第4話『夜の回廊と黒い小箱』 ~section3:脚立の上の真実と、黒いテープ~
中等部二階の北側廊下。
スマートシティの高度な照明ネットワークから切り離され、不気味な暗闇に沈んだ行き止まりの空間で僕は、手にした小型LEDライトの白い光を、目の前の少女の手元へと真っ直ぐに照射していた。
天才鑑定士・如月瑠璃は、僕がパイプ椅子に乗って天井のダミー火災報知器の裏から引き剥がしてきた『黒い小箱』を、純白の手袋をはめた両手で恭しく、しかし同時にひどく忌々しそうな手つきで保持していた。
彼女の深い紫――アメジストの瞳が、暗闇の中で妖しい知的好奇心の光を反射させながら、その不格好な直方体の物体を舐め回すように観察している。
それは、手のひらにすっぽりと収まるほどのサイズ感だった。
表面の大部分は、黒い絶縁用のビニールテープで何重にも、それこそミイラのようにぐるぐると無造作に巻きつけられている。しかし、そのテープの隙間から露出しているいくつかの特徴的なパーツが、この物体の正体を雄弁に物語っていた。
一辺の中央に開けられた、小さな円形のガラスレンズ。
その側面から顔を出している、マイクロSDカードの挿入口。
そして、反対側の側面に配置された、極小の電源スライドスイッチと、USBの充電ポート。
「……なるほど。構造の全容が見えたわ」
数十秒の沈黙の後、如月さんは薄い唇の端を吊り上げ、冷徹な勝利の笑みを浮かべた。
僕を恐怖のどん底に陥れ、この廊下を『着物姿の女の幽霊』が音もなく走り抜けるという怪異を作り出していた、すべての物理的元凶。
「ただの古い『モバイルプロジェクター』じゃな」
如月さんのその一言で、オカルトという名の分厚い霧が、完全な晴天の論理へと変わっていくのを感じた。
「プロジェクター……。やっぱり、そうなんですね。この小さなレンズから光を出して、あの奥の壁に映像を映し出してたんだ」
「左様。近年ではスマートフォンの普及により、個人でも手軽に持ち運べる超小型のプロジェクターが安価で流通しておる。これはその中でも数世代前の、解像度も輝度も低い、安物のモデルじゃろう。しかし、この完全な暗闇という条件の整った『空間』において、人間を驚かせる程度の映像を投影するには十分なスペックじゃ」
如月さんは、手袋の指先で、レンズの横のプラスチック部分を軽く叩いた。
「この機械のレンズから放たれた光が、お主の言う『着物の女』の姿を形成し、廊下の奥のコンクリート壁に向かって斜めに投射されていた。映像データそのものが『壁の端に到達した瞬間に終了する』ように編集されていたため、お主の愚鈍な脳はそれを『壁に吸い込まれた』と錯覚した。……実にアナログで、古典的な手品じゃ」
「だ、騙されてた……! あんなチャチな機械が映し出したただの光に、僕、本気で腰を抜かして『呪われる』って泣き叫んでたんですね……」
僕は、自分のあまりの情けなさと単純さに、顔から火が出るような思いだった。
三年二組の黒板のナイロン繊維の時も、家庭科室の骸骨の共振現象の時もそうだったが、物理のトリックを暴かれてしまえば、どうしてあんなものに本気で怯えていたのかと、自分自身を小一時間問い詰めたくなる。
人間の恐怖という感情は、視覚と状況に少しの暗闇と噂を足すだけで、いとも簡単に理性をハッキングしてしまうのだ。
「しかし、如月さん」
僕は、ホッと胸を撫で下ろしながらも、この物理トリックに潜む一つの大きな『矛盾』に気がついた。
映像を映し出していた機械がプロジェクターであることは納得できる。だが、それがこの天井のダミー報知器の裏に『隠されっぱなし』になっていたとすれば、物理的におかしな点が生じるのだ。
「プロジェクターで映像を出してたのは分かりました。でも、だとしたら、電源はどうなってたんですか? この怪談、毎日夕方の六時半ちょうどに現れるって噂でしたよね」
「ほう。サクタロウにしては、まともな疑問を持つようになったではないか」
「だって、こんな小型のプロジェクターじゃ、内蔵バッテリーなんて数時間しか持たないはずですよ。毎日決まった時間に映像を流すためには、犯人が毎日この時間に来てスイッチを入れるか、バッテリーを充電しなきゃいけない。でも、さっきも言った通り、僕たちはずっとこの廊下に立ってたのに、誰も来なかったんです。遠隔操作だって、バッテリーが切れてたらどうしようもないじゃないですか」
僕が指摘すると、如月さんは「ふふっ」と優雅に笑い、手にしたプロジェクターを軽く持ち上げてみせた。
「お主の言う通りじゃ。この機械が単独のバッテリー駆動であるならば、毎日の怪異の発生は物理的に不可能となる。しかし、現に映像は定刻通りに再生された。……ならば、答えは一つしかないじゃろう?」
「答え……? もしかして、どこかから電気を引っ張ってきてるってことですか?」
「ご名答じゃ。サクタロウ、もう一度そのパイプ椅子の上に登り、先ほどこのプロジェクターを引き剥がした天井の穴の中を、懐中電灯でしっかりと照らしてみるのじゃ」
如月さんに促され、僕は再びパイプ椅子の上へとよじ登った。
ダミーの火災報知器と、このプロジェクターが両面テープで固定されていた、天井のパネルのわずかな隙間。
僕はポケットからスマホを取り出し、ライト機能をオンにして、その暗い穴の奥へと光を差し込んだ。
「……あっ!」
光に照らされた天井裏の空間を見て、僕は思わず声を上げた。
天井パネルの裏側には、無数の配線が這い回っていた。それは、このスマートシティの中等部校舎の照明や空調、環境センサーを制御するための、重要なインフラの神経網だ。
そして、その規則正しい配線の束の中から、一本だけ、不自然に分岐している細いケーブルが存在していたのである。
「如月さん! なんか、天井の配線から、黒いUSBケーブルみたいなのが無理やり分岐して垂れ下がってます! これ、さっき僕がプロジェクターを剥がした時に、本体からスッポ抜けたんだ!」
「やはりな」
下から見上げる如月さんの声には、確信に満ちた響きがあった。
「犯人は、あのスマートセンサーの目を黒いテープで塞いで廊下を暗闇にしただけではない。天井パネルの隙間からセンサーの電源ケーブルを引き出し、被膜を剥いて導線を分岐させ、そこから直流五ボルトの電力を、この小型プロジェクターへと直接供給するように改造しておったのじゃ。……いわゆる『盗電』じゃよ」
「盗電……! 天井のセンサーから、勝手に電気を拝借してたってことですか!?」
「左様。環境センサーは二十四時間三百六十五日、常にシステムを監視するために常時通電されておる。そこから微弱な電力を引いてくれば、プロジェクターのバッテリー切れを心配する必要は永遠になくなるわけじゃ」
僕はパイプ椅子の上で、ゾッと背筋が寒くなるのを感じた。
スマートシティのインフラの死角を突き、センサーの目を物理的に塞ぎ、さらには天井裏の配線から直接電力を引っ張ってくる。
それはもはや、ただの学生のイタズラや中二病の範疇を完全に超えている。確かな電気工作の知識と、何が何でも怪異の舞台装置を維持してやるという、常軌を逸した狂気的な執念がなければ、こんな芸当は不可能だ。
「でも、如月さん。電気が常に供給されてたとしても、どうやって『毎日六時半ちょうど』に映像を流してたんですか? 電気が通ってるだけじゃ、プロジェクターはずっとつきっぱなしになっちゃいますよね?」
「それも極めて単純な物理的機能の応用じゃよ、サクタロウ。椅子から降りて、わしの手元をよく見るのじゃ」
僕はパイプ椅子から飛び降り、如月さんの隣に立った。
如月さんは、手袋の指先で、プロジェクターの側面に露出しているマイクロSDカードの挿入口のすぐ横にある、極小のディップスイッチを指し示した。
「この手の安価な小型プロジェクターは、店頭での商品のプロモーション用……いわゆる『電子看板』として使用されることを想定して設計されているものが多い。そうした機種には、電源が供給された瞬間に、SDカード内の特定の動画ファイルを『自動でループ再生する』という機能がデフォルトで備わっておるのじゃ」
「自動再生……。でも、それならやっぱり、誰かが六時半に電源を入れなきゃ……」
「そこじゃ。プロジェクター本体にタイマーが内蔵されていなくとも、電源の『供給元』をコントロールすればよい。お主、天井の配線を分岐させた部分に、何か小さな部品が挟まっていなかったか?」
言われてみれば、先ほど天井裏を照らした時、USBケーブルの根本のあたりに、四角い親指大のプラスチックのモジュールのようなものがテープで固定されていた記憶がある。
「あ……はい。なんか、黒い小さな箱みたいなのが配線の途中に付いてました」
「おそらくそれは、市販の安価な『スマートリレー』か、プログラム可能な『タイマーモジュール』じゃろう。設定した時間になると、回路を繋いで電気を流し、設定した時間が終わると回路を遮断する。……犯人は、そのモジュールを天井の配線に噛ませ、『毎日午後六時三十分に電源をオンにし、数分後にオフにする』というスケジュールを組み込んでおったのじゃ」
如月さんの流れるような推理によって、すべての物理的メカニズムが、一本の美しい数式のように繋がり、解き明かされていく。
「つまり……毎日六時半になると、天井のタイマーがカチッと起動して、プロジェクターに電気が流れる。すると、デジタルサイネージ機能によって、自動的にSDカードの中に入ってる『着物の女』の映像が再生され始める。そして、映像が壁の端まで到達して真っ黒に終わるのと同じタイミングで、タイマーが切れて電源が落ちる……そういう仕組みですか?」
「完璧じゃ。減点要素のない、見事な論理的帰結じゃよサクタロウ。お主の脳細胞も、わしと一緒にいることでわずかばかりは進化したようじゃな」
如月さんは、満足げに微笑んで頷いた。
「これこそが、誰もいない廊下に突如として着物女が現れ、壁に吸い込まれるように消えていくという、オカルト現象の完全なる物理的証明じゃ。遠隔操作でもなければ、念動力でもない。ただの『タイマー付きの家電の自動再生』。それが、暗闇というスクリーンと人間の恐怖心によって、極上のホラーへと昇華されていたにすぎんのじゃよ」
タイマー付きの、家電の自動再生。
なんというチープで、なんという滑稽な真実だろうか。
僕は、今度こそ心の底からの、混じり気のない安堵のため息を吐き出した。
「はは……あははははっ! なんだ! 本当にただの機械の自動再生だったんじゃないですか! 幽霊でも怨念でもない、ただの家電のスケジュール起動! 朝になったら勝手にご飯が炊ける炊飯器と、仕組みは全く同じじゃないですか!」
僕はコンクリートの壁に背中を預け、腹を抱えて笑った。
恐怖は完全に消え去っていた。残っているのは、幽霊だと思ってガタガタ震えていた自分自身の滑稽さと、こんな大掛かりで電気泥棒までやらかすトリックを仕掛けた犯人に対する、呆れ果てた笑いだけだった。
「いやぁ、本当に安心しました! やっぱり如月さんの観察眼は世界一ですよ! 幽霊なんて、この世には存在しなかったんだ! ただの、電気工作が好きな暇人のイタズラだったんですね!」
「ふん。安心するのは勝手じゃが、あまり大口を開けて笑うでない。わしの鼓膜が汚れるわ」
如月さんは、僕の歓喜の笑い声を冷たくあしらいながら、手にしたプロジェクターへと再び鋭い視線を落とした。
「それに、サクタロウ。このプロジェクターによる物理的トリックは確かに解明されたが、まだ『不格好なノイズ』が一つ残っておる」
「ノイズ? どういうことですか?」
僕は笑いを収め、不思議そうに首を傾げた。
プロジェクターで映像を映していた。電源は天井から盗電していた。タイマーで自動再生していた。これで、現象のすべては説明がついているはずだ。
「このプロジェクター本体に施された、醜悪な『工作の痕跡』のことじゃよ」
如月さんは、黒いビニールテープでぐるぐる巻きにされた小箱を、僕の目の前へと突き出した。
「工作の痕跡って……ああ、この黒いテープのことですか?」
僕は、如月さんの手袋の上に乗ったプロジェクターを改めて観察した。
本来は白いプラスチック製のボディだったと思われるその本体は、レンズと端子の一部を除いて、ほとんど八割方が黒い絶縁テープによって何重にも、それこそミイラ男のようにぐるぐると巻きつけられている。
見た目が非常に不格好で、お世辞にもスマートな工作とは言えない。
「そうじゃ。犯人はなぜ、わざわざこんな不細工な真似をして、本体をテープで隠す必要があったと思う? ダミーの火災報知器の裏側に隠してしまうのだから、本体の色など何色でも構わないはずじゃろう」
「えっと……それは、見つかりにくくするためじゃないですか? 天井の隙間から白いプラスチックが見えたら、目立ってバレちゃうから、闇に溶け込むように黒いテープを巻いたとか」
「それもあるじゃろう。しかし、最大の理由は『光漏れを防ぐため』じゃ」
如月さんは、純白の指先で、テープの隙間からわずかに覗いている、小さなLEDランプの窓のような部分を指し示した。
「このようなデジタル機器は、電源が入ったり、SDカードを読み込んだりする際、必ず本体のインジケーターランプが青や赤に点灯する。さらに、安物のプロジェクターはレンズの隙間や排熱用のスリットから、投影用の強烈なバックライトの光が漏れ出してしまうのじゃ。もし、怪異が発生している最中に、天井の隙間からそのような機械的な光が漏れてしまえば、一発で『機械が映像を映している』とバレてしまう」
「あ……なるほど! だから、光が外に漏れないように、レンズ以外の部分を黒いテープでガチガチに巻いて塞いだんですね!」
「左様。しかし、その必死な隠蔽工作が、この機械に致命的な『物理のバグ』を引き起こしておる」
如月さんは、プロジェクターをひっくり返し、テープが最も分厚く巻かれている部分をコンコンと叩いた。
「プロジェクターというものは、強い光を放つため、内部のLEDや基盤が非常に高温になる。だからこそ、本来は本体の側面に『排熱用のスリット』が開けられ、内蔵の小型ファンで冷却する仕組みになっておるのじゃ。……しかし、この犯人は光漏れを恐れるあまり、その排熱口までをも、黒いビニールテープで完全に塞いでしまっておる」
「えっ!? 排熱口を塞いだら、熱がこもって壊れちゃいませんか!?」
「その通りじゃ。見ろ、このテープの表面を」
如月さんがLEDライトの光を当てると、黒いビニールテープの表面が、一部ドロドロに溶け、変形しているのがはっきりと見て取れた。
内部からの異常な熱によって、テープの粘着材が溶け出し、プラスチックのボディ自体もわずかに歪んでしまっているのだ。
「毎日たった数分の再生とはいえ、排熱できない状態で起動を繰り返せば、いずれ内部の基盤は熱暴走を起こし、発火するか、完全に焼き切れる運命にある。実際、このプロジェクターは今も、持っているわしの手袋越しに不快な熱を帯びているのが分かるわ。……素人の浅知恵が招いた、極めて危険で無様な末路じゃな」
如月さんの冷徹な分析を聞き、僕は再び呆れ果ててため息をついた。
「本当に、馬鹿な犯人ですね。怪談を成功させたい一心で、機械が燃えるかもしれないリスクも考えずにテープを巻きまくるなんて。……でも、これで完全に謎は解けましたね。遠隔操作でもなく、幽霊でもなく、ただの熱暴走寸前のポンコツプロジェクターによる、命懸けの自動再生映像。それが『夜の廊下の着物女』の正体だったんだ」
僕は、足から完全に力が抜け、今度は安堵のあまり、冷たい廊下の床にぺたんと座り込んだ。
怖くない。もう、微塵も怖くない。
天井裏から電気を盗み、機械が熱で溶けそうになりながらも、テープでぐるぐる巻きにして必死に幽霊の映像を流し続けていた犯人の姿を想像すると、恐怖よりもむしろ、その滑稽な涙ぐましさに哀れみすら覚えてしまう。
「はぁ……終わった。終わりましたね、如月さん。これで不思議四天王、全部クリアです。幽霊なんて、この学園には一人もいなかった。全部、物理のバグと、暇人の痛い工作の組み合わせだったんですね」
僕は、図書室の温かいダージリンティーを思い浮かべながら、心からの笑顔を如月さんに向けた。
これで僕の精神の平穏は完全に守られたのだ。もう夜の学校で怯える必要はない。
あとは、このポンコツのプロジェクターを回収して、図書室に帰るだけだ。
「……ふん。物理的なトリックの解明という意味では、確かにお主の言う通り、これで一件落着じゃな」
如月さんは、手にした熱を持った黒い小箱を見つめながら、ひどく冷たい、そしてどこか退屈そうな声で応じた。
「だが、サクタロウ。お主はまだ、この事象が孕む『最大の狂気』に気づいておらんようじゃな」
「えっ? 最大の狂気?」
僕の安堵の笑顔が、ピタリと止まる。
物理トリックは完全に解明されたはずだ。他に何が残っているというのだろうか。
「機械が自動で映像を再生していた。それは分かった。……では、そのプロジェクターから投射されていた『着物の女の映像のデータ』は、一体どこから持ってきたものだと思う?」
如月さんのアメジストの瞳が、暗闇の中で妖しく、そして残酷な光を帯びて細められた。
「先ほどわしは、ネットのフリー素材か、三流のホラー映画の切り抜きだろうと推測した。しかし、あの『黒の書』を構築した自己陶酔の塊のような初代が、己の暗黒神話の集大成とも言える最終試練の映像に、他人が作った既存の安直な素材などという妥協を許すじゃろうか?」
「そ、それは……」
「このプロジェクターの熱で溶けかけたテープの隙間には、十数年前にこれを設置した『初代』と、現在これをメンテナンスしている『二代目』の、極めて濃密で、そして直視に耐えない『情動の痕跡』がこびりついておる。……さあ、ここからが鑑定士の真の仕事じゃ」
幽霊の恐怖は去った。
しかし、その代わりに、人間の底知れぬ自己顕示欲と、狂気にも似た中二病の煮詰まった『最悪の黒歴史』が、僕の目の前でそのパンドラの箱を開こうとしていたのである。




