第4話『夜の回廊と黒い小箱』 ~section1:中等部の闇と、走る女~
十月下旬。秋の日は釣瓶落としという言葉の通り、放課後のチャイムが鳴り終わる頃には、月見坂市の空はすでに深い群青色へと沈み込んでいた。
主を失って久しい高等部の旧校舎。その一階の突き当たりにある埃まみれの図書室には、不釣り合いなほどに優雅で、静謐な時間が流れていた。
部屋の奥に勝手に持ち込まれたアンティークのテーブル。その席に一人静かに腰を下ろし、銀の匙が添えられたティーカップから立ち上る芳醇なダージリンの香りを嗜んでいるのは、如月瑠璃である。
月見坂市を牛耳る如月コンツェルンの令嬢であり、並外れた物理的観察眼と『情動の視座』を持つ、孤高の天才鑑定士。
彼女は今日も、如月学園高等部の指定制服を完璧に着こなしている。濃紺の上質なウール素材で仕立てられたブレザーは、彼女の一四七センチという華奢な体躯に合わせてミリ単位で調整されており、胸元の金糸のエンブレムが、図書室のわずかな明かりを受けて上品な輝きを放っている。シワ一つない純白のブラウスの襟元には、えんじ色のリボンが正確なシンメトリーを描いて結ばれていた。
同系色のチェック柄プリーツスカートから伸びる細い脚を黒のハイソックスが包み込み、足元は塵一つ付着していない艶やかな黒のローファー。長く艶のある黒髪は、背中を覆うように美しく流れ、サラサラと輝いていた。
彼女がただそこに座り、ティーカップを傾けているだけで、まるで一枚の完璧な西洋絵画のような、人を寄せ付けない圧倒的な気品が完成している。
瑠璃は、ティーカップをソーサーに静かに置くと、テーブルの上に整然と並べられた愛用の道具たち――純銀製のルーペ、純白の手袋、古い革の手帳に視線を落とした。
そして、ブレザーのポケットから銀の懐中時計を取り出し、カチンと蓋を開けて文字盤を確認する。
時刻は、間もなく午後六時を迎えようとしていた。
昨日までの三日間。この学園に伝わる『不思議四天王』という大仰な怪談のうち、三つを論理的に解体し、粉砕してきた。
三年二組の黒板の髪の毛と、フランスパンの『邪竜の腕』。
初等部水飲み場の無人の蛇口と、サッカーボールの『呪縛刻印』。
そして昨日、新校舎家庭科室の動く骸骨と、心臓に埋め込まれた『赤い魔石』。
すべては、十数年前に一人の愚鈍な少年(初代)が書き綴った『黒の書』という名の痛々しい設定ノートと、それを現在において涙ぐましく維持している弟(二代目)が引き起こした、純度一〇〇パーセントの中二病の産物であった。
「……残る封印は、あと一つ」
瑠璃は、誰に聞かせるでもなく、冷たく澄んだ声で独り言ちた。
彼女の深い紫――アメジストの瞳の奥には、幽霊への恐怖など微塵もない。あるのはただ、十数年越しに引き継がれているこの壮大で滑稽な『黒歴史のネットワーク』の全貌を、骨の髄まで暴き出してやりたいという、鑑定士としての強烈な知的好奇心だけだった。
ガラガラッ!
バンッ!
その完璧な静寂を打ち破るように、図書室の重い引き戸が乱暴に開け放たれた。
けたたましい上履きの足音と共に部屋に転がり込んできたのは、瑠璃のクラスメイトであり、自ら『助手』や『下僕』としての立ち位置に甘んじている平凡な男子生徒――朔光太郎であった。
**
「はぁっ、はぁっ……! き、如月さんっ! お待たせしました!」
息を切らして図書室に飛び込んだ僕を、如月さんは冷ややかなアメジストの瞳で一瞥し、短く鼻を鳴らした。
「騒々しい男じゃな。それに、随分と顔色が悪いではないか。これより最終試練の解体に向かうというのに、まるで死地にでも赴くような表情をしておるぞ」
「そりゃあ、顔色も悪くなりますよ! だって、今日これから向かうのは、四天王の最後の一つ……『中等部の夜の廊下を走り抜ける、着物姿の女の幽霊』なんですからね!」
僕は頭を抱え、泣きそうな声で叫んだ。
「昨日までの三つとは、根本的にレベルが違うんですよ! ゴミの繊維とか、ただのボールとか、プラスチックの骸骨とか、そういう『モノ』じゃないんです。人間の形をした、それも女性の霊がはっきりと目撃されてるんですから!」
「それがどうしたというのじゃ。対象がボールであろうと骸骨であろうと、あるいは人間の形をしていようと、それが物理法則を逸脱した現象として語られている以上、すべては等しく『解体すべきノイズ』にすぎん」
如月さんは全く動じることなく、テーブルの上の純白の手袋を手に取り、細い指にシワ一つ残さないように丁寧にはめ始めた。
「いや、如月さんにとってはそうかもしれませんけど、僕にとっては大問題なんです! 『着物を着た女の幽霊』だなんて、恐怖のベクトルが致死量超えてるんですよ!」
「ふん。相変わらず愚鈍な思考回路じゃな」
「愚鈍で結構です! だから、今日はもうやめにしませんか? どうせ最後のこれも、あの『黒の書』の兄弟が仕掛けた痛いトリックなんですよ。だったら、わざわざ夜の廊下で怖い思いをしてまで、見に行かなくても……」
僕が必死に食い下がると、手袋をはめ終えた如月さんは、氷の刃のような鋭い視線を僕に突き刺した。
「何度も言わせるでない。あの赤い魔石の裏に刻まれた『宵闇を駆ける巫女を追え』という暗号。これら四つの事象をすべて解明した先にのみ、すべての元凶である『黒の書』の隠し場所へと至る道が開かれるのじゃ。途中で調査を放棄するなど、鑑定士としてのわしのプライドが絶対に許さん」
「ううっ……」
「それに、お主とて、このまま放置すれば一生『夜の廊下の着物女』の噂に怯え続けることになるのじゃろう? わしの物理の光で、その女の正体をただの『滑稽な不純物』へと還元してやると言っておるのじゃ。大人しく案内するがよい」
如月さんの絶対的な命令に、僕の貧弱な抵抗など通じるはずもなかった。
自分で怪談の解明を頼んでおきながら、いざ現場に行くとなると足がすくむ。そんな自分の情けなさを呪いながらも、僕は重い足取りで図書室の出口へと向かった。
こうして僕たちは、不思議四天王の最後の怪異が待ち受ける、『中等部』の校舎へと向けて出発したのである。
月見坂市が誇るスマートシティのインフラは、夜になるとその真価を発揮する。
高等部の敷地内を歩く僕たちの足元は、環境センサーと連動した流線型のLEDフットライトによって、常に最適な明るさで照らし出されていた。気温や湿度に合わせて自動調整される街灯の色温度は、人間の目に最も心地よいとされる暖色系の光を放ち、夜の学校特有の不気味さを完全に打ち消している。
そして、その完璧な管理体制は、僕たちが渡り廊下を通って足を踏み入れた『中等部』の校舎でも全く同じだった。
中等部の校舎も、高等部の新校舎と同様に最新のスマート設備が惜しみなく導入されている。無人の廊下を歩けば、僕たちの体温と動きを感知して、天井のLED照明が音もなく滑らかに点灯していく。床はチリ一つなく磨き上げられ、壁も窓もピカピカだ。最新式のトイレはホテルのように清潔で、空調はどこまでも快適な温度を保っている。
夜の学校特有の、あのカビ臭さや不気味な暗がりなど、どこにも存在しないはずの空間だった。
――しかし。
僕たちが中等部二階の北側へと進み、目的の場所である『北側廊下の突き当たり』に近づいた時、異変は起きた。
「……暗いですね。なんでここだけ……?」
僕は思わず足を止め、前方の空間を凝視した。
ついさっきまで、僕たちの歩みに合わせて完璧に点灯していた天井のセンサーライトが、この北側廊下の奥の区画――行き止まりの壁へと続く十数メートルの範囲だけ、完全に機能沈黙していたのだ。
窓から差し込む街灯の光すら届かない、ぽっかりと口を開けたような絶対的な暗闇。
その暗闇の両脇には、最新式のピカピカなドアが並んでいるというのに、光だけが存在しない。
「ふむ。スマートシティの完璧な照明ネットワークの中で、なぜかこの一角だけがシステムの制御から外れ、意図的に暗闇が作られておるようじゃな」
如月さんは、明るい廊下と暗い廊下の境界線に立ち、冷静にその不自然な空間を観察した。
「古い校舎の暗がりならいざ知らず、この最新鋭の設備が整った清潔な校舎で、局所的に作られた暗闇というのは……逆に異質で、人間の本能的な不安を強烈に煽るものじゃな。怪異を演出するための舞台設定としては、旧校舎よりもはるかに悪趣味で効果的じゃ」
如月さんの言う通りだった。
周りが完璧に綺麗で明るいからこそ、この異常な暗がりが『絶対に近寄ってはいけない異界の入り口』のように感じられるのだ。
黒の書の兄弟は、スマートシティのシステムの死角を突いて、わざとこの空間の照明センサーを無効化しているのだろうか。だとしたら、その執念と工作能力は尋常ではない。
「着きました。ここです、如月さん」
僕は、暗闇の境界線から一歩だけ足を踏み入れ、震える声で奥を指差した。
この薄暗い廊下の、一番奥。これ以上先には進めない、最新の建材で綺麗に塞がれた『行き止まりの壁』。
「この北側廊下の突き当たり。夜の定刻になると、どこからともなく『着物を着た女性』が現れて、音もなく廊下を走り抜け……あの行き止まりの壁の中に、吸い込まれるように消えていくらしいんです」
「ほう。壁に吸い込まれる、か。いかにも三流の怪談らしい、物理法則を無視した陳腐な設定じゃな」
如月さんは、革の鞄を床に置くと、腕を組んでその行き止まりの壁を真っ直ぐに見据えた。
「しかし、あの兄弟の性格からして、これが単なるホログラム装置を用いた大掛かりで高度なトリックだとは考えにくい。これまでの三つの事象は、すべて安価な日用品とアナログな物理トリックの組み合わせで構成されておったからな。……さて、今回はどのような滑稽な仕掛けが用意されているのやら」
「のんきなこと言わないでくださいよ! もし本物の幽霊だったらどうするんですか! 女の人の幽霊なんて、怨念の強さが桁違いに決まってます!」
僕は恐怖を紛らわすために、ポケットの中でスマートフォンと、お守り代わりに持ってきた推しの地下アイドル『魚魚っとラブ』のアクリルキーホルダーを強く握りしめた。
冷たい汗が背中を伝い落ちる。
廊下の静寂が、鼓膜を圧迫するほどに重い。
遠くで空調の稼働音が微かに聞こえる以外、この暗闇の区画には一切の環境音がなかった。
僕は震える手でスマホの画面を立ち上げ、時刻を確認した。
「……如月さん。もうすぐです。噂じゃ、午後六時半ちょうどに現れるって……」
「静かに待つがよい。事象の発生を前にして無駄に心拍数を上げるのは、観察者として三流の振る舞いじゃぞ」
如月さんは、微動だにせず、ただ前方の暗がりを凝視し続けている。
その横顔は、彫刻のように美しく、そしてどこまでも冷徹だった。彼女の存在だけが、僕がパニックで発狂するのをギリギリのところで繋ぎ止めている命綱だった。
六時二十九分。
スマホの時計の数字が変わる。
あと一分。あと六十秒で、本当にあの暗がりから女が走ってくるのだろうか。
僕はゴクリと唾を飲み込み、目を大きく見開いて、行き止まりの壁の周辺を睨みつけた。
十秒、二十秒、三十秒……。
静寂。
ただひたすらに、重く苦しい静寂が続く。
四十五秒、五十秒……。
何も起きない。
やはり、ただの噂だったのだろうか。あるいは、今日に限っては犯人の『メンテナンス』が行われておらず、怪異は発生しないのかもしれない。
そう思い、僕がわずかに肩の力を抜こうとした、まさにその瞬間だった。
――スゥッ。
「……え?」
六時三十分ちょうど。
僕たちの目の前、行き止まりの壁から数メートル手前の、薄暗い廊下の空間。
そこに、前触れもなく『それ』は現れた。
「ひっ……!」
僕は息を呑み、全身の筋肉が硬直するのを感じた。
淡い、青白い光を帯びた、人間の女性のシルエット。
間違いない。噂に聞いていた通りだ。
古めかしい、くすんだ赤色の『着物』を身に纏った女が、唐突に虚空から湧き出すように姿を現したのだ。
顔は、前髪が長く垂れ下がっているせいで、表情までは読み取れない。ただ、その白い肌と、着物の袖が揺れる様子だけが、暗い廊下の背景から不気味に浮き上がって見えた。
「で、出たっ……! 如月さん、女の幽霊です!!」
「騒ぐな。目を逸らさずに観察しろ」
如月さんの声は、信じられないほど落ち着いていた。
しかし、僕の脳はすでにパニックの臨界点を突破しようとしていた。
現れた着物の女は、立ち止まることなく、僕たちに背を向ける形で、奥の『行き止まりの壁』に向かって走り出した。
いや、走るという表現は正確ではない。
その動きは、人間が地面を蹴って進むような上下の揺れが一切なく、まるで氷の上を滑るように、あるいは空間そのものをスライドしていくように、異様なほど滑らかで、等速だった。
そして何より恐ろしいのは、一切の『音』がしないことだった。
着物の布が擦れる衣擦れの音もなければ、廊下の床を叩く足音すら鳴らない。
完全な無音。
ただ、視覚情報としてのみ、着物姿の女が廊下の奥へと向かって猛スピードで突き進んでいくのだ。
「あああああ……! 足音がしない! やっぱり本物の幽霊だぁぁぁ!」
僕は恐怖のあまり両手で頭を抱え、その場にうずくまりそうになった。
同世代の女性と接するだけでも緊張する僕にとって、それが言葉も通じない、物理法則を無視した『女の怨霊』となって目の前に現れたという事実は、精神の処理能力を完全に破壊する劇薬だった。
女の幻影は、あっという間に廊下の奥へと到達した。
目の前には、最新の建材で作られた強固な行き止まりの壁。
しかし、女はブレーキをかけることもなく、そのままの速度で壁へと突っ込んでいく。
――フワッ。
激突する音すらなかった。
着物の女の姿は、冷たい壁の表面に触れた瞬間、まるで水が砂に吸い込まれるように、あるいはテレビの電源がブツリと切れたように、一瞬にしてかき消え、跡形もなく消滅してしまったのだ。
「消えた……。か、壁の中に、吸い込まれた……っ!」
僕は腰から完全に砕け落ち、清潔なはずの廊下の床にへたり込んだ。
ガタガタと全身が激しく震え、過呼吸のように浅い息が漏れる。
「見ましたよね!? 如月さん、今の絶対に見ましたよね!? 女の人が、音もなく走って、壁をすり抜けて消えたんですよ! 三年二組のナイロン繊維とか、家庭科室の骸骨の共振なんかとはレベルが違う! あれは物理現象なんかじゃない、正真正銘の、本物の幽霊だ!!」
僕は床に手をついたまま、半狂乱になってわめき散らした。
無理だ。こんなの、絶対に論理的な説明なんてつくはずがない。人間が壁をすり抜ける物理法則など、この世に存在しないのだから。
僕たちは、あの『黒の書』の兄弟の痛いイタズラを追っているうちに、うっかり本物の心霊現象に踏み込んでしまったのだ。
呪われる。僕もあの女に引きずり込まれて、壁の中のシミにされてしまうんだ。
「うわあああぁぁっ! もう嫌だ、帰る! 図書室に帰りますぅぅぅ!」
涙目になりながら床を這いずって後退しようとする僕。
しかし、僕のその無様な絶叫をよそに。
如月瑠璃は、僕がへたり込んでいるすぐ横で、微動だにせず立ち尽くし、先ほど女が消えた壁面と、薄暗い廊下の天井を、氷のように冷徹なアメジストの瞳で静かに観察し始めていた。




