以上深く掘り下げれば掘り下げるほど、同世代の男子として致命的な共感性羞恥を引き起こし、僕の精神をオカルトとは全く別のベクトルで破壊してしまいそうだったからだ。
「行くのじゃ、サクタロウ。こんな埃とカビと、他人の黒歴史の残滓が充満した空間にこれ以上長居すれば、わしの清らかな肺胞と精神が取り返しのつかないダメージを受けてしまうわ。さっさと退出するのじゃ」
如月さんは鞄を提げ、踵を返して教室の出口である引き戸へと向かって歩き出した。その足取りは、この教室に入ってきた時の堂々とした探求者のそれとは異なり、微かに肩が落ち、一秒でも早くこの場から逃げ出したいという焦燥感すら漂わせている。天才的な鑑定士である彼女にとっても、他人の純度一〇〇パーセントの自己陶酔を直視させられることは、猛毒を浴びるに等しい苦痛だったのだろう。
僕も慌てて彼女の後を追い、ミシッと鳴る教壇を降りた。
最後に一度だけ振り返り、薄暗い教卓の上に立つフランスパンを一瞥する。
幽霊の生首でも、呪いの藁人形でもなく、ただのスーパーの特売パン。それが、僕を三日三晩震え上がらせていた『不思議四天王』の一つ目の正体だったのだ。
僕は、自分の想像力の貧困さと、幽霊という非論理的な概念に踊らされて夜も眠れなくなっていた自分自身の滑稽さに、思わず乾いた笑いを漏らしそうになった。
ガラガラ、ギギギ……ッ!
教室の重い引き戸を閉める音が、静まり返った旧校舎の暗い廊下に大きく反響した。
木枠の扉が完全に閉まりきった瞬間、三年二組の空間は再び外界から遮断され、あの『痛い供物』は永遠の暗闇の中に封印された。できれば、このまま誰の目にも触れず、カビと風化によってゆっくりと土に還ってほしい。それが、あの見知らぬ少年の尊厳を守るための、世界で唯一の救いだろう。
「ふう……。終わりましたね、如月さん」
僕は廊下に立ち尽くし、極度の緊張の糸が完全に切れたように、両腕を上げて大きく伸びをした。
「なんというか、幽霊や呪いなんかよりも、人間の痛い行動の方がよっぽどホラーだっていうことが、骨の髄まで分かりましたよ。でも、おかげで完全に安心しました。抜いても生えてくる呪いの髪の毛なんて、最初からなかったんだ。ただの劣化したナイロン繊維と、特売のパン。……ははっ、備品を取りに来て知恵熱を出したクラスの奴らがこの真相を知ったら、ビビってた自分たちを恥じて、今度こそショックで寝込んじゃうかもしれないですね」
僕はすっかり明るくなった声でまくし立てた。恐怖のどん底から解放された反動で、ひどく饒舌になっていた。
「さあ、図書室に戻りましょう、如月さん! あの温かいこたつが僕たちを待ってますよ! すっかり冷めちゃったダージリンティーも、僕が完璧な温度で淹れ直しますから。その後は、ゆっくり古文書の解読の続きをするなり、僕の持ってきたタブレットで魚魚ラブのライブ映像を見るなり、好きなだけ……」
僕は図書室のある一階へと続く階段に向かって、足取りも軽く歩き出そうとした。
しかし、その背中に、如月さんの氷のように冷たく、そして鋭い声が突き刺さった。
「何を寝言を言っておるのじゃ、サクタロウ」
僕はビクッとして足を止め、恐る恐る振り返った。
薄暗い廊下で、如月さんは手にした銀の懐中電灯のスイッチを再び入れ、その光の筋を、僕の顔の横の古い壁へと真っ直ぐに照射していた。
深いアメジストの瞳が、暗闇の中でらんらんと、肉食獣のような危険な光を放っている。
「戻りましょう、じゃと? お主のその矮小な脳味噌は、つい一時間前に己が涙ながらに口走った言葉すら、都合よく忘却の彼方へと消し去ってしまったのか? お主はわしに、こう懇願したはずじゃぞ。『如月学園に伝わる、四つの恐ろしい怪談を物理的に証明してほしい』とな」
「えっ……あ、はい。確かに言いましたけど……」
「今我々が解き明かしたのは、三年二組の黒板のナイロン繊維と特売のパンという、たった一つの下らない事象にすぎん。お主の持ち込んだ『不思議四天王』とやらは、まだ三つも残っておるじゃろうが。一つ解決しただけで全ての脅威が去ったと錯覚するなど、思考の放棄も甚だしいわ」
如月さんの言葉に、僕の顔からサァッと血の気が引いていくのが分かった。
そうだ。すっかり忘れていた。三年二組の怪異は、四天王と呼ばれる噂の、ほんの序の口にすぎないのだ。
まだ、初等部の運動場にある『誰もいないのに水が出る水飲み場』、高等部新校舎の家庭科室で『勝手に腕を揺らす骸骨の模型』、そして……中等部の夜の廊下を走り抜ける、『着物姿の女の幽霊』が残っている。
「ま、待ってくださいよ、如月さん! 一つ目がただのゴミと中学生の痛い設定遊びだったんだから、残りの三つだって、どうせ似たような下らない勘違いに決まってますよ! わざわざ如月さんの貴重な知性と体力を浪費してまで、確認しに行く必要なんて……!」
「断る」
僕の必死の懇願を、如月さんは即座に、そして無慈悲に切り捨てた。
「よいか、サクタロウ。わしは、己の視界や認識の範囲内に、論理で説明できない『ノイズ』が放置されている状態を何よりも嫌うのじゃ。たとえそれが下らない噂話であろうと、わしの耳に入った以上、それは解明すべき『事象』へと昇華された。中途半端に一つだけ片付けて、残りを放置するなど、わしの美学が絶対に許さん」
如月さんのその言葉には、一切の妥協を許さない、絶対的な強者の意志が込められていた。彼女のこのスイッチが入ってしまった以上、もう僕の言葉で彼女を止めることは不可能なのだ。
「それに……」
如月さんは、銀の懐中電灯の光を廊下の奥へと向けながら、微かに口角を吊り上げた。
「先ほどのフランスパンの根元にあった『黒の書』の切れ端。あれは、単なる一過性のイタズラにしては、設定の作り込みと物理的な工作が妙に手が込んでおった。この学園に広まる他の三つの怪談も、もしかすると、あの痛々しい暗黒神話の『設定』と何らかの繋がりを持っているやもしれん。……だとしたら、全ての不純物を物理的に解体し、その背後にある愚鈍な情動のネットワークを完全に暴き出さねば、わしの知的好奇心が収まらんのじゃ」
幽霊への恐怖は消えたはずなのに、僕は別の意味で背筋が寒くなるのを感じた。
如月瑠璃という孤高の天才は、一度獲物に噛み付いたら、その骨の髄まで論理でしゃぶり尽くさなければ気が済まないのだ。あの『痛い供物』を残した少年。本人は全く意図していないだろうが、とんでもない相手に喧嘩を売ってしまったことに気づいていない。
「……そ、そんな。じゃあ、今からその残りの三つを全部調べに行くって言うんですか!?」
僕は思わず声を裏返らせた。
旧校舎の廊下の窓から外を見る。十月下旬の日は短く、外はすでに完全な夜の闇に包まれている。月見坂市のスマートシティの冷たいLEDの光が遠くに見えるだけで、旧校舎の周辺は不気味なほどの静けさに支配されていた。
「外はもう真っ暗ですよ! 初等部の水飲み場はまだしも、新校舎の家庭科室や、中等部の夜の廊下なんて、この時間に行ったら絶対に見回りシステムに引っかかりますって! それに、着物姿の女の幽霊なんて、暗い中で見たら僕、今度こそ心臓が止まって死んじゃいます!」
僕が半狂乱になって身振り手振りで抵抗すると、如月さんは深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと首を横に振った。
「安心するがよい、サクタロウ。お主のその矮小な心臓に、これ以上の負荷をかけるつもりはない。……それに、わしとて不死身ではないのじゃ」
如月さんは、懐中電灯を持たない方の手で、自らのこめかみをトントンと軽く叩いた。その顔には、先ほどまでの鋭い探求者の表情から一転して、隠しきれない濃密な疲労の色が浮かんでいた。
「わしの物理的観察眼と情動の視座は、極限の集中力を要する。普段、年代物のアンティークや、人間の深い情念が込められた品を鑑定するのとはわけが違う。先ほどの、あの少年から放たれる『純度一〇〇パーセントの厨二病と生活苦のブレンド』という未知の劇薬は、わしの脳細胞に想定以上の深刻なダメージを与えたようじゃ。……正直に言おう。今、わしの精神的疲労度は限界に近い」
「如月さん……」
「この状態で次の怪異の現場に向かっても、わしの完璧な思考の調律に狂いが生じる。天才の頭脳には、良質な休息と、極上の糖分が必要不可欠なのじゃ」
如月さんはそう言うと、持っていた懐中電灯のスイッチを切り、薄暗い廊下の中で僕の方へと向き直った。
「ゆえに、本日の調査はこれにて打ち切りとする。図書室に戻り、荷物をまとめたら、今日はそのまま帰宅するのじゃ」
「ほ、本当ですか!? やったぁ! 帰れるんですね!」
「喜ぶのは早いぞ、サクタロウ。あくまで『今日は』休戦というだけじゃ。不思議四天王の残り三つは、このまま絶対に放置はせん」
如月さんは、闇夜の中で静かに、しかし絶対的な命令を下すように宣告した。
「明日の放課後、再び図書室に集合するのじゃ。そして、次なるターゲットである初等部の運動場……『誰もいないのに水が出る水飲み場』の謎を、このわしが物理の光で白日の下に晒し、完全に解体してやるわ。お主も、助手としてしっかりと準備をしておくのじゃぞ」
「あ、明日……ですか。わかりました。明日なら、まだ明るいうちに行けますもんね。準備って言っても、僕はガクガク震えながら如月さんの後ろについていくだけですけど……」
僕が苦笑いしながら答えると、如月さんは小さく鼻を鳴らした。
「それでよい。お主のその愚鈍なリアクションが、わしの思考を際立たせる良いスパイスになるのじゃからな。……さあ、帰るのじゃ。旧市街の団地で、お主の父親が安物の夕飯を作って待っておるじゃろう」
「安物って言わないでくださいよ。うちの親父が作る夕飯、結構美味しいんですから。今日はたしか、おばあちゃん直伝の筑前煮のはずです」
「ふん。庶民の味覚は理解に苦しむわ」
如月さんは呆れたように肩をすくめると、今度こそ迷いのない足取りで、一階の図書室へと続く階段を下りていった。
僕もその後を追う。旧校舎の冷たい空気の中を歩きながら、僕はポケットの中のスマートフォンを強く握りしめた。
家に帰ったら、温かい筑前煮を食べて、自室のベッドに潜り込み、推しの地下アイドル『魚魚っとラブ』のライブ映像を爆音で流そう。そうして、今日浴びてしまった『痛い供物』の記憶を、アイドルの笑顔で上書きしてやるのだ。
三年二組のフランスパンから始まった、奇妙なルーツの鑑定。
恐怖のオカルト現象は、天才鑑定士の手によって、涙ぐましい少年の黒歴史へと変換された。
しかし、彼女の言う通り、これはまだ序章にすぎないのだ。
明日、僕たちは初等部の水飲み場へと向かう。そこで待ち受けているのは、一体どんな下らなくも不可解な物理現象と、痛々しい人間の情動なのだろうか。
月見坂市の冷たい夜風が、旧校舎の窓をガタガタと揺らした。
僕は小さくため息をつきながら、明日への覚悟を決めるのだった。




