第4話『夜の回廊と黒い小箱』 ~section5:暗号の切れ端と、最後の扉~
スマートシティ・月見坂市の完璧な環境制御ネットワークから、黒いビニールテープという極めて原始的な手段によって意図的に切り離された暗闇の空間。
その冷たい化学床材の上にへたり込んだまま僕は、放心状態のまま深く、長い息を吐き出していた。
僕の目の前には、闇夜の色を切り取ったかのような漆黒のケープジャケットを纏った孤高の天才鑑定士、如月瑠璃が立っている。
彼女の純白の手袋に包まれた手の中には、僕を恐怖のどん底に陥れていた『着物姿の女の幽霊』の正体――黒い絶縁テープで不格好にぐるぐる巻きにされた、使い古しの小型プロジェクターが握られていた。
これにて、すべてが論破されたのだ。
この数日間、僕の精神をすり減らし、夜も眠れないほどの恐怖を与え続けてきた『不思議四天王』の怪談。
第一の試練、三年二組の黒板の『呪いの髪の毛』。その正体は、静電気で張り付いたただの黒いナイロン繊維であり、供えられていた『邪竜の腕』は、小遣い不足で妥協した半額のフランスパンだった。
第二の試練、初等部水飲み場の『無人の蛇口』。その正体は、老朽化した配管が引き起こすウォーターハンマー現象という物理のバグであり、茂みに隠されていた『呪縛の刻印』は、赤い絵の具で痛々しい文字が書かれた泥まみれのサッカーボールだった。
第三の試練、新校舎の家庭科室の『動く骸骨』。その正体は、人間の重心移動が生み出す微細な振動とキャスター付きの台が増幅した共振現象であり、その心臓に埋め込まれていた『真の魔石』は、百円ショップの安っぽいアクリル製キーホルダーのパーツだった。
そして第四の試練、この中等部の夜の廊下の『壁に消える着物女』。その正体は、環境センサーから盗電したプロジェクターがタイマーで自動再生する、兄の『女装コスプレすり足走り動画』であった。
四つの怪異は、独立したオカルト現象などでは決してなかった。
すべては繋がっていたのだ。
十数年前、自己陶酔の極致にあった一人の男子中学生『初代』が、自らの妄想を書き綴った一冊の設定ノート。そして、そのノートを偶然見つけてしまい、兄の遺志だと信じ込んで、パテや泥やテープを使って涙ぐましいメンテナンスを続けてきた『二代目』。
幽霊や妖怪の類は、この学園のどこにも存在しなかった。
ただそこにあったのは、一冊の痛々しい設定ノートを頂点として、学園中の物理法則とインフラの死角を悪用して構築された、壮大なる『黒歴史のテーマパーク』だったのだ。
「……終わったんですね。本当に」
僕は、冷たいコンクリートの壁に背中を預けながら、天井を仰ぎ見て呟いた。
オカルト的な恐怖は、一ミリグラムも残っていない。
しかし、その代わりに僕の心を満たしているのは、同世代の男子としての致死量の『共感性羞恥』と、それを四日連続で致死量まで摂取させられ続けたことによる、圧倒的な精神的疲労だった。
「ええ、終わりましたよ。もう、これ以上僕たちが夜の学校をビクビクしながら歩き回って、他人の痛い設定遊びの尻拭いに付き合わされる必要はないんです。……さあ、如月さん。こんなポンコツプロジェクターは早くそこのゴミ箱にでも放り捨てて、僕たちの平和な図書室に帰りましょう!」
僕が力なく立ち上がり、衣服についた埃を払おうとした、まさにその時だった。
「まだじゃ。まだ、すべてが終わったわけではないぞ、サクタロウ」
暗闇に響いた如月さんの声は、事件を解決した後の安堵や達成感とは無縁の、極めて冷たく、そして鋭い緊張感を孕んでいた。
彼女は、手にしたプロジェクターをゴミ箱に捨てるどころか、逆に両手でしっかりと持ち直し、その底面を、僕の持つLEDライトの光の軸へと真っ直ぐに向けたのである。
「えっ……? まだ、何かあるんですか?」
「これらはすべて、あの兄弟が作り上げた壮大なゲームの、あくまで『チュートリアル』にすぎんと言ったはずじゃ。……思い出してみるのじゃ。第一、第二、第三の現場に隠されていた不純物たちを」
如月さんの深いアメジストの瞳が、暗闇の中で妖しく光った。
「初代が残した『次なる試練への暗号』が刻まれておったじゃろう」
「あっ……!」
「あの自己陶酔の塊のような初代が、この最終試練の舞台装置に、何のメッセージも残さないはずがないのじゃ」
如月さんは、テープが巻かれていないプロジェクターの底面のプラスチック部分――三脚を固定するための小さな銀色のネジ穴のすぐ脇の、わずかな平らなスペースを指し示した。
「サクタロウ、ライトの光をここへ集中させるのじゃ。……昨日の赤い魔石の裏にあったのと同じように、極めて細い針のようなもので、何かが刻み込まれておる」
「……ウソでしょ」
僕は絶望的な気分になりながら、言われた通りにLEDライトの光を近づけた。
光を斜めから当てて影を作ると、黒いプラスチックの表面に、コンパスの針か安全ピンの先でガリガリと無理やり引っ掻いて書かれたような、不器用で角張った細い文字が浮かび上がってきた。
「……本当だ。また、何か書いてある」
「これが、四つの封印をすべてクリアした勇者にのみ与えられる、初代からの『最終クエスト』のメッセージじゃ。……わしが読んでやろう」
如月さんは、ブレザーのポケットから純銀のルーペを取り出して右目にあてがうと、その極小の文字を、あえて芝居がかった、大仰で重々しい魔王のような声色で読み上げ始めた。
「『四つの封印を解きし、数奇なる運命の探求者よ。見事、我が仕掛けし幻影の迷宮を抜け出たその知恵と勇気を讃えよう。……しかし、真の闇はまだ晴れてはいない。すべての事象の根源たる【黒の書】は、古き知識が眠る静寂の塔、その最奥にある【雷鳴の棺】の中に封印されている。……我の遺志を継ぐ者よ、雷鳴の棺を開き、真理の書を手にせよ』……じゃと」
読み終えた如月さんは、心底うんざりしたように、フーッと長く深い、そして極めて温度の低い冷たい息を吐き出した。
彼女が手袋をはめた手でプロジェクターを握る力が、怒りと呆れで微かに強まっているのが、プラスチックの軋む音で分かった。
「……」
「……」
暗い廊下に、気まずすぎる沈黙が流れた。
痛い。
ただひたすらに、痛い。
厨二病ポエムの集大成だ。『幻影の迷宮』だの『数奇なる運命の探求者』だの、自分を魔界の王か、世界を裏から操る黒幕か何かと完全に勘違いしている単語のオンパレードである。
「……雷鳴の棺、ですか」
数秒後、僕は頭痛を堪えるようにこめかみを強く指で押さえながら、消え入るような声で呟いた。
「おそらく、配電盤か分電盤のことじゃろうな。電気が通ってバチバチと火花が散る箱だから『雷鳴の棺』。……己の貧困なボキャブラリーから必死に捻り出した、涙ぐましいネーミングセンスじゃ」
如月さんは、プロジェクターの底面から視線を外すと、ついにその黒い小箱を鞄の中に無造作に放り込んだ。もはや証拠品としての価値は確認し終えたということだ。
「しかし如月さん。雷鳴の棺が配電盤だとして……『古き知識が眠る静寂の塔』って、どこですか? この月見坂市のスマートシティ化された学園に、塔なんてありましたっけ?」
僕の素朴な疑問に対し、如月さんは深く、ひどく疲労感に満ちたため息をついた。
「お主は本当に、想像力と語彙力というものが決定的に欠如しておるな。昨日、家庭科室で赤い魔石の暗号を読んだ時にも言ったじゃろう。この学園で『古き知識が眠る場所』といえば、一つしかないのじゃ」
如月さんのアメジストの瞳が、暗闇の中で僕を真っ直ぐに射抜いた。
「大量の古い書物が眠り、誰一人として寄り付かない、静寂の空間。……我々が普段、勝手にアンティークのテーブルを持ち込み、紅茶を飲みながらのんびりと拠点にしている、あの旧校舎の一階にある『図書室』じゃよ」
「あ……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内に、カビと古い紙の匂いが漂う、あの古びた図書室の光景が鮮烈にフラッシュバックした。
灯台下暗し。
僕たちは、わざわざ広い学園中を歩き回り、三年二組の教室に行き、初等部のグラウンドに行き、新校舎の家庭科室に行き、そしてこの中等部の廊下まで足を運んで、不可解な怪異を一つ一つ解明してきた。
しかし、そのすべての元凶であり、この壮大な黒歴史の原典である『黒の書』は、ずっと僕たちの足元――あの埃まみれの図書室のどこかに、十数年間も眠り続けていたというのか。
「まさか……。あの図書室に、雷鳴の棺なんてありましたっけ? 僕、あそこで何度も本を探しましたけど、そんなもの見た記憶がないですよ」
「ある。図書室のさらに奥じゃ。普段は誰も立ち入らない、廃棄予定の古い資料が山積みになっている『閉架書庫』の最も奥まった壁面に、旧校舎が建てられた当初から存在する古い『使われていない配電盤』が設置されているのを、わしは初日にあの部屋を占拠した際、すでに確認しておる」
如月さんの記憶力と観察眼は、まさに異次元だった。自分が拠点とする空間の構造を、ミリ単位で把握しているのだ。
「初代の兄は、あの誰も開けない、埃を被った古い配電盤の中に、己の中二病のすべてを記した『黒の書』を隠したのじゃ。そして、十数年の時を経て、現在の弟である二代目が、偶然その配電盤を開けて設定ノートを見つけ出し、学園中に怪異を仕掛け、パテやテープで涙ぐましいメンテナンスを続けていた。……これで、すべての事象のルーツが完璧に繋がったわ」
如月さんは、漆黒のケープジャケットを優雅に翻し、暗い廊下から、スマートシティのフットライトが届く明るい境界線へと向かって歩き出した。
「とはいえ、この兄弟の執念と行動力だけは、ある意味で賞賛に値するかもしれんな。設定は痛々しくとも、それを現実の物理空間に構築し、維持し続けたその労力は、物理法則に対する一つの異常な情熱の形じゃ。……その情熱の方向性が、致命的に間違っておるのが救いようのない悲劇じゃがな」
少しだけ、ほんの少しだけ。
如月さんの言葉には、あの見ず知らずの兄弟に対する、鑑定士としての僅かながらの『手向け(救済の言葉)』が混ざっていたような気がした。
「まったく、見事なまでの灯台下暗しじゃったな。まさか、わしの特等席のすぐ裏に、これほどの不純物が眠っておったとは」
明るい廊下の光の中に立ち、如月瑠璃はゆっくりとこちらを振り返った。
その顔には、長きにわたる不毛な黒歴史の解読作業を、いよいよ根本から絶ち切ることができるという、冷酷で、そして圧倒的な歓喜の笑みが浮かんでいた。
「じゃあ……僕たちがこれから行く場所は」
「決まっておるじゃろう」
如月さんは、革の鞄を提げ直し、高等部の旧校舎へと続く連絡通路の方角を、真っ直ぐに見据えた。
「帰るぞ、サクタロウ。我々の拠点である、あの古き知識の迷宮へ。そして、雷鳴の棺の扉を物理的にこじ開け、この学園に十数年巣食ってきた愚鈍な兄弟の『黒の書』を回収し、その全貌を白日の下に晒して完全焼却してやるのじゃ!」
不思議四天王の怪談は、すべて論理的に解体された。
残るは、すべての元凶である一冊の痛々しい設定ノートのみ。
僕たちは、最後のパンドラの箱を開けるため、再びあの旧校舎の図書室へと足を踏み入れる決意を固めた。
月見坂市の冷たい秋の夜風が、中等部の窓ガラスをガタガタと揺らしている。
僕を四日間震え上がらせていたオカルトの恐怖は完全に消え去ったが、これから直視することになるであろう『純度一〇〇パーセントの黒歴史の原典』に対する共感性羞恥の恐怖は、いまだ僕の胃をキリキリと容赦なく締め付け続けていたのである。




