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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『黒板とフランスパン』 ~section1:恐怖の噂と、退屈な天才~

 十月下旬の日は、釣瓶落としという言葉が恐ろしいほどにふさわしい。

 放課後のチャイムが学園に鳴り響いてから、体感としてはそれほど長い時間が経過しているようには思えなかった。しかし、高等部旧校舎の廊下に等間隔で並ぶ古びた木枠の窓から差し込む光は、すでに深い赤みを帯び、まるで誰かが意図的に流した血のように不吉な色合いを見せていた。西日が床のささくれた木目を不気味に照らし出し、廊下の奥へと続く僕たちの影を、まるで別次元から這い出してきた魔物の触手のように、異様に長く、そして色濃く引き伸ばしている。


 静まり返った空間に、僕の恐る恐る歩く上履きのゴムが擦れる音と、前を行く如月さんの規則正しく堂々とした革靴の足音だけが、不規則なリズムを刻みながら反響していた。ミシッ、ミシッと、歩を進めるたびに古い床板が微かな悲鳴を上げる。その乾いた音が足元から鳴るたびに、僕の心臓はビクンと跳ね上がり、冷たい汗が制服のシャツの下で背中を伝っていくのを感じていた。


「如月さん……あの、本当に何もないですよね? 幽霊とか、悪霊とか、そういう非科学的なものは存在しないって、如月さん自身がいつも言っていることですよね。僕、本当にそういうオカルト系はダメで……」


 僕は震える声で、前を歩く小柄な背中に向かってすがるように問いかけた。彼女の言葉だけが、今の僕をこの狂気じみた空間に繋ぎ止めている唯一の命綱だった。


「騒々しいやつじゃな。歩くたびに同じ確認をして、お主のその頭蓋骨に詰まっている脳味噌は、鳥並みの記憶力しか持ち合わせておらんのか。幽霊などという非論理的な概念に怯えるのは、人間の想像力が生み出したただの防衛本能の暴走じゃ。未知の暗闇や、己の理解を超えた事象に対して、脳が勝手に『外敵がいるかもしれない』と警告を発しておるにすぎん。わしに言わせれば、そんな実体のない幻影に怯えて無駄なカロリーと心拍数を消費する方が、よほど恐ろしくて非効率じゃ」


 前を歩く如月さんは、振り返りもせずに淡々と、いつも通りの冷徹なまでの論理で僕の恐怖を一蹴した。その歩みには一切の躊躇がない。彼女の背中まで伸びた艶やかな漆黒の髪が歩くたびにサラサラと揺れ、彼女が右手に握っている使い込まれた銀の懐中電灯が、薄暗い廊下で鈍い金属光沢を放っている。彼女はまだそのスイッチを入れておらず、旧校舎の自然な暗闇の中を、まるで勝手知ったる自分の庭のように迷いなく進んでいく。


 ここ、月見坂市は、ネットワークを介した情報収集や環境操作が可能な、高度に発展したスマートシティである。如月学園がある新市街は特にその恩恵を強く受けており、街の至る所に極小の環境センサーや監視カメラが張り巡らされ、人々の生活はデジタル技術によって徹底的に最適化されている。気温、湿度、日照量から交通網に至るまで、すべてが中央のシステムで管理された、ある意味で完璧に統制された清潔な世界だ。

 一方、僕が父親と二人で住んでいる旧市街の団地は、最低限の生活インフラこそ整っているものの、温度管理やセキュリティの自動化などは一切されていない。冬になれば手動で石油ストーブに火を点けて暖を取り、外出時は物理的な金属の鍵をガチャリと回して戸締りをする。まるで昭和の時代から時が完全に止まったかのような、アナログで、隙だらけで、泥臭い町だ。


 だからこそ、僕のような旧市街の住人からすれば、如月コンツェルンの息がかかったこの如月学園のセキュリティシステムは、文字通り『鉄壁』に思える。近代的な設備が整った新校舎はもちろんのこと、歴史的建造物として保存されているにすぎない同じ敷地内のこの旧校舎であっても、強固な電子ロックと最新の監視システムによって厳重に守られているのだ。ICチップの埋め込まれた生徒手帳や教職員のIDカードがなければ、部外者が立ち入ることはおろか、生徒であっても定められた放課後の時間を過ぎれば、システムが自動的に作動して物理的に侵入できなくなる。


 つまり、『夜の旧校舎に忍び込んで肝試しをする』などという、昔の学園ドラマやホラー映画によくある古典的な不良の遊びは、この学園においてはシステム上、絶対に不可能なのだ。どれほどオカルトを信じる生徒であっても、堅牢なデジタルロックの前では物理的に締め出される運命にある。


 では、なぜ『不思議四天王』などという、時代錯誤も甚だしい怪談が今になって学園中で広まったのか。

 事の発端は数日前。クラスの男子数人が、放課後に教師から古い備品の移動を頼まれ、閉鎖される直前の夕暮れ時にこの旧校舎を訪れたことだった。彼らはそこで『得体の知れない現象』に遭遇したという。夕闇が迫り、異様な静けさに包まれた薄暗い教室での出来事に彼らはパニックを起こし、運ぶはずだった備品を放り出して逃げ帰った。そして翌日には、そのうちの一人がひどい知恵熱を出して学校を休んでしまったのだ。

 ただでさえ閉鎖的で不気味な旧校舎での出来事。さらに『熱を出して休んだ』という事実が恐怖に拍車をかけた。その話は生徒たちの間で瞬く間に尾ひれがつき、スマートシティの清潔な情報ネットワークを介してあっという間に学園中に拡散され、いつしか『不思議四天王』という大仰な名前まで付けられてしまった。


 その忌まわしい四天王の一つ目が、今から僕たちが向かっている、旧校舎三階の奥にある『三年二組』の教室にあるという。


『黒板の縁から、長い髪の毛が生えている。そして、それを気味悪がって抜いても、翌日にはまた同じ場所から同じように生えてくる』


 聞くだけで背筋が凍るような、ひどく気味の悪い噂だ。幽霊やオカルトの類が心底苦手な僕にとって、正体不明の髪の毛が蠢いている教室になど、一歩たりとも近づきたくなかった。人間の体の一部が、無機質な黒板のアルミ枠から際限なく増殖するなんて、想像しただけで生理的な嫌悪感が限界を突破している。

 しかし、この得体の知れない恐怖を根本から取り除くためには、天才的な観察眼を持つ如月さんに『ただの物理現象だ』と論理的に証明してもらい、完全な安心感を得るしかなかった。自分で確かめる勇気は微塵もないが、このまま放置しておけば、夜な夜な黒板から伸びてくる髪の毛の悪夢にうなされ、僕の精神は恐怖で擦り切れてしまうだろう。


「着いたぞ、サクタロウ。ここが三年二組の教室じゃな」


 不意に如月さんが足を止めた。彼女の視線の先を見上げると、色褪せた木製のプレートに、かすれた白い塗料で『3-2』と書かれている。


「は、はい。ここです。この教室の黒板に、例の髪の毛が……」


「扉を開けるのじゃ」


 如月さんに促され、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。喉の奥がカラカラに乾いている。震える右手を伸ばし、引き戸の真鍮製の取っ手に手を掛ける。木枠の扉は長年の湿気を吸ってひどく重くなっており、力を込めて横にスライドさせると、ガラガラ、ギギギ……と、黒板を直接爪で引っ掻くような、耳障りで不快な摩擦音を立ててゆっくりと開いた。


 教室の中は、廊下よりもさらに薄暗く、そして息苦しい空気に満ちていた。夕暮れの光が曇った窓ガラス越しに差し込んでいるものの、長年使われていないせいか、空気そのものが淀んで灰色に霞んでいるように見える。差し込む赤い光の筋の中で、無数の埃が微小な虫のようにゆっくりと舞い踊っていた。

 規則正しく並んだ木製の机と椅子は、主を失って久しく、まるで整然と並べられた無名の墓標のようだ。床にはうっすらとチョークの粉や外から吹き込んだ砂埃が積もり、僕たちが足を踏み入れると、古いカビの匂いと、乾いた木の匂い、そして微かな埃の匂いがふわりと鼻を突いた。壁には画鋲だけがいくつも残された色褪せたコルクボードの掲示板があり、教室の隅のロッカーの横には、毛の抜け落ちた古い箒が力なく倒れている。


「……何とも退屈な空間じゃな。お主が顔を真っ青にして騒ぐからどれほどの異常事態かと思えば、ただ長期間放置されただけの、ひどくありふれた空き教室ではないか。空気の循環も悪く、衛生状態も最悪じゃ」


 如月さんは教室の入り口から内部をぐるりと見渡したが、その深い紫——アメジストの瞳に興味の色は一切浮かんでいない。彼女の関心を惹くのは、常に『ありえない場所にあるありえないモノ』だけだ。それがどこで作られ、どのような流通経路を辿り、誰の手に渡って、どういう経緯でここにあるのか。そのモノに秘められた歴史とルーツを探ることこそが彼女の目的であり、こういうただ古いだけで何の変化もない平凡な空間には、微塵の価値も見出さない。


「油断しないでください、如月さん。黒板です。問題の髪の毛は、あの正面の黒板の縁にあるはずなんです」


 僕は震える指で、教室の正面にある大きな黒板を指差した。

 チョークの跡が白くこびりつき、過去に何度も水拭きされたことで表面がわずかに白濁している黒板は、西日を反射して鈍く不気味に光っている。僕たちは慎重に、ゆっくりと教壇へと近づいていった。一歩進むごとに、教壇の古い木材がミシッと悲鳴を上げ、僕の心臓の鼓動もそれに合わせて早くなる。


 もし本当に、怨念のこもった長い黒髪が大量に垂れ下がっていて、風もないのにうねうねと蛇のように動いていたらどうしよう。想像するだけで足がすくみ、今すぐ踵を返して逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、如月さんの手前、下僕としてのメンツもあり、なんとか恐怖を押し殺して彼女の背中を追う。


「黒板の、縁じゃな。どれ……」


 如月さんは全く怖がる様子もなく、むしろ面倒くさそうに堂々とした足取りで一段高い教壇に上がり、黒板の右端から左端へと、その鋭い視線を滑らせていく。彼女のその落ち着き払った、何事にも動じない態度は、今の僕にとって唯一の精神安定剤だった。


 そして、数十秒の重苦しい静寂の後。

 黒板の左下、アルミの枠と黒い板面のわずかな隙間に、如月さんの視線がピタリと止まった。


「……あったぞ、サクタロウ。お主の言う通りじゃ」


「ひっ……!」


 僕は短く情けない悲鳴を上げ、思わず如月さんの小柄な背後に隠れた。

 彼女の肩越しに、恐る恐る顔を出して黒板の左下を見る。

 すると、確かにそこには『何か』があった。


 黒板の使い込まれたアルミ枠の隙間から、細くて黒い、一本の長い線のようなものがヒョロリと垂れ下がっているのだ。長さにしておよそ十センチほどだろうか。窓は完全に閉まりきっているというのに、建物の構造上の隙間風のせいか、それはまるで自らの意志を持った生き物のように、空中で微かに、不規則に揺れていた。


「ほ、本当にあった……! 髪の毛です! 幽霊の髪の毛ですよ、如月さん! 備品を取りに来たクラスの奴らがあの毛を気持ち悪がって引っこ抜いたのに、また今日になって生えてきたっていう……! 間違いない、この教室は呪われてるんです! 過去にここで何か凄惨な事件があって、その被害者の情念が……!」


 僕は恐怖のあまり、思考のタガが外れたように早口でまくし立てた。どんなに月見坂市がスマートシティ化を進めようと、どれほど強固な電子セキュリティで学園が守られていようと、人間の念や呪いといったオカルトは、そんなデジタルな防壁をいとも簡単にすり抜けてくるのだ。この旧校舎には確実に、科学では説明できない呪いが巣食っている。


 しかし、僕の恐怖と極度の興奮とは裏腹に、その『髪の毛』を見つめる如月さんの反応は、僕の予想を大きく裏切る、ひどく冷ややかで、静かなものだった。


「……ふう」


 如月さんは、黒板の縁から垂れ下がり、微かに揺れるその『髪の毛』を数秒間じっと無言で見つめた後、深々と、心底つまらなそうな、そして呆れ果てたような長いため息をついた。

 その整った顔に浮かんでいるのは、未知の怪異に対する恐怖でも驚きでもなく、圧倒的なまでの『退屈』と、背後で騒ぎ立てる僕に対する『憐憫』に似た感情だった。彼女は、普段モノのルーツを探る際に必ず用いる、鞄の中の純白の手袋や銀のルーペを取り出そうともしない。懐中電灯の光を当てることすら面倒なようだ。


「き、如月さん? どうしたんですか? ため息なんかついてないで、早くその凄まじい物理的観察眼で、この呪いの髪の毛の正体を暴いてくださいよ! そして僕を安心させてください! このままじゃ夜も眠れません!」


「……暴くまでもないわ。こんな下らないモノを見るために、わざわざ図書室の温かいこたつと、極上のダージリンティーを手放してきたのかと思うと、己の気まぐれの浅はかさを呪いたくなるぞ。わしの貴重な時間を返してほしいくらいじゃ。今すぐ図書室に戻って、次の古文書の解読をしたい気分じゃ」


 如月さんは、黒板から視線を外し、やれやれと首を振った。


「下らないって……でも、実際に生えてるじゃないですか! しかも抜いても抜いても、次の日にはまた生えてくるんですよ! これのどこが下らないんですか! クラスの男子があれを引き抜いたのは紛れもない事実なんです! なのにまたあるってことは、怨念が……」


 僕が必死に食い下がると、如月さんはゆっくりと振り返り、冷ややかなアメジストの瞳で僕を真っ直ぐに睨みつけた。その眼差しは、哀れな子犬を見るような、あるいは出来の悪い生徒をたしなめる教師のような鋭さを持っていた。


「お主は本当に、観察というものを根本から理解しておらん愚か者じゃな。サクタロウ、恐怖で曇ったその目をこすって、もう一度よく見てみるのじゃ。それは、わしの知的好奇心を微塵も満たさない、凡庸で無価値な、ただの物理的なゴミじゃ。怪異でもなんでもないわ」


「物理的なゴミ……? でも、あれはどう見ても女の人の……」


「馬鹿馬鹿しい。人間という生き物はな、サクタロウ。暗闇や古い建物の中で己の理解が及ばない事象に直面した時、そこにある事実を客観的に分析するよりも先に、超常的な理由や物語をつけて納得しようとする生存本能がある。髪の毛に見えるモノが、抜いてもまた現れた。その二つの事実を、物理的な構造の理解を飛ばして直結させ、『呪いによって生えてくる』という非論理的な怪談を勝手に捏造する。パレイドリア現象や確証バイアスといった、脳の認知のバグじゃな」


 如月さんは吐き捨てるように言うと、黒板から完全にクルリと背を向けた。

 あまりにもあっさりとした、身も蓋もない態度。彼女がここまで興味を示さないということは、あの黒板の隙間にあるものは、本当にただのゴミかなにかで、幽霊の仕業ではないということなのだろう。

 如月瑠璃の鑑定眼に狂いはない。彼女が「ゴミだ」と断言するなら、それは絶対にただのゴミなのだ。幽霊の仕業ではないと分かり、僕の心臓の鼓動はようやく正常なリズムを取り戻し始めた。呪いなんてなかった。ただの勘違いだ。


 しかし、だとしたら僕たちは、ただのゴミを見るためにわざわざ怯えながら、この埃っぽい薄暗い教室までやってきたということになる。


「そ、そんな……。じゃあ、熱を出して学校を休んだ奴はどうなるんですか? 呪いじゃないなら、あの高熱は一体何が原因で……」


「ただの風邪じゃろう。急に冷え込んできた時期じゃからな。あるいは、お主のように勝手に幽霊だと錯覚して怯えきり、極度の緊張とストレスで自律神経を乱したことによる、ただの心因性の発熱じゃな。精神的なショックや思い込みが、実際の発熱や倦怠感といった身体症状として現れるのは、医学的にもごくありふれたことじゃ。プラシーボ効果の逆、ノセボ効果というやつじゃな」


「ノセボ効果……」


「どちらにせよ、語るに落ちる事象じゃ。これ以上、わしの脳細胞をこんな下らないノイズのために使わせるな。さあ、サクタロウ。図書室に戻るぞ。こんな埃っぽい空間にこれ以上長居すれば、わしの気管支までやられてしまうわ」


 如月さんは完全に興味を失った様子で、足早に教室の出口に向かって歩き出そうとした。

 彼女の言う通りだ。ここはただの空き教室で、怪異なんて最初から存在しなかった。馬鹿馬鹿しい噂に踊らされていただけだ。早く図書室の安全なこたつに戻って、冷めた紅茶を淹れ直してもらおう。

 僕も大きく息を吐き出し、如月さんの後を追おうと踵を返した。


 ——その時だった。


 教室全体を何気なく見渡しながら歩き出そうとしていた如月さんの足が、床板を鳴らした直後、ピタリと不自然に止まった。


「……如月さん?」


 声をかけたが、返事はない。

 彼女の視線は、黒板から少し離れた場所——僕たちが先ほど教室に入った際、恐怖のあまり完全に素通りしてしまった、教壇の中央に置かれた古い木製の教卓の上に、文字通り釘付けになっていた。


「……いや、待て」


 如月さんの声のトーンが、先ほどの退屈しきったものから、微かに、しかし確実に変化した。

 それは、獲物の痕跡を見つけた肉食獣のような、あるいは未知の複雑な暗号を前にした探求者のような、鋭く、低く、冷徹な響きを帯びていた。


「ど、どうしたんですか? 何か……いるんですか?」


 僕の背筋に、先ほどの髪の毛騒動の時よりもさらに冷たいものが走った。黒板のゴミなんかよりももっと恐ろしい、本物の幽霊でも見つけてしまったのだろうか。僕は恐る恐る、彼女の視線の先を追った。


「サクタロウ。あれを見るのじゃ」


 如月さんの細く白い指が、教卓の上を真っ直ぐに指し示した。

 そこには、かつてこの教室が使われていた頃、教員が花を飾るために使っていたであろう、古い陶器製の花瓶が置かれていた。長年放置されていたらしく、表面にはうっすらと白い埃が被り、青かったはずの色もくすんで黒ずんでいる。

 しかし、問題はその花瓶自体の古さではなかった。


 花瓶の中には、花も、枯れ木も、水すらも入っていなかった。

 代わりにそこに、まるで墓標のように真っ直ぐ突き刺さっていたのは——一本の、真新しい『フランスパン』だった。


「えっ……? ふ、フランスパン?」


 僕は自分の目を疑い、思わず間の抜けた声を漏らした。

 幽霊の生首や、呪いの藁人形、あるいは血文字のメッセージがあるなら、まだホラー現象として頭で理解できる。しかし、薄暗い旧校舎の、長年放置された空き教室の、古びた教卓にある花瓶に、なぜかスーパーのパン売り場に並んでいるような立派なフランスパンが生けられているのだ。


 表面には美しい黄金色の焼き目がつき、クープと呼ばれる表面の切れ込みも見事にパクリと開いている。表面にはうっすらと真っ白な打ち粉が残っており、この埃っぽくカビ臭い教室の中で、そのパンだけが異様なほどの生活感と『新鮮さ』を強烈に放っていた。

 あまりにもシュールで、意味不明で、脈絡のない光景だった。


「な、なんでこんなところにパンが……? 誰かのイタズラですかね? それとも、美術部がデッサンのモチーフに使ったものを、たまたまここに置き忘れたとか……」


 僕が困惑して必死に理由をひねり出そうと呟くと、如月さんは僕の言葉を無視して、ゆっくりと教卓に近づいていった。彼女のアメジストの瞳には、先ほどまでの退屈の欠片もなく、底知れない探求の光と、知的好奇心がギラギラと宿っている。


「サクタロウ、よく見ろ。美術部がわざわざこんな埃まみれの古い教室でデッサンをするか? それに、このパンは、表面の乾燥具合や、微かに漂う酵母と小麦の香ばしい匂いからして、焼かれてから、あるいは購入されてからさほど時間が経っておらん。少なくとも、今日か昨日のものじゃ。この部屋の埃の積もり具合という『時間の流れ』から、このパンだけが完全に逸脱しておる。極めて『新しい』不純物じゃ」


 如月さんは鞄から、いつも使っている純白の手袋を取り出し、両手になめらかな動作ではめた。そして、銀のルーペを右目にあてがい、花瓶に突き刺さったフランスパンを嘗め回すように、あらゆる角度から観察し始めた。


「ありえない場所に、ありえないモノがある」


 如月さんの口角が、微かに、しかし確かに吊り上がる。天才的な鑑定士が、極上の謎を見つけた時の顔だ。


「ただの物理現象にすぎない下らない黒板のゴミなどより、よほど不可解で、よほど魅力的じゃ。なぜ、こんな場所にフランスパンがあるのか。誰が、どのような意図を持って、わざわざ花瓶にパンを生けたのか。……この不純物のルーツ、わしが直々に鑑定してやろう」


 こうして、僕が持ち込んだ他愛のない『不思議四天王』の怪談は、如月瑠璃の天才的な物理的観察眼によって、全く予期せぬ方向——花瓶に突き刺さった謎のフランスパンのルーツ解明へと、劇的にすり替わっていくのだった。



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