第32話 自分の存在意義
それから、日々は静かに過ぎていった。
掃除をしても、洗濯をしても、料理をしても、翔の頭の中には一つの言葉しか浮かばなくなっていた。
――褒められたい。
ご主人様が「よくできたね」と言うたびに、胸の奥が温かくなる。
まるで、自分が存在を許されたような気がした。
はじめのうちは、そんな自分に気づいていなかった。
だがある日、窓ガラスを拭いているとき、ふと映り込んだ自分の顔を見て、息が止まった。
そこにいたのは、笑っていた。
いや、笑わされていた。
頬の筋肉が勝手に動き、目尻が柔らかく下がっている。
だが、その目の奥には何もなかった。
恐怖も、怒りも、悲しみも、全部どこかへ置き去りにしてきたような顔だった。
「……俺は、何してんだろう…」
小さくつぶやいた声は、台所の壁に吸い込まれて消えた。
次の瞬間、廊下の方から足音が近づく。
翔は慌てて笑顔を作り、手を動かした。
ご主人様が入ってきて言った。
「今日も綺麗にしてくれてありがとう」
その言葉に、翔は反射的に深く頭を下げた。
心の中の空洞が、再びその一言で満たされていくのを感じた。
――ああ、まただ。
褒められることが、目的になっている。
生きるためでもなく、逃げるためでもなく。
ただ、言葉をもらうために、自分を差し出している。
翔はそれを悟りながらも、笑顔を崩さなかった。
崩してしまえば、何かが壊れてしまう気がしたのだ。




