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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夜の回廊と黒い小箱』 ~section4:思春期のオスと、最悪の残像~

 如月さんは右目にあてがった純銀のルーペ越しに、テープでぐるぐる巻きにされたプロジェクターの『レンズ周辺』と、側面の『操作パネル』へと、その冷徹な観察のメスを深く突き立てた。


 中等部の北側廊下。スマートシティの完璧な照明ネットワークから切り離された暗闇の中で、僕――朔光太郎が持つ小型LEDライトの光だけが、彼女の手元をスポットライトのように照らし出している。


「あの、如月さん。情動の痕跡って……いったい何を見てるんですか?」


 僕は、虚無感でいっぱいになった頭を無理やり動かし、おずおずと尋ねた。

 プロジェクターで自動再生させていたのだから、中身のSDカードに入っているのは、適当なサイトで拾ってきたフリーのホラー動画だろう。そこにどんな感情が介在する余地があるというのか。


「この機械の表面に残された、執念という名の物理的証拠じゃよ」


 如月さんは、純白の手袋をはめた指先で、プロジェクターのレンズの縁――ピントを合わせるための極小のフォーカスリングをなぞった。


「よく見るのじゃ、サクタロウ。このフォーカスリングのプラスチックの溝にだけ、手汗と脂の成分が黒くこびりつき、無数の微細な摩擦痕が残されておる。さらに、プロジェクターの投影角度を調整するための底面の小さなダイヤルにも、何度も何度も、執拗に微調整を繰り返した痕跡がある」


「ピントと画角の調整……。映像を壁に綺麗に映すためなら、普通じゃないですか?」


「ただ綺麗に映すためだけではない。この異常なまでの微調整の痕跡は、『自分が思い描いた通りの完璧なビジョン』を、この廊下の壁というキャンバスに、寸分の狂いもなく再現しようとした異常な執着心の表れじゃ。……思い出してみるのじゃ。あの『黒の書』を構築した、十数年前の初代の性格を」


 如月さんの言葉に、僕は昨日の家庭科室での出来事を思い出した。

 理科室の頑丈な実験台では骸骨が揺れなかったため、キャスター付きの台がある家庭科室で妥協した初代。しかし、家庭科室という生活感あふれるロケーションを認めたくなくて、『血肉の祭壇』などという痛々しい厨二病設定に強引に書き換えて、己の世界観を守り抜いた男。


「自己陶酔の塊で、自分の設定した暗黒神話の世界観を何よりも大切にしている……でしたっけ」


「左様。己の脳内設定のためなら、現実の物理的敗北すらも言葉遊びでねじ伏せる男じゃ。そんなプライドの高い中二病の権化が、自身の壮大なゲームの『最終試練』を飾る最も重要な映像に、どこの馬の骨とも知れぬ他人が作った既存のフリー素材や、映画の安直な切り抜きなどという妥協を許すじゃろうか?」


「あ……」


「許すはずがない。彼は、自分が思い描く『完璧な宵闇の巫女』の姿を、どうしてもこの空間に顕現させたかったはずじゃ。ならば、彼が取るべき行動はただ一つ」


 如月さんは、手にした黒い小箱をコンクリートの壁に向け、まるで自らが映像を投影するかのような仕草を見せた。


「自分で、映像を『作る』ことじゃよ」


 その言葉の意味を理解した瞬間。

 僕の背筋を、幽霊の恐怖とは全く違う種類の、ドロドロとした不快な悪寒が這い上がってきた。


「じ、自分で作るって……CGか何かでアニメーションを作ったってことですか?」


「十数年前の、しかも小遣いに窮するような中学生や高校生に、そこまでの高度なCG制作の技術や機材があるわけがない。もっと原始的で、泥臭く、そして……正視に耐えない悲惨な方法じゃ」


 如月さんはルーペを外し、哀れみと軽蔑が極限まで混ざり合った、氷のような瞳で僕を見つめた。


「サクタロウ、先ほどの女の映像をもう一度詳細に思い出すのじゃ。顔はどうなっておった?」


「顔は……前髪が長くて、垂れ下がってて、全然見えませんでした」


「着物はどうじゃった?」


「なんか、古めかしいっていうか……赤くて、くすんだような色の……」


「そして、その動きじゃ。上下のバウンドが一切なく、まるで氷の上を滑るように平面的にスライドして壁に消えていった。……これらの視覚情報と、この機械に残された『自家製』の痕跡を、情動の視座で論理的に統合すれば、一つの極めてグロテスクな真実が浮かび上がってくるのじゃ」


 如月さんは、深い、深いため息をつき、その残酷な真実を口にした。


「あの映像の女は、フリー素材ではない。十数年前の『初代』が、安物の浴衣を被り、自ら『自作自演』でこの廊下を走った姿を、ビデオカメラで定点撮影した実写映像なんじゃよ」


「……はい?」


 僕の脳は、如月さんから提示されたあまりにも非現実的な、しかし妙に生々しい結論を、瞬時には処理しきれなかった。


「自作自演? 初代が、自分で撮影した? いやいや、ちょっと待ってくださいよ如月さん。さっき廊下を走ってたのは、どう見ても『着物を着た女の人』でしたよ!? 初代って、男ですよね!? 成長期の男子だって、昨日の家庭科室でパテの指紋を見た時に、如月さん自身が言ってたじゃないですか!」


「だからこそ、前髪で完全に顔を隠す必要があったのじゃ」


 如月さんは、心底忌々しそうに吐き捨てた。


「よく想像してみるのじゃ、サクタロウ。十数年前の、誰もいなくなった夜の学校、あるいは家族が寝静まった深夜の自室。初代は三脚か何かに固定した安物のビデオカメラを設置し、母親か妹のタンスから勝手に引っ張り出してきた安物の赤い浴衣を無理やり羽織る。そして、顔が男だとバレないように、百円ショップで買ったような粗悪な黒髪のウィッグを深く被るのじゃ。そして、カメラの録画ボタンを押し……画角の端から端までを、必死の形相で走り抜ける男子中学生の姿を」


「うわあああぁぁぁぁ……っ!!」


 僕は両手で頭を抱え、その場にしゃがみ込んで絶叫した。

 想像してしまった。

 如月さんの極めて論理的で解像度の高いプロファイリングによって、僕の脳内に、十数年前の初代の『撮影風景』が、フルHDの高画質な映像として強制的に再生されてしまったのだ。


 深夜の自室。家族に見つからないように息を殺し、サイズの合わない赤い浴衣を着て、ズレそうになるカツラを押さえながら、カメラの前を横切る男。

『くっ……宵闇の巫女の動きはこんなものではない……! もっと滑らかに、もっと幽鬼のように……!』とか一人でブツブツと呟きながら、何度も何度もテイクを重ねているに違いない。


「……無理。無理です如月さん。それ以上言わないでください。精神が、僕の精神が崩壊します……」


「現実から目を背けるな。わしとて、こんな汚らわしい妄想を言語化したくなどない。しかし、これが物理的痕跡から導き出される唯一の論理的帰結なのじゃ」


 如月さんは、容赦なく真実の刃を僕の心に突き立て続ける。


「なぜ、あの映像の女は走っているのに上下にバウンドせず、平面的にスライドしていたのか? お主は先ほど、幽霊だからだと言ったな。違う。それは、彼が『幽霊っぽく見せるため』に、足音を立てず、上下に揺れないように、必死に『すり足』で滑るように走るという、涙ぐましいまでの演技努力をした結果じゃ」


「すり足……」


「さらに、彼はその動画を当時の低スペックなPCに取り込み、無料の粗悪な編集ソフトで、背景を真っ黒に塗りつぶす『透過処理』を行った。自分の部屋の背景が映り込んでしまえば、怪談の世界観が崩壊するからな。しかし、素人の無理な編集ゆえに、フレームレートは落ち、動きは不自然に平面的になり、画質はガタガタになった。……お主が恐怖した『この世のものとは思えない異様な動き』の正体は、ただの『十数年前の中学生による、必死すぎる幽霊のモノマネ演技と、粗悪な動画編集の失敗』にすぎんのじゃよ」


 足音がしなかったのも当然だ。

 すり足で音を立てないように走った上に、ご丁寧に映像データから音声トラックだけを削除したか、プロジェクターの音量設定をゼロにして、完全な無音の映像を作り上げたのだろう。

 すべては、自分の作った『宵闇の巫女』という設定を完璧に再現するため。


「はは……ははははっ……。じゃあ、僕がさっき、腰を抜かして『本物の女の幽霊だ!呪われる!』って泣き叫んでたあの映像は……」


 僕は床にへたり込んだまま、虚空を見つめて乾いた笑いを漏らした。


「十数年前の、痛い男子中学生の『女装コスプレすり足走り動画』だったってことですか……?」


「左様。あれは怨念でも幽霊でもない。自らの暗黒神話に酔いしれ、自己顕示欲を持て余した、思春期のオスの痛々しい残像じゃ」


 発情期のオスの残像。

 天才鑑定士の口から放たれたその辛辣すぎるパワーワードが、中等部の暗い廊下に木霊した。


 オカルト的な恐怖は、すでに一ミリグラムも残っていない。

 ただ、絶対的な『虚無』と、同世代の男子としての『致死量の共感性羞恥』だけが、僕の心を真っ白に塗りつぶしていた。


 僕は、男の女装動画を見て本気でビビっていたのか。

 女の幽霊だと思って、思考停止してガタガタ震えていたのか。

 あんな、母親の浴衣を被ってカツラで顔を隠しただけの、画質の粗い中学生のコスプレ映像に。


「……死にたい」


「まだ終わっておらんぞ、サクタロウ。真の悲劇はここからじゃ」


 如月さんは、完全に心が折れて床に突っ伏した僕を見下ろし、追い打ちをかけるように言った。


「その初代の作った痛々しい女装映像を、十数年の時を経た現在、実の弟である『二代目』が、兄の黒歴史とは露知らず『本物の魔導映像』だと信じ込み、天井裏から盗電してまで、毎日タイマーで律儀に再生し続けているのじゃ。……兄の羞恥の結晶を、弟が神聖な儀式として学校中に垂れ流す。これほどまでに残酷で、滑稽な狂気が他にあるじゃろうか」


 僕は両手で顔を覆い、声なき悲鳴を上げた。

 地獄だ。これはもう、オカルトなんかよりもよっぽど恐ろしい、人間関係の地獄だ。

 もし今の初代が、自分の十数年前の女装コスプレ動画が、毎日夕方の六時半に母校の廊下で上映され、生徒たちに『不思議四天王』として恐れられている(?)という事実を知ったら。

 絶対に、舌を噛み切って社会的に死ぬ道を選ぶだろう。


「……如月さん。もう、やめましょう。これ以上はダメです。これは暴いちゃいけない類の闇です。このプロジェクター、いますぐぶっ壊して、天井裏の配線も元に戻して、僕たちは何も見なかったことにしましょう。あの名も知らぬ兄弟の尊厳のために……」


「断る。わしの辞書に、真実の隠蔽という文字はない」


 如月さんは、手にしたプロジェクターを、まるで勝利のトロフィーのように高々と掲げた。


「三年二組の黒板。初等部の水飲み場。新校舎の家庭科室。そして、この中等部の夜の廊下。……これで、この学園に仕掛けられた『不思議四天王』の怪異は、すべてわしの手によって完全に論破され、粉砕された。着物の女の正体が、兄の女装コスプレ動画であったという残酷な真実をもって、な」


 彼女の宣言通り、四つの怪異はすべて、ただの物理のバグと、痛々しい兄弟の工作による『設定遊び』であることが確定した。

 幽霊など、この学園のどこにも存在しなかったのだ。

 僕を震え上がらせていた不思議四天王の謎は、ここに完全な終結を迎えたのである。



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