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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『夜の回廊と黒い小箱』 ~section2:消えた幻影と、不自然な影~

 涙目になりながら、無様に床を這いずって後退しようとする僕。

 しかし、そんな僕の極限のパニックを、頭上から降ってきた氷点下の声が、容赦なく、そして心底呆れ果てたように一刀両断した。


「……どこまでも救いようのない、愚か者じゃな」


 恐る恐る顔を上げると、如月瑠璃は、僕がへたり込んでいるすぐ横で、微動だにせず立ち尽くしていた。

 夜空の色をそのまま切り取ったかのような漆黒のケープジャケットを羽織った彼女の姿は、この暗闇の廊下において、先ほどの着物の幽霊よりもはるかに神秘的で、そして圧倒的な存在感を放っていた。

 その深い紫――アメジストの瞳には、僕を恐怖のどん底に陥れた「壁に消える着物女」に対する怯えも、驚きも、微塵も浮かんでいない。

 あるのはただ、心底からの深い嘆息と、目の前で起きた超常現象らしき事象を、すでに完全に『数式』や『光の直進性』といった物理法則へと変換し終えた、天才鑑定士特有の冷徹な光だけだった。


「ひっ……如月さん、怖くないんですか!? 幽霊が壁をすり抜けたんですよ!」

「幽霊? 壁をすり抜けた? ……ふん。お主の目は、本当に節穴以下のガラクタのようじゃな。眼球という高度な光学器官を、ただ己の脳が作り出した恐怖の映像を垂れ流すためだけの、単なる濁ったレンズとしてしか使えんとは、人類の進化の歴史に対する重大な冒涜じゃ」


 如月さんは、床に置いた古い革の鞄から純白の手袋を取り出し、優雅な手つきで両手にはめ始めた。

 それは、彼女がいよいよこの『怪異』の物理的痕跡に直接触れ、その正体を解体する準備に入ったことを意味していた。彼女にとって、手袋をはめるという行為は、対象のルーツに敬意を払う儀式であると同時に、これより直視することになるであろう『極上の黒歴史(痛々しい不純物)』から自身の精神を守るための、防壁を構築するプロセスでもあった。


「あれは、壁を物理的にすり抜けたのではない。ただ『壁に映っていた光の投影が終了した』だけじゃ。……まったく、このような粗悪で解像度の低いチープな映像トリックに本気で腰を抜かすとは。あの兄弟の涙ぐましい努力も、お主のような愚鈍で騙されやすい観客がいれば報われるというものじゃな」


「ひ、光の投影……? 映像トリック……?」


「左様。あれは物理的な質量を持った霊体などではない。ただの『光子の集合体』じゃよ」


 如月さんは手袋をはめ終えると、鞄から銀の懐中電灯を取り出し、カチリとスイッチを入れた。

 鋭い白い光の軸が、先ほど着物女が消えた『行き止まりの壁』を真っ直ぐに照射する。


「さあ、サクタロウ。情けない泣き言を止めて、さっさと立つがよい。これより、あの女の幽霊の正体――この中等部の闇に仕掛けられた、あまりにもアナログで、そして直視に耐えない物理的トリックの全貌を、白日の下に晒してやろう」


 僕の絶望とパニックを完全に置き去りにして、天才鑑定士・如月瑠璃の反撃が、静かに、しかし絶対的な論理の暴力をもって始まろうとしていた。


「光の投影って……プロジェクションマッピングみたいなものですか? でも、あんなにはっきりと着物の色も見えたし、人間の形をしてたんですよ!」


 僕は震える足に鞭打ってなんとか立ち上がり、なおも如月さんに食い下がった。

 いくらただの映像だと言われても、僕の網膜には、青白い顔をした女がこちらに背を向けて猛スピードで走っていく姿が、生々しいリアリティをもって焼き付いている。あんなものがただの光のドットの集まりだなんて、恐怖でパニックになっている僕の脳は簡単には受け入れることができなかった。


「はっきり見えた、じゃと? お主は恐怖で脳が萎縮し、視覚情報の補完機能が暴走しておるだけじゃ。冷静に、さっきの映像を頭の中で再生してみるのじゃ」


 如月さんは、懐中電灯の光を壁に当てたまま、僕の方へ振り返ることなく言った。


「まず、あの女の『走り方』じゃ。人間が走る時、身体の重心はどうなる? 昨日、家庭科室の骸骨の共振現象の時にも説明したじゃろう。人間が地面を蹴って前に進む以上、必ず頭の位置は上下にバウンドし、肩は前後に振れる。これが二足歩行を行う生物の絶対的な物理法則じゃ。……しかし、さっきの女の動きはどうじゃった?」


「えっと……」


 如月さんに言われ、僕は先ほどの光景を必死に頭の中でリプレイしてみた。

 言われてみれば、確かに強烈な違和感があった。

 あの着物の女は、猛スピードで廊下の奥へと向かっていったが、その頭の高さは一ミリたりとも上下していなかった。まるで、目に見えないレールの上をスケートボードで滑っているかのように、あるいはベルトコンベアに乗せられているかのように、完全な『等速直線運動』で空間をスライドしていったのだ。


「頭が……上下に揺れてませんでした。スーッと、横に滑るみたいに……」


「そうじゃ。あれは『人間が走っている映像』という二次元の平面データを、廊下の空間や壁面に沿って、光源ごと横に『パン(平行移動)』させていただけにすぎん。だから、三次元的な重心の移動が一切存在しなかったのじゃ。実に不自然で、機械的な動きじゃったろう?」


 如月さんの指摘に、僕はハッとした。

 確かにあの動きは不自然極まりない。ゲームの背景を横にスクロールさせているような、ひどく人工的な動きだった。


「さらに決定的なのは、『音の欠如』じゃ。サクタロウ、お主は先ほど『足音がしない!幽霊だ!』と騒いでおったな?」


「は、はい。だって、あんなスピードで走ってるのに、床を蹴るドンッていう音も、着物の布が擦れる音も、一切しなかったんですよ! そんなの、質量のない幽霊くらいしか……」


「質量がない。そこまでは正解じゃ。だが、なぜそこから『幽霊』などという非論理的で非科学的な結論に飛躍する。質量がないということは、それが『光子(フォトン)の集合体』であるという、ただそれだけの純粋な物理的事実にすぎん」


 如月さんは、純白の手袋の指先で、暗い廊下の空間をスッと薙ぐように指し示した。


「人間が歩けば、必ず靴と床との間に摩擦と衝撃が生じ、空気を振動させて音波を発生させる。音が鳴らないということは、そこに物理的な干渉が一切起きていないということじゃ。つまり、あの女は床を走っていたのではなく、ただ空中の塵や壁の表面に『光の像として映し出されていた』だけなのじゃよ」


「映像……ただの、光の映像……」


「左様。それに、お主は『はっきり見えた』と言うが、わしの目には、あの映像の解像度の粗さ、コントラストの不自然な低さ、そしてピクセル特有の境界線の滲みが、はっきりと見て取れたわ。おそらく、ネットのフリー素材か、三流のホラー映画から切り抜いた動画データを、安物のレンズを通して拡大投影しただけじゃろうな。……まったく、中等部の生徒を脅かすならともかく、このわしの完璧な鑑定眼をごまかせると思ったのであれば、片腹痛いにも程があるわ」


 如月さんの口から次々と繰り出される『解像度』『ピクセル』『フリー素材』『動画データ』といった、オカルトとは無縁のデジタル用語の数々。

 それらの言葉は、僕の脳裏にこびりついていた恐怖の着物女を、ただの『画質の粗いMP4の動画ファイル』へと急速にダウングレードさせていった。


「でも、如月さん。仮に映像だとして、なんで『壁に吸い込まれた』みたいに消えたんですか? 壁に映像がぶつかったなら、壁の表面に女の映像が張り付いたまま、ずっと映し出され続けるはずじゃ……」


「百聞は一見にしかずじゃな。ついてくるがよい」


 如月さんは、僕の疑問に答える代わりに、革の鞄から手を離し、懐中電灯を持ってスタスタと『行き止まりの壁』のすぐ目の前まで歩いていった。

 僕はビクビクしながら、彼女のケープジャケットの背中に隠れるようにしてついていく。


「よく見るのじゃ、サクタロウ。この行き止まりの壁の表面を」


 如月さんが懐中電灯の光を壁に極限まで近づけた。

 それは、中等部の校舎の他の場所と同じ、凹凸のない平滑なコンクリートの上に、薄いアイボリー色の塗装が施された、ごく普通の壁だった。シミ一つなく、もちろん人間が通り抜けたような物理的な破壊の痕跡や、量子のトンネル効果が発生したような特異点など、どこにも存在しない。


「お主は『壁の中に吸い込まれた』と錯覚したが、それは映像の投影角度と、人間の錯視が引き起こした脳のバグにすぎん。あの映像は、廊下の手前から奥の壁に向かって、斜めの角度で投影されていた。そして、映像のデータ自体が『壁の端に到達した瞬間に真っ黒になる』ように、ご丁寧に編集されていたのじゃ」


「映像が、終わっただけ……?」


「そうじゃ。投影された光が壁の左端から右端へと移動し、角に到達した瞬間に、ブツリと光の出力が切れる。暗闇の中でそれを見せられれば、人間の脳は勝手に『壁の中に消えていった』と三次元的な空間の繋がりを補完してしまう。……お化け屋敷やマジックショーで使われる『ペッパーズ・ゴースト』の応用にも満たない、実に古典的でチープな視覚トリックじゃよ」


 如月さんは、純白の手袋で壁の表面をコンコンと叩いた。

 硬く、冷たい物理的な音が響く。


「どうじゃ、サクタロウ。まだこれが、女の怨念が染み込んだ呪いの壁に見えるか?」


「…………いえ。ただの、硬いコンクリートの壁ですね」


 僕は、自分の口から深い、深い安堵のため息が漏れるのを感じた。

 幽霊じゃなかった。呪いでもなかった。

 ただの、フリー素材のホラー動画を壁に映し出しただけの、大掛かりな映像のイタズラ。

 三年二組の黒板のナイロン繊維、初等部の水飲み場のウォーターハンマー現象、昨日の家庭科室の骸骨の共振現象。そして、この中等部の夜の廊下の着物女。

 不思議四天王の最後の怪異もまた、天才鑑定士の冷徹な物理的観察眼によって、見事なまでに木端微塵に粉砕されたのだ。


「はははっ……! なんだ、ただのプロジェクションマッピングの出来損ないだったんですか! いやぁ、本当にビビって損しましたよ。如月さんの言う通り、冷静に考えれば足音がしないなんて、物理的におかしいに決まってますよね!」


 僕は、極度の緊張から解放された反動で、ヘラヘラと笑いながらコンクリートの壁に背中を預けた。

 怖いものはもう何もない。あの青白い着物の女は、ただの光のドットの集まりだったのだ。


「しかし、如月さん。あの兄弟の『二代目』も、随分と手の込んだことをしますね。わざわざこんな誰も来ない暗い時間に、壁に映像を映し出して……って、あれ?」


 僕は笑いながら、ふと、ある重大な矛盾に気がついた。


「如月さん。映像を壁に映し出していたってことは、当然、光を出す『機械』がどこかにあるはずですよね?」


「お主にしては、まともな論理的帰結じゃな。その通りじゃ」


「でも……おかしくないですか? 僕たち、さっきからこの廊下にずっと立ってましたよね。もし誰かが隠れて機械を操作して映像を映していたなら、僕たちが気づかないはずがない。それに、ここは行き止まりの廊下で、人が隠れられるような場所なんて……」


 僕は周囲を見回した。

 左右にあるのは、鍵の閉まった用具室と、使われていない旧式のトイレのドアだけ。廊下にはロッカーすらなく、人が隠れられるような死角はどこにも存在しない。


「誰もいないのに、どうやって映像を壁に映し出したんですか? もしかして、遠隔操作……?」


「遠隔操作であろうと、タイマー式の自動再生であろうと、光を放つ『レンズ』がこの空間のどこかに物理的に存在していなければ、壁に映像を映し出すことは不可能じゃ。光は、無から有を生み出す魔法ではないのだからな」


 如月さんは、壁から離れ、再び暗い廊下の中央へと歩み出た。

 彼女のアメジストの瞳が、天井、床、壁、そして閉ざされたドアの隙間などを、まるで精密なレーザースキャナーのように順番に走査していく。


「光の直進性を計算すれば、光源の位置を特定するのは容易いことじゃ。サクタロウ、あの着物の女の映像は、どの位置から現れ、どう移動した?」


「えっと……僕たちより少し手前の空間から、奥のこの行き止まりの壁に向かって、右斜めに進んでいきました」


「そうじゃ。映像が小さく現れ、壁に向かって大きくなりながら進んでいった。ということは、焦点距離と投影角度を逆算すれば、光源……すなわち映像を投射している機械は、我々の『背後』、しかもかなり高い位置から、この奥の壁を見下ろすような角度で設置されているはずじゃ」


 如月さんは、手にした銀の懐中電灯の光を、自分たちが歩いてきた廊下の手前側――暗闇の区画と、スマートシティの明るい照明が切り替わる境界線のあたりへと向けた。

 僕も彼女の隣に立ち、その光の先を凝視する。

 しかし、そこにあるのは、ただの平滑な廊下の天井と壁だけだ。監視カメラのドームが一つあるくらいで、何か不審な機械が剥き出しで設置されているような様子はない。


「……何もないですよ、如月さん。ただの天井です」


「愚か者。怪談の舞台装置を、誰の目にも触れるような場所に堂々と設置する馬鹿がどこにおる。昨日の家庭科室の骸骨の時と同じじゃ。必ず、人間の視界の『死角』となる不自然な場所に、隠蔽工作を施して配置されているはずじゃ」


 如月さんは、懐中電灯の光を天井のパネルに沿って、一ミリずつゆっくりと滑らせていった。

 蛍光灯のユニット、空調の吹き出し口、監視カメラ。

 そして。

 光の円が、廊下の天井の隅に設置された、ある一つの『突起物』を捉えた瞬間、如月さんの動きがピタリと止まった。


「……見つけたぞ」


 如月さんの薄い唇が、冷酷な笑みの形に吊り上がった。


「えっ!? どこですか!?」


「あそこじゃ。あの暗闇の境界線のすぐ手前、天井の隅に設置されている『火災報知器』の裏側を見るのじゃ」


 僕が目を細めてその場所を見ると、確かにそこには、赤いランプがついたプラスチック製の丸い火災報知器(煙感知器)が、天井から少しだけ出っ張る形で設置されていた。

 だが、下から見上げる限り、それはただの報知器にしか見えない。


「火災報知器がどうかしたんですか?」


「お主の目は本当に節穴じゃな。このスマートシティの中等部校舎において、火災報知器というものは通常、天井のパネルと完全にフラットになるように、埋め込み式で設計されているはずじゃ。しかし、あの報知器だけが、不自然に天井から数センチほど『浮き出ている』。……なぜか分かるか?」


「……え?」


「あれは本物の火災報知器ではない。ダミーのカバーじゃよ。誰かが、ホームセンターで買った火災報知器のガワだけを天井に両面テープか何かで貼り付け、その『裏側の隙間』に、映像を投影するための小型の機械を隠しているのじゃ」


 如月さんの論理的な推論に、僕は鳥肌が立つのを感じた。

 ダミーの火災報知器。

 誰も気にも留めない、日常に溶け込んだインフラの裏側。そこから、定刻になると自動でホラー映像が投影される仕組みになっていたのだ。


「さらに言えば、この北側廊下の一角だけが暗闇になっている理由も、これで完全に説明がつくぞ」


 如月さんは、懐中電灯の光を、そのダミー報知器のすぐ横にある、天井の小さなセンサーユニットへと移動させた。


「見ろ。あの環境センサーのレンズ部分に、何か黒いシールのようなものがベッタリと貼り付けられておるじゃろう。……スマートシティの高度な照明ネットワークをハッキングしたわけではない。ただ単に、センサーの目を『黒いビニールテープで物理的に塞ぐ』という、涙が出るほどアナログで力技な方法で、この区画の照明を強制的にダウンさせていたのじゃよ。機械の映像を、暗闇で鮮明に映し出すための『スクリーン』を作るためにな」


 ダミーの報知器の裏に隠された光源。

 黒いテープで物理的に目を塞がれたスマートセンサー。

 すべてが、あまりにもアナログで、泥臭く、そして……痛々しいほどの努力の結晶だった。


「……うわぁ」


 僕は、再び強烈な「共感性羞恥」の波が足元からせり上がってくるのを感じた。

 あの着物の女の幽霊の正体は、この学園の最新設備を相手に、黒いビニールテープとダミーのカバーを使って必死に工作活動を行っていた、同世代の二代目の涙ぐましい努力の産物だったのだ。


「本当に、幽霊より人間の方がよっぽど執念深くて怖いわ……」


「感心している暇はないぞ、サクタロウ。証拠の回収じゃ」


 如月さんは、懐中電灯の光を天井のダミー報知器に固定したまま、僕に冷酷な命令を下した。


「さあ、お主の出番じゃ。あの天井の報知器の裏に隠されている『不純物』を、ここへ持ってくるのじゃ」


「ええっ!? ぼ、僕が取るんですか!?」


 僕は裏返った声で叫んだ。

 天井の高さは、およそ二・五メートル。僕の身長では、背伸びをして手を伸ばしても到底届かない。


「当たり前じゃ。わしがこのような汚れ仕事をするわけがなかろう。それに、わしの身長ではジャンプしても届かんからな」


「いや、如月さんが届かないのは分かりますけど、僕だって届きませんよ! 脚立か何かがないと……」


「ならば、探してくるのじゃ。すぐそこの用具室の鍵を開けるか、あるいは手前の開いている教室から椅子でも持ってくるがよい。わしはここで光を当てて待っておるからな」


 如月さんは、全く取り付く島もない態度で、顎で明るい廊下の方をしゃくった。

 自分で言い出した怪談の解明だ。逆らうことはできない。

 僕は深い、深いため息をつくと、重い足取りで近くの教室を探しに向かった。


 幸いなことに、一つ手前の区画にある特別教室のドアがロックされておらず、そこから頑丈なパイプ椅子を一つ拝借することができた。

 パイプ椅子を引きずるギーッという金属音が、静まり返った夜の廊下に不気味に響き渡る。幽霊の正体が映像だと分かっていても、やはりこの暗闇の中で一人で行動するのは生きた心地がしなかった。


「……持ってきましたよ、如月さん」


「遅い。さっさと登って回収するのじゃ」


 僕は、如月さんが懐中電灯で照らし出しているダミーの火災報知器の真下にパイプ椅子を設置し、ガタガタと震える足でその上に乗った。

 椅子の高さが加わると、天井はすぐ目の前だった。

 至近距離で見ると、その火災報知器は本当に安っぽく、天井のパネルとの間に指が入るほどの不自然な隙間が空いているのが分かった。


「……うわ、本当に両面テープでくっつけてあるだけだ」


 僕は恐る恐る手を伸ばし、ダミーの報知器の裏側の隙間へと指先を滑り込ませた。

 何か、蜘蛛の巣や、得体の知れない虫が潜んでいたらどうしよう。あるいは、本当に呪いのアイテムが仕掛けられていて、触れた瞬間に手が腐り落ちたりしたら……。

 そんなB級ホラーの妄想が頭をよぎり、指先がブルブルと痙攣する。


 しかし、僕の指が触れたのは、蜘蛛の巣でも呪いのアイテムでもなかった。

 硬く、ひんやりとした、プラスチックの質感。

 そして、その表面に何重にも巻かれている、少しベタベタとした『ビニールテープ』の感触。


「……ありました。何か、四角い箱みたいなものが、報知器の裏にテープで固定されてます」


「慎重に引き剥がすのじゃ。中のデータを破損させては元も子もないからな」


 如月さんの指示に従い、僕はその四角い物体を包んでいるテープの端を指先で掴み、少しずつ、力を込めて天井のパネルから引き剥がしていった。

 メリメリッ、という粘着テープが剥がれる嫌な音が、暗闇の廊下に響く。

 かなり強力なテープで固定されていたらしく、剥がすのには相当な力が必要だった。二代目が、これが絶対に落ちてこないようにと、どれほど必死にテープを何重にも巻きつけたのかが、その物理的な抵抗感から痛いほどに伝わってきた。


「……取れましたっ!」


 最後のテープがベリッと剥がれ、僕の手のひらにズシリとした重みが乗った。

 僕はパイプ椅子から飛び降り、如月さんの元へと駆け寄った。


「如月さん、これです! 天井の隙間に、これが隠されてました!」


 僕が如月さんの前に差し出したもの。

 それは、手のひらに収まるほどのサイズの、長方形の『黒い小箱』だった。

 一見するとただの黒いプラスチックのブロックに見えるが、よく見ると、その表面の八割方は、目立たないように黒いビニールテープでぐるぐるとミイラのように何重にも巻かれている。


 これが、僕を恐怖のどん底に陥れ、中等部の夜の廊下に『着物の女の幽霊』を走らせていた、怪異の正体。

 黒歴史の兄弟が、スマートシティのインフラの死角に仕掛けた、最後にして最大の物理トリックの核となる『不純物』である。


「……ふむ」


 如月瑠璃は、僕の手からその『黒い小箱』をひったくるように受け取ると、純白の手袋をはめた指先で、テープの巻き具合や表面の汚れを、舐め回すように観察し始めた。

 彼女のアメジストの瞳が、獲物を仕留めた猛禽類のように、ギラギラと妖しい知的好奇心の光を放っている。


 ついに、不思議四天王の最後の封印が、僕たちの手によって物理的に回収されたのだ。



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