雨だから
「ただいま」
「あ、お姉ちゃんおかえり」
そう言いながらリビングから出てきたのは、妹の雨宮凪だった。
凪は中学2年生で、顔が碧によく似ている。
「いや、なんか暗!」
凪は、昔から空気を読むのが上手かった。
「……学校で、また正直過ぎたとか?」
「いやなんでもないから、大丈夫だよ」
「ふ〜ん」
凪はまだ納得してなさそうな様子だったが、それを無視して碧は自室へと向かった。
「疲れたぁ〜」
碧はベッドに倒れ込むように横になる。ただでさえ体を動かしてなかったのに、体育でいきなり体を動かしたせいで、疲れは最高潮だ。
(宮内くん、『嫌われた』って思ったかな……)
別に、蒼真を嫌いになったわけではなかった。あの時の「嘘つくの苦手なの?」という言葉からも、悪気は微塵も感じられなかったし、ただの純粋な疑問なんだと、分かっていた。
ただ――自分の嘘のことに触れられると、どうしても突き放してしまう。それは蒼真に限った話ではない。
(……なんで、言っちゃったんだろ)
本当は運動が苦手だなんて、言わなくてもよかった。単に、黙っていればよかっただけの話なのに。
碧は天井を見つめながら、小さなため息を吐く。
正直にいることが、いつも正しいことではない。それは、何度も思い知らされてきた。
好きとか、そういう感情じゃない。蒼真には、誤解されたくない。
他の男子は、少し話しただけで、関係値をあげようと一気に話しかけてくる。踏み込んでくる。
でも――
蒼真は違う。蒼真の踏み込みすぎないところ、それが碧にとって心地よかった。
「明日、ちゃんと伝えないとな……」
◇
翌日、宮内家には日和の声が響き渡っていた。
「お兄ちゃん!もう朝だよ!!」
「うぅ……」
「もう先行ってるからね!」
重い瞼をこすりながらスマホを確認する。
「えぇっ?!7時?!やばいやばい」
そう言って蒼真は急いで支度を始めた。
――十数分後。
「いってきます」
なんとかいつも通りの時間に出ることができたから、ひとまずは安心だ。
だが……蒼真の心の中では、昨日の出来事が消えないまま、ずっと残っていた。寝坊したのも、その所為だ。
(ちゃんと、話さないとな)
嫌われたまま、というのは嫌だ。でも、理由も分からないまま、距離ができるのはもっと嫌だった。
仮に嫌われていなかったとしても、少しでも嫌な思いをさせたのならば、謝らなければ。
そして何より、何もできない自分が嫌だったから。
蒼真は、歩くスピードを少し早めた。
「おはようございます」
蒼真は教室の扉を開け、小さく挨拶をした。まだ、碧は来ていないようだ。
心臓がバクバクしている。小説を読んでも、内容が全然入ってこない。
そして、視線はどうしても扉の方へと向いてしまうのだった。
その頃、碧は教室へと歩いていた。
碧は扉の前で一瞬だけ足を止める。大きく息を吐くわけではないが、静かに深呼吸をし、扉を開けた。
(宮内くん、もう来てる)
すると、蒼真とほんの一瞬だけ、視線が絡む。だが、碧はすぐに目を逸らしてしまう。
「お、おはよう。雨宮さん……」
「……おはよう」
愛想なく、返してしまった。嫌いではないのに。昨日のことを話さなければならないのに。
そのまま、碧は席について支度を始める。
(やっぱ、昨日のせいか……)
でも、碧が普段より素っ気ないということが、謝らなくていい理由になるわけはない。
「あまみやさ――」
その声に、碧はこちらを向こうとしたが……
「おうおはよう蒼真ー!」
曲者が邪魔をしてきた。オマケにそいつは肩を組もうとしてくる。
「おい、やめろ晴也!」
「待った。今お前、雨宮さんに話しかけようとしてたか?」
「……いや、違う」
「ほんとか〜?」
「もうマジでいいから、早く席つけ。もう時間だし」
「はいは〜い」
完全に、碧に話しかけるタイミングを失ってしまった。あいつが変に来なければ良かったのに。
(いつ話しかければ……)
蒼真の胸には、もどかしさが残ってやまなかった。
◇
昼休みは、碧は1人で箸を動かしていた。
(全然、話す機会なかったな……)
今日は体育やら理科やらといった移動教室が多く、中々蒼真に話しかける機会がなかったのだ。
隣に視線をやると、蒼真が1人で弁当を食べている。
(今なら言える、かな……?)
「碧〜!一緒にお弁当食べよ〜!」
扉の方から、大きな声が聞こえる。
「玲奈……」
駆け寄ってきた玲奈は碧の顔を見ると、ほんの一瞬だけ表情を変えた。
「……あ、もしかして今、1人がいい感じ?」
「う、うん。その方がいい、かも……」
「りょうか〜い!じゃあ私戻るね〜」
「あ、誘ってくれてありがとう。玲奈」
「いや、全然いいって。また一緒に食べよ!」
「またね」
「うん。また!」
教室から出ていく玲奈の背中を見つめながら、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。
玲奈が去ったあと、碧はしばらく箸を動かせずにいた。
ざわめく教室の中で、蒼真のいる方だけやけに静かだ。
(……今なら)
「み、宮内くん」
名前を呼ぶ声は、思っているよりかなり小さかった。そのことを少し後悔する。
その小さな声に気づき、蒼真がこちらを向く。
「昨日の帰りのこと……」
碧はぎゅっと袖を握り、視線を下に落とす。
「嫌じゃなかった、から……」
「……よかった」
蒼真は、心の底からほっとした。
胸の奥に溜まっていたモヤモヤが、「嫌われたかもしれない」という不安が、すっと消えた気がした。
「でも、昨日のことは謝らせてほしい。ごめん」
「い、いや、全然大丈夫だよ。そんなに落ち込まなくていいよ」
碧の言葉は、やはり思いやりに満ちていた。
「朝に雨宮さんに謝ろうと思ったんだけど、晴也が邪魔してきちゃってさ」
「ふふっ。でもちょっと面白かったよ」
この時、蒼真は初めて碧が笑うところを見た気がした。
すごく穏やかで、ふわっと花が咲くような笑顔。
「……宮内くん、ちょっと顔赤い?」
「え、ほんと?」
顔に手を当てる、熱い。
「多分、制服が暑いからじゃないかな」
「ブレザー、暑そうだもんね」
「うん……」
(……制服のせいじゃない)
そう思いながら、蒼真はチラリと碧の方を見た。
◇
「いや雨降ってるじゃん」
「だるー」
「俺傘とか持ってきてねぇよ!」
午後、急に雨が降り出した。大半のクラスメイトは傘を持ってきていないらしく、だるそうな声が聞こえてくる。
だが、蒼真は傘を持っていた。
「じゃあ俺部活あるから、またな」
「あぁ、じゃあまた」
傘を広げ、昇降口から出ようとする――
「宮内くん」
振り向くと、申し訳なさそうに碧が立っていた。
碧は、ほんの一瞬だけ言葉を探すみたいに視線を泳がせた。
「……嫌だったらいいんだけど、傘、忘れちゃって」
一瞬、その言葉の意味がよく理解できなかった。だが、すぐに理解した。それはつまり、『相合傘』ということだ。
「……あ、え、いいの?」
「え、なにが?」
「え、だって、相合傘というか……」
そう言うと、碧はキョトンとしたかと思うと、どこか曖昧に微笑んだ。
「雨だから、それだけだよ」
「そ、そっか」
蒼真は慌てて傘を碧の方へと傾ける。
思っていたより、近い。相合傘などしたことがなかった蒼真は、少し緊張してしまう。
蒼真の傘は少し大きめだが、それでも肩が少しだけ擦れる。
「そういえば……雨宮さん、昨日僕が言った小説見た?」
蒼真が、ぽつりと言う。
「あ、見たよ。すごく面白かったし、やっぱ恋愛小説っていいなって思った」
「よかった」
会話は、それだけだった。ただ、雨の音が不思議と心地よかった。
「雨宮さん、傘、貸そっか?」
「い、いやいいよ」
「でも、風邪引いたら大変だから」
半ば強引に傘を持たせて、蒼真は走っていく。
その後ろ姿を碧は静かに見つめていた。
少し、心の奥がほわりと温かくなった気がした。




