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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『骸骨と赤い魔石』 ~section3:共振現象と、不自然な重心~

 家庭科室の冷たい化学床材の上に座り込み、僕は心の底からの安堵の息を吐き出していた。

 僕の無意識の重心移動が、クッション性のある床材を波紋のように伝わり、キャスター付きの調理台のわずかな隙間(遊び)で増幅され、骸骨のスタンドへと伝播する。そして、僕が繰り返していた『一秒間に一回』というグーパーの動作のテンポと、骸骨の腕の揺れやすいタイミング——固有振動数が完全に一致したことによって生じた、古典的かつ見事な『共振現象』。


 幽霊じゃなかった。死者の怨念でもなかった。

 すべては、僕自身の身体の動きが引き起こした、物理法則の連鎖にすぎなかったのだ。

 調理台から三歩離れただけで骸骨がピクリとも動かなくなったという決定的な証明を見せつけられ、僕の胸の中に渦巻いていたオカルトへの恐怖は、最後の一滴まで完全に蒸発し去っていた。


「ありがとうございます、如月さん! これで今夜もぐっすり眠れます! やっぱり、怪談なんて全部ただの勘違いなんですね! さあ、幽霊じゃないって分かったんだから、もう図書室に帰りましょう!」


 僕は、心からの感謝を込めて、ブレザーの埃を払いながら立ち上がった。

 しかし。

 僕のその脳天気な笑顔を見下ろす如月さんのアメジストの瞳は、怪異を解明して一件落着といった穏やかなものではなかった。

 むしろ、その瞳の奥には、先ほどよりもさらに鋭く、冷たく研ぎ澄まされた『鑑定士の狂気』とも呼べる知的好奇心の光が、ギラギラと燃え盛っていたのである。


「安心するのはまだ早いぞ、サクタロウ」


「えっ?」


 僕の笑い声が、ピタリと止まった。


「わしが先ほど解明したのは、あくまで『骸骨が触れずに揺れた物理的なメカニズム』だけじゃ。この事象の裏に隠された、真の『不自然さ』には、まだ全く手がつけられておらん」


「ふ、不自然さ……? 共振現象で揺れたんでしょ? 他に何が不自然なんですか?」


 如月さんは、微動だにしない骸骨の胸の奥——黄ばんだプラスチックの肋骨の檻の中へと、純白の手袋をはめた指先をスッと向けた。


「お主は、この共振現象が『偶然』起きたとでも思っておるのか?」


「え……偶然じゃないんですか? たまたま僕のグーパーのテンポと、骸骨の揺れやすいタイミングが一致したから……」


「馬鹿馬鹿しい。そんな天文学的な確率の偶然が、この閉鎖空間で自然発生してたまるか」


 如月さんは、心底呆れたように小さく首を横に振り、そのまま骸骨の横に立つキャスター付きの調理台に寄りかかった。

 そして、まるで大学の講義室で無知な学生を諭す教授のような、極めて理知的で冷徹な声で語り始めた。


「よいか、サクタロウ。物体が揺れる周期、すなわち固有振動数というものは、その物体の形状、全体の重さ、そして『重心の位置』によって厳密に決定される。この骸骨の腕を、頭のフックから吊るされた巨大な振り子だと仮定してみるのじゃ。振り子の揺れるスピードは、支点から重心までの距離によって変化するじゃろう?」


「あ、はい。ブランコに乗ってる時、立って漕ぐのと座って漕ぐので揺れるスピードが変わるみたいな……?」


「その通りじゃ。そして、この複雑なプラスチックの骨の組み合わせによって導き出される本来の固有振動数が、お主のような怪談に怯える愚鈍な素人が、適当なテンポで繰り返した『一秒間に一回』という極めて標準的なグーパーの波長と、ミリ単位の狂いもなく完全に同調するなど、物理的にも統計的にもありえないのじゃよ」


 如月さんの論理的な指摘に、僕は目を白黒させた。

 言われてみれば、そうだ。骸骨の腕が揺れるタイミングが、僕の適当なグーパーのペースと「たまたま完全に一致した」からこそ共振は起きた。その確率を考えれば、偶然で片付けるにはあまりにも出来すぎている。


「……そ、それって、どういうことですか?」


「簡単なことじゃ。誰かが、意図的に『チューニング』したということじゃよ。お主らのような怪談を信じ込む生徒が、この骸骨の前に立ち、無意識に心臓の鼓動と同じくらいの『標準的なテンポ』で手を開閉した時に、必ず、そして劇的に共振が起きるようにな」


「チューニング……!? この骸骨を、誰かが改造したって言うんですか!?」


 僕は思わず叫び、骸骨の姿を改めて見直した。

 しかし、黄ばんだプラスチックの骨や、錆びついたワイヤーに、何か機械的な装置が取り付けられているようには見えない。電源コードもないし、モーターのようなものも隠されていない。


「モーターや電子回路のような大掛かりな仕掛けではない。先ほどの振り子の法則を思い出してみるのじゃ。揺れるタイミングを変化させるためには、全体の重さを変えるか、あるいは『重心の位置』を操作すればよい。つまり……この骸骨の『どこか』に、重心と重さを微調整するための『不純物』が、意図的に仕込まれておるはずじゃ」


 如月さんは、調理台からスッと身を離し、再び銀のルーペをブレザーのポケットから取り出した。


「偶然の共振ではない。これは、人間の手によって極めて周到に計算され、仕組まれた『怪異の舞台装置』じゃ。……さあ、十数年前から続く愚かな設定遊びの証拠を、白日の下に晒してやろう」


 天才鑑定士の鋭い眼光が、再び骸骨の全身を嘗め回すように観察し始めた。

 オカルトの恐怖は消え去った。しかし、その代わりに、人間の執念深く痛々しい『黒歴史の工作』という名の狂気が、家庭科室の暗がりの中からその姿を現そうとしていた。


「重心を調整するための不純物……。でも、如月さん、外から見た感じじゃ、そんな重りみたいなものはどこにも付いてないですよ?」


 僕は骸骨の周囲をぐるぐると回りながら、頭蓋骨のてっぺんから足の指先の骨までを、目を皿のようにして観察した。

 しかし、どこを見ても、黄ばんだプラスチックの骨と、それを繋ぐ錆びたワイヤーしか見当たらない。


「当然じゃ。怪談の舞台装置として機能させるためには、一目見て人工物だと分かるような位置に重りをぶら下げておく愚か者はいない。見えない場所、すなわち『死角』に隠すのが、工作の基本中の基本じゃ」


 如月さんは、骸骨の横に立ち、純白の手袋をはめた両手を腰に当てた。


「まず除外すべきは、四肢——腕と脚じゃ。腕自体に重りをつけてしまえば、見た目の不自然さが増すだけでなく、振り子としての挙動が露骨に重くなり、わずかな振動では揺れなくなってしまう。脚も同様じゃ。となれば、重心をコントロールしつつ、かつ外部からの視線を完全に遮断できる『空洞』は、この模型の構造上、一箇所しか存在しない」


 如月さんのアメジストの瞳が、骸骨の胸の奥……無数の肋骨によって形成された、籠のような『胸腔』の奥深くへと向けられた。

 そこは、先ほど僕が右手を入れて、必死に空中でグーパーを繰り返していた空間だ。


「……あばら骨の、中ですか? でも僕、さっき手を入れた時、何も触りませんでしたよ?」


「お主は肋骨の空間の『真ん中』で手を動かしていただけじゃろう。わしが言っているのは、そのさらに奥……模型の支柱である『背骨』の裏側、あるいは肋骨が密集している最深部の死角じゃ」


 如月さんは、純白の手袋の指先で、肋骨の隙間からそっと模型の内部へと手を差し込んだ。

 彼女の動きは、先ほどの僕の恐る恐るの動作とは全く異なり、外科医がオペを行うかのような、極めて精密で無駄のない動きだった。プラスチックの骨に微かな振動すら与えないよう、指先を滑り込ませていく。


「……サクタロウ。懐中電灯で、わしの手元の奥、背骨と肋骨の接合部分を照らすのじゃ」


「は、はい!」


 僕は慌ててポケットから小型のLEDライトを取り出し、如月さんが指示した骸骨の胸の奥深くへと、白い光の筋を当てた。

 肋骨の檻の向こう側。

 普段は正面から見ても暗がりになっていてよく見えない、背骨の裏側のプラスチックの結合部。


 光がその深部を照らし出した瞬間。


「ビンゴ」


 如月さんの薄い唇から、満足げな、しかしどこかひどく呆れ果てたような吐息が漏れた。


「え……? 何かあったんですか!?」


「サクタロウ、よく見るのじゃ。この背骨の裏側……人間で言えば、まさに『心臓』が位置するあたりじゃな。そこに、この模型の本来のパーツではない、極めて異質で、そして安っぽい『不純物』が張り付いておる」


 僕は横から身を乗り出し、LEDライトの光の先を凝視した。

 黄ばんだプラスチックの骨の裏側に、何か……ドロリとした灰色の粘土のようなものが、ベッタリとこびりついている。

 いや、粘土ではない。あれは、プラモデルの改造や日曜大工で使われる、硬化性の『エポキシパテ』だ。

 そして、その無骨に盛り上がった灰色のパテの中心に、まるで封印された宝石のように、あるいは臓器の一部のように、何か『赤いもの』が強引に埋め込まれ、固定されているのが見えた。


「な、なんですかあれ……! 赤い、石……?」


「石などという高尚なものではないわ。見れば見るほど、鑑定士としてのわしの美意識が削り取られていくような、チープ極まりない大量生産のゴミじゃ」


 如月さんは、一切の躊躇なく、鞄から愛用の銀のピンセットを取り出した。

 そして、肋骨の隙間からその長いピンセットを差し込み、背骨の裏に張り付いている灰色のパテの塊と、そこに埋め込まれた『赤い石』の境界部分へと、ピンセットの先端を器用に滑り込ませた。


「十数年の乾燥と劣化で、パテの粘着力は完全に失われておる。物理的な接着剤としての役割は、すでにとうの昔に終えているようじゃな」


 如月さんがピンセットに微かに力を込めて捻ると、パキッ、という乾いた音を立てて、灰色のパテの塊ごと、その『赤い石』が背骨のプラスチックからあっさりと剥がれ落ちた。

 彼女はそれをピンセットでつまんだまま、肋骨の檻の外へと慎重に引きずり出した。


「さあ、サクタロウ。これが、お主を恐怖のどん底に陥れた怪異の元凶……骸骨の固有振動数をコントロールし、死者の鼓動を演出していた『共振のチューニングパーツ』の正体じゃ」


 如月さんが、ピンセットの先でつまんだその物体を、僕の目の前へと突き出した。

 西日の赤い光と、僕の持つLEDライトの白い光が交差する中で、その『赤い石』の全貌が、ついに白日の下に晒された。


「…………えっ?」


 ピンセットの先に挟まれたその物体を見た瞬間、僕は言葉を失い、完全に思考が停止した。

 怪異の舞台装置。共振のチューニングパーツ。重心を操る重り。

 如月さんの口から語られた数々の恐ろしい物理的推論から、僕はてっきり、鉛の塊か、あるいは何か精密な機械部品のようなものが出てくるのだとばかり思っていた。


 しかし、目の前にあるのは、そんな大層なものではなかった。

 大きさは、五百円玉を一回りほど大きくした程度。

 素材は、どう見ても安っぽい透明な『アクリル樹脂』。

 形は、いかにもファンタジーRPGに出てきそうな、多面体にカットされた『魔法の宝石』を模したデザイン。

 色は、毒々しいほどに鮮やかなクリアレッド。

 そして何より致命的だったのは、そのアクリルの赤い石の上部に、ボールチェーンを通すための小さな『プラスチックの輪っか』が、ご丁寧にくっついていることだった。


「これ……ただの、キーホルダーのパーツ、じゃないですか……?」


 僕の口から、間の抜けた、ひどく情けない声が漏れ出た。

 間違いない。これは、百円ショップのファンシー雑貨コーナーか、あるいはスーパーの入り口にある女児向けカプセルトイに入っているような、『魔法少女の魔石キーホルダー』的な、純度一〇〇パーセントのチープな玩具のパーツだ。

 その裏側には、強引に骸骨に固定するために使われた灰色のエポキシパテが、無骨にこびりついている。


「左様。プラスチックの射出成形で作られた、原価十円にも満たないであろう、大量生産品のゴミじゃ」


 如月さんは、心底忌々しそうに、まるで汚物でも見るかのような目でその赤いアクリルパーツを睨みつけた。


「この骸骨の胸腔の奥……人間で言えば『心臓』が位置するど真ん中に、この数十グラムの安っぽい重りをパテで強引に貼り付けることによって、骸骨全体の重心をわずかに下へとずらした。その結果、この骸骨の固有振動数は、お主ら愚鈍な生徒が空中で適当に繰り返す『一秒間に一回』という標準的なテンポに、ミリ単位でピタリと同調するように『チューニング』されたのじゃ」


「こんな……こんな百均のキーホルダーのパーツ一つで、あんな不気味な現象が起きてたって言うんですか!?」


「物理法則において、重りの材質など関係ない。必要なのは『一定の質量』と『配置場所』だけじゃからな。鉛の塊であろうと、このような痛々しいおもちゃの魔石であろうと、重心をずらすという物理的な役割は同じように果たせるのじゃ」


 如月さんの冷徹な解説を聞きながら、僕は目の前にあるチープな赤いアクリルの塊と、黄ばんだ骸骨の姿を交互に見比べた。

 家庭科室の調理台の横に置かれた骸骨。

 その心臓の位置に隠された、百均の魔法の赤い石。

 そして、あばら骨に手を入れてグーパーをすると、共振によって腕が揺れ出すという現象。


 幽霊だ、呪いだ、死者の怨念だと騒いでいた自分が、急激に恥ずかしくなってきた。

 同時に、初等部の水飲み場のサッカーボールの時と同じ、強烈な『共感性羞恥』の波が、僕の足元から一気に胸元までせり上がってくるのを感じた。


「……如月さん。これって、もしかして……」


「そうじゃ。お主もようやく、この不純物が放つ『極上の痛々しさ』に気づいたようじゃな」


 如月さんは、ピンセットでつまんだ赤いアクリルパーツを、西日の光に透かして見せた。

 チープなプラスチックが、赤い光を受けて無駄にキラキラと輝いている。


「昨日までの事象と、完全にルーツが一致しておる。三年二組の黒板に供えられた、半額のフランスパン『邪竜の腕』。水飲み場の茂みに隠された、赤い文字の書かれた古いサッカーボール『呪縛刻印』。……そして、この骸骨の心臓に埋め込まれていた、チープなキーホルダーのパーツ『赤い魔石』」


 如月さんの口から語られるアイテムのラインナップは、まるで中学生がノートに描いた痛いファンタジー小説の装備一覧のようだった。


「偶然の共振などではない。これは、あの痛々しい設定ノート『黒の書』を構築した十数年前の初代が、自らの暗黒神話の世界観を現実世界に具現化させるために、物理法則を悪用して意図的に作り上げた『怪異の舞台装置』じゃ。……ただの骨格模型の心臓に、この『赤い魔石』を埋め込むことで、死者が鼓動を打ち、腕を振るって蘇るという、中二病全開の恐ろしい儀式(物理トリック)を完成させたのじゃよ」


 チープな百均の赤い石。

 それが、僕を恐怖のどん底に陥れた『死者の鼓動』の正体であり、共振現象を引き起こすためのチューニングパーツだったのだ。

 しかし、この赤い石が発見されたことで、一つの大きな物理的な矛盾が解決されると同時に、さらなる『不可解な人間の情動』の謎が、僕たちの前に立ちはだかることになったのである。


 なぜ、初代はこんな手の込んだトリックを仕掛けた骸骨を、本来あるべき『理科室』ではなく、不自然極まりない『家庭科室の調理台の横』に配置しなければならなかったのか。

 天才鑑定士・如月瑠璃のアメジストの瞳が、いよいよこの不純物に宿る『情動のルーツ』へと、その焦点を合わせようとしていた。



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