第2話『水飲み場とサッカーボール』 ~section4:呪いの刻印と、消えた文字~
月見坂市の冷たい夜風が、初等部のグラウンドの奥にある暗い茂みを揺らした。
スマートシティの無機質なLED街灯の光すら届かない完全な暗闇の中で、僕の持つ銀の懐中電灯の光だけが、コンクリートの土台に置かれた泥まみれのサッカーボールを鮮明に切り取っている。
如月瑠璃の純白の手袋に包まれた細い指先が、ボールの白いパネルに赤く残された『呪』の文字の表面を、そしてその隣に広がる不自然な余白のスペースを、確かめるようにゆっくりとなぞっていた。
彼女の『情動の視座』は、オカルトや魔法の類ではない。
このボールの皮革の劣化具合、アクリル絵の具のひび割れ、そして表面に幾重にも塗り重ねられた新旧の泥の層。それら物理的な証拠の数々から、『人間という生き物が、どのような感情の揺らぎや焦燥感によって、このような不合理な痕跡を残すに至ったのか』を冷徹に、そして論理的に逆算し、再構築していく高度なプロファイリングである。
「……サクタロウ、光の角度をそのまま維持するのじゃ。この赤い塗料の表面と、その周囲のパネルの摩擦痕から、愚か者たちのひどく滑稽な行動心理が、数式のように美しく見えてきたぞ」
如月さんの声は、夜の冷気と同じくらい冷たく、そして鋭く澄み切っていた。
僕はゴクリと唾を飲み込み、懐中電灯を持つ手に力を込めた。
「まず、この『呪』という文字の表面に刻まれた微細な傷じゃ。サクタロウ、先ほどわしは、十数年という紫外線劣化によって塗料にひび割れが入っていると説明したな?」
「は、はい。だからこのボールは十数年前の古いものなんだって……」
「左様。しかし、よく観察してみるのじゃ。自然の風化によるクラックとは別に、この塗料の表面には、極めて人為的な『横方向の擦り傷』が無数に刻み込まれておる。そして、文字の右側に広がる余白のパネル部分。ここにも、肉眼では見えにくいが、表面のコーティングが激しく削り取られた物理的な摩擦の痕跡が、はっきりと残っておる」
如月さんの指先が、赤い文字の右側にある空白のスペースをトントンと軽く叩いた。
懐中電灯の光に照らされたその部分は、確かに他の部分よりも表面が少しだけ毛羽立ち、ザラザラとした質感になっているように見えた。
「横方向の擦り傷……それって、誰かがわざと文字を削り落とそうとしたってことですか?」
「『わざと』ではない。そこが人間の情動の愚かで面白いところじゃ。これは意図的な破壊工作ではなく、結果的に生じてしまった『事故』じゃよ」
「事故?」
「想像してみるのじゃ、サクタロウ。先ほどわしは、このボールの表面に『新しい泥』が人間の手によって幾重にも擦り付けられている事実を指摘したな。犯人は、雨風でボールの表面が露出するたびに、ここへやってきて泥を塗り、隠し直すというメンテナンス作業を反復していた」
如月さんは、手袋をはめた両手をボールの上で動かし、泥を塗りたくるようなジェスチャーをして見せた。
「犯人は、誰かに見つかることを極度に恐れ、焦っていたはずじゃ。特に、このような『何か』が書かれた面が地表に露出してしまっているのを発見した時は、心臓が跳ね上がるほど動揺したじゃろう。暗がりの中で、犯人は周囲の湿った泥を両手で掬い上げ、この文字が書かれたパネルの表面に、隠蔽するために力任せにゴシゴシと擦り付けた」
如月さんの論理的な推論が、見えない犯人の焦燥感をありありと浮かび上がらせていく。
確かに、隠していたやばいものが見えそうになっていたら、パニックになって泥を塗りたくってしまう心理は、僕にも少しだけ理解できた。
「しかし、ここで物理の非情な法則が牙を剥くのじゃ。十数年前の古いアクリル絵の具は、長年の劣化によって硬化し、パネルとの密着性を著しく失っていた。そこに、砂利や小石を含んだ重く湿った泥が、パニックに陥った人間の手によって何度も何度も、強い摩擦力をもって擦り付けられたのじゃ。……結果、どうなる?」
「あっ……!」
僕は、ハッとして息を呑んだ。
硬くもろくなった絵の具の上に、泥と砂利をヤスリのようにして強く擦りつける。
「……古い絵の具が、泥の摩擦に耐えきれなくて、剥がれ落ちちゃった……?」
「ご名答じゃ。犯人に文字を削る意図は全くなかった。ただ必死に泥を塗って隠そうとしたその『焦燥感』と『雑な手の動き』が、ボールの右側に書かれていた古い文字を、泥と一緒にボロボロと削り落としてしまったのじゃ。そして、左端に書かれていたこの『呪』という一文字だけが、摩擦の力が弱かったのか、あるいは塗料が厚かったために、奇跡的に剥がれ落ちずに残存した……というのが、物理的痕跡から導き出される完全なるプロセスじゃ」
如月さんの明晰なプロファイリングによって、このボールの最大の不気味さであった『呪』という一文字の謎が、鮮やかに解体されていく。
血文字でもなければ、呪いの儀式でもない。
単に、文字が書かれた古いボールを必死で泥で隠そうとした結果、右側の文字が擦り切れて消え、左端の『呪』だけが残ってしまったという、ひどく間の抜けた物理的事故だったのだ。
「な、なんだ……! そういうことだったんですか! じゃあ、最初から『呪い』なんておどろおどろしい一文字だけが書かれてたわけじゃないんですね!」
僕は、胸の奥につかえていた巨大な恐怖の塊が、急速に萎んでいくのを感じた。
オカルト的な呪物としての威厳は、この時点で完全に地に落ちた。
「でも如月さん、だとしたら、右側には一体なんて書かれてたんですか? 『呪』から始まる言葉ですよね。十数年前の誰かが、わざわざこんなボールに書いて、茂みに隠した言葉……」
「それを解き明かすのが、鑑定士の仕事じゃ」
如月さんは、泥まみれの手袋をはめた両手を胸の前で組み、薄暗い水飲み場と、足元に広がるグラウンドの土を静かに見渡した。
「サクタロウ、この現場の『環境』をもう一度、情動の視座から見直してみるのじゃ。十数年前、この学園の初等部に通っていた、ある一人の愚鈍な生徒——ここでは『初代』と呼ぶことにしよう。その初代は、夕暮れのグラウンドで、この古い水飲み場から突如として噴き出す現象に遭遇した」
「あの、ウォーターハンマー現象ですね。僕たちみたいに」
「左様。誰もいないのに、ゴボォッという不気味な音と共に、配管から水が激しく噴き出す。無知な小学生であれば、それを恐怖の怪異と捉えても不思議ではない。しかし……この初代は、ただ怯えるだけの平凡な子供ではなかったのじゃ」
如月さんのアメジストの瞳が、微かに、しかし強烈な呆れの色を帯びて細められた。
「彼はおそらく、重度の『自己陶酔』——昨日の三年二組のフランスパンの件と同じ、中二病と呼ばれる精神の不治の病に侵されておったのじゃ。配管の中で空気が抜ける『ゴボボボ』という振動音を聞き、彼はそれをインフラの不具合だとも、あるいはいじめられた生徒の泣き声だとも解釈しなかった。彼の脳内フィルターは、その音をもっと壮大で、ファンタジーな存在へと変換してしまったのじゃ」
「壮大でファンタジー……?」
「例えば……そうじゃな、『地底に封印されし水龍の咆哮』、とかな」
水龍の咆哮。
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、夕暮れの水飲み場の前で、噴き出す水流を前に目を輝かせている一人の小学生の姿が鮮明に浮かび上がった。
「くっ、地底の水龍が暴れているのか……!」などと、誰もいないグラウンドで一人呟いている痛すぎる姿が。
「な、なるほど……。中二病の子供なら、絶対にそういう解釈をしますね。水道管のバグより、そっちの方が何百倍もカッコいいですから」
「そうじゃ。そして、自らを特別な存在であると信じて疑わない初代は、この『水龍』を鎮め、封印するという壮大な使命を己に課した。しかし、本物の魔導具など持っているはずもない。そこで彼が選んだのが、グラウンドに落ちていたこの古いサッカーボールと、図工の授業で使ったアクリル絵の具じゃった」
如月さんは、再びボールの表面——『呪』の文字の横にある空白のスペースを指差した。
「彼はボールを『封印の魔石』に見立て、赤々と目立つ絵の具で、水龍を鎮めるための強力な言葉を書き込んだ。……六角形のパネルのサイズと、削れ落ちた塗料の摩擦痕の広がりから計算して、この右側の余白に収まっていた文字数は、おそらく『三文字』じゃ」
呪、から始まり、後に三文字が続く言葉。
そして、水龍を封印するための、中二病の少年が好みそうな仰々しい単語。
「……『呪縛刻印』、ですか」
「あるいは、『呪詛封印』といったところじゃろうな」
如月さんが冷徹に宣告した瞬間、僕の足元から崩れ落ちるような安堵と、それと同じくらい巨大な『共感性羞恥』が押し寄せてきた。
「呪縛刻印……っ」
僕は思わず口元を押さえ、その場にうずくまった。
恐ろしい血文字の呪物だと思っていたボールの正体は、十数年前の小学生が、水道管のバグを『水龍』だと勘違いして封印ごっこをするために作った、『呪縛の刻印』と書かれたただの痛い手作りアイテムだったのだ。
それが、十数年の時を経て、誰かの手で泥を擦り付けられた結果、『縛の刻印』の部分だけが削れ落ちて消滅し、たまたま一番左にあった『呪』の一文字だけが残ってしまった。
その偶然の産物が、僕を『本当に呪われている!』とパニックに陥らせていたのである。
「はは……あははははっ! バカみたいだ! 『呪縛の刻印』の『呪』! そんなの、ただの消え残りの一文字じゃないですか! 呪いでもなんでもない、ただの厨二病のカスだ!」
僕は堪えきれずに吹き出し、コンクリートの土台をバンバンと叩いて笑った。
恐怖が完全に裏返り、あまりの滑稽さに涙が出てくる。
十数年前の初代がボールに赤い絵の具で文字を書き込んでいる姿。そして、『これで水龍は封印された……!』と満足げに茂みの奥にボールを隠す姿。その一連の痛々しい行動が、如月さんの論理的なプロファイリングによって、まるで昨日のことのようにありありと再現されてしまったのだ。
「笑い事ではないぞ、サクタロウ。わしの知性は、このような純度一〇〇パーセントの黒歴史を解析するためにあるのではない。全く、知的好奇心の無駄遣いにも程があるわ」
如月さんは心底不快そうに眉間を揉み、ドロドロになった手袋を汚物でも見るかのような目で見下ろした。
「それに、このボールのルーツには、初代の愚かさだけでなく、もう一つの『痛々しい情動』が絡みついておる。……サクタロウ、このボールを現在進行形で『メンテナンス』している人間の存在を忘れたわけではあるまいな」
如月さんの言葉に、僕はピタリと笑いを止めた。
そうだ。このボールがただの十数年前の忘れ物であれば、泥に埋もれて土に還るだけだったはずだ。しかし、このボールには、ごく最近になって何度も『新しい泥』が塗りつけられ、隠し直された痕跡がある。
文字を削り落としてしまうほどに、パニックになって泥を擦り付けた『現在の犯人』がいるのだ。
「あ……。そういえば、なんでそんなことをする人間がいるんですか? 十数年前の初代は、もうとっくにこの学園を卒業して、大人になってるはずですよね。まさか、大人が夜な夜な自分の黒歴史ボールに泥を塗りに来てるわけじゃ……」
「ありえんな。いくら愚か者でも、大人になれば己の過去の恥部など忘却するか、あるいは思い出すのも嫌で物理的に完全に処分するはずじゃ。わざわざグラウンドの茂みに泥を塗りに来るような暇人はおらん」
「じゃあ、今このボールを管理してるのは、誰なんですか?」
僕が尋ねると、如月さんは薄暗い茂みの奥へと視線を向け、深く、重いため息をついた。
「昨日の三年二組のフランスパンを思い出してみるのじゃ、サクタロウ」
「え? 昨日の? お小遣いが足りなくて半額のパンで妥協した、あの中二病の生徒ですか?」
「左様。あのパンの根本に、犯人は何を隠しておった? 自らの儀式の手順を記した、ルーズリーフの切れ端じゃ。『黒の書』と名付けられた、痛々しい設定ノートの一部をな。……ここからは、物理的な痕跡の統合と、極めて論理的な推論じゃ」
如月さんは、泥まみれのサッカーボールをコンクリートの土台から再び拾い上げ、その『呪』の文字を懐中電灯の光で照らし出しながら語り始めた。
「昨日のパンを供えた生徒——彼を『二代目』と呼ぼう。二代目は、『黒の書』という設定ノートを所持しておった。そのノートには、三年二組を『堕落の祭壇』とし、『邪竜の腕』を供えるという詳細な儀式の設定が書き込まれていた。……では、その『黒の書』というノートのルーツはどこにある?」
「えっと……二代目が自分で考えた設定ノートなんじゃないんですか?」
「いや。もし自分で考えたのであれば、数百円のブロック肉すら買えない己の経済状況を無視して、『邪竜の腕』などという入手不可能なアイテムを指定するのは不自然極まりない。自作の設定であれば、最初から『手に入る範囲のアイテム』を供物に設定するのが人間の自然な心理というものじゃ」
如月さんの指摘に、僕は目から鱗が落ちる思いだった。
確かにそうだ。自分で設定を作るなら、わざわざ自分が困るような無理なアイテムは指定しない。
「つまり、あの『黒の書』に書かれた暗黒神話の設定は、現在の二代目が作ったものではない。……過去の何者かによって作られた、膨大で緻密な設定資料集を、二代目が『引き継いだ』と考えるのが最も論理的じゃ」
「引き継いだ……。じゃあ、もしかして!」
「そうじゃ。その『黒の書』を作ったオリジナル、全ての痛々しい設定の生みの親こそが、十数年前にこのボールに『呪縛の刻印』と書き込み、水龍を封印した……このボールの『初代』じゃよ」
如月さんのプロファイリングが、二つの点を見事に線で結びつけた。
十数年前のボールの持ち主と、現在のフランスパンの持ち主。
彼らは別々の痛い生徒ではなく、『黒の書』という一冊の設定ノートを介して、過去から現在へと繋がる『創設者』と『継承者』の関係だったのだ。
「じゃあ、このボールに泥を塗って必死に隠し直していたのは……」
「現在の『二代目』じゃろうな。彼は、初代から受け継いだ『黒の書』を読み、この初等部の水飲み場に『水龍の封印の魔石』が隠されていることを知ったのじゃ。そして、その神聖なる設定を守り抜くという、痛々しいほどの使命感に駆られた」
如月さんの声には、幽霊の怪談を解き明かす時のような爽快感はなく、ただただ、他人の純粋すぎる情動に対する重い疲労感が滲んでいた。
「二代目は、定期的にこの水飲み場を訪れ、封印の魔石が無事かを確認していたのじゃろう。しかし、浅い茂みに隠されただけのボールは、雨や風でたびたび地表に露出してしまう。それを見つけるたびに、彼は焦燥に駆られた。『封印が解かれてしまう!』とな」
「うわぁ……」
「そして彼は、周囲の泥を両手で掬い上げ、パニックになりながらボールに擦り付けて隠し直した。初代の残した神聖なアイテムを守るために。……しかし、その不器用で必死なメンテナンス作業の摩擦こそが、十数年前の脆いアクリル絵の具を削り落とし、『呪縛の刻印』をただの『呪』という恐ろしい一文字に変えてしまった。……なんという滑稽で、そして涙ぐましい悲劇じゃろうな」
僕は、完全に言葉を失った。
水飲み場の怪談。ゴボォッという不気味な音。茂みの奥の生首。血文字の呪い。
僕を震え上がらせていた全ての恐怖のパーツが、如月瑠璃の天才的な鑑定によって、一枚の絵に完成した。
それは、『ウォーターハンマー現象を水龍と勘違いした初代の痛いボール』と、『それを必死に泥を塗って守ろうとした結果、文字を削り落としてしまった不器用な二代目』という、オカルトとは対極にある、純度一〇〇パーセントの『共感性羞恥の塊』だった。
「……もう、嫌だ」
僕は両手で顔を覆い、コンクリートの土台に突っ伏した。
幽霊じゃないと分かって安心したはずなのに、それ以上に、この二代目の少年の不器用な一生懸命さを想像すると、胸がギュッと締め付けられるような、いたたまれない気持ちになってしまう。
必死に泥を塗って設定を守ろうとしたのに、結果的にそれが、関係ない生徒たちを恐怖に陥れる『不思議四天王』の一つに仕立て上げられてしまったのだ。
「如月さん……僕、もう幽霊より、この二代目の子が可哀想で、痛々しくて、見てられません。このボール、見なかったことにして、元の場所に埋めてあげましょうよ。これ以上暴いたら、彼らの精神が死んじゃいます……」
「奇遇じゃな。わしも全く同意見じゃ」
如月さんは、泥まみれのボールを、心底汚らわしいものでも捨てるかのように、茂みの奥へと無造作に放り投げた。
ボフッ、という鈍い音を立てて、呪いの刻印——いや、ただの擦り切れたサッカーボールは、再び落ち葉と暗闇の中へと姿を消した。
「このような底抜けに愚鈍で、自己陶酔と生活苦が煮詰まった人間の行動心理を読み解かされるなど、わしの知性に対する重大な冒涜じゃ。これほどまでに鑑定時間を無駄にしたと感じたのは、わしの人生でも初めてかもしれん」
如月さんは、ドロドロになった純白の手袋を忌々しげに引き剥がすと、それを躊躇うことなく粉受け——いや、水飲み場のゴミ捨て用のカゴへと投げ捨てた。
そして、深く、深い疲労のため息を吐き出しながら、僕の方へと振り返った。
物理的観察眼と情動の視座。
その二つの刃によって、水飲み場の怪談は完全に粉砕された。
しかし、それは同時に、この学園に潜む『十数年越しの黒歴史の継承』という、より深く、より痛々しい謎の全貌を、僕たちの前に突きつける結果となってしまったのである。




