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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『黒板とフランスパン』 ~section3:物理的観察眼と、パンのルーツ~

 黒板のアルミ枠からヒョロリと垂れ下がっていた『呪いの髪の毛』の正体が、電動黒板消しクリーナーから飛散し、静電気と隙間風の悪戯によって挟まっていただけの、ただの劣化したナイロン繊維であること。

 如月瑠璃の冷徹なまでの物理的観察眼と論理的な推論によって、僕を三日三晩震え上がらせていた怪異は、微塵のオカルト要素も残さずに完全に粉砕された。

 僕の胸の奥底で重く渦巻いていた恐怖の塊は、春の陽光を浴びた雪のように跡形もなく溶け去っていた。幽霊なんていなかった。呪いなんて存在しなかった。月見坂市のような徹底的にデジタル管理されたスマートシティの片隅にあるこの旧校舎にも、非科学的な存在が入り込む余地など最初からなかったのだ。


 深い安堵とともに、僕は肺の底から大きく息を吐き出した。全身の筋肉から強張りが抜け、ようやくこの三年二組の教室を、ただの『埃っぽい空き教室』として冷静に見渡すことができるようになっていた。

 しかし、恐怖のヴェールが完全に剥ぎ取られ、正常な視界を取り戻したからこそ、僕の目の前にある『それ』の異質さは、先ほどよりもさらに暴力的なまでの存在感を放って僕の視神経を刺激してきた。


「……ありえない場所に、ありえないモノがある。この真新しいフランスパンこそが、この空間における真の『不純物』であり、解き明かすべき極上の謎じゃ」


 教壇の上に立つ如月さんは、深い紫——アメジストの瞳をスッと細め、教卓の上に置かれた古い陶器製の花瓶を真っ直ぐに見据えていた。

 ナイロン繊維の論破を終えた彼女の顔つきは、すでに極限まで研ぎ澄まされた孤高の鑑定士のそれへと切り替わっている。


 花瓶の口に、まるで無神論者の墓標のように、あるいは天に向かってそびえ立つオベリスクのように、垂直に真っ直ぐ突き刺さっている一本の『フランスパン』。

 長さはおよそ五十センチほどだろうか。表面には美しい黄金色から深いキツネ色へのグラデーションを描く焼き目がついており、クープと呼ばれる表面の切れ込みが見事にパクリと開いて、中のふっくらとした白い生地の断面を覗かせている。その表面には、パン屋の工房でまぶされたであろう真っ白な打ち粉がうっすらと残っていた。

 周囲を見渡せば、黒板は長年のチョークの粉で白濁し、生徒たちの机や椅子は放置によってカビと埃にまみれ、窓枠の木材は乾燥してひび割れている。空気すらも灰色に淀んで見えるこの完全なる『死の空間』において、そのフランスパンだけが、強烈なまでの生命力と『生活感』、そして『新鮮さ』を放っているのである。

 あまりにもシュールで、意味不明で、脈絡のない光景だった。


「さあ、サクタロウ。お主もこちらへ来て、わしの視線と同じ角度からこの不純物を観察してみるのじゃ。恐怖という色眼鏡が外れた今の目ならば、このモノが語りかけてくる物理的な矛盾に気づけるはずじゃ」


 如月さんに促され、僕はゆっくりと教卓に近づき、彼女の隣に並んだ。近くに寄ると、古いカビの匂いとチョークの粉の匂いが入り混じるこの教室の中で、フランスパンから漂ってくる微かな酵母の香りと、小麦が焦げた香ばしい匂いが、はっきりと鼻腔をくすぐった。それがいっそう、この状況の異質さを際立たせている。


「まず注目すべきは、このパンの『時間的鮮度』じゃ」


 如月さんは、常に持ち歩いている古い革の鞄を教卓の隅に置くと、中から純白の手袋を取り出した。細くしなやかな指に一つずつ、シワ一つ残さないように丁寧にはめていく。彼女にとって、この手袋を身につけるという行為は、これから対象となる『モノ』が持つ歴史やルーツに対して敬意を払うための、神聖な儀式のようなものだ。

 手袋をはめ終えると、今度は鞄の中から鈍く光る銀のルーペを取り出し、右目にあてがった。そして、パンの黄金色の表面——クラストの細部を、数ミリ単位で嘗め回すように観察し始めた。


「この旧校舎は、長年使われておらんため、空気中の塵や埃の堆積速度が非常に早い。もしこのパンが数日前からここに放置されていたのであれば、表面の打ち粉の上には、うっすらと灰色の埃の層が形成されているはずじゃ。しかし、ルーペで拡大して見ても、表面には小麦粉以外の不純物はほとんど付着しておらん」


「本当ですね……。埃を分厚く被ってる土台の花瓶とは、全然違います」


「左様。さらに、パンの水分量じゃ。フランスパンというものは、焼成された直後から水分の蒸発とデンプンの老化が始まり、急速に硬くなっていく性質を持っておる。特にこのような隙間風の入る乾燥した空間にむき出しで放置されれば、一日も経たずに石のようにカチカチになるはずじゃ」


 如月さんは純白の手袋をはめた右手の指先で、フランスパンの表面をそっと、まるで壊れ物を扱うように軽く押した。


「しかし、見てみるのじゃ。外皮(クラスト)はパリッとした硬さを保っておるが、内部の白い生地(クラム)にはまだわずかな弾力が残っておる。完全に乾燥しきってはいない。微かな小麦の香りも、まだ飛んでおらん。これらの物理的な証拠から導き出される結論は一つじゃ」


「……このパンがここに置かれたのは、ごく最近ってことですか?」


「その通りじゃ。表面の乾燥具合と埃の付着状況から推測するに、焼かれてから、あるいは購入されてから、せいぜい二十四時間以内。おそらく、今日の昼間から夕方にかけて、何者かによってここに持ち込まれ、配置された極めて『新しい』不純物じゃ」


 如月さんの論理的な推論を聞いて、僕は腕を組んで唸った。

 つい数時間前に、生きた人間の誰かがわざわざ三年二組の教室までやってきて、花瓶にフランスパンを突き刺して帰っていったのだ。その行動の『意味不明さ』は、ある種の狂気を感じさせる。


「でも、如月さん。だとしたら犯人は、外部から忍び込んだ不審者なんかじゃない。学園の生徒か、関係者ってことになりますよね」


「ほう。理由を述べてみよ」


「如月学園の敷地に入るための正門や外周ゲートは、スマートシティのネットワークと連動した最新の強固なセキュリティで守られてます。ICチップ入りの生徒手帳や、教職員・保護者の専用パス、あるいは如月コンツェルンの上層部のIDがない部外者は、そもそも学園の敷地内に一歩も入れない。しかも、夜間は敷地から外に出ることはできても、外部から新たに入ることはシステム上完全にシャットアウトされます」


「ふむ」


「だから、『夜中に外部の人間が忍び込んだ』っていうのは物理的にありえない。でも、一度学園の敷地内に入ってしまえば、この旧校舎自体には電子ロックなんて一つもありません。日中なら、学園の関係者であれば誰でも自由に出入りできます。僕と如月さんが、毎日のように図書室に入り浸ってるみたいに」


 そう、如月学園のセキュリティが『鉄壁』なのは、あくまで外と内を隔てる外周の境界線だけの話だ。

 歴史的建造物として保存されているにすぎないこの旧校舎の建物自体には、入り口の扉や各教室の引き戸に、スマートロックはおろか物理的な鍵すらまともに掛かっていない。だからこそ、日中や夕暮れ時であれば、生徒が備品を取りに来たり、肝試しと称して入り込む余地があったのだ。


「その通りじゃ、サクタロウ。お主にしては状況を正しく把握しておるな。外部の愉快犯がフラリと入り込んでパンを置いていくことは不可能。つまり、犯人は日中の開かれた時間帯に、堂々と正門を通過して敷地内に入り、そのままこの旧校舎へと足を踏み入れた『学園関係者』という結論に至る」


 如月さんはルーペを持ったまま、パンの全体像を再び見渡した。


「重要なのは、『なぜ、学園の関係者が、わざわざそんな手間をかけてまで、このパンをここに置いたのか』じゃ。このフランスパンの品質にも注目するのじゃ。先ほども言ったが、クープの開き具合、クラストの焼き色のムラ、そして生地の気泡の入り方……。これは、スーパーの袋詰めで大量生産された安価な柔らかいパンではない。熟練した職人が手作業で焼き上げた本格的なバゲットじゃ。これほどのサイズと品質のものを買おうと思えば、学生の小遣いからすれば、それなりの対価が必要になるはずじゃ」


「確かに、高そうなパンですよね。僕なら絶対に自分で食べるために買いますよ。わざわざ埃まみれの花瓶に刺して無駄にするなんて、もったいない……」


 僕が庶民的な感想を漏らすと、如月さんはアメジストの瞳を鋭く光らせ、微かに頷いた。


「そうじゃ。人間は、わざわざ己の金を出して買った価値あるものを、全くの無意味に捨てるような真似はしない。ここに置いた人間にとって、このフランスパンは『食べるための食料』ではなく、それ以上の別の『価値』を持ったアイテムだったということじゃ。……単なるイタズラや置き忘れではない。この教卓という祭壇を選び、花瓶に垂直に突き刺すという異常なレイアウトには、もっと深くて愚鈍な、強烈な情動と意図が絡んでおる」


「別の価値……?」


「それを解き明かすための鍵が、このパンのどこかに必ず残されているはずじゃ。物理的な痕跡は、決して嘘をつかん」


 如月さんはそう宣言すると、再び銀のルーペを目にあてがい、今度はパンの裏側や、花瓶に突き刺さっている根本の部分へと、その鋭い観察のメスを入れていくのだった。


如月さんは、純白の手袋をはめた両手でフランスパンの胴体部分をそっと包み込むと、花瓶から引き抜かないように細心の注意を払いながら、その表面を少しずつ、ミリ単位で回転させていった。

 まるで精密機械の解体作業でもしているかのような、緊迫した空気が教卓の周囲に漂っている。西日がさらに傾き、教室内の赤みが強さを増す中、彼女の銀のルーペだけが、差し込む光を反射してキラリと冷たい光を放っていた。


「……む」


 パンを半周ほど回転させたところで、如月さんの手がピタリと止まった。

 ルーペ越しの彼女の視線が、フランスパンの下半分——花瓶の口に突き刺さるギリギリのあたりの、少し焼き色が薄くなっている裏側の部分に固定される。


「どうしたんですか、如月さん? 何か見つけましたか?」


 僕が身を乗り出して尋ねると、如月さんは無言のまま、鞄の中から再び銀の懐中電灯を取り出し、カチリとスイッチを入れた。そして、その強烈な光の筋を、ルーペで見つめているパンの裏側の狭い一点へと、極端な斜めの角度から照射した。

 光の角度を微調整することで、パンの表面の微細な凹凸や質感が、濃い影を伴って鮮明に浮かび上がる。僕も彼女の肩越しに目を凝らしてみたが、僕の凡人の目には、ただのパンの硬い皮のシワにしか見えなかった。


「サクタロウ、ここを見るのじゃ」


 如月さんが純白の手袋の指先で示したのは、パンの裏側、長さにして数センチほどの、ほんのわずかな領域だった。


「……ただのパンの皮ですよね? 少し色が薄い気もしますけど」

「己の観察力のなさを直視するのじゃ。斜めから光を当てたことで、周囲のクラストの質感とは明らかに異なる『光沢』が見えるじゃろう。これはパン生地本来の艶ではない。何らかの化学物質が付着しておるのじゃ」


「化学物質?」


「左様。そして、その付着物の端の部分に、微小な紙の繊維がこびりついているのが見えるはずじゃ。色は……蛍光系の黄色、そして赤色じゃな」


 言われてみれば、確かに。如月さんの指し示す部分のパンの皮は、周囲のサラサラ、あるいはパリパリとした質感とは異なり、ほんの少しだけテカテカと不自然に光を反射しているように見えた。さらに目を凝らすと、そのテカテカした部分の縁に、肉眼ではチリと見間違えるほどの極小の紙の破片が、数ミリだけこびりついているのが分かった。


「これって……糊、ですか?」


「ご名答。これは明らかに、紙製のシールを剥がした際に残った粘着剤の『糊跡』じゃ。そして、こびりついた微小な紙片の色である蛍光の黄色と赤色……。これは、スーパーマーケットや惣菜店などで、閉店間際や消費期限が迫った商品に貼られる『特売シール』や『半額シール』に最も頻繁に使用されるカラーリングじゃ」


「と、特売シール!? でも如月さん、ちょっと待ってくださいよ。シールって、普通はパンを入れている紙袋とか、透明なプラスチックの袋の外側に貼るものですよね? いくらなんでも、パンの皮に直接ベタッと特売シールを貼る店なんてありませんよ。衛生的にもおかしいし」


 僕が至極まっとうな指摘をすると、如月さんは少しだけ口角を上げ、満足そうに頷いた。


「ようやく頭が回ってきたな。その通りじゃ。パンの表面に直接シールを貼る店など存在せん。つまり、このパンは元々、細長い袋に入れられて販売されていたということじゃ」


「袋に入っていた……。じゃあ、なんでパンの本体に糊跡がついてるんですか?」


「犯人の『焦り』と『雑な扱い』が残した痕跡じゃよ。想像してみるのじゃ。この本格的なバゲットは、スーパーの店内ベーカリーで製造され、夕方まで売れ残ったために包装の袋の口を留めるように『特売シール』を貼られた。犯人はそれを購入し、この教室まで持ってきた。そして、花瓶にパンを突き刺す直前に、袋からパンを取り出そうとしたのじゃ」


 如月さんは手袋をはめた両手を使い、見えないパンの袋を破るようなジェスチャーをして見せた。


「犯人は、袋の口を丁寧に開けるのではなく、シールの貼られた部分ごと力任せに袋を破り開けたか、あるいは袋の底を掴んでパンを乱暴に押し出した。その際、袋の口を留めていた特売シールの強力な粘着面が、袋の破れ目から一瞬だけパンの表面に触れてしまったのじゃ。バゲットの表面の微かな水分や油分が、シールの粘着剤と紙の繊維をほんのわずかだけ奪い取り、そのままこの教室の乾燥した空気によって固着してしまった。……これが、パン本体に直接シールが貼られていたわけではないのに、糊跡だけが残っている物理的な理由じゃ」


 如月さんの推論は、あまりにも見事だった。

 本格的なバゲットでありながら、スーパーの特売品であるという矛盾。そして、パン本体に直接シールが貼られているわけではないのに、糊跡だけが残っているという物理的な謎を、犯人の行動心理と見事に繋ぎ合わせてみせたのだ。

 しかし、謎はさらに深まる。


「でも如月さん、なんで犯人はわざわざ袋からパンを出したんですか? 誰かへの嫌がらせやイタズラで置いていくだけなら、買ってきた袋のまま花瓶に突っ込めばいいじゃないですか。その方が手も汚れないし、パンの粉が落ちることもない」


「そこにこそ、この不純物をここに配置した人間の『意図』が隠されておるのじゃ」


 如月さんは懐中電灯を消し、静かに息を吐いた。謎のパズルの外枠が完成し、核心へと迫っていく時の、彼女特有の研ぎ澄まされた表情だった。


「日中に堂々と敷地内に入り、この閉鎖された旧校舎に忍び込み、三年二組という特定の教室を選び、教卓という一段高い場所にある花瓶に、フランスパンを天に向けて垂直に突き刺す。この一連の行動は、極めて『儀式的』じゃ。配置した人間は、このパンをただの食料としてではなく、何らかの目に見えない存在に対する『供物』、あるいは儀式の『祭器』として扱っておるのじゃ」


「儀式……供物……」


「そうじゃ。そして、儀式における供物というものは、神聖であり、日常から切り離された特別な存在でなければならない。もし供物が、スーパーのロゴが入ったビニール袋に入れられたままで、さらに『半額』や『二〇パーセント引き』といった、生活感丸出しの特売シールが堂々と主張していたらどうなる? 儀式の威厳は失墜し、途端に俗っぽく、ひどく滑稽なものに成り下がってしまうじゃろう」


 なるほど、と僕は心の内で深く納得した。

 もしこの薄暗い教室の教卓で、厳かに供えられたフランスパンが、スーパーの袋に入ったまま赤と黄色の派手なシールを見せつけていたら、どんなに真剣な儀式でも一瞬でシュールなギャグに変わってしまう。犯人は、その生活感を嫌ったのだ。


「だから、犯人は儀式の雰囲気を壊さないために、わざわざパンを袋から取り出して、スーパーで買ってきたという事実を完全に消し去ろうとしたわけですね」


「左様。しかし、暗がりの中で急いで袋からパンを引きずり出したため、剥がれたシールの粘着剤がパン本体に触れてしまい、微かな糊跡と紙の繊維を残してしまった。それが、わしの物理的観察眼によって露見したというわけじゃ」


 如月さんは純白の手袋をはめた両手を胸の前で組み、花瓶に突き刺さったパンを静かに見つめた。


「本格的な見た目を求めて立派なフランスパンを選んだものの、定価で買う財力はなく、夕方のスーパーで特売になるのを待って購入した。そして、その生活感を隠すために必死で袋から取り出し、この旧校舎の教卓を祭壇に見立てて、儀式的に生けた……。このパンのルーツから浮かび上がってくる犯人像は、何とも涙ぐましく、そしてひどく滑稽なほどに『俗っぽい』愚か者じゃな」


 夕方のスーパーで半額のパンを買い、袋を捨てて儀式ごっこをしている誰か。如月さんの論理によって導き出された犯人の姿は、恐怖というよりも、むしろ強烈な哀愁すら感じさせるものだった。


「でも如月さん、その犯人は、なんでわざわざフランスパンを供物にしたんでしょうか? 普通、儀式の供物っていうと、もっとそれっぽいものがありますよね。フランスパンを花瓶に刺すなんて、いくらなんでも意味不明すぎますよ。まるで、パンを何かの代用品にしているみたいに……」


「その通りじゃ、サクタロウ。そこが最大の謎であり、物理的な観察だけでは辿り着けない『情動』の領域じゃ。犯人は、無作為にフランスパンを選んだわけではない。フランスパンでなければならない、あるいはフランスパンを『何かの見立て』にしなければならない、何らかの強烈な『理由』と『設定』が、犯人の頭の中には存在していたはずじゃ。それを読み解くためには……」


 如月さんはスッと右手を伸ばし、純白の手袋をはめた細い指先を、花瓶に突き刺さった黄金色のフランスパンの表面に、今度はしっかりと、包み込むように触れさせた。


「……この不純物に宿った、愚か者の情動を直接読み取るしかないようじゃな」


 夕暮れの教室。赤みを増した光の中で、如月瑠璃の瞳の奥で、神秘的なアメジストの輝きが一層の深みを増した。

 彼女の真骨頂であり、過去に亡き親友である皐月優奈から受け継いだという異能——『情動の視座』。

 他者に感情移入し、共感することは決してない彼女が、モノに込められた人間の強い感情や、そこに至るまでのルーツと想いのメカニズムを、冷徹なまでに正確に読み取るための能力が、今まさに起動しようとしていた。


 特売シールが触れた痕跡を持つフランスパン。教卓の上の花瓶。そして、閉鎖された旧校舎での儀式。

 一体、どこの誰が、どのような狂気と設定を持ってこのパンをここに生けたのか。

 僕は固唾を呑んで、如月さんの指先から読み解かれるであろう、その不可解な不純物の『真のルーツ』の解明を待ち受けていた。



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