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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『骸骨と赤い魔石』 ~section5:チープな魔石と、次なる目的地~

 家庭科室の冷たい化学床材の上で、腹を抱えて悶絶する僕を見下ろし、如月瑠璃は氷のように冷たい、そしてどこまでも重く沈んだ声で言い放った。

 その美しい顔には、先ほどまでの「見事な物理現象の証明」に対する誇らしげな表情や、未知のトリックを解き明かす知的好奇心の輝きは、もはや微塵も残されていなかった。


「わしの極上の知性と研ぎ澄まされた鑑定眼が、このような『物理法則に敗北した愚鈍な男の、痛々しい言い訳の歴史』を読み解くために使われたというこの屈辱。お主には分かるまい」

「ひぃっ、ははっ……だって、血肉の祭壇ですよ!? こんなピカピカの最新式IHコンロがついてるのに! 魔界の扉じゃなくて、ただの換気扇じゃないですか!」

「黙るのじゃ。これ以上、わしの清らかな脳内に、あの愚鈍な兄弟の煮詰まった自己陶酔を流し込むでない」


 如月さんは、銀のピンセットの先でつまんでいた『百円ショップの赤い魔石キーホルダーのパーツ』を、心底汚らわしい汚物でも扱うかのように、少し離れた場所に設置されていたステンレス製の巨大なゴミ箱へと向けた。


「このような純度一〇〇パーセントの黒歴史の結晶、これ以上一秒たりとも視界に入れておけば、わしの脳細胞が汚染され、腐り落ちてしまうわ。今日もまた、この兄弟の不毛な設定遊びのせいで、わしの貴重な知性を著しく浪費させられた。……本日の調査はこれにて打ち切りじゃ。さっさとこの不純物を処分し、図書室へ帰還するぞ」


 如月さんは深く、ひどく疲労感に満ちたため息を吐き出すと、ゴミ箱のペダルを足で踏み込んだ。

 パカッ、と無機質な音を立てて、ステンレスの蓋が開く。

 彼女は、ピンセットの先をゴミ箱の暗い口へと突き出し、そのまま指先の力を抜いて、忌まわしい不純物を永遠の闇へと葬り去ろうとした。


「あ、待って、待ってください如月さん! 捨てる前に、もう一回だけそれ見せてください!」


 僕は笑い涙を制服の袖で乱暴に拭いながら立ち上がり、ゴミ箱の上でピンセットを開こうとしていた如月さんの手を、慌てて押し留めた。


「なんだ、お主。このような量産品のゴミにまだ未練があるのか? まさかお主も、これを『真の魔石』などと呼んで集める趣味があるのではあるまいな?」

「違いますよ! そうじゃなくて……ほら、これ、裏側を見てください」


 僕は、右手に持っていた小型LEDライトの白い光の軸を、如月さんがピンセットでつまんでいる赤いアクリルパーツの『裏側』——先ほどまで灰色のエポキシパテがベッタリとくっついていた、平らなプラスチックの面へと斜めから照射した。


「さっき如月さんがパテの指紋を調べてた時、ライトの光が反射して、チラッと見えたんです。このキーホルダーの裏側のプラスチックの部分に、何か……細い針みたいなもので、文字が彫られてるみたいな跡が……」

「文字、じゃと?」


 如月さんの細い眉が、ピクリと不自然に動いた。

 そして、深く沈み込んでいた深い紫——アメジストの瞳に、再び鋭い鑑定士としての光が、微かに、しかし確実に灯るのが分かった。

 彼女は僕の言葉に従い、ゴミ箱の上からピンセットを手元へと引き戻すと、再びブレザーのポケットから純銀のルーペを取り出し、右目にあてがった。

 そして、僕がLEDライトで照らし出すアクリルパーツの裏側の、わずか一センチ四方ほどの極小のスペースを、ミクロの視点で覗き込んだ。


 パテが綺麗に剥がれ落ちた後の、透明な赤いプラスチックの平面。

 そこには、光を斜めから当てることで初めて浮かび上がる程度の極めて浅い傷で、確かに何かが刻み込まれていた。

 コンパスの針か、あるいは安全ピンの先のような鋭利な金属で、硬いアクリルの表面をガリガリと引っ掻いて書かれたような、不器用で角張った細い文字の羅列。

 それは、二行にわたって、びっしりと彫り込まれていた。


「……なんと」


 如月さんの薄い唇から、驚きとも呆れともつかない、微かな吐息が夜の家庭科室の空気に溶け出した。


「やっぱり、何か書いてあるんですよね? なんて書いてあるんですか?」

「……『最終の試練は、月影の回廊にあり。宵闇を駆ける巫女を追え』……じゃと」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の全身から再びスゥッと力が抜け、今度こそ本当に膝の関節が砕けそうになった。

 出た。

 また出たのだ。

 純度一〇〇パーセントの、中二病ポエムの決定版が。


「最終の試練……宵闇を駆ける巫女……。うわぁ、また痛い設定の書き残しですか。もう本当にお腹いっぱいです。胸焼けがしますよ……」


 僕は頭を抱え、再び調理台に寄りかかった。

 家庭科室を『血肉の祭壇』と呼ぶセンスの持ち主だ。「月影の回廊」だの「宵闇の巫女」だのといった痛々しい単語が出てきても、もはや驚きはしない。ただひたすらに、同世代の男子としての共感性羞恥が極限まで刺激され、精神力がゴリゴリと削られていくだけだ。


「馬鹿者、ただのポエムとして聞き流すでない。よく考えるのじゃサクタロウ」


 しかし、如月さんの反応は僕とは全く違っていた。

 彼女は、その赤い魔石をピンセットで強く握りしめ、僕を見下ろした。その瞳は、圧倒的な疲労感を抱えながらも、巨大な謎の全体図をはっきりと捉えたことによる、静かで冷酷な興奮に満ちていた。


「『最終の試練』……そして、『宵闇を駆ける巫女』。この痛々しい文字列が意味するものが、お主には分からんのか?」


 如月さんに問い詰められ、僕はぼんやりとした頭でその単語を反芻した。

 月影の回廊。宵闇を駆ける巫女。

 この学園に伝わる不思議四天王の怪談の中で、それに該当するものは……。


「あ……! もしかして、残る最後の怪談……『中等部の夜の廊下を走り抜ける、着物姿の女の幽霊』のことですか!?」

「左様。間違いなくそれじゃ」


 如月さんは、手袋の指先で赤い魔石を光に透かした。


「我々はこれまでに、第一の試練である三年二組の黒板の『呪いの髪の毛』、第二の試練である初等部水飲み場の『無人の蛇口』、そして今日、第三の試練であるこの家庭科室の『動く骸骨』を解明してきた。不思議四天王と呼ばれる噂は、これで三つが陥落した。……残るはあと一つじゃ」

「中等部の、夜の廊下……」

「つまり、この赤い魔石の裏に隠されていた暗号は、これまでの三つの儀式——あの兄弟にとっての『チュートリアル』をすべてクリアした者に対する、次のクエストの提示じゃ。第三の魔石を手に入れた勇者は、最終試練の地である月影の回廊(中等部の夜の廊下)へと向かい、巫女(着物の女)を追え、とな」


 如月さんの論理的な解説を聞き、僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 オカルト的な恐怖ではない。

 一人の人間(初代)が十数年前に作り上げた痛々しい妄想の設定が、ただのノートの中の落書きに留まらず、こうして現実の学校の敷地全体を使った『壮大な体験型ゲーム』として、完璧に物理的な導線が敷かれていたという事実に対する、純粋な戦慄だった。


「……全く、どこまでもゲーム感覚で設定を作り込みおって。これほどの執念と行動力、そして物理の法則を悪用するだけの知恵があるなら、その労力をもっと学業や有意義な研究に振り向けておれば、今頃は少しはマシな大人になれたじゃろうに」


 如月さんは心底呆れたように吐き捨てると、今度こそ本当に、その赤い魔石をピンセットから手放し、ゴミ箱の中へとポイッと投げ捨てた。

 カラカラ、という軽いプラスチックの音が、薄暗いステンレスのゴミ箱の底で虚しく響く。


 十数年前から、弟である二代目の手によって大切にパテで補修され、守り抜かれてきた『血肉の祭壇の魔石』は、天才鑑定士の手によって、ただの不純物としてあっけなく廃棄されたのだ。


「……行くぞ、サクタロウ。図書室に帰るのじゃ」


 如月さんは、ゴミ箱から背を向けると、泥とパテの粉で汚れた純白の手袋を、裏返すようにして器用に両手から引き剥がし、それも一緒にゴミ箱へと投げ捨てた。

 そして、調理台の上に置いてあった古い革の鞄を提げ、家庭科室の出口へと重い足取りで向かい始めた。

 その背中は、いつもの凛と張り詰めた優雅な姿に比べて、ほんの少しだけ丸まり、歩みも遅くなっているように見えた。


「き、如月さん? 大丈夫ですか?」

「大丈夫に見えるか。わしの精神的疲労度は、もはや致死量に達しておる」


 如月さんは、防音扉の重いドアノブに手をかけながら、ひどくうんざりした声で答えた。


「いかにわしが天才的な頭脳と強靭な精神力を持っていようとも、立て続けに『血肉の祭壇』だの『呪縛刻印』だのといった、純度の高すぎる黒歴史を論理的に解読し、その滑稽な情動に寄り添うという行為は、猛毒を直接血管に注射されているに等しい苦痛なのじゃ。これ以上の黒歴史の摂取は、わしの脳細胞に不可逆的なダメージを与えかねん」


 確かに、彼女の『情動の視座』は、相手の感情の揺らぎや行動のプロセスを、まるで自分が体験したかのように論理的に再構築してしまう。

 だからこそ、相手の中二病の痛さが強烈であればあるほど、それを読み解く彼女自身も、その「痛さ」の疑似体験を強制されることになるのだ。それは、潔癖で高慢な彼女にとって、どんな難解な暗号を解くよりも過酷な拷問に違いない。


「わ、分かりました。今日はもう、帰りましょう。図書室の温かいこたつで、僕が持ってきた最高級のダージリンティーを完璧な温度で淹れますから。それで毒抜きしてください」

「そうするがよい。お主にできるのは、せいぜいその程度の給仕くらいじゃからな」


 如月さんは、僕の言葉に小さく鼻を鳴らすと、マスターキーで電子ロックを操作し、防音扉を開けて夜の廊下へと出た。


新校舎の廊下は、僕たちが家庭科室に入った時と変わらず、無機質なLEDの光に照らされて静まり返っていた。

 窓の外はすっかり暗くなり、月見坂市のスマートシティの洗練された夜景が、遠くの空を白く焦がしている。


「あの、如月さん。じゃあ、最後の怪談の解明はどうするんですか? まさか、ここで調査を打ち切るなんてことは……」

「言ったじゃろう。今日はもう限界じゃと。……明日の放課後じゃ」


 如月さんは、前を歩きながら、夜の廊下に向かって冷酷に、そして絶対的な意志を持って宣告した。


「明日の夜、この暗号が示す通り、最後の現場である『中等部の夜の廊下』へと出向く。そして、あの愚鈍な兄弟が仕掛けた最後にして最大の物理的トリック……『宵闇を駆ける巫女』とやらを、完全に粉砕してやるわ」

「明日の、夜……」

「四つの封印をすべて解体した時……我々は必ず、すべての怪異の元凶であり、この壮大な黒歴史の中心に鎮座する『黒の書』の隠し場所へと辿り着くはずじゃ。その諸悪の根源を白日の下に晒し、完全に焼却するまで、わしの鑑定が終わることはない」


 如月さんの声には、疲労の奥底から静かに燃え上がる、鑑定士としての凄まじい執念が込められていた。

 彼女はもはや、ただの怪談を解明しているのではない。

 この学園の暗がりに十数年もの間、ひっそりと、しかし確実に根を張り続けてきた『自己陶酔の設定』という名の病魔を、根こそぎ物理の光で消毒してやろうとしているのだ。


「それまで、お主もせいぜい己の脆弱な心臓を鍛えておくのじゃな。最後の試練が、これまでの物理のバグや安っぽい魔石と同じように、笑って済ませられるような代物とは限らんぞ」

「うっ……! や、やめてくださいよ、脅かすのは……」


 僕は身震いしながら、如月さんの小柄な背中を追って、新校舎の長い廊下を歩き出した。


 死者の鼓動を打つ骸骨の正体は、僕の足音とキャスター付きの台が生み出した『共振現象』という名の、美しくも滑稽な物理のバグにすぎなかった。

 しかし、その心臓に仕込まれていたチープな魔法の石と、そこに刻まれた痛々しいメッセージは、僕たちを、いよいよ逃れられない黒歴史の最深部——最後の四天王へと確実に誘導していた。


 第一の試練、三年二組の黒板の『呪いの髪の毛』と、フランスパンの『邪竜の腕』。

 第二の試練、初等部水飲み場の『無人の蛇口』と、泥まみれのサッカーボール『呪縛刻印』。

 第三の試練、家庭科室の『動く骸骨』と、百均のキーホルダーパーツ『赤い魔石』。


 これらすべての点と線が繋がり、一つの巨大な「痛い物語」として実体化しつつある。

 明日、中等部の夜の廊下で、僕たちは一体どんな物理のトリックと、どんな直視に耐えない情動のルーツに出会うことになるのだろうか。

 そして、そのすべてを記した『黒の書』には、一体どれほどの純度の黒歴史が詰め込まれているのか。


 僕は深くため息をつきながら、明日待ち受けるであろう過酷な共感性羞恥の嵐を想像し、すでに胃の辺りがキリキリと痛み始めるのを感じていた。


 月見坂市の冷たい秋風が、連絡通路の窓をガタガタと揺らす。

 僕を三日三晩震え上がらせていた『不思議四天王』の噂は、天才鑑定士の圧倒的な論理の力によって、ついに残り一つとなっていた。

 暗黒神話の終焉は、もうすぐそこまで迫っている。



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