第8話 塀の中の最初の夜
夜。
収容区画に押し込められた翔たち日本人らは、蛍光灯が一定間隔でぶら下がるだけの空間で、真昼のように白々と照らされていた。
眠りを許さない光。影がほとんど生まれないほど均一に落ちる白さは、時間の感覚を奪われ、ここが地上なのか地下なのかさえわからなかった。
翔はコンクリートの床に直接腰を下ろしていた。床は冷蔵庫の内部のように冷たく、その冷気がじわじわと尾てい骨を痺れさせていた。
周囲には、同じように“動物”と認定された日本の男たちが裸でうずくまり、互いに体温だけを頼りに肩を寄せ合っていた。裸の背中同士が触れあい、震えを移しあっている。
誰も口を開かない。
開けば理性がこぼれ落ちると理解しているかのような、押し殺した沈黙を感じた。
代わりに、腹の鳴る音がくぐもった反響となって天井に吸い込まれ、その間を縫うように、疲れ果てたすすり泣きが弱く続いていた。
何時間経ったのか分からない頃に、鉄扉が突然、ガタンと開いた。
コンクリートに反響して、音が何倍にも増幅された。
人々がびくりと肩をすくめた。
扉の隙間から入ってきたのは、異国の数人の係員だった。無表情のまま台車を押してくる。その車輪の軋む音が、やけに甲高く耳に残った。
台車の上には、大きなアルミのバットが載っていた。
近づくにつれ、異臭が漂いはじめた。腐臭というには弱い。しかし、「人間が食べるもの」とは明らかに違うような、どこか雑味と油が混じりあった温度のない匂いだ。
バットの中には、茶色くこびりついたカレーのルーに沈んだ米の塊、歯型の残るパンの切れ端、どこの誰が食べたか分からない肉片、油の膜が張った汁、柔らかく崩れた野菜の欠片。
どれも冷えて固まり、ひとつの塊になっている。
“残飯”という言葉ですら生ぬるいほどの惨めさだった。
「餌の配給です」
係員の声は、やけに澄んでいた。
通知を読み上げるような、感情の介在しない声。
係員はアルミバットを檻の前に置き、軽く押し出す。金属が床を擦る「ガシャン」という音が、空間を切り裂いたように響く。
次の瞬間、檻の中へ台車が中に突き出されてきた。
「食器はありません。各自でどうぞ。規定量ですので、争わないでください」
片言の日本語。
“規定量”という言葉には、誰も反応しなかった。反応する余裕すらなかった。
係員たちは、それ以上何も言わず、扉を閉め、すぐに錠前をかけて去っていった。
その足音が遠ざかるにつれ、部屋はふたたび深い沈黙に沈んだ。
しかしその沈黙は、先ほどのものとは質が違っていた。
緊張と羞恥と飢えが、ぐつぐつと低温で煮え続けるような沈黙だった。
誰も――最初に動こうとはしなかった。
だが、限界は突然破られる。
極端に痩せた若い男が、ふらつくように四つん這いになり、アルミバットへにじり寄った。
彼は躊躇うように一度手を止めたが、次の瞬間には、冷えきった飯粒の塊を手でつかみ、むさぼるように口へ押し込んだ。
その音が、静寂を壊した。
ぐちゅ、という湿った音。
指と残飯が擦れる生々しい音。
咀嚼のかすかな音。
檻の中の日本人たちの表情が、一斉に歪む。
羞恥。
嫌悪。
憐れみ。
──そして、自分も同じことをするしかないという絶望。
一人が動くと、抑えていた何かが連鎖的に壊れていく。
次々に人がバットへ群がった。
裸の身体同士がぶつかり、不規則な呼吸とすすり泣きが交じり合う。
誰よりも早く手を伸ばそうと急ぐ者、恐る恐る隙間から指を伸ばす者、床にこぼれた欠片を拾う者。
アルミの表面に爪が当たる硬い音があちこちで鳴った。
翔は動けなかった。
腹は痛むほどに空虚なのに、心のどこかが強張って動きを拒んだ。
しかし、胃が締めつけられる痛みが限界を越えると、意志より先に身体が動きはじめた。
震える指先で、固くなった米の塊をつかむ。
温もりはなく、ただ冷たく湿った重さだけが手に残った。
それを口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、酸味と塩気が混ざったような不快な味が広がった。
吐き出したい衝動がこみ上げる。
だが、周囲の視線も、係員の気配も、何より飢えも、それを許さなかった。
翔は、喉をひとつ鳴らして飲み込んだ。
その瞬間、喉の奥に冷たい塊が張り付き、なかなか落ちていかなかった。
飲み込んだのは残飯だけではなかった。
心の内側から、もう二度と戻らない何かが剥がれ落ちていく。
(……これが、“人間”をやめるってことか)
翔は、口の中に残った酸味をどうすることもできず、ただ上を向き白い蛍光灯の光を見つめた。
その光は、どこまでも無感情で、眠ることも泣くことも許さない監視のように降り注いでいた。
そして翔は思った。
ここでは、明日も夜も、もう区別がないのだ。
人間が生きるための時間すら、すでに奪われている。




