表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/23

エピローグ:『パンドラの箱』

 中等部の新校舎から、高等部の旧校舎へ。

 スマートシティの完璧な空調とLED照明に管理された空間から、カビと古い紙の匂いが漂う、冷え切った図書室へと戻ってきた時、僕はこれまでにないほどの深い安堵感を覚えていた。


 月見坂市が誇る最新のインフラも、オカルトめいた暗闇と痛々しい兄弟の狂気の前では、ただの舞台装置にすぎなかった。皮肉なことに、暖房設備もなく、如月さんが勝手に持ち込んだこたつだけが唯一の熱源であるこの埃まみれの旧校舎の図書室こそが、今の僕にとっては世界で一番安全なシェルターに思えた。


「さあ、案内するのじゃサクタロウ。閉架書庫の最奥へ」


 しかし、如月瑠璃の歩みは、いつもの特等席であるアンティークのテーブルには向かわなかった。

 漆黒のケープジャケットを揺らし、純白の手袋をはめた彼女は、迷うことなく図書室のさらに奥――普段は誰も立ち入ることのない、廃棄予定の古い資料が山積みになっているエリアへと足を踏み入れていく。

 僕も慌てて小型LEDライトを点灯させ、彼女の背中を追った。


 何列もの古びたスチール書架を抜け、窓一つない閉架書庫の最も奥まった壁面。

 そこに、周囲の古い本棚の影に隠れるようにして、灰色の金属製の箱が壁に埋め込まれていた。


「これ……ですか」


「左様。旧校舎が建てられた当初から存在し、とっくの昔に電線が断ち切られ、使われなくなった古い配電盤じゃ。清掃員すら見向きもしない、この学園における完全なる物理的死角。これぞまさに、暗号にあった『静寂の塔の最奥にある雷鳴の棺』じゃな」


 如月さんは、配電盤の錆びついた金属の扉に、手袋の指先をそっと添えた。

 鍵はかかっていない。

 彼女がわずかに力を込めると、ギギギッ……という、十数年分の錆と埃が擦れ合う鈍い音を立てて、その扉がゆっくりと開かれた。


「うわっ……埃が……」


 僕は思わず口元を袖で覆った。

 ライトの光を配電盤の内部に向ける。

 本来なら無数のブレーカーや複雑な配線が並んでいるはずのその空間は、見事に空洞化されていた。

 そして、その薄暗い金属の箱の中央に、まるで玉座に鎮座する王のように、ぽつんと『それ』は置かれていた。


「これが……」


 僕の口から、無意識に息が漏れた。

 それは、分厚い黒のレザー調のバインダーだった。

 文房具屋で数百円で買えそうな安物のバインダーだが、その表紙には、メタリックな銀色と赤色でデザインされた、禍々しい『黒い龍』のステッカーが、斜めに、いかにも意味ありげな角度でデカデカと貼り付けられている。


「……ついに。ついに、すべての元凶が……!」


 僕がゴクリと息を呑むと、如月さんは無言のまま、配電盤の中からその分厚いバインダー――『黒の書(ブラックグリモワール)』を取り出した。


 十数年という歳月は、この設定ノートを本物の魔導書のように風化させていた。

 バインダーの角は擦り切れ、中から飛び出しているルーズリーフの端は茶色く変色している。表紙の黒い龍のステッカーも、所々が剥がれかけていた。


「さあ、この壮大なる設定遊びの原典。その奥底に沈殿する、愚鈍な兄弟の情動のルーツを、骨の髄まで解体してやろうぞ」


 如月さんは、薄暗い書庫の中で、純銀のルーペを右目にあてがった。

 純白の手袋が、バインダーの表紙にそっと触れる。

 ページをめくる前から、彼女の極限まで研ぎ澄まされた物理的観察眼は、すでに紙の劣化具合、インクの染み、そしてバインダーに付着した微細な痕跡を捉え、そこから対象のルーツを読み解く『情動のプロファイリング』を静かに起動させようとしていた。


パラッ。

 如月さんの細い指先が、黒の書の分厚い表紙を開いた。

 その瞬間、閉架書庫の冷たい空気が、一気に異様な熱を帯びたように錯覚した。


 僕も横から覗き込む。

 そこに広がっていたのは、十数年前の初代(兄)が、己の持てるすべての語彙力と厨二病の情熱を注ぎ込んで書き殴った、直視に耐えない文字の羅列だった。


『第一章:堕天使の目覚めと、魔界の盟約』

『我、覇王の血を引く者なり。漆黒の波動が、右腕の封印を……』


 ボールペンのインクが裏写りするほど、異常なまでの筆圧で書き込まれた文字。

 それは、ただの創作ノートではない。現実の世界に居場所を見出せず、己の脳内に絶対的な帝国を築き上げようとした、一人の少年の煮詰まりきった自己陶酔の結晶だった。


「……ふむ。筆圧の強さと、インクの滲み。所々に見られる紙のヨレは、自身の書いた設定に酔いしれ、興奮のあまりに垂らした手汗の痕跡じゃな。……世界を裏から支配する堕天使……血塗られた覇王……」


 如月さんは、ルーペ越しにその痛々しい設定を読み解いていく。

 しかし、ページを数枚めくったところで、彼女の動きがピタリと止まった。


「如月さん? どうしました?」


「サクタロウ。このノートの物理的痕跡は、初代のものだけではない」


 如月さんが指差したページには、初代の荒々しい文字の横に、明らかに筆跡の違う、丸みを帯びた丁寧な文字で書かれた『付箋』がいくつも貼り付けられていた。


『お兄ちゃんの設定、すごくかっこいい! 僕が絶対にこの封印を守るよ!』

『第三の儀式は、理科室じゃなくて家庭科室に変更になってるから、パテを買いに行かなきゃ』


 それは、十数歳離れた弟が残した、メンテナンスの記録と、兄に対する純度一〇〇パーセントの憧憬のメモだった。

 バインダーの金具が壊れかけた部分は、あの天井のプロジェクターと同じように、不格好なテープでぐるぐる巻きにして補修されている。何度も何度も読み返された証拠に、ページの端は擦り切れ、その度に透明なテープで丁寧に保護されていた。


「……」


 如月さんの美しい顔が、これまでに見たことがないほど、複雑に歪んだ。

 それは、未知の物理トリックに挑む時の冷徹な表情でもなく、愚かな犯人を嘲笑する時の表情でもない。

 圧倒的な『痛々しさ』と、それと同時に存在する、あまりにも純粋で健気な『兄弟の絆』という強烈な情動の波を、プロファイリングによって一気に脳内に流し込まれたことによる、許容量のオーバーだった。


「……如月さん?」


「閉めるぞ」


 パタンッ!

 如月さんは、まだ数分の一も読んでいない『黒の書』を、弾かれたように勢いよく閉じた。


「えっ? もういいんですか? 全部読まなくて……」


「これ以上は無理じゃ」


 如月さんは、純白の手袋で顔を覆い、深く、ひどく疲労した声で言った。


「初代の煮詰まった自己陶酔だけなら、嘲笑して切り捨てることもできた。しかし……その兄の痛々しい妄想を、本物の魔導書だと信じて疑わず、己の小遣いと時間をすべて費やしてまで必死に守り抜こうとする弟の、この無垢で真っ直ぐすぎる情動。……これらが入り混じったこのノートは、もはや致死量の猛毒じゃ」


 彼女は、バインダーを配電盤の中へと押し戻した。


「すべてを白日の下に晒し、論理で解体するのが鑑定士の務めではある。……しかし、世の中には、不純なまま、無知なまま封印しておいた方が良いモノも存在するのじゃ」


「それって……」


「いかに滑稽で愚かな黒歴史であろうとも、十数年の時を超えて引き継がれたこの兄弟の絆は、ある種の奇跡的な現象じゃ。それをわしの手で完全に焼き払うのは……少々、無粋に過ぎるやもしれんな。サクタロウ、扉を閉めろ。完全封印じゃ」


 僕は深く頷き、配電盤の金属扉を静かに閉めた。

 ギィ……ガシャン。

 錆びた扉が閉まり、すべての元凶であるパンドラの箱は、再び永遠の闇へと封印された。


「はい。僕も、大賛成です。謎は謎のままにしておいた方が、あの兄弟の尊厳のためにも、世界は平和ですからね」


 僕は心底ほっとして、笑った。

 如月瑠璃は冷徹な天才だが、他人の純粋な想いまでを土足で踏みにじるような、残酷なだけの人間ではない。その不器用な優しさに触れて、僕はなんだか少しだけ温かい気持ちになっていた。


「さあ、図書室の特等席へ戻るぞ、サクタロウ。体が完全に冷え切ってしまった。至高のダージリンティーを要求する」


「はいはい、かしこまりました。お茶菓子もとっておきのやつを出しますよ!」


 僕たちは、軽やかな足取りで閉架書庫を抜け、いつものこたつが待つテーブルへと戻っていった。

 これで、僕の平和な日常が戻ってくる。幽霊なんて、やっぱりこの世にはいなかったのだ。


 ――しかし。

 こたつに入り、暢気にホットケーキを頬張るサクタロウは、この時知る由もなかった。


 向かいの席で、ティーカップを傾ける如月瑠璃の、そのアメジストの瞳の奥深くに、決して彼には見せない『底知れぬ疑念』が、静かに渦巻いていることを。


 彼女が『黒の書』の完全封印を決めた本当の理由。

 それは、兄弟の痛々しい情動に耐えきれなかったからだけではない。

 本当の『パンドラの箱』は、それぞれのモノの鑑定結果において、瑠璃が【話していない部分】にこそ存在していたのだ。


 三年二組の黒板にあった、静電気で張り付いたただのナイロン繊維。……しかし、誰も教室に入っていないはずの完全な密室で、なぜ繊維は『まるで生き物のように、一晩で数センチも伸びていた』のか。


 初等部の水飲み場で起きた、ただのウォーターハンマー現象。……しかし、十数年間完全に錆びついてピクリとも動かなかったはずの元栓のバルブを、一体『誰が』回して水圧を変化させたのか。


 新校舎の家庭科室の骸骨。……共振現象は確かに起きた。しかし、最初のグーパーによる振動が伝わる直前、骸骨の指先が、まるで『自らの意志で手招きするように』わずかに動いた物理的痕跡を、瑠璃は見逃していなかった。


 そして今日、中等部の夜の廊下。……ダミー報知器の裏から電源を取っていたはずのプロジェクターのUSBケーブルは、実は『根本から完全に断線しており、電気が通るはずのない状態』だったという事実。


 物理的鑑定眼と情動の視座をもってしても、判別できない絶対的な闇。

 痛い兄弟が仕掛けた『儀式ごっこ』という舞台装置を利用して、そこに引き寄せられ、現象を成立させていたのは何か。

 それは、あの兄弟とは全く関係のない、論理では絶対に説明のつかない純然たる『怪異』そのものだった。


 しかし、如月瑠璃はそれを口にすることは絶対にない。


(もしこの事実を告げれば、目の前の愚鈍な男は、間違いなく発狂して泣き叫び、わしの優雅なティータイムを永遠に破壊するじゃろうからな)


 瑠璃は、ティーカップの縁から微かに立ち上る湯気越しに、暢気に笑う彼を一瞥し、心の中で冷たく呟いた。

 無知は罪ではない。沈黙こそが、この学園の平穏を守る最適解なのだ。


「……サクタロウ。紅茶が少し薄いぞ。淹れ直すのじゃ」

「ええっ!? ちゃんと時間測ったのに!」


 天才鑑定士は、すべての闇を己の胸の内に隠したまま、今日も優雅に紅茶を啜るのだった。



~如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』 fin~



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ