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第7巻:如月令嬢は『配電盤の堕天使を鑑定しない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『水飲み場とサッカーボール』 ~section5:枯れた水飲み場と、残された謎~

 スマートシティの完璧に統制されたLED街灯の光すら届かない、アナログで泥臭い暗闇のポケット。そこには今、かつて僕を恐怖のどん底に叩き落としていたオカルト的な怪異の面影は、微塵も残されていなかった。


 無人の蛇口から水が噴き出す現象は、地下配管の圧力調整に伴うただのウォーターハンマー現象。


 茂みの奥に隠されていた血文字の生首は、十数年前に水撃現象を『水龍の咆哮』と勘違いした中二病の少年(初代)が作り出した、『呪縛刻印』と書かれたただの古いサッカーボール。


 そして、そのボールが現在も綺麗な泥でコーティングされていたのは、初代の痛い設定ノートを引き継いだ現在の少年(二代目)が、必死に泥を塗って隠し直すという涙ぐましいメンテナンスを続けていたから。


 すべては、如月瑠璃という天才鑑定士の冷徹な物理的観察眼と、そこから論理的に逆算される『情動の視座』によって、白日の下に晒された。


 怪異の正体は、幽霊でも呪いでもない。


 純度一〇〇パーセントの自己陶酔と、お小遣い不足の現実、そして不器用な努力が入り混じった、極めて人間臭く、そして直視できないほどに痛々しい『黒歴史の残骸』だったのだ。


「如月さん……僕、もう幽霊より、この二代目の子が可哀想で、痛々しくて、見てられません。このボール、見なかったことにして、元の場所に埋めてあげましょうよ。これ以上暴いたら、彼らの精神が死んじゃいます……」


 僕はコンクリートの冷たい土台に突っ伏したまま、両手で顔を覆って呻いた。


 恐怖の感情は、完全に『共感性羞恥』へとすり替わっていた。同世代の男子が、真面目な顔をして『水龍の封印が解かれてしまう!』などと内心で叫びながら、夕暮れのグラウンドで泥まみれになってボールを隠している姿を想像すると、いたたまれなくて胸がギュッと締め付けられる。


 他人の知られたくない秘密、それも極上の痛さを誇る黒歴史のど真ん中を、土足で踏み荒らしてしまったような罪悪感すら覚えていた。


「……つくづく、世話の焼ける愚か者どもじゃ」


 暗闇の中、僕の頭上から、如月さんの深く、そして心底呆れ返ったようなため息交じりの声が降ってきた。


 恐る恐る指の隙間から見上げると、如月さんは、コンクリートの土台に置かれた泥まみれのサッカーボールを、まるで道端に落ちている汚物でも見るかのような、極めて冷ややかなアメジストの瞳で見下ろしていた。


 彼女は、泥と緑色の水苔で無残に汚れてしまった純白の手袋をはめた両手を伸ばし、その『呪いの刻印』を無造作に掴み上げた。


「き、如月さん? どうするんですか、それ」


「お主の言う通りじゃ、サクタロウ。このような底抜けに愚鈍で、自己陶酔と生活苦が煮詰まった人間の行動心理をいつまでも視界に入れておくなど、わしの極上の知性に対する重大な冒涜じゃ」


 如月さんは、腕を大きく振りかぶると、その泥まみれの古いサッカーボールを、水飲み場の裏手の茂みの、さらに奥深く——僕たちが手を伸ばしても決して届かないような、雑草と枯れ葉が最も分厚く堆積している暗がりへと向かって、容赦なく放り投げた。


 バサッ、ボフッ。


 鈍い音を立てて、ボールは深い茂みの中へと吸い込まれ、二度とその姿を見せることはなかった。


 これでいい。あの痛々しい設定アイテムは、誰の目にも触れることなく、このまま自然の風化に任せて土へと還るべきなのだ。それが、名も知らぬ初代と二代目の尊厳を守るための、世界で唯一の優しさだろう。


「ふん。これで視界のノイズは一つ片付いたわ」


 如月さんは短く鼻を鳴らすと、泥と苔でドロドロに汚れた純白の手袋の指先を摘み、裏返すようにして器用に両手から引き剥がした。


 そして、汚れが内側に完全に包み込まれた状態になったその手袋を、水飲み場の横に設置されていた、落ち葉やゴミを入れるための古い金網のカゴへと、躊躇うことなく投げ捨てた。


 彼女にとっての手袋は、対象のルーツに敬意を払うための神聖な儀式具であると同時に、こうして『直視に堪えない不純物』から自身の身を守るための、使い捨ての防壁でもあるのだ。


 鞄の中から除菌用のウェットティッシュを取り出し、美しい白魚のような指先を一本一本、念入りに拭き上げていく。その所作には、極上の謎を解き明かした後の余韻を楽しむような素振りは微塵もない。ただひたすらに、『ひどく不快で痛々しい記憶の残滓を、物理的にも精神的にも洗い流している』という明確な拒絶の意志だけが込められていた。


「ははっ……如月さんも、さすがにあの痛さには耐えきれなかったみたいですね。これで不思議四天王の二つ目もクリアです。幽霊はいない、あるのは痛い設定ごっこだけ。……もう、本当に終わりにしましょうよ。こんな他人の黒歴史を暴くために、放課後の貴重な時間を潰すなんて、馬鹿げてますって」


 僕は膝の上の土を払いながら立ち上がり、安堵の笑みを浮かべて言った。


 今日こそ、本当にこれで終わるはずだ。如月さんだって、これ以上の精神的ブラクラを食らうのは御免なはずである。


 早く図書室の温かいこたつに帰って、冷え切った体を温めたい。


 しかし。


 ウェットティッシュをゴミカゴに捨て、鞄の口を閉めた如月さんの動きが、ピタリと不自然に止まった。


「……いや。待つのじゃ、サクタロウ」


「えっ? どうしたんですか?」


 如月さんは、水飲み場のコンクリートの土台に軽く手をつき、俯いたまま、何かを反芻するように深く考え込んでいた。


 夜の闇の中で、彼女の横顔を照らす懐中電灯の光が、微かに揺れる。


 先ほどまで彼女の顔を覆っていた『強烈な呆れ』と『疲労感』が、まるで潮が引くようにスッと消え去り、代わりに、氷のように冷たく、そして鋭利な『論理の光』が、そのアメジストの瞳の奥で再び灯り始めたのが分かった。


「点と線が、繋がったぞ」


「点と線……?」


「左様。サクタロウ、己の脳味噌をフル回転させて、昨日から今日にかけて我々が解き明かした二つの事象を、時間軸に沿って並べてみるのじゃ」


 如月さんは、ゆっくりとこちらを振り向き、夜の冷気よりも冷ややかな声で言った。


「昨日から今日にかけての、二つの事象……ですか?」


「そうじゃ。まず昨日、高等部旧校舎の三年二組の教室。あそこで我々は、特売シールを剥がし損ねた真新しいフランスパンの供物を発見した。あのパンは、乾燥具合や糊跡の物理的証拠から、『ごく最近』——おそらく昨日か一昨日に、誰かの手によって配置された極めて新しい不純物じゃった」


「はい。お小遣いが足りない『二代目』が、半額のパンを『邪竜の腕』の代わりにして、設定ノートに従って儀式をしたんですよね」


 僕が確認するように頷くと、如月さんは一つ指を立てた。


「では次じゃ。今日、この初等部の水飲み場の茂みで見つけた、赤い文字の書かれたサッカーボール。あれの物理的鑑定結果はどうじゃった?」


「えっと……皮革の加水分解や、アクリル絵の具のひび割れの具合から見て、『十数年前』に作られて置かれた古いものだって、如月さんが言ってました」


「左様。文字を書いたのは十数年前の『初代』。そして、その古いボールの表面には、つい最近になって何度も新しい泥が塗りつけられ、隠し直された痕跡があった。これも、現在の『二代目』によるメンテナンス作業じゃ」


 如月さんは、薄暗いグラウンドの空間に、見えないパズルのピースを配置していくように、両手を動かした。


「昨日発見した『最近買われたフランスパン』と、今日発見した『十数年前から管理されているボール』。この二つの不純物は、場所もモノも全く異なるが、根底に流れている情動のルーツは完全に一致しておる。すなわち、あの痛々しい設定がびっしりと書き込まれた『黒の書』と呼ばれるノートの存在じゃ」


「それは、さっきも言ってましたよね。初代が作った設定ノートを、二代目が引き継いで儀式をやってるんだって」


「そうじゃ。しかし、ここで一つの巨大な『異常性』が浮かび上がってくる。……サクタロウ、お主は『中二病』という精神の病が、どの程度の期間、人間に寄生し続けるものだと考えておる?」


「えっ? 期間ですか? うーん……まあ、普通は中学生の間の、長くても一、二年くらいじゃないですか? 高校生になれば、だんだん現実が見えてきて、過去の自分が恥ずかしくなってやめるのが普通ですよね」


「その通りじゃ。自己陶酔の設定遊びというものは、成長に伴う社会性の獲得や、現実の人間関係の構築によって、自然と消滅していく一過性の熱病にすぎん。そして、大人になれば、かつて自分が作り上げた痛々しい設定ノートなどは、完全に焼却するか、記憶の奥底に封印するのが人間の正常な防衛本能じゃ」


 如月さんは、僕の目の前まで一歩近づき、その鋭い瞳で僕の目を真っ直ぐに射抜いた。


「しかし、この学園に潜む『黒歴史』はどうじゃ? 十数年前に初代が作り上げた『水龍の封印』や『堕落の祭壇』といった設定が、十数年という途方もない歳月を経た現在においても、消滅することなく、別の個体である『二代目』によって律儀に引き継がれ、そして物理的なメンテナンスが続けられておるのじゃ」


 如月さんの言葉の真意に気づき、僕はハッと息を呑んだ。


「十数年……。確かに、冷静に考えたら異常ですね。普通、他人の痛い設定ノートなんて見つけても、『うわ、なんだこれ痛っ』って思って捨てるか、笑い話にして終わりですよね。それを、本気で信じて、十数年前のボールに泥を塗って隠し直したり、わざわざ半額のパンを買ってきて儀式を継続したりするなんて……」


「そうじゃ。これは単なる一人の愚か者の突発的なイタズラではない。過去の『初代』から現在の『二代目』へと、狂気にも似た自己陶酔の設定が、まるで宗教の教義のように完璧な形で『継承』されておるのじゃ。……これは、人間の社会心理学において、極めて稀有で、そして異常な『長期的な黒歴史の継承構造』じゃよ」


 如月さんの口から語られるその構造は、ある意味で、幽霊の存在よりもよほど不気味で、背筋が凍るような事実だった。


 一人の人間の痛い妄想が、形を変え、世代を超えて、この如月学園の敷地内でひっそりと生き脈打ち続けている。そして、それが結果的に、生徒たちの間で恐れられる『不思議四天王』という怪談にまで成長してしまったのだ。


「……つくづく、興味深いことじゃ」


 不意に、如月さんの口元から、ぞくりとするような冷たい笑みがこぼれた。


 先ほどまでの、共感性羞恥による精神的疲労はどこへやら。彼女の全身からは、未知の複雑な構造体を前にした天才特有の、圧倒的な『知的好奇心』のオーラが爆発的に立ち昇っていた。


「き、如月さん……? なんか、目が笑ってないんですけど……」


「サクタロウ。わしは当初、この学園の怪談を、ただの物理現象の勘違いか、単発のイタズラ程度にしか考えておらんかった。視界に入るノイズを排除できればそれでよいと。しかし、認識を改めねばならんようじゃ」


 如月さんは、銀の懐中電灯を自らの顔の下から当て、暗闇の中でアメジストの瞳を妖しく輝かせた。


「十数年もの間、人知れず守り抜かれてきた壮大な『設定遊び』。初代が構築し、二代目が涙ぐましく維持しているこの痛々しき暗黒神話の全貌……。ただのオカルト否定では終わらせん。鑑定士としてのわしの執念が、この黒歴史の構造すべてを白日の下に晒し、骨の髄まで解体してやりたいと疼いておるのじゃ!」


「ひぃっ……!」


 僕は思わず後ずさりした。


 完全にスイッチが入ってしまった。如月瑠璃という天才は、一度『解き明かすべき価値のある巨大なシステム』を認識してしまうと、それがどれほど痛々しくて滑稽なものであろうと、決して途中でやめることはないのだ。


 あの見知らぬ初代と二代目は、自分たちの神聖な(痛い)儀式が、月見坂市で最も恐るべき物理的観察眼を持つ令嬢の『極上の玩具』に認定されてしまったことに、まだ気づいていない。


「待って、待ってください如月さん! 全貌を暴くって、まさか……!」


「そのまさかじゃ、サクタロウ。不思議四天王と呼ばれる怪談は、四つで一つ。昨日解明した旧校舎の『三年二組の黒板』、そして今日解明したこの『初等部の水飲み場』。これらが『黒の書』に記された設定の一部であるならば……残る二つの怪談にも、間違いなく、この痛々しい二人——いや、継承者たちの狂気の設定が仕込まれておるはずじゃ」


 如月さんは、闇夜に向かって指を折りながら、残された謎をカウントアップしていく。


「三つ目。高等部新校舎の家庭科室にある、『あばら骨に手を入れると勝手に腕を揺らす骸骨の模型』。……なぜ理科室ではなく、家庭科室にあるのか。そして、なぜ骸骨が自ら動くのか。


 四つ目。中等部の夜の廊下を走り抜け、行き止まりの壁に消えるという、『着物姿の女の幽霊』。……最新のセキュリティを誇る新校舎で、いかにしてそのような幻影を生み出しているのか」


 如月さんが怪談の名前を口にするたびに、僕の背中を嫌な汗が伝い落ちる。


 確かに、最初の二つが『堕落の祭壇』と『水龍の封印』だったのだ。残りの骸骨や着物の女にも、間違いなく、直視すれば精神が削り取られるような、激痛の走る厨二病設定が隠されているに決まっている。


「だ、だから! もういいじゃないですか! 絶対に残りの二つも、お小遣いが足りなくて妥協した跡とか、必死に工作した手作りのアイテムとかが出てきて、僕たちが見てて恥ずかしくなるだけですよ! そんなの暴きに行かなくても、幽霊じゃないって分かっただけで十分……!」


「わしが十分ではないと言っておるのじゃ。十数年越しに引き継がれているこの壮大な『設定遊び』。その全てのピースを回収し、どのような見事な(滑稽な)全体図を描いているのか、この目で確かめずにはおられん。これはもはや、怪談の解明ではない。一つの狂気的な『文化』のルーツを探る、極上の鑑定作業じゃ」


 如月さんの宣言は、絶対に覆らない絶対王政の勅令と同じだった。


 彼女は懐中電灯を切り、僕の方へと向き直った。


「安心するがよい、サクタロウ。今日このまま連続して次の現場へ向かうような無茶はせん。さすがのわしとて、これ以上の純度の高い黒歴史を連続して摂取すれば、脳細胞が許容量を超えてショートしてしまうからな。今日はこれにて調査終了じゃ」


「ほ、本当ですか……。よかった……」


「しかし、明日じゃ」


 僕が安堵の息を吐いた瞬間、如月さんは冷酷に告げた。


「明日の放課後、必ずわしに同行するのじゃぞ。次なるターゲットは、高等部新校舎の家庭科室……『死者の鼓動を打つ骸骨の模型』じゃ。一体そこに、どのような物理的なトリックと、どんな痛々しい『設定』が仕込まれているのか。……ふふっ、想像するだけで知的好奇心が刺激されるわ」


 如月さんは、暗闇の中で獲物を狙うような妖しい笑みを浮かべると、革の鞄を提げ直して、旧校舎の図書室へと向かう道を迷いなく歩き始めた。


 彼女の歩く先、スマートシティのセンサーライトが次々と点灯し、彼女の進む道を白く無機質に照らし出していく。


 その後ろ姿は、幽霊やオカルトを恐れる少女のそれではなく、この学園に潜む最大の『恥部』を嬉々として暴きに行こうとする、無慈悲な死神のように見えた。


「ああ……もう、本当に嫌だ……」


 僕は誰もいなくなった初等部の古い水飲み場の前で、天を仰いで深く、深いため息をついた。


 オカルト的な恐怖は、確かに消え去った。


 しかし、それと引き換えに、僕の平穏な放課後は、如月瑠璃の『他人の痛い黒歴史を論理的に解体して楽しむ』という、悪魔的な知的好奇心の暴走列車に完全に巻き込まれてしまったのだ。


 明日、あのピカピカの新校舎の家庭科室で、僕たちは一体どんな物理のバグと、どんな直視できない情動に出会うことになるのだろうか。


 『堕落の祭壇』『水龍の封印』に続く、次なる暗黒神話のページ。


 同世代の男子として、どうかこれ以上、僕の共感性羞恥をえぐるような悲惨な真相が飛び出さないことだけを、僕は冷たい秋の夜空に向かって切に、切に祈るしかなかった。


 月見坂市の冷たい風が、僕のブレザーの裾を揺らす。


 僕を震え上がらせていた『不思議四天王』の噂は、天才鑑定士の手によって、残り二つとなっていた。


 そして、その背後に潜む『黒の書』と『継承者たち』の全貌が暴かれる時は、もう、すぐそこまで迫っていたのである。



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