偽医者とはねっかえる猫
昼下がりの校舎、その屋上には風が流れていた。今日は、誰が来るだろうか。ひときわ大きな風が吹き、僕は揺れる髪を抑えた。対面の校舎から、ざわざわと生徒たちが席に着くのが見える。
言葉もなく、静かにその光景を眺める。昼休みが終わり、午後の授業が始まった。もう誰もこないだろう。大きな伸びをすると、ふわぁ……と声が漏れた。
「戻ろうかな」
落下防止の柵にもたれかかっていた身体を引き起こし、入り口へと向かう。六月の空気は、春を超えて夏に片足を突っ込んでいた。長い白衣と日差しのせいで暑い、昼のメンタルケアはここで一段落だ。
新入生が落ち着く時期というのもあって、今日の来訪者は一人もいなかった。ふと、足元を見ると所々塗装の剥げた緑色の床が目に入る。ここに来て五年、真面目なスクールカウンセラーとしてのメッキはとうに剝がれていた。
出口へと向かう、その途中で足が止まる。一陣の風が僕の対面に吹き付けた。何かがあるのだろうか。変わらず雲は流れ、日は僕の背中を射していた。
かぶりを振って、中心に六個ほど並んでいるベンチの一つに腰を下ろした。今度は風が頭を撫でるように優しく吹いている。両手を開き、背もたれに体重を預けると、はぁ……と溜息が出た。
そうして目をつぶり、ぼんやりとしていた。すると、入り口の方からギィィと重い金属音がする。授業はもう始まっている。戻らず待っていて正解だった。
「げっ……」
後ろめたいことが見つかったと言わんばかりの、少女の声だった。昼のカウンセリングにアディショナルタイムが追加されたことを確信した。目を開けて、片手を上げながら彼女の方を見る。
彼女は、はねっかえり特有の着崩した制服にシャープな輪郭をしていた。握った右手を身体の前面に押し出し、左半身を引いている。この警戒をどう解こうか。逃げられないように、座ったまま身体を彼女の方へと向ける。
「まず、僕は説教するためにいる訳じゃないから安心して。ほらほら」
「あぁ……?チッ」
彼女は舌打ちしながら、僕と背中合わせのベンチへとドカッと座った。どうやって敵意の無さを証明しようか。僕は首を曲げ、彼女に向けた。銀髪が目に映り、その頭頂部は黒になっている。
「僕は波瀬、君の名前は?。もちろん、他の先生にチクったりしない」
「は?……やだ」
僕は努めて笑顔を浮かべた。にべもなく断り、彼女はスマホを取り出して触り始める。ぬるい空気が二人の間を通り抜けた。次に何を語ろうかと迷う。首元の汗をハンカチで拭い、首を横に向けたままで止まる。
「それ、僕もやってるよ」
「嘘だろ?合わせてくんな」
「違うさ、ほら見て」
僕はポケットからスマホを出して、ゲームを起動して彼女に見せた。それを見た彼女の目が、少し見開いた。お互いやっていたのはキャンディークラッシュ系で空がモチーフのゲームだ、彼女はレベル564で、僕はレベル613だった。暇な時間にやっていたら、これだけ進んでしまった。
「意外とやるな、アンタ」
「正直、暇なんだ。誇れることじゃないんだけどね」
「そか、……帆崎。名前」
「ん。よろしく、帆崎さん」
帆崎さんの目に、少しだけ光が射した。僕のスマホを奪取した帆崎さんは、ほおぉ……と言って適当なタブを開きまくっている。思ったより感情豊かな子だ。僕は元気よく足を振り回している帆崎さんをぼんやりと見つめていた。
しばらく眺めていると、スマホが帰ってきた。帆崎さんは満足したように息を吐き、少し赤くなった頬を隠すようにプイと前を向いた。再び静かになった屋上に、カラスの鳴き声が響いている。
「今日はちょっと暑いかな?」
「……アタシはこれぐらいがいい」
「……僕も白衣を脱げば、ちょうどよくなるかなぁ」
「じゃあ脱げば?」
無言で白衣を脱いで、横に畳んで置いた。白衣を着る僕は、最近では偽医者呼ばわりされている。僕は偽呼ばわりされるぐらいがちょうどいいのだ。
帆崎さんの方に再び向くと、肩が揺れている、ククッ……と抑えたような音が出ていた。少し近づいたかな?これならちょっと踏み込んでも大丈夫か。
「帆崎さん、少しだけ聞かせて?」
「……なに?」
「……どうして来てくれたのかな?」
帆崎さんの頭が揺れ、短めの銀髪が舞う。授業の終了を知らせるチャイムが鳴った、階下からざわめきが聞こえ始める。早すぎたか……?と考えるも、これは避けられない質問なんだ。
「別に、理由なんてないし」
「そっか。そんな日もあるよね」
「ふ~ん……信じたフリ?」
「違うさ。そうなんだろう?」
「チッ……だる」
お互いの髪が、間を吹き抜けた風によって揺られている。僕は特に理由もなく、白衣をポンポンと叩いて空を仰いだ。帆崎さんも釣られて空を仰ぐ。数羽の鳥の群れと、青空に雲が流れている。
ややあって、帆崎さんは立ち上がり、スカートを雑に払った。今度はチュンチュンとスズメの鳴き声がいくつも空に流れていく。うん、大丈夫そうかな。
「もういい……」
「あ、昼ならここに、それ以外は進路相談室にいるよ」
「…………あっそ」
帆崎さんはそう言ってすぐ、早歩きで屋上から出て行ってしまう。錆びだらけの床と柵が、キイッと鳴った。再び一人になった屋上は、来る前よりも広くなっている気がした。
少しの満足感と、これからの期待に胸が膨らむ。またチャイムが鳴る、先生方の号令の掛け声がここまで届いた。そうして僕は立ち上がり、一度背中を大きく曲げて音を鳴らす、そして出口の方へと歩き出した。
────今度は僕の背中にひときわ強い風が吹いた、まるで出口へと押し出すように。